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2011年12月24日土曜日

リシャール・コラス「息子の帰還 Le Retour」(2007)~灰色の綿のような~


 父の前に置かれた味噌汁の表面は、灰色の綿のようなもので

覆われていた。母が手に持つ漬け物には黴(かび)がまだらに

生えていた。男は身を凍らせたまま、後ろ手に、一気に扉を閉めた、

思ったよりも勢いよく。扉は鈍い音を立てて縁枠にぶつかり、

空気の渦が生じた。(*1)
 

 そそくさと衣服をまとい、手短に髭(ひげ)をあたって家を出る。五時過ぎたばかりでまだまだ空は暗いのだけど、前夜から降り積もった雪は踝(くるぶし)の高さを優に越えており、その時間であれば本来なら墨を流し込んだような車道が白々と発光している。いよいよ来やがったな、つらい季節だなと嘆息すると同時に、妙に浮き立つものが湧いてくる。踏みしめれば靴裏に真綿の固まりをつぶすような、ぐぐぐ、と跳ね返ってくる感触がある。普段は無自覚の土踏まずがじんわり押し返されるのが新鮮で、きゅうきゅと鳴いて応える音も楽しい。


 行き交う車も人の姿もなく、また、音もない。わずかに光の粒子を含んだ暁闇(ぎょうあん)をだいだい色の“みそかの月”が細く円弧に切り裂いている。新雪に怯えたか、それとも興奮したか、若い一匹の黒猫が真白い道を跳ねながら横切っていく。


 綿毛のような雪片の大量に舞い落ちてきて、この汚された大地を染めていく。まるで夢にまぎれたか昏睡に陥ったかのような非現実じみた風景で、しばし呆然となって眺めていた。考えてみればこの雪だって何を含むか知れたものじゃないのだけれど、それでもこうして廻り来た日本の冬はやはり凄絶で美しいものとしみじみ思う。


 悪くだけ考えることも出来ず、良いことだけを思うこともならず、行きつ戻りつの思案が沈鬱で仕方ない。ぱっと何かに没入して、数時間でも数分でもいいから全てを忘れて身軽になりたい。思う存分、何泊も夜を重ねながら見知らぬ街を歩けたらさぞ嬉しかろ楽しかろ、鬱陶しい気分もすっかり失せて、生命(いのち)の不思議とよろこびがきっと実感されるように想う。許されるのであれば、どこかにそろそろ出かけてみたい、旅したいと願う気持ちがこのところ募る一方だ。


 知らない土地を訪れるだけでなく、見知った場処にいつもとは違った時刻に立つことだって一種の旅なのかもしれない。実際、こんな風景だって目に飛び込むのだし、なんちゃって、うそうそ、そりゃ負け惜しみ。本当の旅は違う。


 背表紙が目に飛び込んだ瞬間に捕縛されてしまったのは、だから仕方のないことだ。リシャール・コラスRichard Collasseさんの新刊書は「旅人は死なない」といい、そのタイトルの示唆する通り、旅愁や郷愁が全編をくまなく覆っている。


 「SAYA 沙耶」(*2)が店頭に並んでからまだそんなに経っていない。随分とまたハイペースではないか、とまず首をかしげてしまったのが本当のところ。騒然とするこんな世相の只中でもあり、コラスさんは大きな組織の経営者でもあるから舵取りに気を揉むことだらけに違いない。指示待ちの案件も山積しているはず。よく筆が進むものだ、と感心しながら手に取り眺めました。


 巻末の初出一覧を見て納得したのは、この本はかつて雑誌に掲載された短編を一冊にまとめたものであって、一部書き下ろしもあるにはあるけれど、基本的に震災前の作品ばかりなのです。いちばん古いもので2007年の春といいますから、五年近くも前に執筆されているものを含んでいる。


 正直にいえば僕はあの事故が国の諸相と人のこころを一変させるのではないかと不安視しているし、その窯変なり衝撃は実は“これから”本格的に押し寄せるものと思ってもいます。動揺を抑え、勇気を奮い起こさせ、闘志を育む上で小説なり物語の真価が試され、また、頼りにされていくものと信じるのだけど、そんな拝むような、祈るような気持ちをずっと胸中に抱えているためなのでしょう、“三月以降に書かれたもの”をどうしても探しては貪っていく傾向がどんどん強まっている。


 その点この本に収まっているのは“昔の物語”ばかりになるから、僕の望むような回答はたぶん見出せないものと諦めながら頁を繰ったのでした。けれど、不思議と苛立ちは起こらず、むしろ“今の物語”として頷き、勇気づけられながらの時間となったのは有り難かったですね。


 最初に引いたのは所載されている一編「息子の帰還」の終幕近い描写です。寒村を飛び出した若者が町の洋装店に雇われ、そこで必死に働くうちに客のひとりである娘に恋をします。残念ながらそれは一方的なものに終わり、傷心した男は久方ぶりに帰郷するのでした。変わらぬ村の風景と生家の様子にほっとする男でしたが、扉を開いて覗いた土間の奥には一見変わらぬ様子で座っている老いた両親の姿があり、よくよく見ればその手に持たれた味噌汁の椀には異様なものが浮いているのでした。元気そうに見えた両親ですが、実は──という話です。


 八雲か鏡花か、といった感じでコラスさんには珍しい幻想譚なのですが、誰しもが懐(ふところ)に抱く生れ故郷や親族に寄せる“両面感情”が透かし込まれており、とても面白く読みました。先人たちの知恵を集束して保存性を高めた味噌や漬け物が、息子の帰宅を待ちきれずに変質している。単純に食べものが腐るのでなく、“故郷”や“母親”とイメージを結線する味噌汁なんかがあえて選ばれ、ぶわぶわのものが増えてむごたらしく破壊されていくあたりが斬新というか容赦ないというか、精神的でとても興味深い描写になっています。


 この一篇を含む十九の物語が本には収まっているのだけど、いずれも庶民目線(と言うより作者目線)の物語で、悲劇に終わるものも含めて描かれているのは生きることに関わるハードルの出現と跳躍、または落下であって、読者それぞれが担っている日常と連結しやすい。


