2011年4月30日土曜日
宮部みゆき「裏切らないで」(1991)~俺たちに背中を向けてる~
加賀美敦夫(かがみあつお)は、パジャマのままで歯を磨き顔を洗うと、
タオルで手を拭きながら台所へ入った。二口コンロの前では道子が味噌汁を
かきまぜている。彼が口のなかでもごもごと「おはよう」と言うと、
妻は訊(き)いた。
「卵、落とします?」
「うん」
道子はきびきびと振り向くと、冷蔵庫のドアを開け卵を取り出した。
片手で鍋の縁にぽんとぶつけて割る。ほとんど同時にガスの火を止め、
蓋をする。こうしておいて三、四分待つと、卵が加賀美の好みの固さに
なるのだった。(*1)
家族の稽古事が郊外の公民館を借りて行なうことになり、車での送迎役を頼まれました。近所の私設図書館で書棚の間を回遊しながら愉しく時間をつぶし、前もって言われていた時間に舞い戻ったのだけど稽古はまだ終わっていない。聞こえてくるざわめきの調子から、まだまだ時間がかかってしまいそうな気配です。世相を反映して玄関ホールは全て消灯され、なんとも物憂い感じです。もちろん空調も止められていますので、花冷えとなった昨日は身体の芯まで凍えていくようで、いつしかお腹がしくしく痛くなってきました。
これはたまらん、車の中で待つしかないなと判断したのだけど、あいにく手持ちの本もなく暇を持て余してしまうのは確実です。たん、たたた、とトタンを叩く音が頭上でして大粒の雨が落ち始めたのが分かります。近所をのんびり散策して過ごす訳にもいかないのです。見ればホールの片隅に書棚が据えられてあり、そこは小さな図書空間となっているのでした。置かれたノートに名前と書名を記載すれば、誰でも二週間を限って貸し出すと掲示されています。その多くはミステリーやエッセイなど肩の凝らない内容のものでした。
僕は元々ミステリーを積極的には読まない(それを素材にして人間の情欲や深層に踏み込んだ演出が為された映画は好きです)男ですし、震災後は“死”に関して軽々しく考えられなくなっているので尚更敬遠するところがあったのだけど、仕方なしに二、三を手に取って眺めたなかに上の記述が見つかってしまった訳でした。宮部(みやべ)みゆきさんの短編小説の一節です。
濡れないように本を小脇に抱えて、雨のぱらつく駐車場を横切り、運転席に滑り込みました。敷地に面した小高い丘には桜の樹が数本並び(この辺りではようやく終わりの時期です)、花びらの雨にぱらぱらと散っていく様子などが濡れたフロントガラス越しに艶(なま)めかしく見えていました。花はいつものように咲き、蜂や蝶を招き寄せ、懸命に愛を交わして散っていく。大津波が襲い、原子力発電所が爆発したっていうのに、自然というのは随分と健気でたくましいものだと不思議な気分で見とれておりました。
ミステリー小説でありますから殺人事件が当然発生し、所轄の警察が犯人探しに奔走します。主人公の加賀美は刑事のひとりです。幕開けと終幕が自宅の台所に設定されていました。顛末を開陳してしまえば、単調な地方の生活に倦(う)んでしまい、大都会に出てマンションに並び暮らす者同士が事件の当事者なのでした。互いに雑誌やテレビに煽られるままに高価な家具や衣類を買い求め、虚飾に溺れて暮らすうちに激しくライバル視するようになり、最後は罵り合いとなり、激昂して揉み合いとなって歩道橋から相手を突き落としてしまったという、書かれた当時の狂熱した世相(バブル末期)を切り貼りした騒々しい内容でした。
関東圏に居住していた頃、酒の席でいわゆる“江戸っ子”と呼ばれる先輩から、街の良さを地方出身者が台無しにしている、さっさと田舎に帰ってもらいたい旨の発言がありました。憮然として返す言葉もなく苦い酒をあおった次第でしたが、その事をふと思い出しました。今こうして彼の地を離れ淡々と暮らす身になってみれば、あの時の彼の言わんとした主旨もすとんと胸に落ちるような感じがいたします。何を求めてあんなに集い、右往左往しながら暮らしているのか。苦言を呈されても仕方ない気がいたします。
綺羅星のごとき才人が寄り集い、競争原理がそこに働き、激烈な研鑽を個々に求められた結果として、世界と肩を並べる仕事が次々と完遂していく。人が一極に集中していればこそ起きる化学反応と言えますね。なるほど都会は国の牽引役となって機能しているのは違いないことですが、この度の震災に端を発する停電による大混乱や今夏予想される電力消費ピークをめぐっての騒動を見ると、都会という幻想を皆で飼い馴らして来たゆえに“とんでもない無理”を助長してきた最終結果と思えてなりません。
小説の中に描かれた哀れな地方出のおんなたちと、酒の勢いを借りた知人の文句と、こうして豊穣な大地と水を汚し疲弊させていく現実とが繋がって思えてならないのです。徐々に無理が利かなくなって、終にああなってしまった。今回の事故の根底には高度成長からバブルへと至る膨張と無制限の上昇志向があり、こうなることは40年も前から決まっていたのでしょう。
宮部さんの創造した世界に話を戻しましょう。加賀美という男は捜査が壁にぶち当たると、盃に満たした日本酒を東に面した窓辺に供え、解決の糸口を授かるように祈る習慣を持つと設定されていました。面白い肉付けがされていると感じます。事件は真夜中に解決し、朝帰りした加賀美は盃の中身を台所の流しにさっと捨てるのです。誰がおんなたちを狂わせ、事件を引き起こしたのか。疲れた頭で振り返る男の脳裏に巨大な電波塔がどんと突き立っていく。華々しく輝いて見える暮らしこそが幸せの頂上であると放言し続けたメディア、その象徴、騒動の根幹として、ここでは東京タワーが引き合いに出されていました。
「なあ、道子」
「なあに」
「おまえ、東京タワーの正面がどこか、わかるか?」
道子は黙っていた。
「俺には、どこから見ても、いつ見ても、東京タワーは俺たちに背中を
向けてるように見えるよ」
道子が静かに歩いて、コンロにやかんをかけた。
「いいじゃありませんか。どっちにしろ、うちの窓からは東京タワーは
見えませんよ」
少しして、やっと加賀美はちょっと笑った。まだ、かすかにお神酒の
匂いが残っていたが、道子が味噌汁をつくれば、それもすぐにかき消されて
しまうだろう。(*2)
いささか唐突な連想でありますが、過度な文明が人を狂わせていく、ということを宮部さんは言いたかったのでしょう。刑事の妻は動揺した男の胸のうちを沈静しようと試みます。日常の象徴である味噌汁を作りにかかるのです。
料理店のガイドブックにはよく“星”が使われ、ここは四つ星であるとか三つ星であるとか称(たた)えられますが、あれは味の“天”の世界なのでしょう。だから星がちかちか瞬いている。対して星とは無縁の“基礎=地”の味の代表格が醤油、味噌と呼べるかと思います。古来より料理の土台となる基礎調味料で醤油、味噌はありましたからね。どうしたって“地”の味、すなわち「地味」は宿命なんですね、味噌汁ってやつは。(これは友人の話の受け売りです)
