2011年6月18日土曜日

向田邦子「母の贈物」(1976)~ますます耐えられない~


伸江「お名前──」

正明「正明です」

伸江「正明さん──」

正明「和歌森正明」

伸江「ワカは若いっていう」

正明「いや、和歌──ミソヒト文字のほうの──」

伸江「ああ──ミソヒト文字──」

  伸江、急にけたたましく笑い出す。あっけにとられる正明に、

伸江「ごめんなさいねえ。あたし子供ンとき、ミソヒト文字って

   聞いた時、オ味噌、オミオツケの──あれ、考えちゃった

   のよねえ。それだもんで、ミソヒト文字って聞くと、

   どうしても笑っちゃうんですよ。いい年して本当に

   ごめんなさい……」

  伸江、楽天的な「たち」らしく、馴れ馴れしく正明の肩を叩いて

  笑う。秋子、ますます耐えられない。(*1)


 身よりなく独り暮らしを続けてきた年ごろのむすめが快活な若い男と出会い、見初められて結婚する運びとなりました。母子家庭で育った相手の男はむすめの境遇に自らを重ねるのでしょう、しっくりと歩調が合い、はた目にも似合いの仲です。男の母にとっても異存のあるはずはなく、引越しやら結婚式の衣装支度で浮き浮きとした時間が過ぎていくのでした。そこに頼んでもいない大量の花嫁道具が届いてしまい、皆を唖然とさせてしまいます。


 家具屋といっしょに現われたのは華やいだ着物をまとったおんなで、五年前に死んでいるはずのむすめの実の母親なのでした。本当は高校生の我が子を捨て置いて、恋仲となった男と出奔していたのです。打ち明けるには決まりが悪く、また実際のところ気持ちの上で踏ん切りも付いていたものだから、職場でも私生活でも母とは死に別れたことにしていたのです。今さら何の用かと憤然として食って掛かるむすめでしたが、苦労して浮き世を渡ってきた母親は図太く、勃(つよ)く、また恋情の波に大いに磨かれている。艶然と微笑み、高く色めく声で周囲を圧倒していきます。


 作者の向田邦子(むこうだくにこ)さんは不自然な会話をここで挿し入れている。数年ぶりの再会を果たした子どもに歓迎されていないのを背中で察知しつつ、この伸江というおんなは親の務めとばかりに相手の男、和歌森正明(わかもりまさあき)に視線を注ぎ、職業や性格を旺盛に探っていくのです。その際、(なにせ初対面ですから)男の名前を尋ねたその流れから、一人勝手に笑いの“つぼ”にはまり、けらけらと声を立てて皆をびっくりさせるのでした。


“和歌森”という珍しい苗字に関して説明するのは毎度の事なのでしょう、男は三十一文字で成立する和歌をさらりと引き合いに出して決着を付けようとするのですが、“ミソ”という響きに伸江はひどく反応し、身をよじって哄笑するのです。


 向田さんお得意のカンフル剤ですね。“聞き違い”“記憶違い”が場を和ませ、子ども時代の記憶がすっと寄り添う気配がある。ほろ苦さ、温かさに空間は染まり、やんわりした後悔や感謝の念がやがて連結して今ここにある自分を励ましていく。伸江という情熱的なおんな(1976年の放送では小暮美千代さん、2009年のリメイクでは萬田久子さん、同年の舞台では長山藍子さんが演じている)を支える快活な部分が無理なく気持ちよく表現されて見事なのだけど、ここではもう少し巧妙な仕掛けが施されていたように僕は感じます。


 題名が物語るように物語の主題は子ども側ではなく母親側にあります。若さや健康、出逢いや家庭の構築といったものが隠し持つ圧倒的な非遡及性、人生の一筆書きの怖さを訴えたいわけです。子供たちの門出に際してふたりのおんなが自らの航跡を確認する時間になっている。


 配偶者に先立たれたふたりの“母”を対照的に描くことでそんな人生の苛酷な真実をあぶり出そうとする向田さんは、つまり突如出現した“おばけ”のようなおんなに母たる象徴である味噌汁を小馬鹿にさせている。母たることを捨てた“おんな”に“母”が笑われる展開を間接的に仕組んでいるのです。


 向田さんはさらにひねりを効かせて物語を終着させていくのであって、上に引いた笑いはいつしか希釈され結果的に意味を失うのだけど、僕たちのこころの奥、味噌汁にほのかに抱く想いを見透かして技を掛けてくる辺り、やはり凄い創り手であったように想い、三十年も前の夏の事など振り返ったりするのです。


(*1):「母の贈物」 向田邦子 TBS 1976年2月20日放送のドラマ用台本。「向田邦子シナリオ集Ⅵ 一話完結傑作選」 岩波原題文庫 2009 所載。

2011年6月12日日曜日

石井隆「天使のはらわた 名美」(1979)~あんただって何かは~



13 楽屋の中(つづき)