 コラスさんの贈り出す物語に磁性じみたものを以前からは僕は感じていて、それはどうしてなのか考えてみると、結局のところ編み出された物語が作者の内実に寄り添っていて、どんなに突飛な舞台設定を組もうと、どんなにディテールを尽くして異国を装っても、最終的に人間の内側までがそんな“絵空事”に陥っていないのが大きい。ときに視座は若い現代女性の内部に置かれたりもするけれど、台詞や行間ににじむものは総じて1953年生れの男のものであって、読み手である僕として投影しやすいものとなっている。


 半生を費やして蓄積なった慚悔(ざんかい)、諦観、自戒といったものが頁の片隅に金属製の栞(しおり)のような面持ちでそっと挿されてあって、それが時折閃光をともなって目に飛び込みます。人生の不遡及性、途轍もなく残酷な面なんかと、その逆にひとりひとりに託された唯一無二で比類なきもの、奇蹟のような多様性とが再確認させられる。そんな内省的で穏やかな時間になっていく。


 気を許し合える年長の友とこころ静かに会食している。悩みを打ち明け、過去の失敗談や苦労談が返されるなか、落ち着いた時間と酒杯が重なっていく、そんな風の暖かいものが読書中ずっと網膜の裏側に宿っているのです。


 今回の一冊は震災のなかった頃の物語ではあるから、そこに今後の指針は示されてはしないけれど、読了してみれば、作者と僕たちそれぞれの背中に遥かなる航跡が白く尾を引き水平線の彼方まで続いているのが視認される。その長さと確かさが何よりも心強い。こんな自分でもまだまだ捨てたものじゃない、これからも航海は続くのだという気持ちが固まってくる。(頷くにせよ、首を振るにせよ)認めていかざるを得ない実人生を想い、腹がどしんと据わるところがあるのです。


 (懸念や恐怖に打ち克つ術を“離日”という形で鮮烈に示されるということがなければ)コラスさんの次の執筆はいよいよ鎮魂なり覚悟なり、戦いなりを主軸に据えたものとなるでしょう。日本に残り、そこで暮らして舵取りをするとはそういう烈しいものにどうしてもなっていく。僕は単なる好奇心や時間つぶしではなく、今からもう心待ちにしています。彼の背景にある文化や彼自身の魂を介して、どのような言葉がこの国と読者に寄せられるのか、じっくりと耳を傾け考えたいと願っています。



 聖夜ですね。特別な一年でもありましたから、出歩かずに家のなかで家族や恋人と過ごすひとが多いと聞きました。いつもと違って蝋燭の炎も原色の飾り付けも目に沁みて、格別な夜になるでしょうね。

 良き夜を、こころ休まる夜を──

(*1):「息子の帰還 Le Retour」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 「旅人は死なない LES VOYAGEURS NE MEURENT JAMAIS」2011集英社 所載 66頁 初出は「SPURLUXE」2007年冬号 
(*2):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社

2011年8月15日月曜日

瀬戸内晴美「諧調は偽りなり」(1981)~ここに来ていてよかったな~


 無想庵は縁側で土びんをかけた七輪をばたばたしぶ団扇で扇(あお)

いでいるところだった。

「おう、どうした」

 黙って縁側に立つ辻を見かえって、無想庵はいつもの声で訊いた。
 
「うん、ちょっと来てみたくなった」

「まあ上り給え、ちょうど飯が出来る。朝昼兼用だ、食っていけよ」

「…………」

 辻は縁側から上った。土びんの中が煮立ってくると、無想庵は

そこへ味噌を入れた。

「あっ、茶じゃなかったのか」

「味噌汁さ、昆布でだしをとって、ついでにそいつが実ともなる。

どうだ、頭がいいだろう」

「おれにやらせりゃ、ぬたの一つもつくってみせるのに」

「空想の中ではどんな料理も出来るさ」

 無想庵は土びんを七輪から下ろすと、座敷へ持ち込んだ。残り火は

火鉢に移す。すっかり山の生活が身にそったような手つきだった。

「どうした、浮かない顔をしてるぞ」

 無想庵は箸をつけない辻にようやく気がついたようにいう。

「酒はないか」

「少しそこに残っている。一合もないね」(中略)

「神近が大杉を刺した。大杉は死ななかったそうだ」

「あっても不思議じゃないことだ」

 無想庵はそれで了解したというように、

「酒もいいが飯も喰い給え、うまいぞこの味噌汁」

という。辻は酒の入った湯のみを大切そうに薄い両の掌で

包んでいる。

「ここに来ていてよかったな」

 無想庵がいった。

「そういうことさ」

「大杉も悪運の強い奴だね。しかし女は怖いな、のぼせ上ると

何をするかしれやしない」

 無想庵は山に入ると何ヵ月でも新聞を見ようとしない。せっかく

山に入って、下界の猥雑なニュースなど一切聞きたくないというのだ。

 辻はズボンのポケットに入れてきた新聞の切り抜きを出さなくて

よかったと思った。

 無想庵は黙々と食事をつづけた。変な味噌汁もさも美味そうに

ふうふうふきながらすすっている。

 辻は一合に満たない酒で全身が暖まってきた。胸につかえていた

ものが、酒にとかされたように軽くなった。(*1)


 ふたたび瀬戸内晴美(せとうちはるみ 現在は瀬戸内寂聴(じゃくちょう))さんの「諧調は偽りなり」から引いたものです。


 比叡山の宿坊に蟄居(ちっきょ)していた辻潤(つじじゅん)さんのところに下界より手紙が届きます。愛しさゆえに教職まで振り捨てて一緒になり、子供まで生した伊藤野枝(いとうのえ)さんが大杉栄(おおすぎさかえ)さんのもとへと去り、深く傷ついていた辻さんだったのです。平静さと活力を取り戻すためには情報を遮断して翻訳にでもいそしんだ方が良いと考え、親友の武林無想庵(たけばやしむそうあん)さんを頼って緊急避難していたのだけど、自分を捨てたおんなと奪った男の近況を知らせる善意の手紙が追いかけてくる。開封して一瞥した辻さんのこころは瞬時に波立ちじっとしておれなくなって、少し離れて住まう親友を足早に訪ねたところです。