華美を極め麗色を誇る“文明”と対極にある“日常の光景”として味噌汁はあり続ける。大丈夫、あなたは地味に生きている、心配しなくていいのよ、足元は揺らいでいないよ、無理をしなくていいのよ、と語りかける図式です。こういう思考は現実世界でも大切だと思えます。
なにもフランス料理を禁止しろ、味噌汁を国民食にして摂取を義務づけろと言っているのではありません。「自粛」も程々にしないと総倒れになりかねない。ただ、そろそろ「地味」を旗印と為し、幻影に毅然と対峙しながらゆったりと暮らし始める。そういう見直しの時期に日本人は来ているのじゃないか、そのように僕たちは世の諸相から語り掛けられているのじゃないかと思うのです。
いま叫ばれている「復興」という言葉には、だから、生活基盤や経済の建て直しに留まらず、都会住まいに夢のような幻想を抱かず努めて堅実に生きていくことを強く意識付ける、そんな使命も帯びているはずなのです。「引き算をはじめる」、「足りるを知る」、「よき貧しさを構築する」──じゅんと胸に沁み込むような警句が、時おり目に飛び込むようにもなりました。有り難く、大事に受け止めないと罰が当たるように思われますが、被災した地方の街づくりを通じてその考え方を灯明として抱き、日本列島全体にゆるやかに拡げていくのが肝心な事、大切なことと信じます。
明日、沿岸部にあって壊滅的なダメージを受けた町に、生活用品を僕は届けにいく予定なのですが、きっときっとたくさんの勉強をさせられる事でしょう。生きるということの“かたち”について思案をより深める機会を授けられたと、急遽、縁あって赴くこととなった不思議を噛み締めているところです。
(*1):「裏切らないで」 宮部みゆき 単行本「返事はいらない」 実業之日本社1991所収 167頁 奥付によれば初出は「週刊小説」91年3月29日号
(*2):同203頁
2011年4月20日水曜日
池田敏春「人魚伝説」(1984)~成仏出来んなぁ~
○のぶの家・台所
のぶに続いて、みぎわが入って来る。
のぶ さーさ、坐って食べた食べた。
食卓の上には、御飯と味噌汁、干物と漬物が並べられている──
みぎわ、箸を取るが、ぼんやり食欲無げに見返しているのみ。(中略)
のぶ ちゃんと食べんと……。
辰雄 かまわんかまわん。
のぶ かまわん事あるかいな。そのオカズ嫌やったら、昨日の残りで
済まんけど……。
と、バタバタと立ち上がり冷蔵庫の中を探し始める。
辰雄 もう終いやから……。御馳走さん。
と、立ち上がり
辰雄 ちょっとブラついて来るわ。(みぎわに)ごゆっくり……」
と、出て行く。
のぶ もう、ほんまにしょうの無い人やで。(中略)
みぎわ、のぶをみつめ返して、残った飯に味噌汁を掛けて、
流し込むように食べ始める──(*1)
「人魚伝説」は一種のおとぎ話です。風習、土俗信仰の要素を注入して非現実感を大胆に地平に拓き直し、みぎわという主人公のおんなの爆発していく観念を観客のこころにぶつけて来ます。劇の中盤でおんなが緊急避難した小島ではおじいさん(宮口精二)とおばあさん(関弘子)が待ち受けるあたりも昔話のみたいですね。竜宮城の豪華な歓待というわけにはいきませんが、朝夕の食事の世話になり、愛らしいふたりの口喧嘩を見つめながら身体とこころの痛手を静かに癒していく。味噌汁はそこに登場していました。
こころ許す仲となったみぎわと老夫婦だったのですが、みぎわが厄介なトラブルを抱えた身と知って夫婦は島をどうか去って欲しいと切々と願い出るのでした。味噌汁を含むほのぼのとした描写の数々が上映時間の関係か割愛されてしまったのは残念ですが、この竜宮城を追い立てられていく人魚の悲しみを了解すれば物語の奏でる哀切もより増して、幕引きを飾る大殺戮の寂寂(さびさび)としてどうしようもない感じが鮮明になるように思えます。「人魚伝説」に惹かれて止まない人は多いようですが、機会あればこのシナリオも一読してもらいたい気がいたします。
さて、脱線を覚悟で話をそらします。よく知られた話ではありますが、サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督は自作の中に“マクガフィン”と呼ばれるものを多用しました。たとえばイングリッド・バーグマンを主演に迎えた「汚名 Notorious」(*2)という作品のなかで、怪しげな砂利の詰まったワインの壜が登場しています。それを闇から闇に秘蔵し、大量破壊兵器を開発しようと目論む悪の組織があるのです。
国の情報機関に協力して潜入捜査をしていたバーグマンに危機が迫るという筋書きなのですが、観終わってみればこの怪しげなものが兵器原料である必要は全くなく、麻薬であっても病原菌であっても、はたまた政治家の醜聞(スキャンダル)だって構わないのでした。要するにバーグマンが怖い目に遭えばいいのです。これが“マクガフィン”ってやつ。以来、この手の“最後まで実態の見えない小道具”で、雰囲気を後押しするために盛り込まれるものを“マクガフィン”と映画界では呼びならわしているのです。
「汚名」でのワイン壜の中身は何だったかと言えば、粉末の“ウラニウム”なんですね。振り返れば僕が観て育った映画や小説、漫画ではウランや“放射能”が随分と小道具に使われていました。例えば「ゴジラ」(*3)にしてもその発生は原水爆実験による環境破壊に原因すると設定されていた。大きなスクリーンに映る怪物の姿とその吐き散らす青白く発光する息、たちまち爆発していくビルディングの様子に震え上がった覚えがあります。ぼうっと背びれなんかも光って薄気味悪かったですが、あれのお陰で人知をはるかに越えた存在だと納得させられましたね。
戦争の傷痕が十分に癒えない日本において、“放射能”は恐怖の象徴として十分に機能していたのです。身体に悪いもの、猛毒であるもの、得体の知れぬ秘密めいたものという認識を無理なく広め、劇場に集う観客なりブラウン管に群がる家族を同じうねりで包(くる)むことが出来た。作劇上、とても重宝な“マクガフィン”となって、とことん使い回されていた訳なのでした。
他にも発電所が大爆発して死の灰が撒かれたり、放射性物質をめぐって狂信的なグループや宇宙人が暗躍したり、人間の身体や精神に影響をおよぼして超人的な能力を発現させたりとなんとも騒々しかった。多くは娯楽作品であったから科学的な考証がないがしろにされ、描写も乱暴だったりしました。確かに無茶苦茶なお話もありましたね。批判を浴びて製作者サイドが急遽謝罪する、そんな展開もありました。
公開当時に僕は観ているのですが、27年程前に作られた映画「人魚伝説」も似た色調に染まっていました。小さな漁村を舞台に“原子力発電所”建設のための策謀が渦巻き、反対する若い夫婦が厄介者として葬られそうになります。夫を殺されたおんなは復讐の鬼と化して首謀者に襲い掛かり、終幕をほとばしる鮮血で真っ赤に染めていくのです。
