2011年6月5日日曜日

高野文子「マヨネーズ」(1996)~好きですよー~


  「生ゴミ」と貼られたゴミ箱にかがんでいる“たきちゃん”

  急須を逆さにして茶葉を棄てていたその手が、止まっている

  傍らには同じ職場の男(須根内)の立ち姿

  パタパタと近付いてきた同僚シノダ、横の冷蔵庫を開けて

シノダ「だはは 忘れるところだったわー」

須根内「だはははは」

たきちゃん「だはははは やーだ せっかくのステーキ肉」

シノダ「へへへ お昼休みに苦労して買ったんですものね

    うちじゃこれ味噌に漬けるのよ たきちゃんは

    どうするの? お肉」

たきちゃん「味噌汁ですか いいですねー 好きですよー」

シノダ「まぁ味噌汁? そうか田舎じゃ牛は豊富よねー」

たきちゃん「ああ トウフもいいですねー」(*1)


 再び高野文子(たかのふみこ)さんの短編集「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」から引いています。「マヨネーズ」という作品の冒頭部分です。


 身近に味噌や醤油が空気のように溢れているから、自ずと小説や映画、漫画といった創作世界の心象風景にも味噌、醤油が点在すると考えがちですが、実際はそうじゃありません。例えば桐野夏生(きりのなつお)さんのミロ(探偵の名)シリーズ四作品を今読んでいるのだけど、頁をいくらめくれども味噌や醤油はほとんど顔を覗かせない。取捨選択は厳密になされてミロの世界から巧妙に排除されている感じを受けます。


 創作とはそこまで緻密な構造体なのだということでしょう。時計職人のような仕事ですね。高野さんの本から4箇所もの味噌と醤油を絡めた記述を見出すということは、それ自体、だから驚くべきこと、不自然で興味深いことだと感じます。作家とは、作品とは何かを考えさせられますね。


 “たきちゃん”は地方から出てきて、アパートに独り住まいをしている女性です。とある会社の事務職でせわしない毎日を過ごしております。ゴミ箱に向かって中腰となり手足が固まっている状態が、同僚の接近と声掛けにより一気に氷解していく。けれど、続く会話はちぐはぐでまるで噛み合わないのでした。元々がそそっかしい“たきちゃん”なのだけど、それにしても可笑しな返答です。


 ややあって理由が明かされます。あのとき、“たきちゃん”の傍らに立っていた須根内(スネウチ)が「このさわやかな五月の夕暮れに ホテル行こうかと言ったの」です。露骨で唐突な誘いかけにおんなは硬直し、思考回路がパンクしてしまったのでした。ここでの味噌汁の登用は典型的な役割を果たして見えます。情念にフタをするものであり、表情を隠すものであり、境界杭となって“内側”を意識させる道具となって出現している。


 無垢な妹分、何でも話せちゃう姉貴分として皆から“ちゃん”付けされるおんなながら、決して朴念仁ではない証拠に、物語の最後になって“たきちゃん”は誘いをかけてきた男と結婚してしまうのであって、内実は相当に多情なものが流れる人間な訳です。こころが豊かであり、煩悩多く、襞(ひだ)が細やかで敏感である人間なればこそ、味噌汁は身近な海底より砂を蹴って浮上し、そっと寄り添って心象風景を際立たせていく、ということでしょう。


 もしかしたら味噌汁に限らない。内奥の充実したひとにとって、世界のあらゆるものは輪郭を明瞭にして確かに息づき、そのひとを柔らかく包み込むように感じます。特別なブランド品や高級車、一流の保養地である必要はなく、他愛のないものたちが味方になって声援してくれる、そのように信じます。


 今朝は6時前に起きて町内会の清掃作業。雑草を抜いた後の湿って黒い土の匂いが気持ち良かった。これから散髪に行ってすっきりするつもりです。こっちは快晴です。皆さんのところはどんな空模様ですか。


 しばらく雨の日が続きますが、気持ち次第でどんな風景もどんな状況も、滋養となり、蔵書となり、胸のうちを潤(うるお)す良酒となる。どうか元気に、口角をあげてお過しください。


(*1):「マヨネーズ」 高野文子 「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」 講談社 2002 所収。初出は「コミック・アレ 臨時増刊号」1996年5月

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