2010年5月19日水曜日

山本むつみ「ゲゲゲの女房」(2010)~なんもないなあ~



「なんもないなあ」

 台所の棚を開いても、食材はおろか、鍋や食器もろくにそろっていない。

いつでも山のように食材が積まれ、鍋が温かさそうな湯気を立ち上げていた

飯田家の台所とは比べるべくもなかった。(中略)

「男の人の一人住まいって、こげなもんなのかなあ」

布美枝が台所で味噌壷を開けて中を確かめていると、玄関戸をノックする音と

ともに、「おーい、おるか」と男の声が聞こえてきた。(*1) 
             


 「ゲゲゲの女房」(*2)の視聴率が悪くないらしい。放送時間が15分間繰り上がったことが功を奏したという意見もあるけれど、多くの出来事の勝因や敗因というのは様々なことが複雑に絡み合ったもの。漫画に関心を寄せる層の取り込みが数字に繋がったのかもしれないし、それより何より、景気の足踏み感がドラマ注目の背景として大きいように感じられます。


 水木しげるさんは誰もが認める漫画界の覇者です。この連続ドラマは彼の半生を主軸にしていますから、僕たちは物語の幕が“勝ち戦”で終わることを既に知ってしまっている。いくら暗雲が行く手を遮ってゴロゴロと雷鳴が轟いても、怖いものは一切ありません。この安定感が、先ずもって視聴率に貢献しているのは違いないのです。


 リアルな成功譚をがっしり据えながらも、祝杯に至るまでの赤貧の諸相をオモシロ可笑しく綴ってみせる懐旧型の構成は、大財閥を築いた男が新聞記者相手に回想談義してみせる日曜夜の大河ドラマとも近似しているし、かつて大ブームを巻き起こした「おしん」(*3)にも通底するものがあります。


 一から十までフィクションで構築されたサクセスストーリーに対しては、ふん、そんな夢みたいなこと起きゃしないよ、寝むたいコト言うんじゃないと嫌悪をもよおし、しかし失敗談はと言えば観ていてどうにも息苦しい、とてもじゃないが居たたまれない。そんな苛立ちと焦りを懐胎した僕たち視聴者がぞろりモニターの前に陣取っている。ちょっとでも反発を覚えたら即座に、容赦なくチャンネルを回さんと決め込んで、リモコンのボタンに載せられた人差し指はピクピクと痙攣すらしている。そんな手厳しい取捨選択の網を「ゲゲゲの女房」は、まんまとすり抜けて見えます。


 また、昭和30年代後半の生活事情をうまく醸し出そうと奮闘する衣裳担当者によって、人物の羽織るセーターやシャツはモノトーンにいずれも染まっていて、これが昨今の安売り衣料量販店の送り出す原色を主体とする服と重なって見えなくもない。


 かくして、僕たち平成のサバイバーたちは主人公夫婦にすんなり気持ちを託していくのです。いつかは脱却されるはずの、爪に火を点すが如き極貧の生活へと舞い戻ることに苦痛を覚えずに済む訳ですね。送り手と受け手のコンビネーションはだから抜群、とてもうまく出来ている。企画の勝利といったところです。


 事実を根底とする以上は、悪戯にお話を拡げる余白はそう残されていない。観ていて驚きはあまりないのだけれど、角か取れて至極まろやかなノド越しなのです。新しいふりして実は古酒並みに熟成している。老いた職人の手わざを横でのんびり見学しているような、くすぐったいような愉しさが何処からともなく湧いてくる。そんな感じの15分間になっています。




 さて、僕が個人的に関心を寄せているのが、脚本家山本むつみさん(単身によるのか、制作者、原作者が総出で知恵を寄せているのか定かでないのだけれど)──が送り出す生活臭の強さと、いくらか誇張気味に描かれる“味噌”なのです。


 上に引いた場面は調布の水木さん(向井理)の家に新妻の布美枝(松下奈緒)が引っ越して来た初日の光景だけれど、ここでは底を突きかけて、内側に黄金色の味噌がぺたぺたとこびり付いた“味噌壷”がクローズアップされていました。


 この場面と対峙する光景が放送初回には描かれていますね。同じく台本をノベライズしたものから書き写してみましょう。まだ幼い時分の布美枝が祖母に命じられて自宅奥の蔵に足を踏み入れる場面です。