 大正時代の突出した思想家大杉栄さんはただ漫然と机上に思索を積み重ねるのでなく、自ら実践する道を模索しました。そのひとつが“フリーラブ”であり、改革と呼ぶよりは“実験”みたいな空気が漂って感じられるのだけど、その後しばらくして訪れた騒動が世に有名な“日蔭の茶屋”事件です。奔放な性格や直線的な物言いをする伊藤野枝さんに惹かれて関係を持った大杉さんを、経済的にも精神的にもずっと支えていた神近市子(かみちかいちこ)さんがいよいよ見過ごせなくなって、懐中に忍ばせていた短刀で刺して深手を負わせ逃走した事件でしたが、それを報じる新聞記事の切り抜きが手紙に挟まっていたのでした。


 おどけた風情で出現した“土びん味噌汁”は、蒼ざめ息を乱してやって来た男の硬く尖ったものをうまくかわし、またたく間に緊張をゆるりと解く役割を果たしています。情念とは遠く隔たった場処に住まっていることを認識させ、昂揚や興奮を沈静させていく。そんな味噌汁の特性をうまく捉えて、実に効果的に使われています。親友がお茶をすすりながら執筆に励んでいたらどうだったか、味噌汁でなく手酌で酒をあおっていたらどうだったか。違った風景や展開になっていたのじゃなかろうか。


 この「諧調は偽りなり」には、もうひとつ味噌汁へ言及した箇所が見止められます。上に引いたものと合わせ読めば、いかに作者の瀬戸内さんの内部で“味噌汁”を別格視しているかが分かります。それは単に瀬戸内さん個人の妄念ではなくって、僕たち日本人の誰でもが抱え込む巨大な、そして、延々と続いていく夢なんだと思いますね。

 
 宮嶋が山を降りる前、宿院で無想庵と三人、夜を徹して飲んだ

ことがあった。何のために生きるのかと、酔った頭で論じあって

いた。(中略) いつのまにか、愛だの、女だのという話に移っている。

辻も尺八を吹くのをやめて話に加わった。

「何だかだといったところで、心から愛し合う女がいないのは不幸

だ。それを酒でごまかし、更には金で買える女を抱いてごまかす。

ごまかしばかりの生活は絶望的になるのが当然だ」

「全くそうだ」

と辻が口をはさんだ。

「欲しいものは、全身全霊で愛してくれる女の愛だ。全部でなきゃ

意味がない」

「愕いたなあ」

 酔っ払った宮嶋が大声でいう。

「無想庵や辻潤がそんな甘いことを考えているとは、この叡山で

それを聞くとは……何がスチルネルだ、何が摩訶止観か、聞いて

あきれらあ」

「手めえなんか、相思相愛の麗子がいるからそんなでかい面を

しているんだよ」

「可愛い女房がいて、子煩悩で、どんなに外ではめを外して遊蕩

したところで、帰ればあたたかい味噌汁と女房のいる寝床の待っ

ている暮らしの中で、小説を書こうなんていう料簡が、そもそも

不埒(ふらち)なのだ」(*2)


 なんか変な論法ですねえ。捨てられたり、壊したりで面目を失った男ふたりが家庭を維持し続ける宮島資夫(みやじますけお)さんをやっかんで吠えている。酔った男の会話なんて所詮こんなものですが、愛するおんなと味噌汁が“あたたかい”という形容でしっとり粘着して一体となり、男においでおいでと手招きしているのが見えてしまう。なんとも言えぬ気分です。どう抗っても無駄な話と分かってもいる、僕たち男には所詮負け戦ですからね。そして男たちと対峙するおんなの皆さんも含めて、誰もが味噌汁の重力圏内で遊泳するしかないのでしょう。


 無理は禁物、どうぞ、ゆったりとこころ弾む遊泳を。浮き輪を持ったり、共に泳ぐ相手を励みとして長距離遊泳を続けていきましょう。今年も折り返し地点を過ぎましたね。後半戦を頑張りましょう。


(*1):「諧調は偽りなり」 瀬戸内寂聴 初出「文藝春秋」1981年1月号~1983年8月号 手元にあるのは「瀬戸内寂聴全集 第12巻」新潮社 2002 引用箇所はその514-516頁。
(*2): 同535-526頁 ちなみに辻潤さんの“辻”だけど、正しくは「辶」(しんにょう)の点が二つです。最上段の写真は前回でも紹介した映画「エロス+虐殺」の一場面。

2011年3月29日火曜日

中沢啓治「はだしのゲン」(1973)~たのむけえ~

ゲン「ほら おかあちゃん 口をあけえや ほらほら

   しっかり食ってはよう元気になってくれよ……」

君江「ハアハア 元(げん)いま食べたくないけえ あとで…」

ゲン「だめじゃ 無理しても食べるんじゃ 食べないと体が弱る

   ばっかりじゃないか  わしが買い出しで手に入れてきた米じゃ

   たのむけえ食べてくれや ほらうまいミソもあるぞ」

君江「ハアハア」

ゲン「……………………おかあちゃんのばかたれ~~ どうして

   食べんのじゃ バカバカバカ  ううう おかあちゃん

   たのむけえ食べてくれよ~~ うううう」(*1)



一進一退で、むしろ深刻さを増して見える福島第一原子力発電所。冷静沈着、大胆奔放、そんな相反する意思なり行動を取っ替え引っ替え求められる複雑な状況にあり、渦中で闘う人の苦労は並大抵のものではないでしょう。為すすべなく見守るしかない僕のような者は、呑気に構えて日常を楽しめばいいのでしょうけれど、気持ちは毎日泡立ち波打って、随分と苦しい時間になっています。