踊り子「あら、ごめんなさい!」

  厚化粧の踊り子が一人、楽屋を出て行く。名美とぶつかる。

  その化粧が名美の服(肩)に擦り付く。名美、気付かない。

  黙々と化粧を続ける蘭。無表情。(中略)

  マー坊も着替えながら、

マー坊「ねね、蘭の過去を知りたいんでしょ?スゴイのよね、

    女の転落の典型!悲しいのよねエン。強姦(つっこま)れてサ、

    アハン、なんちゃって、16ン時、あたいと同じ」

名美「あたい?」(中略)

マー坊「あれは16の春の朝、私しゃ味噌やり、ミルクをもらい……

    あんただって何かはあるでしょ?同じよ皆、同じ」

名美「……?」(中略)

マー坊「不感症になっちゃったのよ。あー恥し。正確にくっちゃべると、

    させられちゃったのよね、私の場合(ばやい)。蘭はどっちかな、

    先天性男性なんとかってヤツかな。ねえ!」
 
  無表情で化粧する蘭。アイラインを直す、その目付き。

  鏡の中の名美、じっと見つめる。その目付き。二人どこか似ている。(*1)


 女性週刊誌「ザ・ウーマン」の記者である名美は、裁判記録等から性暴力の被害者を特定し、その後どのような暮らしをしているかをルポルタージュする役目を負わされます。熱心な再訪に根負けしてしまって雨粒の落ちはじめるようにぽつり、ぽつりと語り始めるおんなもおれば、逆に徹底して沈黙を守る者もいます。繊細な名美はそんなやり取りを幾度も重ねるうちに、被害者たちの混迷する胸中にいつしか同調を始めてしまうのでした。


 男からの暴力の痕跡を素肌とこころに深く刻んで精神を破綻させてしまった美也という看護士の取材において、名美は錯乱を来たして凶暴化した美也に襲われ、絶対的な危機に陥ります。その時はからくも恋人に救われるのでしたが、真っ黒い息吹きに覆い尽くされたようになってコントロールをいよいよ失い、そのまま破滅へと突き進んで行くのでした。


 石井隆(いしいたかし)さんは現代に生きる僕たちの等身大の姿というより、より悲劇性を際立たせた絵画的な劇空間を好んで創出する作家です。極彩色の光線や裸身、ありえない程たくさんの血糊、破綻を怖れぬ展開と結末で現世に宗教画やシュルレアリスムの光陰を結んでみせる絵描きの面持ちが以前からあって、小道具や構図のひとつひとつに底無しの想いを込めている節がある。


 開幕早々、僕たちの視線は淀んだ空気にずぶずぶに埋れた場末の劇場に誘(いざな)われるのですが、まるで深海のような舞台に漂い着いたおんなに(文字通り)寄り添い、共に舞台に立つのが似たような道程を抱えた男である、というのがいかにも石井さんらしいきめ細かさです。完成された映画においてはマー坊という男の流浪が何に起因するかは描かれていませんが、凄絶な暴力がこの男をも過去襲ってとことん傷付けたことが容易に想像できる。


 あまり偉そうな物言いは出来ませんが、お互いを「鏡」と為して視線をそらさず対峙出来るかどうか、それが愛情の譲れない基本構造というやつでしょう。ここで石井さんは暗い深淵を映し出す一対の鏡を(文字通り)合わせ重ねて、果てしなく続く無間の闇を演出して見せます。


 男は記者に対しておのれの過去の一端を茶化して語ってみせますが、そこに“味噌”が使われている。いやねえ、下品ねえ、最低よね、有害図書だわ、知事に投書して発禁処分にしてもらわないと、と眉をひそめて横を向いてしまえばそれまでですが、そのような悪い冗談にでも頼らなければ到底越えられぬ山や谷が人生には稀に立ち塞がるものではないか。


 ここでの“味噌”は明らかに人糞のことでありますから、「ミソクソ」の変形が起きている。男にとって我が身を襲った事は排泄物並の苦渋であり、自らの人生もまた語るに価しないと言うことなのか。


 石井さんはさながら掃き溜めに落ちた鶴を救い、大事に介抱して天空に帰すその瞬間を捉える根気強い写真家であり、少なからず人の航路において逆境は避けがたいものと見ている。ギリシア神話の大役ハーデースを任ずるところがあって、「人間とは何であるか」を絶えず自問し続けて見えるのだけど、そんな石井さんが僕たちの身体から味噌とミルクが流れる、と書くとき、ほんのりとした救いが見止められる。


