2011年4月30日土曜日

宮部みゆき「裏切らないで」(1991)~俺たちに背中を向けてる~



 加賀美敦夫(かがみあつお)は、パジャマのままで歯を磨き顔を洗うと、

タオルで手を拭きながら台所へ入った。二口コンロの前では道子が味噌汁を

かきまぜている。彼が口のなかでもごもごと「おはよう」と言うと、

妻は訊(き)いた。

「卵、落とします?」

「うん」

 道子はきびきびと振り向くと、冷蔵庫のドアを開け卵を取り出した。

片手で鍋の縁にぽんとぶつけて割る。ほとんど同時にガスの火を止め、

蓋をする。こうしておいて三、四分待つと、卵が加賀美の好みの固さに

なるのだった。(*1)


 家族の稽古事が郊外の公民館を借りて行なうことになり、車での送迎役を頼まれました。近所の私設図書館で書棚の間を回遊しながら愉しく時間をつぶし、前もって言われていた時間に舞い戻ったのだけど稽古はまだ終わっていない。聞こえてくるざわめきの調子から、まだまだ時間がかかってしまいそうな気配です。世相を反映して玄関ホールは全て消灯され、なんとも物憂い感じです。もちろん空調も止められていますので、花冷えとなった昨日は身体の芯まで凍えていくようで、いつしかお腹がしくしく痛くなってきました。


 これはたまらん、車の中で待つしかないなと判断したのだけど、あいにく手持ちの本もなく暇を持て余してしまうのは確実です。たん、たたた、とトタンを叩く音が頭上でして大粒の雨が落ち始めたのが分かります。近所をのんびり散策して過ごす訳にもいかないのです。見ればホールの片隅に書棚が据えられてあり、そこは小さな図書空間となっているのでした。置かれたノートに名前と書名を記載すれば、誰でも二週間を限って貸し出すと掲示されています。その多くはミステリーやエッセイなど肩の凝らない内容のものでした。


 僕は元々ミステリーを積極的には読まない(それを素材にして人間の情欲や深層に踏み込んだ演出が為された映画は好きです)男ですし、震災後は“死”に関して軽々しく考えられなくなっているので尚更敬遠するところがあったのだけど、仕方なしに二、三を手に取って眺めたなかに上の記述が見つかってしまった訳でした。宮部(みやべ)みゆきさんの短編小説の一節です。


 濡れないように本を小脇に抱えて、雨のぱらつく駐車場を横切り、運転席に滑り込みました。敷地に面した小高い丘には桜の樹が数本並び(この辺りではようやく終わりの時期です)、花びらの雨にぱらぱらと散っていく様子などが濡れたフロントガラス越しに艶(なま)めかしく見えていました。花はいつものように咲き、蜂や蝶を招き寄せ、懸命に愛を交わして散っていく。大津波が襲い、原子力発電所が爆発したっていうのに、自然というのは随分と健気でたくましいものだと不思議な気分で見とれておりました。


 ミステリー小説でありますから殺人事件が当然発生し、所轄の警察が犯人探しに奔走します。主人公の加賀美は刑事のひとりです。幕開けと終幕が自宅の台所に設定されていました。顛末を開陳してしまえば、単調な地方の生活に倦(う)んでしまい、大都会に出てマンションに並び暮らす者同士が事件の当事者なのでした。互いに雑誌やテレビに煽られるままに高価な家具や衣類を買い求め、虚飾に溺れて暮らすうちに激しくライバル視するようになり、最後は罵り合いとなり、激昂して揉み合いとなって歩道橋から相手を突き落としてしまったという、書かれた当時の狂熱した世相(バブル末期)を切り貼りした騒々しい内容でした。


 関東圏に居住していた頃、酒の席でいわゆる“江戸っ子”と呼ばれる先輩から、街の良さを地方出身者が台無しにしている、さっさと田舎に帰ってもらいたい旨の発言がありました。憮然として返す言葉もなく苦い酒をあおった次第でしたが、その事をふと思い出しました。今こうして彼の地を離れ淡々と暮らす身になってみれば、あの時の彼の言わんとした主旨もすとんと胸に落ちるような感じがいたします。何を求めてあんなに集い、右往左往しながら暮らしているのか。苦言を呈されても仕方ない気がいたします。


 綺羅星のごとき才人が寄り集い、競争原理がそこに働き、激烈な研鑽を個々に求められた結果として、世界と肩を並べる仕事が次々と完遂していく。人が一極に集中していればこそ起きる化学反応と言えますね。なるほど都会は国の牽引役となって機能しているのは違いないことですが、この度の震災に端を発する停電による大混乱や今夏予想される電力消費ピークをめぐっての騒動を見ると、都会という幻想を皆で飼い馴らして来たゆえに“とんでもない無理”を助長してきた最終結果と思えてなりません。


