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2011年5月24日火曜日

岡本かの子「老主(ろうしゅ)の一時期」(1938)~しまつた!~


 或る夜も宗右衛門は眼を覚した。広い十畳の間にひとり宗右衛門は

寝てゐたのである。宵に降つた雨の名残の木雫が、ぽたり/\と

屋根を打つてゐた。蒸し暑いので宗右衛門は夜具をかいのけ、

煙草を喫(す)はうとして起き上つた。床の上に座つて枕元の

煙管(きせる)をとりあげた。引き寄せて見ると生憎、煙草盆の

埋火(うずみび)が消えてゐたので、行燈(あんどん)の方へ

膝を向けた――自然、まつすぐに離れ家の方を彼は向いて

しまつたのである。――

(しまつた!)
 
彼は喉元で自分を叱つた。宗右衛門にとつては最早や此頃の二人の

娘は妄鬼であつた。離れ家はまさしく妄者の棲家であつた。またしても、

お小夜とお里と、それに時たまの例となつて、死んだお辻さへ異形の

なかの一例となつて宗右衛門の眼前をぐる/\とめぐつた。

 宗右衛門は煙草を置いて、夏のはじめ泰松寺の老師から伝授された

うろ覚えの懺悔文(さんげもん)をあわてゝ中音に唱へ始めた。

我昔所造諸悪業  皆由無始貪瞋痴

従身語意之所生  一切我今皆懺悔

 この口唱が一しきり済んで、娘達のまぼろしの一めぐりしたあとへ、

屋敷内のありとあらゆる倉々の俤(おもかげ)が彼の眼の前で躍り始めた。

黒塗りに光る醤油倉、腰板鎧(こしいたよろい)の味噌倉、そのほか

厳丈(がんじょう)な石作りの米倉、豆倉。

 彼は、今度は少し大きな声で経を誦(ず)し続けた。だが、

まばたき一つで、また娘達のまぼろしがかへつて来た。(*1)


 市の図書館に行き、カウンターで岡本かの子さんの全集を見せてもらえないか頼みます。しばらくして職員の女性が両手いっぱいに本を抱えて戻って来ました。頬がひくひく痙攣しています。受け取るとかなりの重量、わあ、ごめんなさいね、無理言って。閲覧用の机を借り、自学にいそしむ中学生、高校生に雑じって頁をめくります。


 小説に没入した時期は遅かったのだけど、岡本さんの文筆活動は十代の中頃には始まっていました。和歌や仏教に関する文章、随筆が膨大にあり、作家人生の全容を収めたものは別巻、補巻を合わせれば18冊にもなるのです。全集は長男、太郎さんの筆による華麗な装丁も相まってなかなかの風貌を具えています。


 岡本さんの創作世界はびっくりするほど多種多彩であり、個別化がどんどん進む僕たちともいまだに接点を作って共振を誘う訳ですが、こうして全集にでんと向き合ってしまうと当然ながら反りの合わないものも中には含まれ、話題の弾まぬ相手と食事を無理強いさせられている気分も湧きます。正直言ってしまえば、最初の熱い思いはやや冷却に向かうところがありました。引く手あまたの人気作家の難しいところかもしれませんね。全てが全てシンクロする間柄がそう無いように、作家と読者の関係だって大抵はちぐはぐなものです。


 それでもこころ揺さぶられるものが幾編かあり、味噌や醤油に関する記述も新たに見つかって地平が拡がりもしましたから悪くない休日でした。どのような指痕や切り傷が出来ようと、未知の分野に手を伸ばし触れるのは嬉しく心踊るものがあります。


 上に引いた「老主(ろうしゅ)の一時期」は岡本さんの深奥を形成する仏教観が全面に出た小編で、末尾の解題を読むと初出発表誌未詳とあります。昭和13年11月刊行の単行本に収められたので表題もこれに従い1938年としていますが、39年2月に亡くなった岡本さんからすればやはり最晩年の作品のひとつと呼べそうです。