 錯綜する情報に思考は千千(ちぢ)乱れるばかりだけど、そんな中で放射能汚染に対し“味噌”が効くとの噂が飛び交っていると耳にしました。原子爆弾で自ら被爆しながら治療に全力を投じた長崎の臨床医師の貴重な手記や伝記に依っているのですが、このような状況下ですから誰しもが気になる内容です。 噂をどう捉えどう動くのが正しいのでしょう。信ずるべきかどうか僕自身のなかで激しくせめぎ合うものがあるのですが、幸いにして味噌についてあれこれ友人から教えてもらえる環境です。少し情報を整理して僕なりに思案を深めようと思います。


 最初に確認しておかなければいけないのは、仮に“何らかの力”が味噌にあったとしても深甚且つ急襲されての放射能被害の前ではそれは“微力”に過ぎない、ということですね。もしかしたら微力どころか“無力”かもしれない。


 上に引いたのは中沢啓治(なかざわけんじ)さんの「はだしのゲン」の一場面です。映画化されたものを学校の授業か何かで見せられて、凄惨極まる家族の永別の場面にひどくおののき、暗い館内で嗚咽(おえつ)してしまった記憶があります。あの時のスクリーンの映像が生々しく脳裏に蘇えるのを嫌って、じっくりと腰据えて原作を読んだことはこれまで一度もありませんでした。


 節電のために照明が落とされ、暖房も控えめになった寒々しい市立図書館に足を運び、職員の女性により倉庫の奥から出してもらった全十巻を一気に読み進めました。快適とはとても言い難く風邪をひいてしまいそうな中での読書であったのですが、あの時あの瞬間の光景を実際に瞳に焼き付けた中沢さんの筆には終生冷めることはないだろう熱く湿ったものが宿っているようで、時間や気温や周囲の人の行き来をすっかり忘れて僕は物語の中に引き込まれたのです。


 1945年の夏、広島は“飢餓状態”にあったと本の冒頭に書かれています。原子爆弾が炸裂して多くの人の髪と肌を焼き、衣服と手足を吹き飛ばし、肉と希望を引き裂いていくのを生々しく哀切を込めて中沢さんは描かれているのですが、主人公ゲンとその家族を物語の当初から一貫して圧迫し続けたものが“空腹”だったのです。原子爆弾の悲惨さと共に、戦争末期に僕たちの世界を覆っていく“飢え”の克服について多くの頁が割かれている。


 からくも生き残ったゲンと母親君江でありましたが、容赦なく彼らに原爆症と栄養失調のふたつが襲い掛かります。ゲンの髪の毛は全て抜け落ち、君江は嘔吐して起きる気力を失ってしまうのでした。ゲンは母親の快復を願って、田舎の村々を巡っての買出しに身を投じます。


 なんとか入手できた米でお粥(かゆ)を作り、スプーンにすくい、横臥した母親の口元に運んでやるゲンであったのですが、君江はひと口含んだだけで激しく嘔吐してしまいまるで受け付けません。紆余曲折があってこの母親は多発性の癌に内臓を蝕まれて死んでいくのです。このような広島や長崎の地で星の数ほども繰り広げられた必死の努力と、その末に星の数ほども林立していった墓標の「現実の在り様」を垣間見せられてしまうと、放射能汚染に味噌がたいへん有効であり、それは長崎の体験に基づくものだ、と口にする気力は到底起きてこないのです。


 足裏に肉刺(まめ)を作り、罵声や嘲弄に甘んじ涙しながらゲンが入手した野菜や米に混じって味噌がある。それを笑顔で「ほらうまいミソもあるぞ」と母親に差し出す漫画のひとコマをわざわざ証しとするまでもなく、飢餓状態に置かれた彼の地の人たちにとって味噌はご馳走であり、目に入ったならばこぞって口に放り込む大事な栄養源でありました。


 今ほど多彩になっていなかった当時の単調で緊迫した食糧事情から察すれば、広島や長崎で被爆した人たちのほとんどが味噌を常用するなり好んで口にしていた人たちであった訳であり、そんな彼ら膨大な数の人間、広島市で約14万人、長崎市では約14万9千人ものひとが苦闘の末に亡くなっている事実は重たいものを含んでいる。


 味噌にそれ程までも馴染んだ生命を、味噌に含まれる成分が幾らも助けられなかった現実を厳粛に受け止めた上で、僕たちは今流れる噂話にそっと耳を傾けなければいけない。 傾聴するべきは無責任な流言でなく、責任ある人のしっかりした言葉と、それから、今から六十五年前の夏の日、火傷を負った喉奥からやっとのことで絞り出した怨嗟の声であるべきでしょう。その上でどう捉え、どう動くかが問われている。





 突然にスピーカーから音楽が流れ出して退館をうながされました。いつもは夕方遅くまで開いている図書館ですが、特別の状況ですから四時に閉めたいのだそうです。必要な箇所を慌ててコピーして後にしましたが、少し気懸かりなのは読ませてもらった中沢さんの本が全て真新しい感じのままであり、奥付を見れば購入して一年足らずであるにもかかわらず既にして暗い倉庫の奥に仕舞われていることですね。


 七十年代初めに連載された作品ですから差別用語も確かに点在し、歴史的事実とは違った部分も混在しているのは読んでいてよく解ります。けれど頁が開かれた形跡がまるで無いままに事実上の閲覧制限をするなんて、そんな事で本当にいいのかなと心配になります。この度の大混乱ともこうした事はどこか根茎を繋いでいるように思えるのです。


(*1):「はだしのゲン」 中沢啓治 1973年に「週間ジャンプ」に連載開始。その後発表の場所を替えながら1985年まで断続的に連載。上記に引いたのは汐文社の単行本(2009年第51刷)全10巻中の第6巻中盤56-57頁より。

2011年1月12日水曜日

林芙美子「放浪記 第三部」(1947)~何処からか味噌汁の匂いが~



(七月×日)(中略)
 台所で一人で食事。来る日も来る日も、なまぬるい味噌汁と御飯。
ぬか漬の胡瓜を一本出してそっと食べる。ああ、たまにはジャムつきの
パンが食べたい。
 奥さんが、小さい声で叱っている声がする。恩を仇で返されたような
ものよと云う声がする。学者の家と云えどもいろいろな事あり。(中略)
女の泣き声が美しいのに心が波立つ。やぶれかぶれで、またぬか漬けの
茄子を出して食べる。
 酸っぱい汁が舌にあふれる。(*17)


