正月の三日、兄一家が年始のあいさつに行った昼に、
母が湯豆腐を作ってくれた。母の作る湯豆腐が、
昔からわたしは好きだった。(中略)
おいしい。わたしは言った。あんたは昔から湯豆腐が
好きだったわね。母も嬉しそうに答えた。どうしても、
自分ではこういうふうに作れないの。そりゃあね、お豆腐が
違うでしょ、こういうお豆腐は月子の住んでいるあっちのほうじゃ
売ってないでしょ。 そのあたりで、母が黙った。わたしも、黙った。
黙ったまま 湯豆腐をくずし、酒で割った醤油にひたし、黙ったまま食べた。
二人とももう、けっして何も言わなかった。話すことが無かったの
だろうか。話すことはあったかもしれない。何を話していいのか、
突然わからなくなった。(*1)
数日前から左目がごろごろしている。瞼はぼんやり熱を帯び、いよいよ薄っすらと赤らんでも来た。強くこすったあの時のせいと思い当たるものがあり、数年前にも似たような事態となって難渋したことを記憶の底から掘り起こす。花粉の舞うこの時期にたまにしくじってしまう。早めに医者に行って抗生物質をもらおうかと思う。
一軒目の入口には“停電につき午前中休診”の貼紙があった。前夜遅くに大きな余震があり、地響きのなか電灯や家電品のモニターの緑や赤い光が数度瞬いてから闇のなかにおもむろに沈んだ。体育の長距離走で軟弱な学生が息切れ眩暈(めまい)しグランドにへたり込む感じにもちょっと似ていて、何となく哀れで淋しかったのだけど、朝の随分遅い時間まで復旧は遅れたから昼近い頃となっても不穏な空気がもわもわ街中に漂っている。
二軒目の受け付けでは“午前11時までで終了”とあしらわれた。なんてこった。そうか、学校の入学式が集中しているせいだ。きっとここの女医さんもお母さんに戻って、今頃は鏡台に向かいお粧(めか)しに懸命なのだろう。
ようやく三軒目の医院で診てもらうことが出来た。待合室で順番を待つ人から発散されるものはいずれも穏やかで、痛みや悪寒に囚われ内に内にときりきり集束していく内科医とは違い、気持ちのベクトルが元気いっぱい外側に向かっている。なんとなく周囲の人に親しげな思いが湧き、下世話な興味が湧いてしまう。妙齢の女性が腰掛けているのが随分と気になったりする。眼科というのは不思議とエロチックな場処だと思う。診察室の妖しげな暗闇に久方ぶりに身を預け、顎を台座に乗せて言われるままに目玉をぐるぐる上下させながら心躍るものが強くあった。
生まれ変わったならばきっと眼科医になりたいものだなどと妄想していると、「おや、何か入っていますね」とホラー映画のドラキュラ役者みたいに髪をぺたりと撫で付けた鷲鼻の医師に高い声で告げられ、平たい器具でぺたりぺたりと眼球を撫でられる。粘膜を弄ばれている感じにちょっとぞくぞくする。照明を点けられ白くまぶしい部屋で見せられたものは1ミリ足らずの細く黒い棘のようなもので、これが炎症の原因であったらしい。
いささかもドラマティックな事など無い半日だけど、充足した気分でそこそこいられるのは丁度読み終えたばかりの川上弘美(かわかみひろみ)さんの「センセイの鞄(かばん)」のせいだ。
七十歳を目前とするかつての老教師との邂逅を通して三十台後半の月子という女性が恋情や人生の意味を問い直していく。足裏や臀部が地面なり座板から片時も離れずにいる感じがあって、恋物語にしては重心がすこぶる低い。それは結局のところ“自分が自分であり続けること”が最も崇高で居心地のよい展開であることを揺るがず騒がず指し示していて、毎日の暮らしを紡ぐ地道な行為から到底免れそうにない、そんな市井に漂う我が身にはなんとも頼もしい声援となって胸に残るのだった。
センセイとの二十年ほど隔てての再会とそこから始まる逢瀬の舞台が、小ぢんまりした居酒屋に設定されていることもあって物語中に料理がめじろ押しなのだけれど、川上さんはかなり意識して筆を尽くし、繊細な官能レベルの構築を試みており面白かった。丹精こめて盛り付けられたいちいちの表現を嗅ぎ、味わい、ゆっくり口腔で反響させた後にゆるゆると嚥下させるうち、大事な“魂のことごと”も共にゆったりと考える時間が生まれ醸成されていく、そんなペース配分が手堅く絶妙である。料理を味蕾(みらい)でとろとろと愉しませるために、醤油や味噌といった脇役もくまなく動員されていくのが心憎い。隙のない差配は見事で申し分なく、素朴な題材を扱いながらも密度は相当に濃く仕上がっている。