 主人公の山城屋宗右衛門は江戸諸大名の御用商人であり、一代にして巨万の富をかち得ました。他人を陥れて成り上がった冷酷非情なタイプではなくって、偉(すぐ)れた彼の商魂によって店の繁栄は磨き出されたと紹介されています。不幸な生い立ちであるのを小僧として雇われたのが最初でしたが、主人夫婦が悪疫で相次いで亡くなってしまい、店は急速に傾いていく。逃げず残って懸命に支え続け、遺児であるひとり娘を妻に迎えて今に至りました。途中切々と訴えている台詞が物語るように「人の命をあやめたことも、人の品物をかすめた覚えも」なく、「覇気と頑強と、精力」で乗り切って来た男なのです。


 その山城屋を突然の不幸が襲うのでした。美しい娘ふたりが病に罹り、共に揃って足に重い障害を負ってしまうのです。ひどく悲観した妻は心労がたたって体調を崩し、家族を置いてあっけなく世を去ってしまいます。どうして自分のような実直な男の身にかくも残酷な仕打ちが次々に起こるのかと宗右衛門は烈しく懊悩し、商いにさっぱり身が入らなくなって寺の境内で時間をやり過ごすことが多くなってしまうのでした。その寺で男の身に起きたことと住職との対話を通じて、老境にある男が運命と向き合い、不幸を真っ向から受け止めていく様子が描かれます。絶望の淵から生還し現実を克服していく過程が淡々と、厳かな感動をこめて展開されるのでした。


“生きる”という事は“選択”の連続です。すべきこと、強いられることは多々あって、その一瞬一瞬に真顔で立ち向かわねばいけません。けれど同時に“受容”を強いられ、忍んでいかねばならない局面も実に多い。岡本さんはうねり狂う恋情の波に翻弄され、我が子を喪い、また世相的にも激しい時代を生きた人でありましたから、この選択と受容についての哲学を自分なりに構築したのでしょう。両者の均衡を崩したり、悪戯にどちらか一方に加担して傾けた場合の、魂の損耗し破壊されていくさまを体験的に学んでいる。


「老妓抄(ろうぎしょう)」と同格の、内実が具わったもの、物語を越えたものだと感じました。末尾で示される光景をどう捉えるかは読者それぞれでしょうが、僕にはずいぶんと頷かされるものがあったのでした。


 さて、引用した箇所は物語の中盤に置かれた“狂い”の描写です。男は亡き妻のこと、世間の目を避けて屋敷奥に隠栖(いんせい)してしまったふたりの娘のこと、仕事の諸事といった何もかもに真向かう気持ちが失せてしまい、意識から追い払おうと苦心しています。昼間は寺で世俗を離れて鬱々と過ごし、暗くなってから寝に帰ってくる半病人みたいな毎日なのですが、眠りは浅く、夜中に目覚めてつい外を見やった瞬間に、むすめたちが住まう奥の部屋が目に飛び込んでしまったのです。男の心に突如として大波が荒れ立ち、風が吹きすさびます。


 堰を切ったようにして立ち現われるイメージの数々。亡き妻と娘たちの面影、嘲笑や困惑を隠せないでいる使用人たちの顔立ちなんかに混じって醤油倉、味噌倉が登場しています。とても作為的で面白い描写です。


 山城屋宗右衛門の屋敷がどのようなものかを岡本さんは物語の冒頭、こんな具合に紹介しています。「広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人宛(ずつ)でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。」い、ろ、は、に、ほ、へ、と、という具合に延々と連なる倉が山城屋の特徴だったのです。中には諸国から買い寄せた衣食住に関わる物品が溢れんばかりに収められ、大名屋敷へ買われていくのを待っていたものでしょう。


 “屋敷内のありとあらゆる倉”が踊り始めるなかで、醤油と味噌と、穀物倉だけがぶわぶわと目の前に押し寄せてくるのでした。一瞬のイメージに多くの読者は圧倒されてしまい、何が起きたのかゆっくり反芻する余裕はないのだけれど、明らかに岡本さんは僕たちへの心理的作用を狙って数多い倉のなかから醤油や味噌のそれを選んで見えます。


 ここで醤油、味噌の担うものは“生きる”という事、かもしれません。“受容”ということかもしれません。“夢を封印するもの”の象徴だったかもしれません。“内側の安定”を示すものだったかもしれませんし、“境界杭”としての役割だったかもしれません。読者それぞれの内奥に巣食うものとガチャンと連結させて、壁に突き当たって身悶えしている男に血肉を与え、実体化させることに見事成功しています。