 林芙美子(はやしふみこ)さんが1947(昭和22)年に「日本小説」という雑誌に連載を始めた「放浪記 第三部」は、やはり若かった折りに書き綴ってきた五年分の日記が土台になっています。二十年も前の文章を開陳しなければならないのは、いくら文筆家といえども大変な話です。林さんは当然のこととして加筆をされている。僕みたいな素人目にも随分と手が加えられているのが分かって、それが読んでいて興味惹かれるところでした。

 
 たとえば上に引いたところなどは直往邁進(ちょくおうまいしん)だった一部、二部の気ままな記述と比べてすこぶる技巧的で読みやすく、また楽しい感じに演出されています。林さんが女中として住み込んだ学者さんの家での情景です。台所で朝食を取っていると壁越しに館の主とその夫人との修羅場が演じられる。林さんは男女の悲鳴や囁きを漬け物をもそもそ食べる行為でサンドイッチして見せて、交互して読者の眼前に広がる光景がまるで映画のカットバックです。


さらに味覚や嗅覚を味方につけて、女の泣き声、涙、胃の腑から苦しく込み上げるものと「舌にあふれる酸っぱい汁」を上手く交じり合わせてもいる。哀しさを倍化することに成功しています。ここには明らかに文筆家としての成長が認められますし、既にこれは日記ではなく練り上げられた小説の域に突入してもいる。


 「みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いている」(*15)と言う林さんの言に嘘はないのですが、“本当”を伝える術の巧みさがぐっと増している。読む方もそれだけ共振していき、他人事として静観することがいよいよ難しい。ふと我が身を振り返って内省を迫られるような部分とも多く出会ってしまう。驚くほど震幅が増しているのです。

 
「いったい、どこに行ったら平和に飯が食えるのだ。飢えていては何を愛する気にもなれない」(*12)と叫ぶ林さんの、けれど誰かを一心に愛さずにはいられない魂が「飢餓感」とみるみる結合して、実に稀有な協和音を奏でていく。愛憎と食べものが連結して魂を謳い、而して“味噌汁”もまた見事な光を放っていくのでした。


以下は熱情のおもむくまま後先無しに同棲をはじめてみたものの、結局は袋小路に行き果てた林さんと若い詩人との間に立て続けに現われ、強い印象を刻んでいく味噌汁の記述を抜き書きしたものです。このような哀しい味噌汁は他であまり見られないような気がします。


(十二月×日)(中略)

 どうにも空腹にたえられないので、私はまた冷い着物に手を通して、

七輪に火を熾(おこ)す。湯をわかして、竹の皮についたひとなめの

味噌を湯にといて飲む。シナそばが食べたくて仕方ない。十銭の金も

ないと云う事は奈落の底につきおちたも同じことだ。

トントン葺きの屋根の上を、小石のようなものがぱらぱらと降っている。

ここは丘の上の一軒家。変化(へんげ)が出ようともかまわぬ。

鏡花もどきに池の鯉がさかんにはねている。味噌湯をすする私の頭には、

さだめし大きな耳でも生えていよう……。狂人になりそうだ。

どうにもならぬと思いながら、夜更けの道を、あのひとがあんぱんを

いっぱいかかえてかえりそうな気がして来る。かすかにあしおとが

するので、私ははだしで外へ出て見る。

雪かと思うほど、四囲は月の光りで明るい。関節が痛いほど寒い。

ばったりと戸口で二人で逢えばどんなに嬉しかろう……。(*13)


(十二月×日)(中略)

 さて、私もいよいよ昇天しなければならぬ。駅の近くの荒物屋へ行って、

米を一升買う。雨戸がまだ一枚しか開いていない。暗い土間にはいって行くと、

台所の方で賑やかな子供達のさわぐ声がして、味噌汁の香りが匂う。人々の

だんらんとはかくも温く愉しそうなものかと羨ましい気持ちなり。

男の為にバットを二箱買う。(*14)


(二月×日)

 朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。

寝床のなかで、いつまでもあれこれ考えている。野村さんは紅い唇をして

眠っている。肺病やみの唇だ。(中略)
 
もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。

何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。

誰かの句をふっと思い出した。(*16)



 恋情の終着点でふと何処からか匂ってくる味噌汁。化け物の吐息でしょうか、それとも粉微塵になった淡い団欒の夢の残り香でしょうか。人がひとを愛した果てに訪れる真空の朝に、幻の味噌汁が湯気をそっと放っています。 


 関節が痛いほど寒い、そんな凍える日々に僕たちも入りましたね。

 元気に温かくしてお過しください。


(*12):第三部 421頁
(*13):第三部 438頁
(*14):第三部 448頁
(*15):第三部 450頁
(*16):第三部 470頁
(*17):第三部 498頁

「放浪記 第三部」は上に書いた通り、その原型を1922(大正11)年まで遡ります。けれどここでは加筆され完成されて雑誌に連載なされた時期、1947年を以って一応の区分けとしました。
最上段の写真は映画「放浪記」監督 成瀬巳喜男 1962 

2010年12月29日水曜日

宮迫千鶴「味噌とジェーン・バーキン」(1995)~お前のことが思い出される~



「祖母の家の、地下の物置の奥に、味噌が入った甕(かめ)が

いくつもあった」という電話が、田舎に住む従姉妹から入ったのは、

祖母が亡くなって数年後のことだった。(中略)

祖母はそういう死の準備のあいまにも、いつものように味噌を

仕込んでいたのだろうか。死にゆくことと、明日の食べ物とを

同じように思いわずらっていたのだろうか。(*1)


天候が崩れるその前に挨拶回りを終えておかなきゃと思い、背広を羽織ると車を駆って外に出ました。ドアホン越しの笑顔と口上、玄関での世間話と如才ない健康談義が続いていきます。出掛けには腰がずしりと重たかったものだけど、ひとかどの人たちとこうして直に顔を合わせて生の声を聞けることは嬉しいし、やはり有り難いものです。人間は群れなして生きるものであり、挨拶というのは本源的な歓びに結び付いているのでしょうね。じんわり勇気付けられるところがありました。