 登志から味噌蔵に味噌を取りにいってくるようにいわれて布美枝は肩を落とした。

(中略)漬物樽などが並ぶ味噌蔵はシンとして薄暗く、空気はひんやりと湿っていて

少しばかりカビくさかった。ドズンドスン!不意に天井から音が聞こえ、一瞬にして

布美枝の体がこわばった。続いて……バラバラバラと怪しげな音がした。

何かおるん?薄闇の中を見回した。目には見えない何かが闇の中でふくふくと息づき、

布美枝を見つめている気がした。(*4 )



 谷崎潤一郎の「少年」(*5)と似たシチュエーションがここでは組み立てられています。醤油や味噌の振りまく芳香と物置独特の湿度と暗がりが密接に連なって僕たちに提示され、非日常の空間に手を引き誘(いざな)っていく。それと同時に布美枝の育った家の、金銭的、物質的な充足、生活基盤の安定が重量感を具えた大きな味噌樽によって明確に謳われていました。


 貧富のバロメーターとして味噌の量目が採用されていて、山本むつみさんはそれを露骨に増減して見せるのだけど、味噌自体への眼差しにはフラットなものが感じ取れる。そこがなかなか面白いと僕は思うのです。


 例えば石原裕次郎と浅丘ルリ子の「赤いハンカチ」(*6)は昭和39年(1964)公開の映画であって、「ゲゲゲの女房」と描かれる時代はピタリ重なっているのですが、「赤いハンカチ」での“味噌汁”にはいくらか時代遅れのもの、無垢なもの、困窮のイメージといった複雑な光が賦与されていました。どちらかと言えば負の視線が突き刺さっていたのです。対して「ゲゲゲの女房」の“味噌”は堅実と安息の目盛りとして素直に活かされており、随分と良い席におさまって見えます。


 ひとつの事象でも百人百様の捉えかたがあるのは当然のことですが、僕は単に脚本家の生理がぼんやりと形を成したとは思えないのです。


 物事のいちいちの色彩は、その折々に住まう人間の精神状態に大きく影響され変化し、身に纏う明度はまったく異なってしまう。時にはみすぼらしく、時には晴れがましく描かれ、物語で割り当てられる“意味”がまるで違っていく。東京オリンピック開催を目前とする成長期とリーマンショックの痛手から回復出来ぬままに下降を続ける今では、世界の見え方がこうまで違う、ということではないかしらん。

 “味噌”は大衆の心理に即応して明瞭に担う役割を変えていく、そんな極めて心理的食物であることを山本さんの台本が証し立てている。


 今後、水木家で味噌がどのような役割を果たすものか、しばらく目が離せそうにありません。僕たちが僕たちの今の暮らし向きをどう捉えているか、それが確実に反射して来るでしょう。何気なく流されるドラマもそうして観れば、なかなか奥深いものです。


(*1):「ゲゲゲの女房」(上) 原案 武良布枝 脚本 山本むつみ ノベライズ 五十嵐佳子
NHK出版  第2章 さよなら故郷 
(*2):NHK連続テレビ小説 朝8時より放送中 挿入した画像はホームページから引用
http://www9.nhk.or.jp/gegege/
(*3):「おしん」 NHK 1983-1984
(*4):「ゲゲゲの女房」(上) NHK出版 第1章 ふるさとは安来
(*5):「少年」 谷崎潤一郎 1911
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1911_23.html
(*6):「赤いハンカチ」 監督 舛田利雄 1964
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964.html
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_25.html
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_30.html

2010年5月3日月曜日

上村一夫「同棲時代」(1972)その3~上村一夫作品における味噌汁(14)~

 このような景気です。仕事のあることは嬉しくありがたい事なのだけれど、やはりこの時期、世に大型連休と呼ばれる期間に入ると気持ちがぷくぷく泡立ちます。解放されないままに半端な仕事に当たる毎日はどうにも悔しい気分。「聞け万国の労働者」でも歌いましょうかね。ショウガナイ、何を馬鹿なことを──。


 「同棲時代」を中心となして広がる上村一夫(かみむらかずお)さんの創造の平野を、これまで13回に渡って歩いてみました。そこには意味ありげに“味噌”が顔を覗かせていて、人物の内面をそっと代弁している様子が認められました。


 “味噌”がぽんっと視野に飛び込んだり、はたまた「みそ」という響きが耳朶を打った際に避け難く生じる微弱な“震え”のようなものを上村さんは畳み掛けるように登用し、独特の震幅を物語に与えることに成功しています。いつまでも後引く余震が見事ですね。