 小説の中に描かれた哀れな地方出のおんなたちと、酒の勢いを借りた知人の文句と、こうして豊穣な大地と水を汚し疲弊させていく現実とが繋がって思えてならないのです。徐々に無理が利かなくなって、終にああなってしまった。今回の事故の根底には高度成長からバブルへと至る膨張と無制限の上昇志向があり、こうなることは40年も前から決まっていたのでしょう。


 宮部さんの創造した世界に話を戻しましょう。加賀美という男は捜査が壁にぶち当たると、盃に満たした日本酒を東に面した窓辺に供え、解決の糸口を授かるように祈る習慣を持つと設定されていました。面白い肉付けがされていると感じます。事件は真夜中に解決し、朝帰りした加賀美は盃の中身を台所の流しにさっと捨てるのです。誰がおんなたちを狂わせ、事件を引き起こしたのか。疲れた頭で振り返る男の脳裏に巨大な電波塔がどんと突き立っていく。華々しく輝いて見える暮らしこそが幸せの頂上であると放言し続けたメディア、その象徴、騒動の根幹として、ここでは東京タワーが引き合いに出されていました。


「なあ、道子」

「なあに」

「おまえ、東京タワーの正面がどこか、わかるか?」

 道子は黙っていた。

「俺には、どこから見ても、いつ見ても、東京タワーは俺たちに背中を

向けてるように見えるよ」

 道子が静かに歩いて、コンロにやかんをかけた。

「いいじゃありませんか。どっちにしろ、うちの窓からは東京タワーは

見えませんよ」

 少しして、やっと加賀美はちょっと笑った。まだ、かすかにお神酒の

匂いが残っていたが、道子が味噌汁をつくれば、それもすぐにかき消されて

しまうだろう。(*2)



 いささか唐突な連想でありますが、過度な文明が人を狂わせていく、ということを宮部さんは言いたかったのでしょう。刑事の妻は動揺した男の胸のうちを沈静しようと試みます。日常の象徴である味噌汁を作りにかかるのです。


 料理店のガイドブックにはよく“星”が使われ、ここは四つ星であるとか三つ星であるとか称(たた)えられますが、あれは味の“天”の世界なのでしょう。だから星がちかちか瞬いている。対して星とは無縁の“基礎=地”の味の代表格が醤油、味噌と呼べるかと思います。古来より料理の土台となる基礎調味料で醤油、味噌はありましたからね。どうしたって“地”の味、すなわち「地味」は宿命なんですね、味噌汁ってやつは。(これは友人の話の受け売りです)


 華美を極め麗色を誇る“文明”と対極にある“日常の光景”として味噌汁はあり続ける。大丈夫、あなたは地味に生きている、心配しなくていいのよ、足元は揺らいでいないよ、無理をしなくていいのよ、と語りかける図式です。こういう思考は現実世界でも大切だと思えます。


 なにもフランス料理を禁止しろ、味噌汁を国民食にして摂取を義務づけろと言っているのではありません。「自粛」も程々にしないと総倒れになりかねない。ただ、そろそろ「地味」を旗印と為し、幻影に毅然と対峙しながらゆったりと暮らし始める。そういう見直しの時期に日本人は来ているのじゃないか、そのように僕たちは世の諸相から語り掛けられているのじゃないかと思うのです。


 いま叫ばれている「復興」という言葉には、だから、生活基盤や経済の建て直しに留まらず、都会住まいに夢のような幻想を抱かず努めて堅実に生きていくことを強く意識付ける、そんな使命も帯びているはずなのです。「引き算をはじめる」、「足りるを知る」、「よき貧しさを構築する」──じゅんと胸に沁み込むような警句が、時おり目に飛び込むようにもなりました。有り難く、大事に受け止めないと罰が当たるように思われますが、被災した地方の街づくりを通じてその考え方を灯明として抱き、日本列島全体にゆるやかに拡げていくのが肝心な事、大切なことと信じます。


 明日、沿岸部にあって壊滅的なダメージを受けた町に、生活用品を僕は届けにいく予定なのですが、きっときっとたくさんの勉強をさせられる事でしょう。生きるということの“かたち”について思案をより深める機会を授けられたと、急遽、縁あって赴くこととなった不思議を噛み締めているところです。


(*1):「裏切らないで」 宮部みゆき 単行本「返事はいらない」 実業之日本社1991所収 167頁 奥付によれば初出は「週刊小説」91年3月29日号 
(*2):同203頁

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