それにしても一年が早いです。昨年の今ごろに踵(かかと)揃えて同じ玄関の三和土(たたき)を同じように踏みしめ、似た笑顔と会話を交わしたときの映像がありありと脳裏に蘇えってきて、目の前の光景とぶわぶわの二重写しになるみたいでした。濃厚なデジャ・ビュに魂が持って行かれる、あの感じです。つい先日のような既視感があって、ちょっと薄気味悪いというか奇妙な具合です。歳を取るってこういう事でしょうか。


ぼちぼち官公庁や工場は仕事納めとなり、なんとなく街は緊張がほどけた雰囲気です。渋滞もかなり減ってきたし、前後左右の窓越しに覗く表情どれもが柔和に見えます。白い陶器に盛られた半熟玉子みたいに崩れ霞んでぼんやりした風情。疲れもそろそろ出て来たせいでしょう。皆さん、おつかれさまでした。


これからも休みなく働かれる人もおられるでしょう。こころから「ごくろうさま」。僕も元日以外はあれこれと有りそうで、仕事場への日参を余儀なくされます。着飾った人に混じっての年末年始の勤務というのは決まって侘しいもので、塩味の効いて切ないものが胸にどっとたぎりますが、ひと息ぐいと呑み込み、もうちょっとだけ励んでまいりましょう。


さて、上に紹介したのは宮迫千鶴(みやさこちづる)さんのエッセイ「味噌とジェーン・バーキン」の冒頭とやや中盤寄りのところからの抜粋です。目次にも奥付にも何も見当たらないところからすれば、当時単行本のために書き下ろされたものでしょう。

新聞や雑誌で絵画展や新作映画に対する評論、新刊書をめぐる書評などを読むといかにも宣伝っぽい内容のものが目に止まって鼻白むことがありますが、同様のものがこの本からはわずかに薫って来ます。味噌に光を当てて礼賛しまくる主旨の本みたい。著名なひとがぞろり寄稿しているのは壮観この上ないけれど、ちょっと呈味(ていみ)が単層で乏しいと言うか、メリハリがないというか、行間に寄せ返すものが見当たらずにずっと凪(な)いだままの印象が気になります。ぽってりと曖昧な感覚が読後に残ってしまうのです。


その中にあって宮迫さんの文章と、もう一篇、久世光彦(くぜてるひこ)さんの書かれたもの (*2) は異彩を放って面白かった。両者とも“味噌”と“糠床(ぬかどこ)”を混同しておられるのがご愛嬌ですが、褒め言葉と責め言葉が入り混じって一方的に持ち上げることはない。バランスがいいんですね。味噌(久世さんは明らかに糠味噌)を主軸に据えながらも、家族や恋人との愛執や別離を怖じることなく赤裸々に語っています。割り切れないひとの想いがそっと(糠)味噌に投影されていて、味わい深い短編映画を見るようです。


「同封のジェーンはお前と同じ年である。

お前のことが思い出される」

そのページには、いつものように野性的で飾り気のない

表情をしたジェーン・バーキンの写真と、彼女の言葉が載っていた。

そしてその言葉に、父が引いたと思われる赤いボールペンの

サイドラインがいくつかあった。

「子供とは一生のつき合い」

「娘たちが自由に生きている姿を見るのは私の夢。

死ぬことさえなければ何をしてもいいと思ってる」

「心も外見も“偽装”するのが嫌いな彼女」

 病床で引いたその赤い線はどことなく力がなかったが、

それらはバーキンの言葉を借りた父からのメッセージだった。(*1)


宮迫さんの回想は味噌の入った甕(かめ)の発見から始まって祖母の思い出、祖父の思い出に連結していき、ガンに侵されて病床に伏せる父へと移動し、さらに病院の彼から届けられた郵便封書に跳躍していき、手紙に添えられていた雑誌の切り抜きにやがて焦点が絞られていきます。

切り抜きは女優にして歌手でもあるジェーン・バーキン(*3)さんの記事であって、彼女の言葉が最後にいくつか引かれていく。すると、連綿と続く生命のバトンを受け継ぎ、今まさに人生の潮流で懸命に泳いでいる最中の宮迫さん自身をその言葉たちが優しく照らし出していくのでした。回想に次ぐ回想を経て繋がるのは脈絡のないフラッシュバックでなく、実は血族の在り様なのです。


僕にとってバーキンさんの決定像はアントニオーニの映画(*4)でもなく、オサレなバッグでもなく、パートナーであるゲンズブールさんとの有名なデュエットでもなく、音楽の素養に乏しい僕でありますから数々の唄でも残念ながらなくって、画家とモデルのせめぎあいと確執を徹底的に描いた二十年程前の映画(*5)に集約されています。人生の年輪をそっと刻んで、繊細さと胆力を内に極めた画家の妻役を、バーキンさんは見事に体現しておられました。明日を今日に繋げて生きていくことの酷さと素晴らしさが細い身体に凝縮して感じ取れて、モデル役を務めた女優さんの若い肢体と互角に張り合っており息を呑んだのです。


タイトルだけを見ると、まるでバーキンさんが味噌汁椀に対峙して大きなお口をへの字にしたり、はたまたこれはしたりと艶然と笑顔を向ける、そんな場面が浮かんで来ます。なんか宮迫さんに上手く騙されたような感じだけど、幾度か読み返してみると多層な味と香りが口腔に拡がっていくようで、僕はこれはこれで興味深い“味噌エッセイ”だと受け止めているのです。グラビア越しに送られるバーキンさんの、それは僕にはあの映画の彼女なのだけど、重く成熟した目線も含めて祝福されているように感じるのです。