 メインタイトルとなる「天使のはらわた」という逆説的な言葉とも通じる、耳を澄ませれば残響がとめどなく聞こえる台詞になっています。映画において草薙良一という役者が演じた男性ストリッパーは端役も端役で誰も気にも止めない役柄なのだけど、なかなかどうして複雑な持ち味と補色を石井さんから託されており、一幅の宗教画の闇の黒さを補っているように思われます。


 僕たちの今とこれからの数十年を覆い尽くすのは、「クソ」っと呻きたくなるような苦難です。これは逃げられそうにない現実であるのですが、人間の意識には世界の諸相をほんの少しだけ変える力がある。“クソ”みたいな受難をミソみたいな重さと臭いと思い、泥土を黒糖と思い、涙を甘露と思いながら奮闘し、耐え忍んでいかねばならない。年輩の者はひとりひとりがハーデースとなって、幼き生命を守っていかねばならない、そんな事を夢想しています。


(*1):「天使のはらわた 名美」 石井隆脚本 田中登監督 1979。引用は「月刊シナリオ」 1984年9月号より 

2011年6月10日金曜日

上村一夫「ゆーとぴあ」(1982)~“あれ”をやろうかね~



綾「三人揃ったことだし、“あれ”をやろうかね。」

登喜「“あれ”でございますね。はい、只今──」

三人「(口々に)あれって…… なにかしら。百人一首、──いや、麻雀か。」

登喜「絨毯の上でなさいますか?」

綾「そうね。」

 スルスルと開かれる大きな三枚の紙に、顔のない女の顔が描かれている。

三人「福笑い!? わ、わたしたちの顔の──」

綾「思いついて銀座の似顔絵描きに頼み、写真を基につくってもらったんだよ。

  自分で自分の顔に取り組むところが味噌ってわけ。

  さあ、はじめたッ。」

千賀子「なんか厭あねえ。」

スージー「おかちめんこになったらどうしよう……」

遥「巧く仕上がりますように──」(*1)


 飲んだり食べたりする行為と、人がひそかに荷(にな)う恋慕や愛惜といった情感とは“綾取り”のような間柄であって、よくよく解き明かしてみれば一つの丸い輪のように連なっている。“接吻”にまつわる本(*2)をいま読んでいる最中なのだけど、まさにそれ、つまり“くちづけ”なんかは典型的ですね。食と魂とが縦糸、横糸となって綾織られたまばゆい景色のなかに僕たちは日々暮らしています。


 上村一夫(かみむらかずお)さんの「ゆーとぴあ」という漫画には気になるフレーズが何度か繰り返されていて、それは“食い足りない”という言葉なのですが、これなども食と思念が複雑に絡み合っている気がいたします。もちろんほめ言葉ではありません。


 綾というおんなが営む銀座のバーを舞台に、そこに夜毎集う男女の内奥を描いた「ゆーとぴあ」は上村さん最晩年の作品であり、最終の九巻では急死した作者の意を酌んで“小説形式”の回を二編収録しています。突如絵筆が絶たれ活字だけとなった世界は、まるで森森とした夜気に包まれた歩道を歩くような気分で、おごそかなその幕引きは上村さんの作品群を読み進めてきた身には淋しさひとしおです。原作は真樹日左夫(まきひさお)さんとなっているのだけれど、精緻で湿度のしっとりとある描写が溢れており、上村さんのまなざしをそのたびに僕は観止めてしまう。作画の領域を越えてのめり込んでいる気配が濃厚なんですね。


 回想録など読ませていただくとスタッフに仕事を任せて飲みに行ってしまう、そんな浮き足立った雰囲気の、上村さんらしい逸話が顔をいくつも覗かせますが、こうして「ゆーとぴあ」という長編を腰据えて読んでみれば上村さんなりに世界を突き詰めようとした流れがあって、夜毎の外出へとつながったようにも思えてくる。淡々とした構図、遊びの少ないコマ構成、台詞のやや過剰なところなど、往年の上村作品の儚く、妖艶であった独特の詩情性は陰をひそめているのだけれど、その分現実世界の虚実皮膜に真っ向から切り結んで見えます。真摯で重たい感じが悪くないのです。唯一無二の天才の足跡を知る上で、決して欠くことの出来ない作品だと感じます。



 さて、“食い足りない”とは劇中のおんなが交際中の男を称して言う言葉であり、男の資質や反応と自らの指針や覚悟なんかを天秤にかけているうちに、胸の扉の鍵をこじ開けて飛び出してくるのでした。“もの足りない”と同意語であって、口にしたおんなにしてもそれ以上の想いは抱いていないはずなのだけど、ほんの少し滞空して字面を眺めればなかなか強烈な眼つきをしている。蟷螂(かまきり)や女郎蜘蛛のオスの悲しい末路を想ったりします。