 恋愛劇には不向きと想われた“味噌(汁)” はしっかり男とおんなの魂に流れ込んだ後に、ごつごつした樹根のように固形化して読者を待ち受けている。蹴躓(つまず)かせて足をさらい、来た道を見失わせて僕たちを精神の迷路に誘(いざな)おうと、今でも息を殺して待ち続けているのです。うわべだけを紙芝居のように並べた安直なドラマがずいぶんと幅を利かせていますが、本来人間は複雑で多層な内面を抱えている厄介な生きものです。たくさんの若い人に、こういった奥の深いお話を読んで学んでもらいたい、ほんとうにそう思いますね。


 上村さんについては、今日でひとまずお仕舞いです。最後にもう一箇所だけ、“味噌汁”に関する奇妙な描写を「同棲時代」(*1)に見ることが出来るのですが、それを取り上げて筆を休めましょう。不自然なその物言いには、作者の“文法”がやはり感じ取れるのです。


 今日子の退院によりふたりの暮らしは再開されたのですが、無理を続けている空気にじわじわと侵食されています。当初のみずみずしい会話は何処へやら、いまでは息を潜めるように過ごす毎日なのでした。重苦しい沈黙が続いていきます。

 突然扉を「トントン」とノックする音。隣りの部屋に住まう同世代の娘が“醤油”を借りに来たのでした。(*2)

弓子「ねぇ 今日子さん お醤油貸してくれる?」

今日子「いいわよ」

弓子「うち きらしちゃってるの 気がつかなくて 

   あら!まだお休み?ごめんなさい」

今日子「ええ あの人 ゆうべ遅くまで仕事してたものだから」

弓子「ほんとに大変ね イラストレーターっていうのも

   あ いけない 授業に遅刻しちゃうわ じゃお借りするわね!」


 この娘も目下“青田”という男と同棲中なのです。背格好や容貌にはあざとい造り込みが為されていて、今日子と次郎とはあまりにも対照的です。どうやら前触れなく突然物語に招聘されたこの隣家の男女は、今日子と次郎の内面を浮き彫りにするための補色の役割を担っているようです。夕方にも再度扉はノックされます。「トントン





今日子「はァい」

弓子「今日子さん ごめんなさい お味噌を少し借りたいの」

今日子「いいわよ」

弓子「あの人がね どうしても味噌汁がのみたいっていうもんだから

   あ それからね もし残りものがあったら言ってちょうだい

   うちの猫に食べさしちゃうから (高笑いして)ころころころ」


 なんという天真爛漫さ。行動のいちいちに陽性が溢れています。この後、飼い猫について苦言を呈されたことから大家と激しい口論に至って、田舎に帰って農家をしながら悠々と暮らす、子どもも沢山作って元気に育てるつもりだと啖呵を切って、実際にさっさと引っ越してしまうのでした。リアカーを引いて小さくなっていく彼らの背中に対し、物語は重い沈黙をもって答えています。


 上村さんの作品にて“味噌汁”が境界標として機能することを思い返せば、ここで太々と描かれた境界線の向こう側には疑念や不安、戸惑いといったものが微塵もない“生活”が意図的に描かれています。シンプルで純粋な、笑顔に満ち溢れたそれを今日子と次郎は羨望、侮蔑、悔恨、同情といった綯(な)い交ぜとなった想いで見送るのでした。(*3)




 青田という名の若い男女への輻輳(ふくそう)する上村さんの眼差しは“生活”という区画と“観念”の飛翔する空域とを穿つ境界標たる“味噌汁”にも同等に注がれている感じがします。


 生活を長年こなすうちに生じてくる粘っこい澱(おり)が次第に足首に纏(まと)わり付き、気力体力を徐々に奪い去っていきます。諍(いさか)いを起こしてしまい疑念が鎌首を一度もたげてしまえば、“無私”で居ることには限界が自ずと訪れて、ふたつの心は分裂を始めてしまう。決壊してしまった魂の貯水池はなかなか元に戻せません。透明感のある澄んだ笑いで暮らしを満たし続けることは出来ない相談なのです。


 ぶわぶわと輪郭を崩し始めた空間でもひとは物を食べ続け、生きていかねばならない。今日子と次郎の部屋の夕餉に供される“味噌汁”は、だからとてつもなく哀しい。何のための境界票なのか、一体何から何を守っているつもりなのか。何を外に追いやり、何を内側に創ろうとしているのか。