深い回想へと導き、ひとから人へ寄せられていく想いを丁寧に掘り起こした上で、咀嚼し消化するのを手助け、生きる糧と成していく。二代三代と世代を跨いで食べられていく味噌なればこそ、その引き鉄(がね)となって悠々と機能し得ているのであって、他にどんな食べ物が代われるとも思えない。味噌が具えている特異で幸福な立ち位置を、よくよく酌みとってみせた佳品であったと思います。


(*1): 「味噌とジェーン・バーキン」 宮迫千鶴 「みその言い分」 マガジンハウス 1995 所載 
(*2):「過ちでもなく、悔いでもなく」 久世光彦 上記単行本に所載 “糠味噌”じゃなかったら別に紹介するんだけどなあ。 
(*3): Jane Birkin OBE 
(*4): Blowup  監督 ミケランジェロ・アントニオーニ 1966
(*5): La Belle noiseuse. Divertimento 監督 ジャック・リヴェット 1991 最上段の写真も
 

2010年7月1日木曜日

小泉徳宏「Flowers フラワーズ」(2010)~懐かしい看板~


 
 知人宅を訪ねた折りに、外国製のチョコレートをご馳走になりました。ほどほどの甘さとあえかなバニラの匂いが口腔にふわりと拡がります。少し儚(はかな)げな印象を刻む上品な香味に仕上がっている。何でも旅行のお土産だということで、その折に撮られた写真を何葉か見せていただきました。


 場所は北米の太平洋岸の街、シアトルです。穏やかな笑顔をカメラレンズに向ける老夫婦の姿やマリナーズの本拠地である野球場などを微笑ましく眺めながら、徐々に成長して手堅いものとなる想いがあります。しっとりした落ち着きが街のあちこちから滲み出ている、これはなんだろう──。


 山の上なのか高層ビルの最上階なのか分かりませんが、広々とした眺望が眼下に広がっています。海へ向けて傾斜を強めていく大地に、悠然と街並みが連なっていく。微妙な違和感を抱えながら再度しげしげと見返すならば、それら林立する建物が実にしっくりと地面の傾斜と足並みを揃えているのです。つまり、背丈を合わせて綺麗に列をなしており、眺望を邪魔する“でっぱり”が一切ないんですね。真新しい外壁のビルディングばかりなのに、そのどこにも看板が見当たらないことにもやがて気付きます。何かしらの強固な規制が働いていることは明らかです。


 独裁政権を敷く首長のもと、大胆なグランドデザインが実行に移されたかのような、実に力強いものを透かし見ることが出来る。きらめく欧州の古都ならばまだしも、歴史的にまだ浅い北米の都市がここまで美しく展開している。凄いな、これは。


 ウェブ(*1)で検索して調べてみると、景観規制が市民レベルで根付いていることが分かります。市民の意見に折れた末にスケールダウンしてオープンした海岸沿いのホテルなども見れますが、日本じゃとても考えられない“落としどころ”です。人生の舞台となる自分たちの街を本気で愛している人たちがいるのでしょうね。


 “街並み”“景観”“看板”といったものに気持ちが傾いているのは、先日劇場で観た日本映画(*2)のせいでもあります。昭和初期から今日に至る七十五年の長く重い歳月を、三世代の女性群像を巧みに組み合わせて提示していく意欲作でした。そこにはシアトルとは対照的な風景がありました。



 大手化粧品会社と共闘してのイメージ戦略が生い立ちである以上、女性の装いや美しさを過剰に描いていくことは素人目にも回避出来そうにない。それは観る前からわかり切ったことで、案の定、人生の機微たる“老い”“戦禍”“格差”という翳(かげ)の部分をすっかり削ぎ落としてしまい、立体感の乏しい単調な顛末になっているのですが、それはまあ、仕方のないこと。前の席に座っていたご婦人は終始すすり泣きでしたし、ひとときの娯楽を求める気持ちには十分応えている。浮世離れの数々も“ご愛嬌”と笑って許してあげるべきでしょう。


 興味深かったのは、それぞれの年代のコントラストを思想の変転や流行り言葉をもって表わすのではなく、その時時に作られた映画の色調を徹底して再現して提示しているところで、その情熱と言うか固執の様子は呆れるほどでありました。(*3) 服装や髪型、小道具を駆使して年代に肉迫することは当然ながら、照明やカット割り、音質までも丸ごと動員してタイムスリップを目論んでいる。地味を装いながらも大胆不敵な演出です。その実験的な作業は観ていて気持ちの良いものでした。


 そのようにしてスクリーンに映じられた“過去”の街並みには看板がひしめいており、中でも随分と目立つ位置に“醤油”のイメージが刻まれていたのです。竹内結子さんと大沢たかおさんが演じる若い夫婦が旅行で訪れる海辺の町。その駅舎の前に置かれたベンチには、ありありと醤油メーカー(群馬に拠点を置く)の亀甲型のマークと名前がホーロー看板に描かれ貼られていたのだったし、また、東京の出版社で孤軍奮闘する田中麗奈さんを描くパートでは、上司より呼び出されて説教を受けた屋上から望むビル群のなかに、排気ガスに曇ってやや輪郭がほどけているにしても随分と巨大な(こちらは千葉本社の)、やはり亀甲型の目に馴染んだマークと社名とが赤々と浮かんで目に飛び込んで来るのです。


 物語の進行とはまったく無関係の登用であるのだけれど、この作品の“時代再現”への凄まじい粘着を想うとき、果たして意図なき偶然の産物であったか疑問が湧いてきます。1964年、1969年という過去のランドマークとして亀甲の印が選び取られたというのが正しい読み解きでしょう。


 もちろん醤油の看板だけでなく、余白の隅々を埋めるものが実に懐かしい光彩を放っていて、例えば壁にかかった東郷青児さんの女性画であるとか、紫煙にまみれ果て黄色い脂(やに)でベタついた柱の時計とか、ウィスキーのロゴの刻まれた平たい灰皿とか、谷崎潤一郎さんの著作の背表紙とか、美術スタッフの熱意が結晶化したものが点在して目を愉しませるのですが、そうやって僕たちを過去に誘(いざな)うイメージの一端に亀甲型のマークが含まれていたことに、わずかながらも衝撃があったのでした。