開発の誘致をめぐる村内の対立がメインであって、原子力発電そのものに対して声高に意見するのではない。廃棄物処分場でも大型量販店でも、ダムでも空港でも何でも良かったように思えます。元々は観光レジャーランドを建てるか否かで衝突していた村人同士だったのですが、躍起になっていた土木業者の社長がすり寄ってきた電気会社に取得済みの土地を丸々提供したあたりから話が錯綜していくのであって、なんとなく唐突な感じが付き纏う。レジャーランドを巡っての紛争で押し通しても一切差し支えなかったわけですから、“放射能マクガフィン”映画の典型だな、と思ったものでした。
ところが監督の池田さんの追悼上映にあわせて再読したパンフレットのそこかしこからは、当時の作り手の思いは存外に熱いものだったと知れるのです。娯楽作品の皮をかぶっていながら、内奥では拡大する原子力政策に対し盛んに警鐘を鳴らしている。例えば「太陽を盗んだ男」(*4)とかもそうだったけれど、この「人魚伝説」にしても生真面目過ぎる武骨さが雑じっており、どっしりとした重石と挑戦的なまなざしが添えられている。先行きがまるで視通せぬ暗澹たる状況にある今の僕たちからすれば、なおさらに胸にびんびんと響いて来るものがあるのです。
特に原作者の宮谷一彦(みややかずひこ)さんの寄稿には故郷を喪失していくことの苦悩がにじみ、また過疎地にその手の施設が林立するメカニズムも吐露してあって実に痛々しい印象を受けます。煩悶する内実を発言や作品というかたちにすれば、それ以来地元のメディアからの声掛けが皆無と化したという冷徹な現実にも触れてあって、今この時も多発して表現者や記者を苦しめていく舌禍(正統な意見や情報発信だと僕は思うけれど)がいかに根深く強大かが分かります。
そのような予備知識を得て再度向き合った「人魚伝説」は“放射能マクガフィン”娯楽活劇ではなくなっていました。追悼上映会は八割ほども席が埋まって盛況だったのですが、誰の胸にも明確なメッセージがどんどん雪崩れ込んできて“揺れ動かされる”ものが確かにあったのです。
上映後にはこの映画の製作を務めた方が池田さんを悼むトークを行なってくれて、話の流れはどうしても発電所事故に触れざるを得なかったのですが、その語句のひとつひとつに僕は頷くばかりでいました。宮谷さんの原作にはなかった「原発」を主人公と対峙する巨悪に据えたのは池田さんの“直感”に縁(よ)るものであったのだけど、ロケ地の海で昨年暮れに池田さんが生命を絶って以来、現実が物語通りに展開しているように思えてならないこと、膨大な利潤を手にほくそ笑んでいる会社なり機関に深くいきどおっていること──。本当にそうですよね。僕だけでなく耳を傾けた多くのひとも実際そのように感じていたと信じます。
池田さんの造形したみぎわ(白都真理)というおんなの憤怒や苛立ちや脱力感が隙間なくシンクロして、物語空間に呑み込まれてしまった感じがします。「立派な映画です」と評する関係者の言葉には身びいきは露ほども含まれていませんでした。「それがこういう形(事故)で立証されてしまったことは悔しいが」と小さな言葉で関係者は継がれましたが、ほんとうにそう思います。立派で、そして悔しい映画ですね。
さらに胸に沁みたのは、次のようなお話でした。何をやっているのだと怒りが湧く一方で、竣工して40年も経って耐用年数もとっくに過ぎた施設があのような状態になったことに色々な感慨を抱く。自分は東京に生まれ東京で育って今は六十歳だけれど、これまで四十年の月日をあの発電所の送る電気の下で過ごして様々なものを享受してきてしまった。それを思えば一方的に原発反対と声を荒げることが出来ない。自分のはね返ってくるものが随分とある──
確かに僕だってそうでした。暮らしたり遊んだり、泣いたり愛したりしたあの時、あの場面の光の数々は確かに今や瓦礫と化したあの場処から送られた電気によるものだった。関東以外の場所に足を運んだとき、その地でも同じようにして原子力発電プラントの力に僕は知らず知らずの内に頼っていたはずです。敵対者ではなく身内としてよくよく内省し、“今後どうあるべきか”を一緒に模索するのが正しい姿勢かもしれません。
創造する者は世相をよく読み取り、受け手を絶えず“揺れ動かしていく”のが役目である、池田はそういう作り手だった、という主旨のお話も壇上から出されました。
“放射能”という響きが使い古され、もはや新鮮味を欠いて“マクガフィン”に適さなくなった事、メディアミックスを戦術の根幹に置くようになってから表現上の制約が進んでいること、さらに差別表現を回避して訴訟トラブルを未然に防ぐこと、クライアントに睨まれず、仕事を干されず日々の糧を必死で守らねばならぬこと。そのような諸条件が何重にも縛ってか、いつしか娯楽の世界からすっかり“原子力”や“放射能”は影を潜めてしまいましたが、消えてなくなっては良いもの、では決してなかった。玉石混淆であっても構わないから、漫画家、小説家、劇作家の皆さんには“次の世代、その次の世代、百年後、二百年後の世代”に向けて既成概念を“揺れ動していく”「考え続けるための種」を勇気持って蒔いてもらいたいと心から願います。
ウェブを介して色々な意見が飛び交っていますが、大事なのは“いつまでも”語り続けることであり、そういった意味合いでは朽ち果てることなく時折再生されていく映画という媒体は貴重な発言者なのだと思わせる濃密な夜でした。電車を乗り継いで苦労して行った甲斐がありました。
(*1):「人魚伝説」 監督 池田敏春 脚本 西岡琢也 1984 引用は劇場版パンフレット「アートシアター157号」より
(*2): Notorious 1946
(*3):「ゴジラ」 監督 本多猪四郎 1954(第五福竜丸の被爆事件の年)
(*4):「太陽を盗んだ男」 監督 長谷川和彦 1979
2011年4月15日金曜日
谷口ジロー「センセイの鞄」(2008)~闇の中で わたしたちは~
そのような訳ですから、僕は谷口ジローさん描くところの「センセイの鞄」(*1)をとある街の古書店で見つけて最初に購読し、その後になって川上弘美さんの原作(*2)へと遡ったのでした。
よく手入れされた盆栽みたいな枯れた風情がいよいよ増して来ている谷口さんの絵ですが、初期の犯罪ものや探偵ものの頃には奔放にコマは配され、太い線が紙面を横切り、随分と尖って荒れた印象がありました。年数を経るに従い洗練されていき、誰とも違った独自の世界を築くに至っている。そのゆるやかな変貌ぶりに意識を向けると、ひとりの創作者の発芽から開花、結実を目撃し得たという深い愉悦に行き着きます。同じ時代を並走し、同じ世相を体感することが許されたごくごく限られた読者に訪れる“収穫の喜び”が在ります。
妻に去られ子供や孫とも疎遠となって久しい元教師とかつての教え子が再会し、静かに交感する時間を育てていきます。類縁、似たもの同士と互いを認め、やがて無理なく寄り添うようになっていく。ふたつの魂の淡い航跡が交差していく様子が抑制の利いた谷口さんの筆つきとすごく合って、とっても好い感じです。