 女性に対して男が“食い足りない”を使うとやや肉感を帯びた面持ちとなる。内面よりも外面(そとづら)にこだわるようで、そんなに腹に響かない。言われた方はきっと鼻で笑うのではなかろうか。上っ面だけで判断して、言う方がよほど馬鹿なんだよ、おまえなんか犬にでも喰われて死んじゃえ、という感じ。けれどおんなが男を称して“食い足りない”と言えば、これはもう存在そのものが否定されて聞こえる。細胞レベル、ミトコンドリアの色つやから問われてしまう、そんな切実さが寄り添っていて相当に怖い。


 知識やマナーは言うに及ばず、物腰や表情、趣味や日用品、体臭や口臭、財力と差配能力、潮目の読み方、さらには夜の生活といったあらゆる事に目線が達しているようで、それに対して駄目出しされてしまった感じがする。言われた方は二度と立ち上がれない、決定的なジャッジが下されてしまった感があります。


 “食い足りる”そんな相手がこの世にいるのかどうか。私はいると信じていますが、一生のうちに出逢えるかどうかは分からない。恋路は人がひとを食べる行為にほかならず、“食い足りる”その時まで僕たちは食べ進むしか道はない、という事なんでしょうね。



 話が変な方向に行ってしまいました。「ゆーとぴあ」の中に“ここが味噌”という表現がありました。正月の喧騒から浮いていく独り身がどうにも遣る瀬なく、ついに耐え切れなくなったホステスたちがママの自宅へと足を延ばします。そこで繰り広げられる福笑いの余興が一滴の涙をともない繰り広げられます。


 水商売の内実を描いて徹底して“非日常”を演出していく「ゆーとぴあ」に味噌汁の影は終ぞ見当たらないのですが、ほんの一瞬だけ“味噌”という響きが部屋を満たしていく。彼女たちが棄てた日常が閃光のようにきらめき、疲れた身体とこころを慰撫しているのです。


(*1):「ゆーとぴあ」 真樹日左夫作、上村一夫画 全6巻 小学館。引用は第39話「長い午後」からで、第4巻に所収。初出は「ビッグコミック」1982年6月10日号〜1985年11月25日号
(*2):「なぜ人はキスをするのか?」シェリル・カーシェンバウム 沼尻由起子訳 河出書房新社 2011

2011年6月8日水曜日

桐野夏生「ダーク」(2002)~腹が鳴った~


 吉沢は闇屋から身を起こした新宿二丁目の有名人だ。

七十歳を幾つか過ぎた老人で、四十代の養子と一緒に暮らしている。

私が訪問した時、彼は晩酌をしていた。

「これはこれは珍しい。どうぞお入りなさい」

 吉沢は私を丁重に中に請じ入れた。彼は父の善三を良く知っており、

私を昔から可愛がってくれた人だった。

「あんたも飲むかい」

私は断った。テーブルの上には胡瓜(きゅうり)ともろみ味噌、

という質素なつまみがある。吉沢は私を正面に座らせて旨そうに

ビールを飲んだ。(*1)


 よく知られた桐野夏生(きりのなつお)さんの、父親の跡を継いで探偵業を営むミロの苦闘を描く連作をようやく読み終えました。発表されて十年ほども経た本の感想を書くなんて、恥の上塗りもいいとこです。けれど、そういうめぐり逢わせなのだから、これはもう仕方ないように思います。


 面倒な諸事に日々追われながら、やがて胸の奥まったところに澱(おり)のようなものが降り積もっていく。その堆積が読書や観劇といったものの触感をすっかり変質させていくことがあり、若い時分とはまるで違った感慨に不意を撃たれてうろたえることがあります。送り手と受け手の間には微妙な“噛み合わせ”があって、これは努力してどうなるものではないということですね。遅れての出逢いは決して無駄でもなければ流行遅れでもない。その時が来た、上下のかたちが整って素敵な歯並びになった証しでしょう。


 大団円となる「ダーク」の主題が主人公ミロの内面と外貌の狂おしい変遷である以上、発端から終幕までを一気呵成に読むことの意義は大きく、遅れて来た読者でかえって良かったようにも感じます。それに僕ほどの歳ともなれば険しい峠道を踏破し関所の幾つかをくぐった友人の背中が散見されるようになり、そんな彼らから“ミロの物語”への共振をそっと囁かれることもあって、二重三重に機は熟したという気持ちが湧くのです。実際読み終えてみれば期待にたがえず頷かされるところが多かった、充実した時間なのでした。



 確か新聞の文芸欄だったと思いますが、最近作「ポリティコン」をめぐるインタビュウに答えて桐野さんは“人間は成長しない”と断じていました。“成長”という語句を使って「ポリティコン」の感想を僕はすでに綴っていたから、ひどい見当違いを世間に晒したことに気付いて赤面したものです。なるほど桐野さんの言わんとするところを、今なら少しは解かるような気がする。変化はすれども人間という奴は成長などしない、波の色が千変万化し、季節が移り変わるように人もまた変わるものだけど、何か一段上の善き存在になったように想うのは思い上がりであり、観方が相当に甘いということでしょう。