(*1):「老主の一時期」 岡本かの子 手元にあるのは 岡本かの子全集 第四巻 冬樹社 1974 読みにくいけど「青空文庫」でもアップされていますね

2011年5月18日水曜日

岡本かの子「家霊(かれい)」(1939)~ふらりふらり~



 くめ子は、われとしもなく帳場を立上った。妙なものに酔わされた気持で

ふらりふらり料理場に向った。料理人は引上げて誰もいなかった。

生洲(いけす)に落ちる水の滴りだけが聴える。(中略)

握った指の中で小魚はたまさか蠢(うご)めく。すると、その顫動(せんどう)が

電波のように心に伝わって刹那に不思議な意味が仄かに囁(ささや)かれる

――いのちの呼応。

 くめ子は柄鍋に出汁と味噌汁とを注いで、ささがし牛蒡を抓(つま)み入れる。

瓦斯(ガス)こんろで掻き立てた。くめ子は小魚が白い腹を浮かして熱く

出来上った汁を朱塗の大椀に盛った。山椒一つまみ蓋の把手(とって)に乗せて、

飯櫃(めしびつ)と一緒に窓から差し出した。

「御飯はいくらか冷たいかも知れないわよ」

 老人は見栄も外聞もない悦び方で、コールテンの足袋の裏を弾ね上げて受取り、

仕出しの岡持(おかもち)を借りて大事に中へ入れると、潜り戸を開けて盗人の

ように姿を消した。(*1)


怪しげな表紙画と題名が目に止まり、書店の通路で足が停まります。しばし迷った末に買うことにしました。小説や映画といったフィクションに気持ちが少し傾くようになって来たのは、“いつもの日常”が戻ってきている証拠でしょうか。いえいえ、事態はまるで収束していないのだし、耳に飛び入る情報は胃袋をぎゅうっと収縮させるに十分な怖い話ばかりです。


異常な状況や恐怖に慣れていくに従い、快感や弛緩に再び手が伸びていってしまう、弱くていい加減なところがすっかり露呈していくようで、書くのが少し恥しい。のだけれど、向かう視線や飛び交う妄念を自分なりにつぶさに解析すれば、幽霊だの死者だの、冥界や狂気、失踪や殺人といった日頃は覗く気になかなかならない分野になびいているところがあって、何かしらの余震が心の奥で起きているのは間違いない。“いつもの日常”とはどこか違っているようです。


「家霊」は“かれい”と呼ばせるのですが、題名通りの中身であるなら屋敷に潜む霊的なるものが題材になっている。怨霊や化け物、狂人がひょいと顔を覗かせ跋扈する楳図かずおさんや諸星大二郎さん、伊藤潤二さんなんかのおどろおどろした漫画を想像してしまいます。唖然として背筋が凍り付く瞬間を待ち望んだ訳でしたが、あにはからんや読み終えてみれば実にしっとりと湿り寄る、巧緻な人情噺になっていて驚かされた次第です。所収された他の短編のどれもこれもが愛らしく、レイモンド・カーヴァーさんの作品をふと思い出したりもしたのです。
 

岡本かの子さんがその短い人生(享年49)で小説に打ち込んだのは大変遅く、“晩節”と呼んでも可笑しくない時期です。秀作ばかりを選んだせいもあるでしょうが、作品に独特の厚みの感じるのはその為かもしれませんね。ボートを漕ぐといったような激しい動作をともなう場面ですら愁いある影と澄んだ風が付き添い、磨き抜かれた光沢のある風情に世界のすみずみまでが染まっているようであって、まるで良質の映画をゆったりと眺めている気分になる。


夫婦生活の破綻、貧窮、相次ぐ幼子の死といった凄絶な苦闘や、欧州遊学、歌作、仏教による魂の救済といったあえかな、しかし着実な仕合わせを、幾重にも我が身とこころに堆積させて遂に完成の域に至った女性ならではの、密度ある多層が秘められている。言葉の数々が結晶体となって、きらめき溢れて見える。いや、本当の話、頷かされるところが随分と多かったのです。