味噌と醤油がしめやかな恋情と絡んで点々と顔を覗かせることにびっくりして、原作本の記述を確認しないではいられなかった。直ぐに近所の書店まで足を運び川上さんの文庫本を入手しました。そんな流れだったのです。
さて、川上さんの原作を読み、谷口さんの漫画に再度目を転じてみると味噌や醤油に対する描写がやや減じているのが分かります。谷口さんは昔から“舞台”を大切にするひとで背景の描き込みは緻密を極めますし、そこに味噌と醤油はちゃんと存在するのだけれど、ピントは必ずしも合っていない。
台詞も極力小説の中から写し取っているし、人物の造形も巧みで申し分ない。原作の雰囲気を壊さないように細心の注意を払っているのがよく分かる。「センセイの鞄」という小説の視覚化は漫画であれ映画であれ、今後有りえないと思わせるほど完成度は高いのです。よくよく思案した上での刈り込みであるでしょうから文句はないのだけれど、両者の比較を通じて「事象の捉え方」が人によってこうも違ってくるのかと驚かされもするのです。と言っても不満じゃなく嬉しさを従えた驚きなのですが。
もともと僕は「原作本」と“台本”、そして“台本”と「舞台」を比べ視ることを愉しみにしてきました。例えば芝居や映画を観たことで原作まで読み切ったように捉える人がいますが、三者はまるで違った顔をしているのが普通です。どれだけ忠実になぞらえても、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間を介在する限り、何かしら違った伝達が起きてしまう。
同じ音楽を聴いても、同じ絵画を眺めても受け止める人によって色々な印象を刻むのは避けようがない。気が合う二人であれば等しい反応に手を叩いて小躍りするかもしれないし、逆に違った受け止め方を新鮮に思い、相手へ注ぐまなざしの量を倍化させて、結果的に愛情はより深まるかもしれない。ひとつの事柄を各人が自由に、様々に解釈することは世界を輝かせる土台になっている。
川上さんの世界が谷口さんの世界と連なり、けれど両者は重なり交わりながらもひとつ身にならず、優しく互いの背中に腕をまわし、しかと抱擁し続けているようで素敵でした。“ひとつ”ありながらで他者でもある感じが、連綿と歌われる恋歌のようで心地好い。そんな幸せな二作品だと捉えました。
脇道にそれてしまうけれど、合わせてこんな事も思います。大きさ、硬さ、彩りを変えて意見や感想は噴石のように宙を舞い、雨あられのごとく地上に降り注いでいく。それが人の世の常なのだと好意的、楽観的に捉えようとする僕なのですが、さすがに今回の発電所事故に関しては困惑させられ続けです。
起きていることは“たったひとつの事”なのに、どうしてこうも違った意見が飛び交い、情報が錯綜し、明らかに間違って見える伝達が起きてしまうのか。また、異なる少数意見を封殺する方向へ見えざる舵がぐいぐい切られているようにも思え、それはそれでひどく薄気味が悪いのです。気持ちがざわめくのです。
広大な大地を毒で侵され、水や食べ物を汚された悲しみと怒りは日増しに膨れるばかりだけれど、それ以上にこの狭い国土で寄り添い暮らす僕たちのこころを二分し、自尊心に泥を塗り、猜疑心ばかりを煽り肥らせてしまったブラウン管の向こうの人たちを僕は恨めしく思います。他者でありながら“ひとつ”である感じを終に醸成出来なかったマイク越しの人たちの下手な演出を哀しく思います。
僕たち、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間たちが“ひとつの事柄”である「電力不足」にこれから挑まなければならない。発電所事故に関する報道や避難誘導という舞台はひどい役者のオンパレードだったけれど、今度は僕たちが舞台に登る番になります。今度こそ“他者でありながらひとつ”になれれば嬉しいですね。
先週の大きな余震により僕の住まう場処では長い停電がありました。その停電は何人もの弱い人たち、病気の人たちの命を奪い去りましたから、軽率に喋ってはいけない事柄が“電気”であると十分に僕は認識しているつもりです。
けれど、あの停電で仕事場から急遽呼び出され、夜明けまであと2時間といった時間にようやく解放されて家路に着き、漆黒の闇に寝入った町を貫いている本当に墨汁の流れのような真っ黒の舗装路に独り佇んで、疲れ切った身体をうむうむ、と伸ばして仰いだ天頂に、満点の星々のそれこそ隅々まで敷きつめられて神々しく輝いているのを僕は見ました。電気を失ったゆえに得るものも十分に有るのだという強い感慨を抱き、豊穣の時間を得た思いがあったのです。
電力会社もブラウン管の人たちもこぞって“電気”の恩恵を訴え、供給量の安定こそが世の幸福の鍵であると言葉巧みに誘導することでしょう。家電品を使わず、電灯を消す行為は文明の退化であると思わせたいところでしょうね。けれど、闇になってようやく見えるものが確かにあり、それは必ずしも酷薄な様相ばかりをしていないと僕は信じています。豊かなものがきっと微笑むだろうと信じます。
(*1):「センセイの鞄」 原作川上弘美 作画谷口ジロー 双葉社 2009‐2010 初出は「漫画アクション」2008-2009
(*2):「センセイの鞄」 川上弘美 詳しくは11日の日記参照
2011年4月13日水曜日
森瑤子「男殺しの一皿」(1991)~最後におしょう油をじゅっと~
渦中の発電所に程近い街、と言っても○○kmも離れた場処を“近い”と表現していいのか微妙ですが、所要があって先日訪ねました。地震の爪痕が生々しくって息を呑みました。遊技場や車の展示販売店の大きなガラス窓が割れ落ち、安全のために出入りが禁じられて人影がありません。茫漠としてひどく寒々しい風景です。住宅の屋根瓦はざくざくに崩れて用を成さないように目に映ります。何とか梅雨の前までには修繕しないといけないでしょうが、これだけの戸数ともなると間に合いそうにない。
道路は何箇所も波打ち、修復の舗装工事で流れが堰き止められてしまいます。予定していた時間に随分食い込んでしまったけれど、埃や外気にまみれながら淡々と作業にいそしむ男たちの姿を見ると頭が下がるばかり。この程度の遅れで済むなら御の字です。ただ、このまま走れば相手先に着くのは正午間近が確実だから、どうにかして時間をつぶし食事の時間を越してから門を叩く必要があります。
スーパーマーケットを覗いてみると商品陳列は平時に戻った風であり、買い物客の姿が溢れています。豆腐を吟味している老夫婦、納豆を幾つもまとめ買いする婦人、ちょこちょこと母親に付き従うマスク姿の小学生の姉妹。ベーカリーコーナーにも売り子さんが立ち、懸命に客寄せしている様子に心打たれます。僕の住まう場処と比べれば放射線測定値は実に35倍以上ともなるこの地で、国と県の発表や見解をひたすら信じながら生活と家族を守り闘っている市井の人たちがたくさんいるのです。