 
こんなにも淋しく儚げに見える“食(べもの)”は他の創作世界には無いような気がします。そして、僕たちの身近に転がる“味噌汁”をこんなにも哀しく見える“食(べもの)”にしてみせた創り手は、上村さん以外には今のところ見当たらないのです。



(*1):「同棲時代」 上村一夫 1972-1973
(*2): VOL.57「夏のとなり」
 
(*3):ここで繰り広げられた騒動は国境線を主張するために誇示される軍事訓練か挑発行為のようなものに見えてきます。例えはいささか乱暴ではありますが、今日子と次郎が二筋の境界線を持って曖昧に重なり合う多民族国家とするなら、隣家のふたりの快活な笑いに満ちた生活はイデオロギーを隙間なく集束させた独裁制国家の趣きです。境界紛争が脆弱な連邦国家を震撼させ、異分子たる互いを強く意識させてしまった。この後、まっしぐらに今日子と次郎は分裂へと歩を進めて行くのです。

2010年4月25日日曜日

「愛の狩人」(1971)~二十年という歳月~


 劇画家の上村一夫(かみむらかずお)さんの生誕70周年を記念して、列島を巡回するかたちにてブックフェアが始まったようです。(*1) 身近に住まう七十代の人たちと、著作を通じて日々体感する上村作品の若々しさが反発して妙な具合です。没後25年と言った方がしっくり来るものがありますね。売り場には原画をコピーしたものも展示されるようなので、近くに来たら足を運んでみようと思います。

 上村さんは作品集をたくさん遺していますが、文字ばかりの評論やエッセイといったものが本の体裁にまとまったものはほとんでなくって、わずかに広論社より昭和48年(1973)に上梓された「同棲時代と僕」があるだけです。オークションなどを通じて週刊誌や月刊誌に掲載された特集記事や寄稿されたものを探してみても、何となくはぐらかされている感じの文言が並んでいるばかり。そんなこともあって、あまり作品論、作家論を喚起しないで今に至っているところがありますね。まあ、そんな黙して語らずのミステリアスなところが魅力のひとつでもあるのだけれど──。

 さて、「同棲時代と僕」の中で上村さんは「同棲時代」の誕生秘話をちょっとだけ吐露していて、「ある日の銀座でなにげなく映画館に入っ」て観た「愛の狩人」(*2)に「深く感銘を受け、これを基本線にして漫画を書いてみようと思った」と書いています。「同棲時代の原因」と明確に告げられたこの映画を僕はずっと未見でいたのですが、本日ようやく観ることが出来ました。


 あらすじやスタッフ、キャストの詳細は検索して読んでもらえば良いので書き並べませんが、僕たち男にとっては後味のすこぶる悪い、質(たち)の悪いと評しても過言ではない映画です。口惜しいかな的を得たものとなっている。

 話を端折りに端折って書けば、大学時代にルームメイトになったジャック・ニコルソンとアート・ガーファンクルが二十年の歳月を経て気が付いたことは何か、ということがねちっこく描かれているのですが、こちらは二十年、「同棲時代」は数年の歳月です。上村作品に時おり感じ取れる“老成”は、中年の男女の長い歳月を若い肉体に無理矢理に移植しているせいかもしれませんね。

 上村一夫さんの「同棲時代」の核心に揺るぎなく在る作品にして、また、「同棲時代」以降の上村作品に木霊(こだま)するものとして、上村ファンを自認する人は一度は観ておいて悪くないように思いますね。ああ、なるほど、と頷かされる場面が幾つか見つかりますよ。


 それにしてミモフタモナイ……。いささか気が滅入りましたので、散歩に出かけようかと思います。陽が傾いて街路はだいだい色に染まって静かです。夕焼けと春の花の取り合わせを愉しみながら、ぐるりと小さなこの街を歩いてみようかと思います。





(*1):http://www.kamimurakazuo.com/news/post_30.html
(*2): Carnal Knowledge 1971 ひゃあ、なんて原題! 監督マイク・ニコルズ

2010年4月24日土曜日

塔の在るべき姿~日常のこと~



 最近休日の使い方のコツをようやく摑みました。しっかり朝から出かけ、昼過ぎに帰ってから一風呂浴びて、それから何かまたムズムズ動き出すやり方です。それも午前中は出来るだけ車に頼らず歩き回ると好いみたい。


 Julia Childという実在の料理研究家を描いた映画を10時前の回で観た後、近くの美術館に移動。旧ソビエトで興った芸術運動を紹介する展示と、常設展示をじっくり愉しんできたところです。

