真弓(心の中で)「プリンミックスを買うって、何年ぶりだろ。
いや、何十年ぶりか。」
自宅の台所で紙パック詰の牛乳などを並べながら
真弓「プリンカップ出して─。」
真里子「んなもんあるわけねーじゃん。30年前に捨てたよ、
使わないから。」
真里子、おもむろに器を突き出す
真里子「ミソ汁椀でいいんじゃない。(でかいのつくれば)」
真弓「……(ショック)。
(心の中で)──まだ作っていません。デザートは夢を作るんだよ。
これじゃ夢がない」(*1)
上に紹介したひとコマは、漫画「あさりちゃん」の本編中にはありません。単行本に収まったお話とお話の隙間を埋める目的で挿入された「作者のぺえじ」に描かれていました。けれど、どうでしょう。購入者の年齢層は限られ、いわば閉じられた世界です。主として小学校に通う女の子の共感を得やすいように、この中継ぎの部分にしても話題は絞られていく。笑顔を絶やさないための工夫が絵とふきだし、オノマトペに丹念に施されて本編と連なっています。実質的には作品の一部と捉えても構わないでしょう。
作者は二人三脚の実の姉妹で、お姉さんの名前を真弓さん、妹は真里子さんといいます。姉がプリンを作ろうとして妹に“プリン型”を探して欲しいと持ちかける。そんなものはとうの昔に廃棄してしまった、これで代用したらどうかと真里子さんは味噌汁椀を姉の鼻先に突きつけるのでした。そんなプリンはいやだ、と大いに落胆したところで幕引きです。まあ、実に他愛もない顛末なのだけど、そういった無防備な状況、力が抜けた場面で口を突いて出た言葉ってヤツには存外真実が含まれているものです。
「夢がない」という姉の真弓さんの嘆息は、はてさて何処から湧いて出たものか。花びら状の凹凸がモワモワッと拡がる、あの銀色の器が見つからないことへの怨嗟からでしょうか。最後のコマがキラキラ輝いて“夢のよう”に見える“プリン型”ならばそう受け止めてもいいのだけど、実際に描かれていたのは木肌なのか漆調なのか、ぼけた地色に黒い花模様を引いた“ミソ汁椀”でした。「夢がない」と断じられているのは明らかに“ミソ汁椀”、ひいては“ミソ汁”なんですね。
もしも姉が差し出したものが“ワイングラス”だったら、 “茶碗蒸し”の器や“コーヒーカップ”でもしもあったなら、もう少し違った展開になったのではなかろうか。「あらヤダ、すてき!」「ナニそれ、おしゃれ~」なんて反応だって容易に想像されてしまう。やはり“ミソ汁”だからこそ、ここでは「夢がない」と告げられている。
漫画であれ映画であれ、フィクションと総称される数多(あまた)の創作の現場では、受け手である読者や観客の欲望と、送り手のそれとが巧妙にすり合わせられて増幅されていきます。送り手の独りよがりの言動は共振を生まずに、手の平でヤブ蚊の追い払われるごとく遠ざけられる宿命です。
だから、創作活動の初めの一歩が踏み込まれる前には、作者や彼を取り巻く送り手たちが僕たち受け手のこころ模様を凝視する工程を挟むことになる。医療用の検査機器ですっかりスキャンされ、大切な部分まで丸裸にされているようなものでしょう。異様な作風を誌面やスクリーンで目の当たりにしたとき、作者の精神を疑う中傷や戸惑いがゆらゆらと跳躍することがあるけれど、実は僕たちは僕たち自身と向き合って頁を繰り、影像に目を凝らしていくのであって、異様さや奇怪さは存外まっとうな人格が計算づくで仕組んでいたりするものです。
「あさりちゃん」の作者、室山まゆみ(むろやままゆみ)さんが彼女ら独自の“ミソ汁”観をここで吐露し、唐突に投げて寄越している訳では当然なくって、ミソ汁に対して「夢がない」と多くの子どもたち、そして母親たちが感じているとキャッチした結果が形になったと考えていい。
僕は「あさりちゃん」をほんのわずか読んだに過ぎませんから、あまり断定的な物言いをすると叱られそうだけど、描き込まれた数多くの“食”の光景に“ミソ汁”の湯気は実に薄い。ぞんざいと言うか、単純というか、うまくその辺り、つまり食事時の“ミソ汁”描写を話題からそっと避けている風に僕は受け止めてもいます。仕事に追われ、私事に追われて調理に注力出来ずにいる母親、飽食の時代に育って好き嫌いのいちじるしい子ども、食事どころでなく締め切りに日々追われるばかりの作者姉妹──そういった環境を丸ごと捉えた末に、「作者のぺえじ」が浮上している。あれこれ思うところはあるけれども、これはこれで僕たちが暮らす現代の世相をよく捉え、上手に切り結んでいるんじゃないかと考えています。
見方をさらに変えれば、無数にある“食べもの”の中よりこうして取り上げられるだけ立派だとも思います。こんな言葉も先人のひとりは遺していますね。「ここに一つの器がある。若しも私がその器を愛さなかったならば、私に取ってそれは無いに等しい。然し私がそれを憎みはじめたならば、もうその器は私と厳密に交渉をもって来る。愛へはもう一歩に過ぎない。」(*2)
大多数の読者から圧倒的な(それがたとえ「夢なきもの」の象徴と貶(おとし)められようとも)──共感をこれほどにも得る料理というのは、そうそうに見当たりません。僕たちの精神世界に根茎をたくましく伸ばした「こころの料理」ならではの登用だったのだと、やはりそのように思いますね。愛へはもう一歩の距離に在り続ける、それが“ミソ汁”の微妙な立ち位置なんですね。
(*1):「あさりちゃん」 室山まゆみ 1978-連載中 小学館学習雑誌にて
今回引用したのは単行本84巻(2007年9月発行) 108頁
(*2):「惜しみなく愛は奪う」 有島武郎 1920
新潮文庫 有島武郎評論集所載 322頁
0 件のコメント:
コメントを投稿