時間がありますから幹線道路から少し入った場所にある中古書店に立ち寄って、書棚のなかを回遊して過ごそうと腹を決めます。フランチャイズの飲食店のどこかに入ってしまえば運転の疲れもほぐせて一石二鳥に違いないのだけれど、正直に打ち明けてしまうとこの地で食べものや飲み水を摂るだけの勇気や割り切りが僕にはなかった。風評に踊らされた軽率で恥ずべき態度と批判する人もいるでしょうが、僕はとても不安で怖かった。訪問すること自体にすら、随分と逡巡する時間があったのです。
一方で過酷なこの状況から逃げず戦っている人に敬意を示したい気持ちも嘘でなく、先程のお店で瞳に焼き付いた従業員の皆さんの必死な笑顔もちらちら明滅して、気持ちは引き裂かれて居心地は最悪でした。実際に足を踏み入れてみて幾らか肥大していた僕の漫画じみた空想は肩透かしを喰い、なるほど恥じるものもあったのは確かです。後方支援の役回りとして大いに飲食してお金をこの地に落とすことの意義もよくよく踏まえてもいる。けれど、植え付けられた“恐怖”というものは生半可な理屈ではそう易々とは押さえ込めないものです。
理詰めで屈服させるには相応のきっちりした弁舌が不可欠であるのだし、何につけ折伏(しゃくぶく)には時間を要するものです。国には言葉をもっと尽くして不安を抱える僕たちを完膚なきまでやり込め説得してもらいたい、そう本気で思っているのだけど難しそうですね。
パラパラと手元で頁を繰りながら、それとなく目のふちで店内の様子を窺(うかが)っています。内心を垣間見たい、その一念です。この地に暮らす人たちを知ることで、我が身に巣食う恐怖を半減出来たら嬉しいと思うのです。
若い父親に連れられた男の子が目に留まります。自由に歩いて物色しても構わないと優しく父親は促がすのだけれど、男の子は決して側を離れようとしない。文庫本の棚の前でほんの少しだけ距離を空け、所在ないというより明らかに不安気な面持ちで寄り添っているのでした。小さなその身体でどんな光景と音を見聞きしたものだろう。神経質な物腰と目付きがとても寂しく胸に迫って、言いようのない疼きと憤懣を覚えました。
客の出入りのたびに繰り返される店員さんの声が、まるで悲鳴か溜め息のようにか細く裏返ってしまって、これも随分と痛々しく響きます。あの瞬間をどんな気持ちで向かえ、今までどんなに心細く感じたことだろう。気丈を装っているけれど、とことん打ちひしがれた内奥を誰もが抱えており、かろうじて歩んでいるように僕は見て取りました。
手に持った森瑤子(もりようこ)さんの文庫本をめくりながら、僕は例によって醤油や味噌の記述を探したりしています。森さんの作品と出逢った幸せを熱っぽく語る女性がたまにいますよね。これまで僕は森さんの本を開いたことがありませんでしたが、なるほど文章の端々には凝縮なった重力というか独特の濃度を感じさせて、すっと胸に沈んでいき心地好いものがある。
三十代の真ん中と文壇デビューは遅かった森さんです。それまでの間に生活や文化と真摯に向き合い、想いと体験を厚く堆積させた末にようよう訪れた“発言の場”にすっきりと佇立して見えます。多層で奥行きがある。暗い内奥に潜んで、ときに抑制の利かなくなる人の情動の諸相についても容赦なく切り結び存分にさらけ出し、それを決して醜いとは思っていない。人生に関する堂々たる提言、完成されたおんなの覚悟にぼうっと抱擁されて見えて確かに美しい。熱くなるひとが出て当然です。
新刊ばかりを扱う書店では、森さんの本を探すことが難しくなっています。こうして何か縁あって飛び込んだ古書店に森さんの文庫本がまとまって並んでいるのを喜び、一冊一冊を手にとり眺め、表紙や中身の日焼け具合を確かめるうち、どうやらこれ等が一人の持ち主の手より離されここに肩寄せているように思えて来ました。
頁をめくっていたその刹那、暖色系の幻視をともなう花の薫りの、それは僅かに立ち昇って胸あたりで直ぐに霧散してしまった実にあえかな一瞬の感覚であったのだけど、紙と紙との間から不意を打って鮮やかに押し寄せるものが在ったのでした。この闘いの地にまだ残って踏ん張っているかもしれぬ、懸命に生きて暮らしているひとりの確かな人間の願いや祈りや、嬉しさや涙を想起させるに十分な匂い、残り香だったのです。
実際にはもうこの地に彼の人はいないかもしれない。けれど、ここが人間の住まう大地であり、ささやかな幸せを求めて築いてきたささやかな街であることは身に染みて分かりました。人の想いなど一向に意に介さない無機物の放射能物質とは本来「闘い」は成立しません。互角に闘えると思うことが思い上がったことであって、避けるか、逃げるか、落とすか、それしかないと思うのだけれど、僕はこころから応援したい気持ちになっています。今この時もそこで暮らし、両足で地を蹴って見えざる津波を押し返そうと闘っている男たち、おんなたち、すべての人たち、どうか頑張ってください。
誰もが誰かを気に留め、思いをそっと馳せながら、また気に留められながら生きている。その見えないこころの傾斜は確かに無力で役立たないのだけれど、その無色の想いを受け止めることから微かに前進するものはきっとある。そのように信じます。
そうして僕は森瑤子さんの、“サーディンどんぶり”と言う彼女の得意料理(醤油を使う)を紹介したエッセイを収めた文庫本一冊(*1)と、川上弘美さんの原作を忠実に絵に起こした谷口ジローさんの「センセイの鞄」の上下巻を手に携えレジで清算し、やはり悲鳴と吐息の少し交ざったような“またお越しください”の二重唱に送られて店を後にしました。
(*1):森瑤子「男殺しの一皿」 手元にあるのは1995年初版の角川文庫「非常識の美学」で、全部で56篇のエッセイが所載されている。奥付によれば初出は「アンアン」(マガジンハウス)での1990年から翌年にかけての連載らしい。「男殺しの一皿」の具体的な掲載号は把握していないが、後半に座を占めているので91年ととりあえず表題には記した。間違っていたらごめんなさい。缶詰のオイルサーディンをフライパンでさっと炒め、醤油で締めてほかほかのご飯に乗せる、最後に薬味を一振り。たったそれだけの料理であるのだけれど評判はすこぶる良かったらしい。晩年になって構成に関わった「森瑤子の料理手帖」(講談社 1994)では“ヨロンどんぶり”と呼称を変えている。
2011年4月11日月曜日
川上弘美「センセイの鞄」(1999)~やっぱり~
正月の三日、兄一家が年始のあいさつに行った昼に、
母が湯豆腐を作ってくれた。母の作る湯豆腐が、
昔からわたしは好きだった。(中略)
おいしい。わたしは言った。あんたは昔から湯豆腐が
好きだったわね。母も嬉しそうに答えた。どうしても、
自分ではこういうふうに作れないの。そりゃあね、お豆腐が
違うでしょ、こういうお豆腐は月子の住んでいるあっちのほうじゃ
売ってないでしょ。 そのあたりで、母が黙った。わたしも、黙った。
黙ったまま 湯豆腐をくずし、酒で割った醤油にひたし、黙ったまま食べた。
二人とももう、けっして何も言わなかった。話すことが無かったの
