2011年6月10日金曜日

上村一夫「ゆーとぴあ」(1982)~“あれ”をやろうかね~



綾「三人揃ったことだし、“あれ”をやろうかね。」

登喜「“あれ”でございますね。はい、只今──」

三人「(口々に)あれって…… なにかしら。百人一首、──いや、麻雀か。」

登喜「絨毯の上でなさいますか?」

綾「そうね。」

 スルスルと開かれる大きな三枚の紙に、顔のない女の顔が描かれている。

三人「福笑い!? わ、わたしたちの顔の──」

綾「思いついて銀座の似顔絵描きに頼み、写真を基につくってもらったんだよ。

  自分で自分の顔に取り組むところが味噌ってわけ。

  さあ、はじめたッ。」

千賀子「なんか厭あねえ。」

スージー「おかちめんこになったらどうしよう……」

遥「巧く仕上がりますように──」(*1)


 飲んだり食べたりする行為と、人がひそかに荷(にな)う恋慕や愛惜といった情感とは“綾取り”のような間柄であって、よくよく解き明かしてみれば一つの丸い輪のように連なっている。“接吻”にまつわる本(*2)をいま読んでいる最中なのだけど、まさにそれ、つまり“くちづけ”なんかは典型的ですね。食と魂とが縦糸、横糸となって綾織られたまばゆい景色のなかに僕たちは日々暮らしています。


 上村一夫(かみむらかずお)さんの「ゆーとぴあ」という漫画には気になるフレーズが何度か繰り返されていて、それは“食い足りない”という言葉なのですが、これなども食と思念が複雑に絡み合っている気がいたします。もちろんほめ言葉ではありません。


 綾というおんなが営む銀座のバーを舞台に、そこに夜毎集う男女の内奥を描いた「ゆーとぴあ」は上村さん最晩年の作品であり、最終の九巻では急死した作者の意を酌んで“小説形式”の回を二編収録しています。突如絵筆が絶たれ活字だけとなった世界は、まるで森森とした夜気に包まれた歩道を歩くような気分で、おごそかなその幕引きは上村さんの作品群を読み進めてきた身には淋しさひとしおです。原作は真樹日左夫(まきひさお)さんとなっているのだけれど、精緻で湿度のしっとりとある描写が溢れており、上村さんのまなざしをそのたびに僕は観止めてしまう。作画の領域を越えてのめり込んでいる気配が濃厚なんですね。


 回想録など読ませていただくとスタッフに仕事を任せて飲みに行ってしまう、そんな浮き足立った雰囲気の、上村さんらしい逸話が顔をいくつも覗かせますが、こうして「ゆーとぴあ」という長編を腰据えて読んでみれば上村さんなりに世界を突き詰めようとした流れがあって、夜毎の外出へとつながったようにも思えてくる。淡々とした構図、遊びの少ないコマ構成、台詞のやや過剰なところなど、往年の上村作品の儚く、妖艶であった独特の詩情性は陰をひそめているのだけれど、その分現実世界の虚実皮膜に真っ向から切り結んで見えます。真摯で重たい感じが悪くないのです。唯一無二の天才の足跡を知る上で、決して欠くことの出来ない作品だと感じます。



 さて、“食い足りない”とは劇中のおんなが交際中の男を称して言う言葉であり、男の資質や反応と自らの指針や覚悟なんかを天秤にかけているうちに、胸の扉の鍵をこじ開けて飛び出してくるのでした。“もの足りない”と同意語であって、口にしたおんなにしてもそれ以上の想いは抱いていないはずなのだけど、ほんの少し滞空して字面を眺めればなかなか強烈な眼つきをしている。蟷螂(かまきり)や女郎蜘蛛のオスの悲しい末路を想ったりします。


 女性に対して男が“食い足りない”を使うとやや肉感を帯びた面持ちとなる。内面よりも外面(そとづら)にこだわるようで、そんなに腹に響かない。言われた方はきっと鼻で笑うのではなかろうか。上っ面だけで判断して、言う方がよほど馬鹿なんだよ、おまえなんか犬にでも喰われて死んじゃえ、という感じ。けれどおんなが男を称して“食い足りない”と言えば、これはもう存在そのものが否定されて聞こえる。細胞レベル、ミトコンドリアの色つやから問われてしまう、そんな切実さが寄り添っていて相当に怖い。


 知識やマナーは言うに及ばず、物腰や表情、趣味や日用品、体臭や口臭、財力と差配能力、潮目の読み方、さらには夜の生活といったあらゆる事に目線が達しているようで、それに対して駄目出しされてしまった感じがする。言われた方は二度と立ち上がれない、決定的なジャッジが下されてしまった感があります。


 “食い足りる”そんな相手がこの世にいるのかどうか。私はいると信じていますが、一生のうちに出逢えるかどうかは分からない。恋路は人がひとを食べる行為にほかならず、“食い足りる”その時まで僕たちは食べ進むしか道はない、という事なんでしょうね。



 話が変な方向に行ってしまいました。「ゆーとぴあ」の中に“ここが味噌”という表現がありました。正月の喧騒から浮いていく独り身がどうにも遣る瀬なく、ついに耐え切れなくなったホステスたちがママの自宅へと足を延ばします。そこで繰り広げられる福笑いの余興が一滴の涙をともない繰り広げられます。


 水商売の内実を描いて徹底して“非日常”を演出していく「ゆーとぴあ」に味噌汁の影は終ぞ見当たらないのですが、ほんの一瞬だけ“味噌”という響きが部屋を満たしていく。彼女たちが棄てた日常が閃光のようにきらめき、疲れた身体とこころを慰撫しているのです。


(*1):「ゆーとぴあ」 真樹日左夫作、上村一夫画 全6巻 小学館。引用は第39話「長い午後」からで、第4巻に所収。初出は「ビッグコミック」1982年6月10日号〜1985年11月25日号
(*2):「なぜ人はキスをするのか?」シェリル・カーシェンバウム 沼尻由起子訳 河出書房新社 2011

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