 代表作のひとつがこの「家霊(かれい)」であって、“いのち”と名付けられた店が舞台となっています。「どじょう、鯰(なまず)、鼈(すっぽん)、河豚(ふぐ)、夏はさらし鯨――この種の食品は身体の精分になるということから、昔この店の創始者が素晴らしい思い付きの積りで店名を「いのち」とつけた」(*2)のでしたが、七八ヶ月ほど前から「いのち」に帰って来て、病気の母親に代って帳場に坐りはじめた娘のくめ子はくすぶりの日々に囚われていました。「女学校へ通っているうちから、この洞窟のような家は嫌で嫌で仕方がなかった」(*3)ために、存在感のまるで希薄なままに、毎日を只ぼんやりとやり過ごしているのでした。


 気乗りしない理由は母親の面立ちにもあります。遊蕩癖のあった夫に去られた後、ひとりで店を支え、娘を育て、今は病床にある母親なのでしたが、娘の目から見るとその人生と風貌にまるで魅力を感じなかった。「自分は一人娘である以上、いずれは平凡な婿を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。それを忠実に勤めて来た母親の、家職のためにあの無性格にまで晒されてしまった便(たよ)りない様子、能の小面(こおもて)のように白さと鼠色の陰影だけの顔。やがて自分もそうなるのかと思うと」、くめ子は思わず身慄いしてしまうのでした。(*4)


 仕事や暮らしといったものに人生を捧げる意味を見失って茫然とする、そんな曇天(どんてん)の時間が誰の胸にもあります。これからの時間や生活がひどくみすぼらしく感じられ、もはや“余生”ではなかろうか、と、どうにもやるせなくなって独り嘆いてしまう、そんな苦しくつらい魔の刻(とき)。僕たちの抱えるそんな惑いや不安に対し、最終コーナーに佇んだ在りし日の岡本さんから明確なメッセージが送信されて来る。具体的な言葉の数々をここで開陳するのはルール違反なので止めておきますが、どれもこれもが胸によく響きました。


 上に引いた箇所はこころがくすんでいた娘が開眼する瞬間です。物乞いのように店に日参しては“どじょう汁”を無心する年老いた彫金職人がおり、その話を一対一で聞くうちに仕事の本質や人生の機微の何たるかを娘は悟っていくのでした。


 あくまでも小道具に登用されたのは“どじょう汁”なのですが、出汁(だし)のよく利いた「味噌汁」が絶対に欠かせぬ土台となっていて、優しい湯気と香気を立ち昇らせています。神々しいと言えばやや言い過ぎですが、幽幽とした調理場にほのかに暖かい、目には見えぬ何ものかのそっと息づいているのが感じ取れて、確かに「家霊」というのはいるよな、そんな事ってあるよな、と、題名がすとんとお腹に納まったのでした。


 入手したのは280円の文庫版です。お釣りが山ほど来る、そんな素敵な本でした。

(*1):「家霊」 岡本かの子 初出は「新潮」昭和14年1月号 手元にあるのはハルキ文庫 2011 引用は87‐88頁
(*2):同72頁 
(*3):同74頁
(*4):同75頁

2011年3月3日木曜日

林芙美子「清貧の書」(1931)~美味かった?~

 林芙美子(はやしふみこ)さんのことを書いた評伝(*1)を数年前に読んでいます。激しい気性や貪欲過ぎる姿勢がまわりの人たちを唖然とさせ、辟易させたことが読み取れ、もしも身近にいたら気苦労が絶えないことが容易に想像出来ました。なのに、彼女の小説を僕はいまだに読み進めている訳で、つくづく人間とは勝手な生き物と思います。


きっと、もう私の魂だけは、東方行きの飛行船にでも乗って、

日本へ帰って、楽しそうに襷(たすき)なんぞかけて、

厨(くりや)の片隅に炭火をおこしている私を想う。

白い葱(ねぎ)を刻み、味噌汁をこしらえ、庭の草の芽の伸び

具合を讃めながら、夫と朝食をとるのが私の日課であったのに、

──私は一ヶ月近くも夫へ手紙を書いたことがない。忘れているのだ。

忘れているというよりも、書けないでいるのだ。(*2)