冒頭に引いたのは月子と母親との間で交わされる“湯豆腐”の場景なのだけど、豆腐の良し悪しをめぐる会話で親子の距離をそれとなく諭すことが出来るだろうに、川上さんは醤油と酒をそこに投入して鼻腔を貫き天に抜け行く“覚醒される気分”を挿し込んだ。穏やかな午後の母娘の対話はいつしか途絶え、醤油と酒の混じり合うことで生まれる鋭い香気成分が淋しく立ち昇って、娘から母への気持ちをどんと突き放していく。何気に凄い。
下に引いたのは、こんどは味噌の素晴らしい登用場面。センセイの余生と自らの残り少ない開花の時期を重ねることを決意した月子が、馴染みの居酒屋でセンセイをひとり待っている。気の置けない店主はつまみ代わりに麦味噌をひとつまみ皿に盛ると、さっと月子の前に置くのでした。携帯電話での甘く充足した会話を閉じた後、月子は味噌をひと舐めしてみせます。五感と“魂のこと”を連結してみせた極めて官能的な瞬間になっており、作者の恐るべき手並みが伺える描写となっています。指先に盛られて唇に吸われた味噌の舌上で放ったであろう芳香は、ささやかな登攀ながらも頂きに立った者のみが感じ取れる幸福の証しとなって鮮やかに口腔に拡がり、強い印象を刻んでいるのです。
そのへん、座ってて。三十分くらいしたら店開けるから。
そう言いながらサトルさんは、ビールを一本とコップと栓抜きと
手塩皿にのせた味噌を、わたしの目の前に置いた。(中略)
ビールが体の中を下りていった。しばらくたつと、下りていった
道すじがほんのりとあたたまる。味噌をひとなめ。麦味噌だ。
電話使いますね、とことわって、わたしは携帯電話をバッグから出し、
センセイの携帯電話の番号を押した。(中略)
「いらっしゃいますか」
「はい」
「うれしい」
「同じくです」
ようやく「はい」以外の言葉が出た。サトルさんがにやにやしている。
そのままカウンターから出てきて、サトルさんは暖簾をかけに行った。
わたしは味噌を指ですくって、なめた。おでんを煮返す匂いが、
店の中に満ちていた。(*2)
こんな描写もあります。掛け値なしに幸福な味噌汁です。恋情の境目に味噌汁椀があって、白く儚げな湯気を立てているのでした。ごちそうさまでした、川上さん。
「おいしいですかツキコさん」
食欲のある孫をいとしむような様子で、センセイは言った。
「おいしいです」
ぶっきらぼうにわたしは答え、それからもう一度、
「おいしいです」と、さきほどよりも感情をこめて、答えた。
野菜の煮物とお新香が出てくるころには、わたしもセンセイも
すっかり腹がくちくなっていた。ご飯は断って、味噌汁だけにして
もらった。魚のだしのよくきいた味噌汁を肴に、残った酒を二人で
ゆっくりと飲みほした。
「さてそろそろ行きますか」センセイは部屋の鍵を持って立ち上がった。(*3)
(*1): 「センセイの鞄」 川上弘美 「太陽」(平凡社)に1999年から2000年にかけて連載。手元にあるのは文春文庫 第6刷(2005) ここに引いた湯豆腐のくだりは「お正月」の回87、88頁に記載
(*2):同上「センセイの鞄」256-260頁
(*3):同上「島へ その2」193頁 他にも「キノコ狩 その1」の回(54頁)で醤油が会話に上り、「キノコ狩 その2」では採ったキノコが味噌鍋にされ振舞われ(72頁)、「ラッキーチャンス」ではとび魚がしょうが醤油で食されている(146頁)。月子に好意を寄せる小島という男は彼女を旅行に誘い、その口説き文句はどうだったかと言えば、「近くの畑でつくったものを収穫して、その日のうちに使うんだ。味噌もしょうゆも、やっぱり近くの蔵のものなんだぜ。くいしんぼうの大町にはぴったりだろう」であった。いかにこの物語が“味噌もしょうゆも”意識的に使っていたか判る会話になっていました。
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