だろうか。話すことはあったかもしれない。何を話していいのか、
突然わからなくなった。(*1)
数日前から左目がごろごろしている。瞼はぼんやり熱を帯び、いよいよ薄っすらと赤らんでも来た。強くこすったあの時のせいと思い当たるものがあり、数年前にも似たような事態となって難渋したことを記憶の底から掘り起こす。花粉の舞うこの時期にたまにしくじってしまう。早めに医者に行って抗生物質をもらおうかと思う。
一軒目の入口には“停電につき午前中休診”の貼紙があった。前夜遅くに大きな余震があり、地響きのなか電灯や家電品のモニターの緑や赤い光が数度瞬いてから闇のなかにおもむろに沈んだ。体育の長距離走で軟弱な学生が息切れ眩暈(めまい)しグランドにへたり込む感じにもちょっと似ていて、何となく哀れで淋しかったのだけど、朝の随分遅い時間まで復旧は遅れたから昼近い頃となっても不穏な空気がもわもわ街中に漂っている。
二軒目の受け付けでは“午前11時までで終了”とあしらわれた。なんてこった。そうか、学校の入学式が集中しているせいだ。きっとここの女医さんもお母さんに戻って、今頃は鏡台に向かいお粧(めか)しに懸命なのだろう。
ようやく三軒目の医院で診てもらうことが出来た。待合室で順番を待つ人から発散されるものはいずれも穏やかで、痛みや悪寒に囚われ内に内にときりきり集束していく内科医とは違い、気持ちのベクトルが元気いっぱい外側に向かっている。なんとなく周囲の人に親しげな思いが湧き、下世話な興味が湧いてしまう。妙齢の女性が腰掛けているのが随分と気になったりする。眼科というのは不思議とエロチックな場処だと思う。診察室の妖しげな暗闇に久方ぶりに身を預け、顎を台座に乗せて言われるままに目玉をぐるぐる上下させながら心躍るものが強くあった。
生まれ変わったならばきっと眼科医になりたいものだなどと妄想していると、「おや、何か入っていますね」とホラー映画のドラキュラ役者みたいに髪をぺたりと撫で付けた鷲鼻の医師に高い声で告げられ、平たい器具でぺたりぺたりと眼球を撫でられる。粘膜を弄ばれている感じにちょっとぞくぞくする。照明を点けられ白くまぶしい部屋で見せられたものは1ミリ足らずの細く黒い棘のようなもので、これが炎症の原因であったらしい。
いささかもドラマティックな事など無い半日だけど、充足した気分でそこそこいられるのは丁度読み終えたばかりの川上弘美(かわかみひろみ)さんの「センセイの鞄(かばん)」のせいだ。
七十歳を目前とするかつての老教師との邂逅を通して三十台後半の月子という女性が恋情や人生の意味を問い直していく。足裏や臀部が地面なり座板から片時も離れずにいる感じがあって、恋物語にしては重心がすこぶる低い。それは結局のところ“自分が自分であり続けること”が最も崇高で居心地のよい展開であることを揺るがず騒がず指し示していて、毎日の暮らしを紡ぐ地道な行為から到底免れそうにない、そんな市井に漂う我が身にはなんとも頼もしい声援となって胸に残るのだった。
センセイとの二十年ほど隔てての再会とそこから始まる逢瀬の舞台が、小ぢんまりした居酒屋に設定されていることもあって物語中に料理がめじろ押しなのだけれど、川上さんはかなり意識して筆を尽くし、繊細な官能レベルの構築を試みており面白かった。丹精こめて盛り付けられたいちいちの表現を嗅ぎ、味わい、ゆっくり口腔で反響させた後にゆるゆると嚥下させるうち、大事な“魂のことごと”も共にゆったりと考える時間が生まれ醸成されていく、そんなペース配分が手堅く絶妙である。料理を味蕾(みらい)でとろとろと愉しませるために、醤油や味噌といった脇役もくまなく動員されていくのが心憎い。隙のない差配は見事で申し分なく、素朴な題材を扱いながらも密度は相当に濃く仕上がっている。
冒頭に引いたのは月子と母親との間で交わされる“湯豆腐”の場景なのだけど、豆腐の良し悪しをめぐる会話で親子の距離をそれとなく諭すことが出来るだろうに、川上さんは醤油と酒をそこに投入して鼻腔を貫き天に抜け行く“覚醒される気分”を挿し込んだ。穏やかな午後の母娘の対話はいつしか途絶え、醤油と酒の混じり合うことで生まれる鋭い香気成分が淋しく立ち昇って、娘から母への気持ちをどんと突き放していく。何気に凄い。
下に引いたのは、こんどは味噌の素晴らしい登用場面。センセイの余生と自らの残り少ない開花の時期を重ねることを決意した月子が、馴染みの居酒屋でセンセイをひとり待っている。気の置けない店主はつまみ代わりに麦味噌をひとつまみ皿に盛ると、さっと月子の前に置くのでした。携帯電話での甘く充足した会話を閉じた後、月子は味噌をひと舐めしてみせます。五感と“魂のこと”を連結してみせた極めて官能的な瞬間になっており、作者の恐るべき手並みが伺える描写となっています。指先に盛られて唇に吸われた味噌の舌上で放ったであろう芳香は、ささやかな登攀ながらも頂きに立った者のみが感じ取れる幸福の証しとなって鮮やかに口腔に拡がり、強い印象を刻んでいるのです。
そのへん、座ってて。三十分くらいしたら店開けるから。
そう言いながらサトルさんは、ビールを一本とコップと栓抜きと
手塩皿にのせた味噌を、わたしの目の前に置いた。(中略)
ビールが体の中を下りていった。しばらくたつと、下りていった
道すじがほんのりとあたたまる。味噌をひとなめ。麦味噌だ。
電話使いますね、とことわって、わたしは携帯電話をバッグから出し、
センセイの携帯電話の番号を押した。(中略)
「いらっしゃいますか」
「はい」
「うれしい」
「同じくです」
ようやく「はい」以外の言葉が出た。サトルさんがにやにやしている。
そのままカウンターから出てきて、サトルさんは暖簾をかけに行った。
わたしは味噌を指ですくって、なめた。おでんを煮返す匂いが、
店の中に満ちていた。(*2)
こんな描写もあります。掛け値なしに幸福な味噌汁です。恋情の境目に味噌汁椀があって、白く儚げな湯気を立てているのでした。ごちそうさまでした、川上さん。
「おいしいですかツキコさん」
食欲のある孫をいとしむような様子で、センセイは言った。
「おいしいです」
ぶっきらぼうにわたしは答え、それからもう一度、
「おいしいです」と、さきほどよりも感情をこめて、答えた。
野菜の煮物とお新香が出てくるころには、わたしもセンセイも
すっかり腹がくちくなっていた。ご飯は断って、味噌汁だけにして
もらった。魚のだしのよくきいた味噌汁を肴に、残った酒を二人で
ゆっくりと飲みほした。
「さてそろそろ行きますか」センセイは部屋の鍵を持って立ち上がった。(*3)
(*1): 「センセイの鞄」 川上弘美 「太陽」(平凡社)に1999年から2000年にかけて連載。手元にあるのは文春文庫 第6刷(2005) ここに引いた湯豆腐のくだりは「お正月」の回87、88頁に記載
(*2):同上「センセイの鞄」256-260頁