 上の文章は林さんが1931年から翌年にかけて外遊した折の、憂げなパリ滞在時の日常を綴ったものから抜き出しました。虚勢や夢想にまみれた描写の数々を衝(つ)いて、いつしか文通も途絶えてしまった夫の声や姿が“味噌汁”と一緒に浮上しています。湿度の高い郷愁の念が下宿先の屋根裏部屋に立ち昇っていき、視界を徐々に曇らせていく。実に格好が悪いのですが、かえってそこが胸にストンと来るのです。絹の下着を両手に持って一気に引き裂いたような、「忘れているのだ。忘れているというよりも、書けないでいるのだ」という叫びなど、胸に迫って共振することしきりです。


 金銭面の困窮をまるで隠さない。内奥にゆらゆら灯る欲望や執着、止まらぬ猜疑や愛憎といったものを隠そうとしないばかりか、肉親、知己の無様この上ない言動を(打診も了解もなく)ありのままに書き残してしまう。政治や経済など判らないことへの言及を避け、半径2メートル以内の出来事や己の思考だけを黙々と連ねていく。


 ブログみたいですね。それもずいぶんと赤裸々に生活の諸相が書かれてあって、邪まな好奇心を満足させると共に読み終わってずいぶんと心強くも感じられる。暮らしていく上で避けられぬ闇の領域が否定されず肯定もされず、淡々と綴られていくのが面白い。光明が見えない今の世相にも波長が合っているようで、読んでいて勇気付けられる訳です。有り難いです。


 画家である夫の姿に味噌汁の湯気薫る光景をからめて提示してみせた林さんは、漫画家の上村一夫(かみむらかずお)さんに次いで味噌(汁)にこだわった人だと僕は勝手に林さんを思っていて、それは味噌汁を呑むのが単に好きということでは当然なくって、読み手の反応や動揺をよく見定めながら内に秘める言霊(ことだま)を利用している技巧派という意味なのですが、ここでの“夫”は味噌汁が寄り添い連結したことで、温かく、懐かしく、汗のような匂いとしょっぱさを身にまとった具体像を結んでいくように思えるのです。


 心情や官能を直接語るのでなく、周辺に転がる瑣末な事象でもってからめ手でリフトし、輪郭を固めて鮮やかに浮き彫りにしていく。そういう連続技はかけられると気持ちがいい、ヤラレタっと思います。


 林さんの手腕がより明確に顕われて見えるのは「清貧の書」(*3)と題された小編です。はげしく切ない流転の日々にもようよう落ち着きが見え始め、林さんは画家の夫と着実な歩みを踏み出しています。けれど貧窮のさまは思うように改善はならず、林さんは田舎に残した母と義父に対して心ならずも無心の手紙を送ったのでした。苦しい内実は母親とて変わりません。たどたどしい文字を連ねた返事がまもなく送られてきます。


さっち五円おくってくれとあったが、ばばさがしんで、

そうれん(*4)もだされんのを、しってであろう。

あんなひとじゃけに、おとうさんも、ほんのこて、

しんぼうしなはって、このごろは、めしのうえに、

しょうゆかけた、べんとうだけもって、かいへいだんに、

せきたんはこびにいっておんなはる、五円なおくれんけん、

二円ばいれとく、しんぼうしなはい。(中略)はは。

(中略)私は母の手紙の中の、義父が醤油(しょうゆ)をかけた

弁当を持って毎日海兵団へ働きに行っていると云う事が、

一番胸にこたえた。――もう東京に来て四年にもなる。

さして遠い過去ではない。(*3)


 母よりも随分と歳若い義父に対して何か暗い確執があるという訳ではないようですが、ここではおかずも漬物の一切れも添えられぬままの弁当めしに“醤油”がじょろり掛けられていく映像が濃厚に付されて、独特の凄みを世界にもたらしています。重苦しい、黒いものが田舎の生活と義父の面立ちに固着して当の本人の林さんもそうですが、読んでいる僕たちの胸すらも厚い雲ですっかり覆っていく感じがする。


