2010年6月4日金曜日
滝田ゆう「寺島町奇譚 どぜうの命日」(1969)~かえたのか……~
トメ「おや 金坊の命日……………」
フク「利口な子だったよ」
キヨシ「頭がよすぎてもノーマクエンになるんだって」
フク「そんなことだれがいった……」
甚太郎「むう」
カズエ「中耳炎で死んだんでしょ」
甚太郎「味噌かえたのか……」
キヨシ「ごっそうさま」
トメ「ほら いっといで いっといで」
フク「キヨシッ 言ってまいりますは!!」
キヨシ「イッテマイリマス」(*1)(*2)
ブログに取り上げるのを延延と逃げてきた場景に、“家庭劇と味噌汁”があります。茶の間の真ん中にドンと鎮座した座卓に寄り集って「おはようございます」「ああ、おはよう」、幼子たちは寝ぼけまなこをこすり「いただきます」、父親は無表情で新聞をめくり、エプロン姿の母親が台所とお茶の間をかいがいしく行き来する。味噌汁碗がそこに花を添えます。白い湯気と甘ずっぱい匂いが天井へとくねくね立ち昇って、辺りをオレンヂ色にほんわか染めていく──そんな風景を僕は意固地に避けてきました。
食事を介した家族団欒はある時期からホームドラマにて活発に再現されていき、笑顔と弾む会話のつるべ打ち。而して、食卓に並んだ料理の数々は、あってもなくても構わない背景画の役割にことごとく甘んじていったのです。家族会議への出欠に一喜一憂し、遅刻に憤慨し、多数決の結果にへそを曲げ、ヤジや紛糾が上下関係に翳を落とす。そんなところに焦点が当然ながら絞られていって、“食べること”は二の次です。いつしか食べものなんだか蝋細工のオブジェなのか、形骸化して誰も気に止めなくなってしまった。
ひとの胸中に渦巻く想いや苦渋を体現するものではもちろんなくって、朝なり夕なりの設定をドラマに刻む時計の針の役目しか負わなくなった。“味噌汁”である必要、“醤油”がある必要は全くなくなり、コーンスープでもケチャップでも一切かまわない物語。
“味噌汁”や“醤油”(だけに止まらず、食べもの全般)の顔立ちを“ぼんやりしたもの”に変貌させてしまったのが、一連のホームドラマであったように思われてならなかった。それのいちいちに目を向けて思案する意味はないのではなかろうか、そんな反抗心に僕はとらわれていました。
平成2年(1990)に58歳で早世された滝田ゆうさんの「寺島町奇譚」は、膨大な幼少時の記憶の集合体でホームドラマの範疇には到底収まり切らない内容です。なれど、背骨となって貫くのはやはり“家族”。ホームドラマの亜種である以上、それにあえて着目する必要はない。僕はそのように勝手に断じていました。手に取り読んだのは、だからつい最近のことです。
劇中“銘酒屋(めいしや)”と呼び慣わす私娼街があり、これに隣接した小さな住宅兼酒場、それが主人公のキヨシ少年の家です。祖母、両親、姉との暮らしぶりに酔客や娼婦たちの刹那的な動態がさらさらと交差し、小川の流れのようなリズムを紙面に刻んでいます。
上に取り上げた光景はある朝の場景なのだけど、ここでキヨシの父親が“味噌”について言及していました。時代は太平洋戦争へ突入して、徐々に戦局が劣勢に回っている頃です。具体的な描写は多くないのですが、街の活気は日に日に損なわれており、きっとこの味噌の変化も食糧事情の悪化を反映しての事なのです。
幼くしてキヨシの兄は病死しており、ちょうどその日は命日に当たっていました。歳月の壁は一家の哀しみをずいぶんと癒していて、交わされる会話に湿ったものはもう含まない。けれど子供のがさつな物言いはエスカレートしてしまい、いくらなんでも酷い内容になっていく。それを遮るようにして父親は“味噌”についてつぶやき、家族の会話を破断させるのでした。