 主人公をめぐる男たちが、揃いも揃って終着点(ピリオド)を自ら穿(うが)つのに躍起になるのに対し、おんなたちは境遇をあっさり受容して加速的に化けていく。成長神話を捨ててかかることでずっとたくましく強くなれるのだ、とミロは僕たちに告げているようです。諦観というのとも違う、無軌道への跳舞、とでも言うべき勃(つよ)い次元(*2)が提示されており読んでいて爽快、鼓舞されるものがありました。新刊当時に眺めても、絵空事、他人事、娯楽作という範疇を越えてまで揺さぶられはしなかったはず。恐らく自らの鏡と成すことはなかったでしょう。晩熟(おくて)の僕にはちょうど好かったですね。



 さて、上に引いたのは小編「漂う魂」の真ん中あたりにある場景です。主人公の住まうマンションで幽霊騒ぎが起こり、なりゆきからミロが調査役を引き受けます。目撃者のひとりを部屋に訪ねたくだりで、ほんの一瞬“味噌”が薫っています。もっとも味噌は味噌でも“もろみ味噌”であり、ひとつまみ皿に載っているだけのかぼそい食卓です。総じてミロの周辺には食べものの影が希薄で自己主張をしません。それは彼女に限ったことでなく、この手探偵小説全般の決め事になっている。


 のどかな暮らしや反復される生業(なりわい)から逸脱した行為や思惑をひそかに追尾し、証拠を摑んで白日にさらすのが探偵業なれば、食べものは二の次になって当然だからです。エロスであれタナトスであれ、金銭への執着であれ、突き抜けた果てには思念の全力疾走なった領域があって、健康維持やら栄養補給は結局のところ置いてけぼりを喰らいます。尾行や報告の合間にハンバーガーを頬張るか、喫茶店でスパゲティを掻きこむぐらいが調べる側としても限界となり、ホームドラマ然とした料理は鳴りを潜めていく。


 それではこれは何でしょう。以下は「ダーク」に登場した“醤油”です。珍しくここでは大量のおかずに交ざって、醤油も甘辛い香りを放っています。いるぞ、見ろよ、食べたくないかと盛んに誘ってくる。


 ガサガサと耳障りな紙の音がした。左隣に座っている乗客が

弁当を広げたらしい。冷たい白飯の上の黒ゴマ、揚げ物の油脂、

醤油で煮染めた小芋や柴漬け。無数の食物の匂いが鼻孔に飛び込んで

きた。途端に久恵の腹が鳴った。パブロフの犬だと自身を笑い、

久恵は右隣で眠っている友部の腕に掌を置いた。

「ねえねえ、友部さん」

 友部は邪慳(じゃけん)に久恵の掌から逃れた。久恵は構わず

話しかけた。(*3)


 「ダーク」という物語で作者の桐野さんは主人公ミロに対立する存在として“久恵”という大おんなを創造しています。憤怒に駆られて義父を殺してしまったミロを追跡する立場で、義父の内縁の妻という設定です。ミロは無軌道状態へと大跳躍を遂げた後、やがて新しい男を得て情念の虜となっていく。覚醒剤と妊娠で食を弾き出した毎日となり、嘔吐を重ねてどんどんと痩せていくのに対して、食欲の旺盛な大おんながのっそりと対峙して腹をぐーぐー鳴らしている。


 ここでの料理の羅列とその中の醤油は、だから、ミロという神女の作り上げた祭祀空間を鮮やかに引き立たせる目的があり、“変化しないもの、軌道上にあるもの、情念を封じたもの”を代弁するために登用されている。もちろん、良い心象をあまり残しません。なんだか不当で可哀相な料理と醤油です。


 けれど、食べものひとつにもここまで目を配り、物語世界の多層をもくろみ、緻密化、堅牢性を徹底して図っている桐野さんは深謀に長じた策士だと感心し、またまた惚れ直してしまう訳なのです。


(*1):「漂う魂」 桐野夏生 単行本「ローズガーデン」(講談社 2000)所収。手元にあるのは2003年文庫版で引用箇所は118頁。初出は「小説現代」1995年8月号。
(*2):シリーズのなかに再三あらわれる“勃い”という言葉。他では目にしたことはなかったのですが、見た瞬間に元気がもらえる素敵な顔をしてますね。
(*3):「ダーク」 桐野夏生 講談社 2002。手元にあるのは2006年の文庫版で、引用はその下巻51頁より