(*3):同上「島へ その2」193頁 他にも「キノコ狩 その1」の回(54頁)で醤油が会話に上り、「キノコ狩 その2」では採ったキノコが味噌鍋にされ振舞われ(72頁)、「ラッキーチャンス」ではとび魚がしょうが醤油で食されている(146頁)。月子に好意を寄せる小島という男は彼女を旅行に誘い、その口説き文句はどうだったかと言えば、「近くの畑でつくったものを収穫して、その日のうちに使うんだ。味噌もしょうゆも、やっぱり近くの蔵のものなんだぜ。くいしんぼうの大町にはぴったりだろう」であった。いかにこの物語が“味噌もしょうゆも”意識的に使っていたか判る会話になっていました。
母が湯豆腐を作ってくれた。母の作る湯豆腐が、
昔からわたしは好きだった。(中略)
おいしい。わたしは言った。あんたは昔から湯豆腐が
好きだったわね。母も嬉しそうに答えた。どうしても、
自分ではこういうふうに作れないの。そりゃあね、お豆腐が
違うでしょ、こういうお豆腐は月子の住んでいるあっちのほうじゃ
売ってないでしょ。 そのあたりで、母が黙った。わたしも、黙った。
黙ったまま 湯豆腐をくずし、酒で割った醤油にひたし、黙ったまま食べた。
二人とももう、けっして何も言わなかった。話すことが無かったの
だろうか。話すことはあったかもしれない。何を話していいのか、
突然わからなくなった。(*1)
数日前から左目がごろごろしている。瞼はぼんやり熱を帯び、いよいよ薄っすらと赤らんでも来た。強くこすったあの時のせいと思い当たるものがあり、数年前にも似たような事態となって難渋したことを記憶の底から掘り起こす。花粉の舞うこの時期にたまにしくじってしまう。早めに医者に行って抗生物質をもらおうかと思う。
一軒目の入口には“停電につき午前中休診”の貼紙があった。前夜遅くに大きな余震があり、地響きのなか電灯や家電品のモニターの緑や赤い光が数度瞬いてから闇のなかにおもむろに沈んだ。体育の長距離走で軟弱な学生が息切れ眩暈(めまい)しグランドにへたり込む感じにもちょっと似ていて、何となく哀れで淋しかったのだけど、朝の随分遅い時間まで復旧は遅れたから昼近い頃となっても不穏な空気がもわもわ街中に漂っている。
二軒目の受け付けでは“午前11時までで終了”とあしらわれた。なんてこった。そうか、学校の入学式が集中しているせいだ。きっとここの女医さんもお母さんに戻って、今頃は鏡台に向かいお粧(めか)しに懸命なのだろう。
ようやく三軒目の医院で診てもらうことが出来た。待合室で順番を待つ人から発散されるものはいずれも穏やかで、痛みや悪寒に囚われ内に内にときりきり集束していく内科医とは違い、気持ちのベクトルが元気いっぱい外側に向かっている。なんとなく周囲の人に親しげな思いが湧き、下世話な興味が湧いてしまう。妙齢の女性が腰掛けているのが随分と気になったりする。眼科というのは不思議とエロチックな場処だと思う。診察室の妖しげな暗闇に久方ぶりに身を預け、顎を台座に乗せて言われるままに目玉をぐるぐる上下させながら心躍るものが強くあった。
生まれ変わったならばきっと眼科医になりたいものだなどと妄想していると、「おや、何か入っていますね」とホラー映画のドラキュラ役者みたいに髪をぺたりと撫で付けた鷲鼻の医師に高い声で告げられ、平たい器具でぺたりぺたりと眼球を撫でられる。粘膜を弄ばれている感じにちょっとぞくぞくする。照明を点けられ白くまぶしい部屋で見せられたものは1ミリ足らずの細く黒い棘のようなもので、これが炎症の原因であったらしい。
いささかもドラマティックな事など無い半日だけど、充足した気分でそこそこいられるのは丁度読み終えたばかりの川上弘美(かわかみひろみ)さんの「センセイの鞄(かばん)」のせいだ。
七十歳を目前とするかつての老教師との邂逅を通して三十台後半の月子という女性が恋情や人生の意味を問い直していく。足裏や臀部が地面なり座板から片時も離れずにいる感じがあって、恋物語にしては重心がすこぶる低い。それは結局のところ“自分が自分であり続けること”が最も崇高で居心地のよい展開であることを揺るがず騒がず指し示していて、毎日の暮らしを紡ぐ地道な行為から到底免れそうにない、そんな市井に漂う我が身にはなんとも頼もしい声援となって胸に残るのだった。
センセイとの二十年ほど隔てての再会とそこから始まる逢瀬の舞台が、小ぢんまりした居酒屋に設定されていることもあって物語中に料理がめじろ押しなのだけれど、川上さんはかなり意識して筆を尽くし、繊細な官能レベルの構築を試みており面白かった。丹精こめて盛り付けられたいちいちの表現を嗅ぎ、味わい、ゆっくり口腔で反響させた後にゆるゆると嚥下させるうち、大事な“魂のことごと”も共にゆったりと考える時間が生まれ醸成されていく、そんなペース配分が手堅く絶妙である。料理を味蕾(みらい)でとろとろと愉しませるために、醤油や味噌といった脇役もくまなく動員されていくのが心憎い。隙のない差配は見事で申し分なく、素朴な題材を扱いながらも密度は相当に濃く仕上がっている。
冒頭に引いたのは月子と母親との間で交わされる“湯豆腐”の場景なのだけど、豆腐の良し悪しをめぐる会話で親子の距離をそれとなく諭すことが出来るだろうに、川上さんは醤油と酒をそこに投入して鼻腔を貫き天に抜け行く“覚醒される気分”を挿し込んだ。穏やかな午後の母娘の対話はいつしか途絶え、醤油と酒の混じり合うことで生まれる鋭い香気成分が淋しく立ち昇って、娘から母への気持ちをどんと突き放していく。何気に凄い。
下に引いたのは、こんどは味噌の素晴らしい登用場面。センセイの余生と自らの残り少ない開花の時期を重ねることを決意した月子が、馴染みの居酒屋でセンセイをひとり待っている。気の置けない店主はつまみ代わりに麦味噌をひとつまみ皿に盛ると、さっと月子の前に置くのでした。携帯電話での甘く充足した会話を閉じた後、月子は味噌をひと舐めしてみせます。五感と“魂のこと”を連結してみせた極めて官能的な瞬間になっており、作者の恐るべき手並みが伺える描写となっています。指先に盛られて唇に吸われた味噌の舌上で放ったであろう芳香は、ささやかな登攀ながらも頂きに立った者のみが感じ取れる幸福の証しとなって鮮やかに口腔に拡がり、強い印象を刻んでいるのです。
そのへん、座ってて。三十分くらいしたら店開けるから。
そう言いながらサトルさんは、ビールを一本とコップと栓抜きと
手塩皿にのせた味噌を、わたしの目の前に置いた。(中略)
ビールが体の中を下りていった。しばらくたつと、下りていった
道すじがほんのりとあたたまる。味噌をひとなめ。麦味噌だ。
電話使いますね、とことわって、わたしは携帯電話をバッグから出し、
センセイの携帯電話の番号を押した。(中略)
「いらっしゃいますか」
「はい」
「うれしい」
「同じくです」
ようやく「はい」以外の言葉が出た。サトルさんがにやにやしている。
そのままカウンターから出てきて、サトルさんは暖簾をかけに行った。
わたしは味噌を指ですくって、なめた。おでんを煮返す匂いが、
店の中に満ちていた。(*2)