 特別展示については政府主導のプロパガンダがやはり淋しく感じ、なかには目を瞠るものも在りはしましたが全体としてはこじんまりとした印象でした。でも、東京では「未建設展」で上映され来館者の度肝を抜いたらしいCG作品が、こちらでも会場の一角で流されていて、これは素晴らしかったですね。

 ウラジーミル・タトリン Владимир Евграфович Татлин (Vladimir Tathlin)という建築家の構想である「第三インターナショナル記念塔」を 長倉威彦さんという人が再現したもので、現在世間を騒がすスカイタワーの特徴のない趣きと比較したりしてあれこれ考えさせられました。

 YOUTUBEでもその一部が観れますね。DVDになったら買ってもいいなあ。


 いちばん惚れ惚れとさせられたのはドガ(常設展示)の踊り子でした。チュチュの下の太腿に影が落とされて幾らか白い肌が翳るのだけれど、そこが面でなく線でもって明度がそっと落とされている──う~ん、何て言ったらいいのか言葉が見つからないけれど、その発想が素晴らしい。 驚きました。
 

 街中に咲き誇る花々を目で追いながら、靴屋さんにより春用を購入して戻ったところです。さあ、熱いお風呂に入って休日の後半を愉しもう。なんてささやかな、けれど嬉しい贅沢!


2010年4月22日木曜日

上村一夫「同棲時代」(1972)その2~上村一夫作品における味噌汁(13)~



今日子「ねぇ 次郎 熱い味噌汁が飲みたくない?」

次郎 「熱い味噌汁か… そうだな 身体が暖まるだろうな」

今日子「ねぇ うちへ来ない?ごちそうするわよ」

次郎 「きみんちへ?どうして?そんなことできるわけないだろう」

今日子「いいえ かまわないわ 行きましょうよ」

次郎 「しかし………」

今日子「父と母のことなら心配しないで あたしの覚悟はできているの」

次郎 「熱いみそ汁…… 」


 上村一夫(かみむらかずお)さんの「同棲時代」(*1)に話を戻します。


“同棲”は暮らし振りの一形態です。その顛末を描く上で、“食事”の場面はどうしたって避けようがありません。実際、朝食、夕食、外食とずいぶん沢山の料理が劇中には挿入されておりました。当然のことながら、そのいちいちに作者は“木霊(こだま)するもの”を組み込んではいない。そんなことをしたらお話はたちまち渋滞を来たして、やがてボロボロに壊れてしまいます。僕たちの日常そのままに、特別の感慨のないものとして水か空気のように過ぎていく、それが「同棲時代」の“食事の光景”でした。


 でも、今日子と次郎、ふたりの岐路を描く重大な局面においてはどうでしょう。“食(べもの)”はこれまでの無表情を一転し、じんわりと発光を開始するのです。俄然色彩を増していき、登場人物の秘めた内面を代弁していく。そんな重要な役割を果たして見えるのです。



 例えば茫洋として連なるふたりの日々に対し、天空を裂いて降る雹(ひょう)のごとく突如もたらされて暗い影を落としたのは、ひと山の“花梨(かりん)”でした。



郷里の母親から送られてきたものですが、ふるさとの匂いを帯びたあれこれ、例えば菓子、米、缶詰、ちょっとした衣類といった雑多な詰め合わせではなくって、単体の“食(べもの)”である花梨がごそり山となって届けられる辺りが、いかにも上村さんらしい表現です。今日子の神経はこれを境に変調し、狂気との壮絶な闘いに入っていきます。(*2) 





 また、行き詰まったふたりが食事どきに激しく言い争い、せっかくのぶ厚いステーキ肉をゴミ箱にぼとぼと捨ててしまうくだり(*3)や、精神を病んで長く入院をしている今日子から現世への帰還を宣言する手紙を送られた次郎が、読み終えた刹那に思い立って台所に向かうや黙々とソーセージと野菜の炒めものを作って食していく場面などは、静謐でありながらも輻湊(ふくそう)する情念に満ち溢れていて、読んでたじたじとなったものでした。



深く記憶に刻まれて留まり続ける、ほんとうに素晴らしい“食べもの”の情景です。(*4)