2011年6月5日日曜日

高野文子「マヨネーズ」(1996)~好きですよー~


  「生ゴミ」と貼られたゴミ箱にかがんでいる“たきちゃん”

  急須を逆さにして茶葉を棄てていたその手が、止まっている

  傍らには同じ職場の男(須根内)の立ち姿

  パタパタと近付いてきた同僚シノダ、横の冷蔵庫を開けて

シノダ「だはは 忘れるところだったわー」

須根内「だはははは」

たきちゃん「だはははは やーだ せっかくのステーキ肉」

シノダ「へへへ お昼休みに苦労して買ったんですものね

    うちじゃこれ味噌に漬けるのよ たきちゃんは

    どうするの? お肉」

たきちゃん「味噌汁ですか いいですねー 好きですよー」

シノダ「まぁ味噌汁? そうか田舎じゃ牛は豊富よねー」

たきちゃん「ああ トウフもいいですねー」(*1)


 再び高野文子(たかのふみこ)さんの短編集「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」から引いています。「マヨネーズ」という作品の冒頭部分です。


 身近に味噌や醤油が空気のように溢れているから、自ずと小説や映画、漫画といった創作世界の心象風景にも味噌、醤油が点在すると考えがちですが、実際はそうじゃありません。例えば桐野夏生(きりのなつお)さんのミロ(探偵の名)シリーズ四作品を今読んでいるのだけど、頁をいくらめくれども味噌や醤油はほとんど顔を覗かせない。取捨選択は厳密になされてミロの世界から巧妙に排除されている感じを受けます。


 創作とはそこまで緻密な構造体なのだということでしょう。時計職人のような仕事ですね。高野さんの本から4箇所もの味噌と醤油を絡めた記述を見出すということは、それ自体、だから驚くべきこと、不自然で興味深いことだと感じます。作家とは、作品とは何かを考えさせられますね。


 “たきちゃん”は地方から出てきて、アパートに独り住まいをしている女性です。とある会社の事務職でせわしない毎日を過ごしております。ゴミ箱に向かって中腰となり手足が固まっている状態が、同僚の接近と声掛けにより一気に氷解していく。けれど、続く会話はちぐはぐでまるで噛み合わないのでした。元々がそそっかしい“たきちゃん”なのだけど、それにしても可笑しな返答です。


 ややあって理由が明かされます。あのとき、“たきちゃん”の傍らに立っていた須根内(スネウチ)が「このさわやかな五月の夕暮れに ホテル行こうかと言ったの」です。露骨で唐突な誘いかけにおんなは硬直し、思考回路がパンクしてしまったのでした。ここでの味噌汁の登用は典型的な役割を果たして見えます。情念にフタをするものであり、表情を隠すものであり、境界杭となって“内側”を意識させる道具となって出現している。


 無垢な妹分、何でも話せちゃう姉貴分として皆から“ちゃん”付けされるおんなながら、決して朴念仁ではない証拠に、物語の最後になって“たきちゃん”は誘いをかけてきた男と結婚してしまうのであって、内実は相当に多情なものが流れる人間な訳です。こころが豊かであり、煩悩多く、襞(ひだ)が細やかで敏感である人間なればこそ、味噌汁は身近な海底より砂を蹴って浮上し、そっと寄り添って心象風景を際立たせていく、ということでしょう。


 もしかしたら味噌汁に限らない。内奥の充実したひとにとって、世界のあらゆるものは輪郭を明瞭にして確かに息づき、そのひとを柔らかく包み込むように感じます。特別なブランド品や高級車、一流の保養地である必要はなく、他愛のないものたちが味方になって声援してくれる、そのように信じます。


 今朝は6時前に起きて町内会の清掃作業。雑草を抜いた後の湿って黒い土の匂いが気持ち良かった。これから散髪に行ってすっきりするつもりです。こっちは快晴です。皆さんのところはどんな空模様ですか。


 しばらく雨の日が続きますが、気持ち次第でどんな風景もどんな状況も、滋養となり、蔵書となり、胸のうちを潤(うるお)す良酒となる。どうか元気に、口角をあげてお過しください。


(*1):「マヨネーズ」 高野文子 「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」 講談社 2002 所収。初出は「コミック・アレ 臨時増刊号」1996年5月

2011年6月3日金曜日

高野文子「二の二の六」(2001)~おショーユは穴蔵で~



まり子「白菜入れますかー おネギ入れますかー

     あっ お肉だ おいしそーっ ほら

     おショーユは穴蔵で」

  ひざまずいて床下収納庫を開けるまり子

まり子「(内心の声)開けるとそこにはおじいさんが」

  そんなまり子を見ている大沢サキ。

  まり子、失礼な妄想をこころで詫びて

まり子「(内心の声)ごめんなさい ごめんなさい」(*1)