こんな描写もあります。掛け値なしに幸福な味噌汁です。恋情の境目に味噌汁椀があって、白く儚げな湯気を立てているのでした。ごちそうさまでした、川上さん。
「おいしいですかツキコさん」
食欲のある孫をいとしむような様子で、センセイは言った。
「おいしいです」
ぶっきらぼうにわたしは答え、それからもう一度、
「おいしいです」と、さきほどよりも感情をこめて、答えた。
野菜の煮物とお新香が出てくるころには、わたしもセンセイも
すっかり腹がくちくなっていた。ご飯は断って、味噌汁だけにして
もらった。魚のだしのよくきいた味噌汁を肴に、残った酒を二人で
ゆっくりと飲みほした。
「さてそろそろ行きますか」センセイは部屋の鍵を持って立ち上がった。(*3)
(*1): 「センセイの鞄」 川上弘美 「太陽」(平凡社)に1999年から2000年にかけて連載。手元にあるのは文春文庫 第6刷(2005) ここに引いた湯豆腐のくだりは「お正月」の回87、88頁に記載
(*2):同上「センセイの鞄」256-260頁
(*3):同上「島へ その2」193頁 他にも「キノコ狩 その1」の回(54頁)で醤油が会話に上り、「キノコ狩 その2」では採ったキノコが味噌鍋にされ振舞われ(72頁)、「ラッキーチャンス」ではとび魚がしょうが醤油で食されている(146頁)。月子に好意を寄せる小島という男は彼女を旅行に誘い、その口説き文句はどうだったかと言えば、「近くの畑でつくったものを収穫して、その日のうちに使うんだ。味噌もしょうゆも、やっぱり近くの蔵のものなんだぜ。くいしんぼうの大町にはぴったりだろう」であった。いかにこの物語が“味噌もしょうゆも”意識的に使っていたか判る会話になっていました。
2011年4月1日金曜日
「みそサイエンス最前線」(1995)~やれること~
「味噌を摂取することで放射線障害に対抗し得る」という噂は先に紹介した臨床医秋月辰一郎(あきづきたついちろう)さんの伝記、ロシアでの事故後に急増した輸出量、そして広島大学の皆さんによる研究リポートなどをその根拠としています。このうち大学機関の研究概要は白い表紙の冊子(*1)に収められ、誇らしげに冒頭を飾っているのでした。市井の者に向けて噛み砕かれた平易な言葉が選ばれており、明快な文章になっています。
誰もが大きな不安を感じている今だからこそ声高らかに紹介して、たとえ“微力”であったとしても役立たせたら良いだろうと考える訳ですが、関わる業界の方々は沈黙をかたくなに守って見える。よくよく事情を聞いてみれば、口の重さは深慮を働かせた末の対応だったと解ってきました。
理由のひとつは研究にともなう実験がマウスのみを使って為されたものであり、人間の身体を用いた結論に至っていないこと。放射性物質を被験者にこっそり呑ませる訳にはいかないからです。人間ではどうなるかを調べて立証することは無理難題と思えますから、“仮定や推察”の域をどう頑張っても超えられない。確証のないものは無闇に話すべきではない、責任を負えないことを喋り散らすのは大人のすることではないという考えです。
また、噂を鵜呑みにして味噌の効用を過大評価した挙句、政府の避難勧告を無視したり、手渡された薬(安定剤)を服用せずに味噌汁だけを呑み続ける人が現れた場合、最終的にその人を重篤な事態に追い込むことになりかねない。そのとき味噌は救えたひとを救うどころか、破滅へと蹴落とすことになってしまう。適切な時に適切なレベルの医療機関に赴くチャンスをみすみす逃すことがないようにしたい、皆を救いたいという強い願望が背後にはある。
さらにもうひとつ、マウスに与えられる放射性物質は安全管理上どうしても選ばれたものになってしまい、猛毒のたとえばプルトニウムのようなものは使えない。だから、研究は未熟で徹底されていないのです。様々な物質が放出されているこの度の事態に対しての十分な答えとなっていない以上、沈黙を守ることが正しいとの判断です。
そのように理路整然と説明されてしまえば、なるほど返す言葉がありません。沈着冷静に思索を重ね如才なく対応していく業界人の姿に感服すら覚えてしまいます。けれど、けれども、今この危機的な状況において、そこまで理詰めで小さくまとまって良いのかという疑問と焦りがじわじわ胸の奥で湧いて止まらない。
ヨウ化カリウム錠剤の増産が進められていますが、それが関東以北の東日本全域に住むすべての子供たち、四十前の若いひとたち全員に行き渡るのは一体いつになるのか。
元々配るつもりもないのかもしれませんが、一部地域なり県に行き渡ったとして四十一歳、四十二歳の境界にいる人たちは精神的に耐え得るものだろうか。“副作用”があるから呑む時期は政府が指示するからそれまで服用は待てと言うけれど、それがどのタイミングで伝えられるのか。伝えられずに機会を逸して呑み損なうとどうなるのか。
効果は一日と聞いていますから、翌日に一錠、さらに次の日に一錠と飲み続けていけば生産と供給はその消費される速度に追いつけるものかどうか。大丈夫、問題ない、直ぐには何も出ないという低い値のものを生涯背負い続けた結果、どのような事態が起きるのか。本当に子どもたちの身に何も起きずに健康なまま暮らし、のびのびと恋をし、温かな笑い声に満ちた家庭を絶対に築けると誰が言い切れるのか。
ここまで“大丈夫、大丈夫”と連呼されると“大丈夫”という語句の意味合いを軽々しく捉えているのではないか、結局のところ“問題ない”という言葉にしても“仮定や推察”の域を超えていない絵空事に思えてしまって、気持ちは轟々と逆巻き揺れに揺れてどうしようもないのです。
そうして思うのです、やってみたらいいのだと。
“仮定や推察”であっても今は試す価値はある。皆で“うがい薬”を飲もうって言っているわけじゃない(それはどう考えたって良策とは思えない)。意識して少しだけ食生活を替えてみる、それだけの話です。食事の度に何杯もの味噌汁を無理にあおったりすれば塩分の取り過ぎとなって身体を壊すかもしれないけれど、薬と違い“副作用”のない大豆由来食品を適量ずつ摂っていくことはそんなに難しい話ではない。
それは今回の一件に関して無力で徒手空拳の僕たちにも許される、静かで地道な闘い方のひとつだと思うのです。
確かに“微力”かもしれない、もしかしたら“無力”なのかもしれない。けれども「祈る」ような気持ちとおごそかな眼差しを目の前のお膳にそっと注ぎ、並んだ一食一食を大事にしていく、そうやってこの混沌とした日々を心身ともに乗り越えていくしかないじゃないか、と僕は考えています。
(*1):「みそサイエンス最前線 MISO NEWS LETTER」 みそ健康づくり委員会 平成7年初版発行 見せてもらったのは平成11年の改訂版 該当頁を下段に紹介しておきます。尚、著作権者よりクレームが舞い込みましたら残念ですが削除いたします。事態を思えば、そんな事をしてもらいたくありませんけれど。
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