 このように観念と“食”との阿吽(あうん)の呼吸は、「同棲時代」においても健在なのです。


 上村さんの“食(べもの)”は胃の腑の空隙を単に埋めるものではなく、むしろ胃やら肺やら心臓といった身体の内側がべろりと裏返されて露出し、そこに巣食う情念が大気に剥き出しにされた挙句に変幻したもの、と言える気がします。“食(べもの)”という形貌(なりかたち)をしていても、ひとの魂そのものなのでしょう。「同棲時代」には空気のように取り巻いて無味乾燥の体で列を為す“日常の食事”に挟まって、そんな思慮に溢れた“食(べもの)”が素知らぬ顔で割り込んでは読者のこころをワッと揺さぶらんと待ち構えている。


 さて、物語の終焉において今日子と次郎とで交わされた会話に“味噌汁”うんぬんがあり、年数をいくら経てもうまく嚥下(えんげ)することが僕は出来ず、悶々として今に至った事は以前この場に書いた通りです。違和感をつよく抱き、ずっと気になっていたのは“きみ”という表現でした。「きみが作ってくれる味噌汁のことを思うと」という蛇のずるずる這い回るような言い振りには作者の執着がべったり張り付いて聞こえます。なぜ単に「朝ごはん」を今日子は誘わないのか。どうして「きみが作ってくれる」という不自然な言い回しになるのか、だいたいナゼ急に「味噌汁」がここで口から飛び出したのか。




次郎 「きみが作ってくれる味噌汁のことを思うと ぼくはたまらない……

    それを飲んだら ぼくはどんなにか身体も心も暖まるだろう……

    だけど こいつをよく覚えとこう この感じを……」

今日子「……」

次郎 「この寒さをよく覚えとこう…… 今 この寒さとひもじさに

    耐えられたら このさき何にだって耐えられるかもしれない……

    そんな気がするんだ」

今日子「次郎……」



 先に引いた野菜炒めの手際の良さが語るように、次郎という男は料理をとても得意としています。ある時など酒場で酔って意気投合したシルバーマンという名の外人をアパートに連れ帰り、翌朝、今日子が仕事に出てしまってから幾皿かの料理を自分一人でしつらえ、手際よく供して大いに驚かれてもいます。その中には味噌汁も含まれておりました。


つまり次郎は“僕の味噌汁”を朝飯前に作る男なのです。(*5)“きみの味噌汁”という言い回しは“僕の味噌汁”があればこそ成り立つ表現だった、というのが分かります。


 ここで上村さんの“味噌汁”が、観念の飛翔を存分に許す空域と日常という内界との間に穿(うが)たれた“境界標”として立ち現れることを思い返すなら、たちまちにして物語の構図が見えてくる。「同棲時代」の幕を降ろすにあたって、今日子と次郎の人生の有りようをすっかり俯瞰して見せようと作者はしている、そのための不自然な台詞であったに違いありません。


 きみのものと僕のもの、ふたつの味噌汁椀が男女間にふわり浮かんで見える劇の状況は、二本の明確な境界線を露わにします。ふたつの精神が一切重なることなく対峙したままの姿となって提示されるのです。完全に孤絶し切って並び置かれたふたつの魂の、凝っと向き合い見つめ合う様子は、自律してしまった者同士だけが発する厳しくもすがすがしい大気にすっかり洗われて見える。読者のあらゆる視線をもはや受け止めてはくれない。干渉を、そして感傷をも拒絶するのです。それ程にも決定的、最終的な構図が呈示されている。







 もちろん“味噌汁”以外の言葉や風景、朝焼け、朝露、金木犀の薫り、砂丘、陽炎(かげろう)、足跡──を上村さんは次々と紙面に投じて、吐息に満ちた今日子と次郎の暮らしの終幕とこれからの門出を演出しています。“味噌汁”はそんな風景のほんの一部分に過ぎませんが、その“一部分”を他のどんな作家が気付き登用出来たものか。僕の知る限りにおいてはここまで演出が及ぶ作家はそう見当たらない。(*6)天才という言葉を強く想います。



 愛憎で綾織られた短いような長いようなふたりの旅路を眩しく振り返りながら、描かれた男とおんなはずいぶんと幸せであったな、生命を吹き込まれて存分に生きたよな、と深々と頷いていく、そんな厳かな気持ちに今、ゆったりと包まれているところです。