 高野文子(たかのふみこ)さんの小編「二の二の六」。この奇妙な題名は住所「二丁目2番6号」を表わしています。訪問介護ヘルパーをつとめる主人公の女性が依頼あって訪ね、半日を過ごした大沢家の番地です。独りでいるおばあちゃんに昼食を作って一緒に食べてもらいたい、という娘さんからの要望。そこに醤油が二度ばかり登場しています。


 支度にはいった主人公が材料を探していく。まずは冷蔵庫の中を見て野菜や肉を確認し、おもむろに床下収納を開いて“おショーユ”の入ったびんを引っ張り出します。妄想癖の強いおんなは、もしやこの半地下の空間におじいさんの死体でも隠されてあったらどうしよう、と不安になり眉を寄せながら扉を開きます。当然ながらそこは梅干の入ってそうな甕(かめ)や不要な道具がきっちり納まっていて、怖いものなど見当たらない。ひどい想像をしてしまって御免なさいね、と拝む手をして失笑し、そっと扉を閉めるのでした。


 最近はあまり見なくなりましたが昔の住居には土間があり、また陽射しの入らぬ納戸がありました。どちらもとても湿った空間で、照明も隅ずみまでは行き渡らないものだから気味の悪いこと甚(はなは)だしく、特段の用事でもない限り子どもは安易に近づかない場所でした。味噌や漬け物の木樽がならび、ぬたっとした臭いが重く漂って足元にしゅるしゅる絡んでくるみたい。今にもお化けが物陰から顔をひっこり覗かせそうで、途轍(とてつ)もなく恐い。


 醤油もまたそんな闇の住処(すみか)の一員であったのです。ハレとケ、という区分けがあるけれど、間違いなく“ケ”に味噌や醤油は所属する。だから味噌や醤油は、どこか死や霊魂、妖怪変化と結線する部分を潜ませていると感じます。谷崎潤一郎さんの小説「少年」にも通じる、淫靡な異界の入口を示しているようにも読めて面白かった。


 次の描写も高野さんらしくなかなか意味深で、興味惹かれるものとなっています。




  トイレの戸を叩く音がする とんとんとん

まり子「なになになに? サキさんおしっこ?」

  サキの曲がった腰を支えるまり子の目が足元に行くと

  サキの靴下は茶色に濡れ、足跡が台所の方から続いている

  その先には、先ほど床下からまり子が取り出した醤油のびんが

  横倒しになって転がっており、茶色い液たまりが出来ている!

まり子「ひえー」

  まり子雑巾で必死に拭き掃除をはじめる(*2)


 味噌はクソとごちゃまぜにされる事がありますが、醤油ではその手の話を聞きません。考えてみると不思議ですね。bug juice(虫の汁)と欧米で当初からかわれたと聞きますが、それもずっとずっと昔の話。けれど高野さんは、明らかに糞尿と醤油をここではごちゃまぜにしている。これは本当に珍しい表現です。お小水、いやいや、この色調からすれば……と介護ヘルパーのありがちな惨事を連想させ、読者を嬉しがらせておいて、即座に醤油びんの転倒へ切り替えて見せて又笑わせる。シャレにならない深刻な話を上手く回避しつつ、けれど主人公の苦境作りに手を抜かない。さすがだな、と感心することしきりです。


 まり子はこの騒動に取り紛れて男との出逢いをふいにします。死人や糞尿を想起させる“おショーユ”は恋情から人を遠ざけ、覚醒を強いる野暮な存在ということでしょうか。それとも日常をはつらつと元気一杯やりくりする為の“道しるべ”でしょうか。いずれにしても高野さんは、醤油ひとつをここまで徹底的に使いこなすのです。才人であることは違いありませんね。これからも発表を楽しみにお待ち申し上げます。


 初夏の陽射しになってきました。女性は紫外線の対策を怠りなく。僕は例によってベランダ読書で素肌に風を感じる、そんな休日を過ごす予定でいます。


 輝く部分を見つめながら、ややこしいこの世を突破していきましょう。


(*1):「二の二の六」 高野文子 「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」 講談社 2002 所収。初出は「アフタヌーン」2001年7月号。引用は125-126頁
(*2):同143頁

2011年6月2日木曜日

高野文子「黄色い本-ジャック・チボーという名の友人」(1999)~買い行ったの~


留美「実(み)ッコちゃん おかえりー!」

実地子「たらいまー 留(る)-ちゃん」

留美「ラーラちゃん 借りてます」

実地子「どうぞ」

留美「伯母ちゃん 醤油買い行ったの 留―ちゃん るすいしったの」

実地子「そか」(*1)


