2011年6月12日日曜日

石井隆「天使のはらわた 名美」(1979)~あんただって何かは~



13 楽屋の中(つづき)

踊り子「あら、ごめんなさい!」

  厚化粧の踊り子が一人、楽屋を出て行く。名美とぶつかる。

  その化粧が名美の服(肩)に擦り付く。名美、気付かない。

  黙々と化粧を続ける蘭。無表情。(中略)

  マー坊も着替えながら、

マー坊「ねね、蘭の過去を知りたいんでしょ?スゴイのよね、

    女の転落の典型!悲しいのよねエン。強姦(つっこま)れてサ、

    アハン、なんちゃって、16ン時、あたいと同じ」

名美「あたい?」(中略)

マー坊「あれは16の春の朝、私しゃ味噌やり、ミルクをもらい……

    あんただって何かはあるでしょ?同じよ皆、同じ」

名美「……?」(中略)

マー坊「不感症になっちゃったのよ。あー恥し。正確にくっちゃべると、

    させられちゃったのよね、私の場合(ばやい)。蘭はどっちかな、

    先天性男性なんとかってヤツかな。ねえ!」
 
  無表情で化粧する蘭。アイラインを直す、その目付き。

  鏡の中の名美、じっと見つめる。その目付き。二人どこか似ている。(*1)


 女性週刊誌「ザ・ウーマン」の記者である名美は、裁判記録等から性暴力の被害者を特定し、その後どのような暮らしをしているかをルポルタージュする役目を負わされます。熱心な再訪に根負けしてしまって雨粒の落ちはじめるようにぽつり、ぽつりと語り始めるおんなもおれば、逆に徹底して沈黙を守る者もいます。繊細な名美はそんなやり取りを幾度も重ねるうちに、被害者たちの混迷する胸中にいつしか同調を始めてしまうのでした。


 男からの暴力の痕跡を素肌とこころに深く刻んで精神を破綻させてしまった美也という看護士の取材において、名美は錯乱を来たして凶暴化した美也に襲われ、絶対的な危機に陥ります。その時はからくも恋人に救われるのでしたが、真っ黒い息吹きに覆い尽くされたようになってコントロールをいよいよ失い、そのまま破滅へと突き進んで行くのでした。


 石井隆(いしいたかし)さんは現代に生きる僕たちの等身大の姿というより、より悲劇性を際立たせた絵画的な劇空間を好んで創出する作家です。極彩色の光線や裸身、ありえない程たくさんの血糊、破綻を怖れぬ展開と結末で現世に宗教画やシュルレアリスムの光陰を結んでみせる絵描きの面持ちが以前からあって、小道具や構図のひとつひとつに底無しの想いを込めている節がある。


 開幕早々、僕たちの視線は淀んだ空気にずぶずぶに埋れた場末の劇場に誘(いざな)われるのですが、まるで深海のような舞台に漂い着いたおんなに(文字通り)寄り添い、共に舞台に立つのが似たような道程を抱えた男である、というのがいかにも石井さんらしいきめ細かさです。完成された映画においてはマー坊という男の流浪が何に起因するかは描かれていませんが、凄絶な暴力がこの男をも過去襲ってとことん傷付けたことが容易に想像できる。


 あまり偉そうな物言いは出来ませんが、お互いを「鏡」と為して視線をそらさず対峙出来るかどうか、それが愛情の譲れない基本構造というやつでしょう。ここで石井さんは暗い深淵を映し出す一対の鏡を(文字通り)合わせ重ねて、果てしなく続く無間の闇を演出して見せます。


 男は記者に対しておのれの過去の一端を茶化して語ってみせますが、そこに“味噌”が使われている。いやねえ、下品ねえ、最低よね、有害図書だわ、知事に投書して発禁処分にしてもらわないと、と眉をひそめて横を向いてしまえばそれまでですが、そのような悪い冗談にでも頼らなければ到底越えられぬ山や谷が人生には稀に立ち塞がるものではないか。


 ここでの“味噌”は明らかに人糞のことでありますから、「ミソクソ」の変形が起きている。男にとって我が身を襲った事は排泄物並の苦渋であり、自らの人生もまた語るに価しないと言うことなのか。


 石井さんはさながら掃き溜めに落ちた鶴を救い、大事に介抱して天空に帰すその瞬間を捉える根気強い写真家であり、少なからず人の航路において逆境は避けがたいものと見ている。ギリシア神話の大役ハーデースを任ずるところがあって、「人間とは何であるか」を絶えず自問し続けて見えるのだけど、そんな石井さんが僕たちの身体から味噌とミルクが流れる、と書くとき、ほんのりとした救いが見止められる。


 メインタイトルとなる「天使のはらわた」という逆説的な言葉とも通じる、耳を澄ませれば残響がとめどなく聞こえる台詞になっています。映画において草薙良一という役者が演じた男性ストリッパーは端役も端役で誰も気にも止めない役柄なのだけど、なかなかどうして複雑な持ち味と補色を石井さんから託されており、一幅の宗教画の闇の黒さを補っているように思われます。


 僕たちの今とこれからの数十年を覆い尽くすのは、「クソ」っと呻きたくなるような苦難です。これは逃げられそうにない現実であるのですが、人間の意識には世界の諸相をほんの少しだけ変える力がある。“クソ”みたいな受難をミソみたいな重さと臭いと思い、泥土を黒糖と思い、涙を甘露と思いながら奮闘し、耐え忍んでいかねばならない。年輩の者はひとりひとりがハーデースとなって、幼き生命を守っていかねばならない、そんな事を夢想しています。


(*1):「天使のはらわた 名美」 石井隆脚本 田中登監督 1979。引用は「月刊シナリオ」 1984年9月号より 

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