記憶が無い姉弟と違い、ありありと当時を想い出したに違いありません。おのれの心に蓋をするような性急さがあって、複雑な余韻を残す一瞬になっています。“味噌汁”を故郷の山河や母親と重ねていく“記憶の再生装置”とするのが一般的ですが、ここでは“記憶の密閉”にうまく使われている。たいへん興味深い描写です。
振り返って自分自身のこころを探ってみても、似たような仕組みは日に幾度となく働いているように思われます。不意に地中深くから噴き上がり、天空を真白く染める間欠泉のようにして抑え込んでいた思慕や慙愧の念が来襲します。仕事や家事が手につかなくなって、どうにも腕に力が入らない。その一方で溢れる想いは眼の奥と心臓付近でどんどん、どんどん密度を増して破裂寸前です。
いかん、いかん、駄目だよ、そんなことじゃあ、と気を取り直して“日常”へと軌道を修正する。そんな折に僕たちがおもむろに手にしたり始めたりすることは、いずれも“他愛もないもの”だったりします。溜まった紙ゴミをシュレッダーにかけたり、洗濯を始めてみたり。実にありふれてつまらない時間へと回帰していく。
生きていく時間の堆積は降り積もる枯葉のようです。そのいちいちは軽く儚いものが多いのだけれど、いつしか僕たちを圧殺する程にも肥大する。他愛のない“ぼんやりしたもの”に身もこころも委ねてこれを“やり過ごす”ことは、生きていく為に授かった本能的な知恵なのでしょう。
「寺島町奇譚」に描かれた人たちは先の見えない時代にあって、さらに先の見えない暮らしを選んだ人たちです。気持ちに陰を落としてわだかまりやすい、酩酊や性愛を手段とした“情念の解放”を生業(なりわい)としているのですから、余計重たい思いをしたはずです。そんな彼らをリセットしたものが、もしかしたら“味噌汁”だった。
朝食とは、そして、そこで供される“味噌汁”とは、夜の間に膨れ上がった夢や情念、恐怖に一時的に蓋をするスイッチなのかもしれません。記憶を束の間消し去り、今日を明日に繋ぐためのノリシロとしての役目です。負け戦であることは分かっています。忘れられっこないのだけど、とりあえず忘れた振りをするしかない。“味噌汁”かき込んでスイッチオン。
“あってもなくても構わない”ものなれど、とっても重宝な道具として“味噌汁”が描かれている。魂の誘導員として僕たちの日常を支えている。ホームドラマを全面肯定するつもりは毛頭ないけれど、“記憶の密閉”を担うというのであるならば、これはこれで素晴らしい役割だと思えてきました。家族劇にも時には素敵な演出も見え隠れするということで、広く浅く、そして時折深く観ていこうと考えているところです。
(*1):「寺島町奇譚 どぜうの命日」 滝田ゆう 1969 初出は青林堂「現代漫画の発見 2 滝田ゆう作品集」への書下ろし。ちくま文庫「寺島町奇譚(全)」(筑摩書房)に所載。
(*2):「寺島町奇譚」に描かれる家族については、劇中の会話をいくらたどっても、どうしても名前が分からない人の方が圧倒的に多い。ここでは便宜上、テレビドラマ化された折に脚本家が割り振った名前、甚太郎、フク、トメを借用しています。
NHK土曜ドラマ「寺島町奇譚」~劇画シリーズ~(2) 1976年3月27日放映
「中島丈博(なかじまたけひろ)シナリオ選集 第二巻」 中島丈博 映人社 2003
物語の舞台となる界隈は昭和20年(1945)3月10日の空襲で壊滅します。滝田さんの描く日常には、そして、幾度となく繰り返される朝食の場景と味噌汁には、永久に喪われてしまったものに対する追慕のまなざしが寄り添ってもいますね。
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