(*1): 「同棲時代」 上村一夫 1972-1973 最上段および中段に引いた頁は VOL.69「終章」より
(*2): VOL.30「花梨怨歌」
(*3): VOL.60「土曜の夜から土曜の夜まで」
(*4): VOL.48「手紙」  この(*3)と(*4)のコマ割りが似ていますが、これは偶然ではないと僕は想っています。“食事”を作って“生活”を目指そうとする次郎に対して、“食を遠ざけること”で情念の持続を図る今日子のすれ違いが時をまたいで対照的に描かれています。上村さんの作為がいかに持続する性質であるかを、いかに計算に基づいたものかをこの二つのコマが教えてくれます。
(*5): VOL.15「小さな指輪」
(*6):ここで言う演出とは、世に溢れる事象、天候、水、雨、階段、花の色、花言葉、靴の色、傘の色、寝具、書棚に並ぶ本の背表紙、そんなすべてを味方にして人物の造型に傾注する才能のことです。映画監督では石井隆さんもそうです。アンドレイ・タルコフスキーさんにも近しいものを感じますね。

2010年4月19日月曜日

斜め~日常のこと~


 春のやわらかい陽射しのなか、のんびりのびのび散歩です。色とりどりの花を庭先や街路の樹々が天空高くかかげていて、えらく張り切っているみたいで微笑ましい。古い建物を観に行ったのですが、普段は車ばかり使っているから視野がいくらか高く、また広々して新鮮な気分です。風がいくらか冷たいけれど、空は蒼く澄んでとても気持ちがいいのです。

 明治中期のこの建築物は元々は学校でした。今は内部が博物館のようになっています。例によって見学者は僕ひとり、悠々と占領できて嬉しい限りです。以前からずっと気になっていたのですが、実際に足を運ぶのがこんなに齢を経てなのだから不思議と言えば不思議です。


 本や映画との邂逅も含めて「物事」というものには早いも遅いもなくって、何かしらの厳然たる差配が為されている、そんな感じを時折抱きます。出逢うべくして出逢うのだし、別れるべくして別れるのだろう、そういう風に努めて想おうともしています。

 ですから、こうしてこの建物にずいぶんと遅れて足を運んだことには、きっと何かしらの意味がある。ハハ、どんな意味と言われてもね、なにも答えられないのだけれど。

 廊下が南から北に建物の中を真一文字に貫いていて、その床板が通路と平行でもなく垂直でもなく、さっさっさっと斜めに傾いて敷かれているのが随分とお洒落です。





 頭上を見上げれば、天井の板も床と同じ角度で斜め張りになっている。ここぞという派手な装飾は全然ないのですが、隠れた場所に気合いが入っている。伸びやかで熱心な教育の現場をうかがわせて、当時の熱気が蘇えるようです。

 かたわらに並んで建っている講堂の方に足を向けます。

 軒下の飾りなどに荒削りな意匠が施され、なかなかに勇壮で味わい深いものがあります。風なのか波なのか、それとも雲のつもりなのか。豪胆ですね。けれど、いくらか傷みも目立つのが気になります。いずれ解体して駐車場にする腹積もりかもしれませんが、それまで放置というのは可哀想な感じもしますね。




 維持管理の予算が県から下りないのかもしれません。言うは易し行なうは難し、ですからね。苦労もきっと多いのでしょう。偉そうにごめんなさい。






てくてく帰宅してから熱い風呂にざぶざぶ浸かり、すっかり身を清めてから映画のレイトショーに。

 追いまくられる雑務や懸案、また、胸中にふつふつと沸いてくるあれこれの想いに抵抗してる部分がちょっとあります。おまえ無理してんじゃないの、と、もう一人の自分がケラケラ笑うのだけれど、そうやって今日を明日に繋げるしかない。

気分転換はきっと大事。これからも時どきは歩いてみよう、そう思っているところです(笑)




2010年4月5日月曜日

佳人たち~日常のこと~



 回覧板に挟まっていたわら半紙の、市民講座の案内に目が釘付けになりました。指定文化財になっている“板絵”の解説を大学の先生がするらしいのですが、片隅に入れ込んである粗い調子の画像を一瞥しただけでその絵が尋常でないことが分かりました。無数のおんなたちが長い山道を押し合いへしあいしながら登っていく。幸せなのか苦しいのかパッと見分からないのだけど、凝縮された想いが伝わって来る凄絶な巡礼図です。