高野文子(たかのふみこ)さんは、僕にとって気になる書き手のひとりです。


うずたかく堆積なった生活がまずあり、そのぱっとしない地層の間から飾り気のない心根(こころね)がそっと顔を覗かせる。憤懣であったり、憧憬であったり、羨望、諦観、覚悟というように場合場合で異なるのですが、希薄ながらも鮮烈な心情のかずかずをさりげなく提示していく高野さんの技量には定評があって、寡作ながらも根強いファンを形成していますね。


高野さんのお話の際立った特徴のひとつに、特定の日用品(マヨネーズの容器だったり、電気ポットであったりで特別なものではない)に気持ちがつよく引かれて立ち止まってしまい、視線を大量に注いでいくくだりがあります。双眼鏡を顔面にぺたり貼り付けて家のなかを歩き回るような感覚です。読んでいるこちらの目も丸くなり、つい息を止めてしまう、地球の自転すら止まってしまうような瞬間があるのです。それが妙に色っぽい。


おおらかなフェティシズムというか、スケベこころのない窃視(せっし)症というか、とにかく不思議な凝視が劇中に訪れる。僕たちの周りを構成している“モノ”に執念深く挑んでいる気迫があって、そんなこだわり抜く高野さんの筆先が“醤油”を描いて何事か語るのであればきっとそれは傾聴に値すると思うのです。



作品「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」の中には「醤油を買いに行く」という台詞がありました。学校から帰宅した主人公を姪っ子が玄関まで迎えに出ます。そうして舌足らずの口で、懸命に家族が外出していることを伝えるのでした。伯母ちゃんは醤油を買いに出かけたのです。


 色眼鏡をかけて見ているせいもあるけれど、“醤油を買いに行く”という行為と響きには他の買い物にはない、平坦でのどかな印象が寄り添って感じられますよね。最近では変り種の“醤油”、たとえば「たまごかけ醤油」や「だし醤油」といったものもたくさん開発されていて、その手の他の食材や香辛料を付随させたものとなれば話は違って来るのですが、“単なる醤油”を買いに行くという動きはのっぺりとなだらかなイメージを瞳の奥に映じていく。


 洋服や靴を買いに行く、化粧品を店頭で選んでいく際に去来する切なさ、華やかさに到底「食べもの」は追いつけないわけですが、そんな食べものでも、たとえばオレンヂ、アイスクリーム、パスタを買って来る、旬の魚を選択するといった事々には尾ひれが付いてひらひら舞い立つイメージがある。誰と食べるのか、どんな匂いがするのか、歯ごたえはどうか、脂はのっているのか。幸せなのか、壁に突き当たっているのか。昼間なのか夜なのか、食べてからどうなるのか、何が起きるのか、たちまち連想は拡がっていき、台本の出だしぐらいは書けそうです。


“醤油を買って来る”ということは次元がやや違っている。ひとの多くはそのまま醤油を飲んだりしません。するのは一部の狂ったマニアか生真面目な業界人だけであって、当然ながら熱燗にしたり水割りにロックアイスを浮かべて楽しんだりはしない。醤油を誰と味わうのか、どんな匂いがするのかなんて考えたりしない。


幸せかどうかをやんわり推し量るのにも向かない。どんなときにも居座るのが“醤油”だから。婚礼の席でも葬式でも醤油は卓上に置かれてしまう。昼間なのか夜なのか、これも関係がない。寝つけにひと匙(さじ)醤油を舐めないともう駄目なの、わたし、とても寝れないのよ、へんねえ、困っちゃうわ、どうしても毎晩欲しくなっちゃうの、なんて人はいません。朝から晩まで手元に置かれてちょこちょこ触られて節操がない。つまりは連想の口火にならない、醤油単体ではドラマが起動しづらいのです。

 
 高野さんの「黄色い本」をむりやり簡潔にまとめれば旅立ち、自立の物語と言えます。学校や家庭といったゆりかごから労働の場へと追い立てられる刹那の、言い知れぬ淋しさ、苦しさ、焦燥が描かれていました。主人公の佇む境界線の右と左に広がったふたつの世界をコントラスト鮮やかに描く上で、“醤油を買いに行く”行為はある役目を担っていたのでしょう。


 それはたとえば“大いなる停滞”、“変わらぬことがもたらす安息”、“思案せずにいられる嬉しさ”、“成長も老化もない静止した空間”“無垢であることの許される時間”というもの。伯母ちゃんが花を買いに出かけてしまえば、変化が生じて世界が揺らいでしまう。「醤油を買いに行く」という行為はかなり意図的なものだと僕は考えています。


醤油の本分とは、理想の醤油とはそういうものかもしれないですね。模様替えしない、整頓しないでいい部屋も確かに人生には必要みたいです。そういうのって、わりかた大事でおろそかに出来ないのです。


(*1):「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」 高野文子 同名単行本所収 講談社 2002。初出は「アフタヌーン」1999年10月号