 この醤油、義父、実家、(経済的、心理的)負担といった緊縛は強迫観念的に再三林さんのこころに立ち現れて脅かしていくのでした。

風呂敷の中から地獄壷を出して、与一の耳のへんで振って見せた事が

大きいそぶりであっただけに私は閉口してしまった。なぜならば、遠い旅の空で

醤油飯しか食っていない、義父や母の事を考えると、私は古ハガキで、

地獄壷の中をほじくり、銀貨という銀貨は、母への手紙の中へ札に替えて

送ってやっていたのである。(*3)



気合術診療所から貰って来たトマトの苗が、やっと三ツばかり

黄色い花を咲かせていた。あの花が落ちて、赤い実が熟する頃は

帰って来るのだろう。――私一人で何もしない生活の不安さや、

醤油飯の弁当を持って海兵団へ仕事に行っていた義父が、トロッコで

流されたという故郷からの手紙を見て、妙に暗く私はとらわれて行った。(*3)


 醤油の持つ多層的でえも言われぬ香りが米飯の上で揮発し、四方八方に飛び出していく。五感を刺激する味と匂いの競演する様子がもっとも明瞭になる嬉しい瞬間が“しょうゆかけ”じゃないかと思う僕には、どうしてここまで重い方向に受け止めているのか不思議でならないのですが、林さんのお母さんたちのお金に困ってそれしか食べられない状況は本当であったでしょうから、それじゃ、こう書かれてもいたし方ないですね。いずれにしてもこの「清貧の書」に象徴として醤油飯が使われているのは隠しようがない。

 一方でこんな記述も見つかります。


もう今朝は上野へ行く電車賃もないので、与一は栗色の

自分の靴をさげて例の朴のところへ売りに行った。

「何ほどって?」

「六拾銭で買ってくれたよ」

「そう、朴君はあの靴に四ツも穴が明いているのを知っていたんでしょうか?」

「どうせ屋敷めぐりで、穴埋めさ、味噌汁吸って行けってたから呑んで来た」

「美味(うま)かった?」

「ああとても美味かったよ……弐拾銭置いとくから、何か食べるといい」

私は今朝から弐拾銭を握ったまま呆んやり庭に立っていたのだ。

松の梢では、初めて蝉がしんしんと鳴き出したし、

何もかもが眼に痛いような緑だ。

唾を呑み込もうとすると、舌の上が妙に熱っぽく荒れている。

何か食べたい。(*3)


 生活費を捻出するために夫が靴を売りにいき、先で味噌汁を馳走になったことが語られています。特段のものでもないのに、話す夫も聞く妻もとても嬉々としているようにここでは映る。先の醤油飯と対照的に、味噌汁、夫、我が家、前進という連結を認めることが出来ます。ふたつの力(醤油と味噌汁を目印とする)がせめぎ合って、おんなの思考を両端から引っ張り合っている感じです。


 父親に連なり、覚醒を誘い、重い現実に重なる醤油という典型的な方程式と、内側にあって日常の旗印となる、これも大切な役回りを担った味噌汁がしかと刻まれている。と、ともに、林さんのなかには“愛しい男”と味噌汁とが同一化していく稀有なかたちが読み取れるようで、これはなんとも興味深い日本文学上の切り口ではなかろうかと一人でにんまりしているところなのです。一点集中で物事を見るって、ほんとうに面白いですね。


 さて、いよいよ年度末。突飛な動きがいろいろと起きて慌ただしくなります。何がなにやら分からぬままに毎日が過ぎていき、布団のなかでは乾いた溜息も湧いてくる。

 内食外食を問わず、時にはそっと味噌汁椀をかかげ、真空となっていられる時間を捻出しながら、どうか元気に健康にお過ごしください。


 口角を上げて、微笑んで春を迎えましょう。


(*1):「女流 林芙美子と有吉佐和子」 関川夏央 集英社 2006 
(*2):「屋根裏の椅子」 林芙美子 1933 改造社版に所収 手元にあるのは講談社文芸文庫 2009 

(*3): 「清貧の書」 林芙美子 初出「改造」1931  講談社文芸文庫所収
(*4):そうれん【葬斂】なきがらを棺に納め、ほうむること。また、その儀式。