 
 この町は山々の懐(ふところ)に抱かれるようにして在ります。そのような地形からでしょう、亡くなったひとの魂は手近の低い山にまず登り、長い年数を経た後に霊山と呼ばれる高い峰の頂きにと飛翔し至って昇天を遂げるという“葉山信仰”が盛んでした。山の中腹にお社(やしろ)が設けられており、そこに詣でることがごくごく当たり前という気持ちにさせる、そんな風土です。その異様な板絵も霊山の麓の神社に掲げられてあるそうで、古き時代に生きた女性たちの宗教心の篤(あつ)さが読み取れます。


 もう居ても立ってもいられなくなってしまいました。“情念”とか“観念”とかに僕はすこぶる弱く出来ている。市民講座は参加するにしても、その前に現物を見ておきたい気持ちが止まらない。この日曜に車で峠道をひた走って寺社を目指しました。


 さて、着いて仰天したのは雪の多さ。狭く急な石段を登ったところの境内一面が白く埋まっています。冬の間に屋根から滑り落ちた雪がどたどたと堆積したものか、特に正門あたりは4メートルほども高さがあって凄い迫力になっている。建物は黒々として年季のはいった板で四方を固く覆われており、しんとして物音が全くありません。
 
 あら、シマッタと思ったのですが、その雪のばかばかしい程の量が奇妙で面白く、また、その山を飽くことなく見つめては微笑んでいる地蔵さまのお顔がなかなか麗しくって、そんなこんなでヨシと思ったわけでした。


 道に迷ったり、予定外のことが起きた時に、けたたましく吠え立てるひとがいますね。不安を訴え、徒労を嘆き、遂には同行者をはげしく非難する類(たぐ)いのひとですが、僕はそういうのはまったく無いんです。“クライシス”と見るか、“トラブル”と見るか、はたまた“ハプニング”と見るかで事態は違った様相を呈してくる。“チャンス”と捉える程には人間が出来ていないけど、物の見方は立ち位置次第で変わっていくわけで。ですから、こういう失敗の休日もアリなんですね。(なにを偉そうに!) (*1)


 近くの沢に寄り道して、雪を踏みしめ踏みしめ降りてみれば、足元の奥深くから雪解けの水が勢いをつけて流れていく音がコロコロちゃぶちゃぷと鳴り響いて面白く、残雪と枯木と水面(みなも)の組み合わせが旧ソ連の映画の一場景みたいで鮮やかで且つ淋しくって、なんとも嬉しい。枯葉をかき分け蕗の薹(ふきのとう)も可愛い顔を覗かせ、季節の訪れを声盛んに唄っています。


 帰路には日帰り温泉に寄りました。入湯料300円也。お湯はじんわりと藁を焦がしたような、重たい香りがして心地いい。“森のなかの土”を偲ばせる匂いと柔らかさです。お客さんも多くはなく、手足を存分に伸ばしながら、なんか贅沢三昧だと思いつつ温まるうちにむくむくと探究心がまた湧いてきて、今度は以前から気になっていた“マリア観音”を見てやろうと思い立ちました。



 どんどん車を走らせて辿り着いたお寺の、本堂から離れた小さな礼拝所に置かれていた高さ40センチ程の木の像は、細工の粗い光背をもやもやと背負い片膝をどんと垂直に立てて腰を下ろしておられます。

 そんな形姿(なりかたち)はアンバランスで醜悪の一歩手前ながら、その面(おもて)に灯る慈愛に溢れた眼差しは、ああ、確かに聖母像そのままです。

 若桑みどりさんの「聖母像の到来」(青土社2008)を読むと、マリア信仰は僕たちが思うほど真摯なものでなかったらしい。聖母の姿を正しく継承しようとする気迫も立ち消えて曖昧になるケースも多かったようです。でも、このマリアは懸命に形を継いでいこうという念のようなものを感じさせます。


 図らずも、いやいや、それは嘘、自ら求めてのことであって、そういう傾向は僕には強く内在するのは認めるところだけれど、女性の面立ちにどうしようもなく惹かれて突っ走ってしまうことがあります。だからこそ、こうして佳人に無事に出逢えた休日だった訳で、今はなんとなく充実して穏やかに弛緩しているところなのです。う~ん、宗教画や仏像をそんな目的で求めるとは───なんて罪深き男。

 それにしても好い“微笑み”でした。ときどき思い返し、口角をきゅっと上げて、この春を元気に暮らしていきたい、そう思っているところです。




(*1):こういう事を言えるのは、そんな大変な目に遭っていない証拠でしょうね。僕はやはり恵まれていると思います。危機に立ち向かっている人はどう考えても危機。ちょっと高慢でしたね、気を悪くされたらごめんなさい。