 “醤油”もまた“昔のもの”となりつつあり、今や忘却とのせめぎ合いの域に軸足を踏み込んだのかな、少なくともこの映画の送り手の幾人かはそのように“醤油”という存在を解析しているに違いなかろう。“懐かしいもの、過去のもの”に直結するものとして、ここでは“醤油”が使われている───。




 僕たちの住まう街はシアトルとは違い、乱雑で節操のない広告に埋まっている。美しい眺望なんて、だから望むべくもなく、破壊と再生を細かく繰り返しながら無秩序な街並みと看板の乱立が果てしなく続いていくでしょう。毎日が清々しい気分だろうと想像を巡らせる、そんな場所で暮らすことは僕にはやはり難しそうだ。


 それでも意識的に街路を見直す機会にこうして恵まれてみれば、看板であれ何であれ構成するそのひとつひとつが短命であることが分かります。それらが懐かしい人、懐かしい家族の記憶といずれ直結するのかもしれず、そんな回想の仕掛け作りを僕たちは日々しつらえているのかな、なんて考えたりもするのです。混沌とした儚い風景であればこそ、その時々の変転する人の気持ちや、逆にいつまでも変わらぬ想いなんかを寄り添わせることが可能なのじゃないか。


 日常にくたびれ、懐かしさに抗い切れずに足を止めて振り返ったときには、次々と入れ替わっていった看板たちや消え去った商品たちがその想いを受け止めて手を振り、きっと助けてくれるはず。僕たちの住まうこの街は時間旅行を可能たらしめる場処なんですね。ちょっと見苦しくても“ご愛嬌”と笑って許してあげるべきなのかもしれません。




(*1):「斜面都市における眺望景観保全政策の特性評価とview corridor施策の適用に関する研究」 栗山尚子 平成18年9月
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis/d2/D2002896.pdf
(*2):「Flowers フラワーズ」 企画・製作総指揮 大貫卓也 監督 小泉徳宏 2010

(*3): ウッディ・アレンさんの監督、主演による「カメレオンマン」(Zelig 1983)という映画も過去のフィルムの特性を丁寧に再現したものでしたね。合成技術の跳躍が最近めざましく、いよいよこの手の描写は精緻さを増して来ています。やがて古い映像が自由自在に編集され、まるで違った意味合いを持たされたりしちゃうのでしょうね。ちょっと怖い気もします。

 そうそう、「Flowers フラワーズ」には味噌汁が登場しています。劇中、食事の風景は実に少なく、“老い”“戦禍”“格差”といったものと並んで“調理”もまたさりげなく排除されて見えました。唯一の“味噌汁”は冒頭近くに描かれています。昭和十一年(1936)前後を描く蒼井優さんのパートで、嫁ぐ前日の蒼井さんを囲んでのちょっともの哀しい食事の場面です。家族揃っては最後となるだろう予感が小さな食卓を重く覆っている。

 ここでの“味噌汁”には旧来の隷属的で柔順な女性のイメージが幾らか投影されていたように感じ取れます。蒼井さんは父親が決めた婚礼に対して不服であり、翌日には白無垢姿で家から逃走するのだけど、それは“味噌汁”に象徴される束縛からの緊急避難でありました。映画ではそれ以降、実に75年に渡って“味噌汁”は影を潜めて消失してしまう。現在を生きる女性へ向けて作られた「Flowers フラワーズ」において、これもまた意図的な“空白の描写”であるように僕には思えました。何を足して何を引くのか、その結果導かれる物語を化粧品会社が支援していることは、考えてみると奥深いものがありますね。



 知人宅をおいとまする時、お庭の可愛らしい花が目に止まりました。初夏の陽射しに照らし出された白く薄い花びらに、細いまっすぐな筋が幾本も走っています。刺繍を施された肌着のような繊細で柔らかな印象なのですが、驚いたことに、これがハエトリソウVenus Flytrapの花なんですね。僕の宇宙はまだまだ未開拓です。 とげとげの葉っぱで虫を捕らえる怖い一面と、清楚な花びらが同居している。なんて逞しい生きものだろう。僕の身近に咲く「Flowers フラワーズ」、彼女たちも一所懸命に生きています──。

2010年6月12日土曜日

山崎ハコ「おらだのふるさと」(2010)~かあちゃん それ~



東京さ出る朝 かあちゃんが

荷物の隅に味噌詰める

かいずつけっと、

おかずなど何もいらね

かあちゃん それ手前味噌だべ

わらびの味噌汁 母の味

おらだのふるさと おらだのふるさと(*1)


 いい天気です。まだ陽が高いというのにもうひと風呂を浴び終えて、腰にバスタオルをちょっと巻いたぐらいの格好でテーブルに座りこれを書いています。時おり風が吹き込んで白い薄手のカーテンをふわり躍らせたり、はたまた背後の窓にかかったブラインドをカシカシと鳴らしている。なんて贅沢な休日──。


 素肌を渡っていく風はあたかも誰かの指先がそっと触れ、こころ煽る目的で妖しく撫でさするみたい。なんとも心地良くって、もうタオルも何もかも放り投げてベランダに飛び出し、わーっと大声で叫ぶか体操でもしちゃいたい気分です。耳に飛び込む音は鳥のさえずり、遠くより幽かに響くバイパスの車の往来、庭木の枝葉の風で揺れてさわさわ言うぐらいであって、田舎の落ち着いた時間を満喫しているところ。


 山崎ハコさんの唄「おらだのふるさと」は、僕が住まうこんな田舎から大都会に進学か就職で移り住んだ直後の若者、おそらく母親へのタメ口、父親の一言多い助言からすれば女の子なのじゃないかと勝手に想像をめぐらすのだけど、そんな彼女の懐郷の念を切々と訴える内容になっています。


 自分の(おらの)と言い表さずに“私たちの(おらだの)”と唄うことで聞き手の多くを柔軟に囲い込み、各人各様の故郷を想起させていて見事です。また、「ふるさと」を否定も肯定もせず、物語を構成する家族たちへの目線も見上げるでも蔑むでもなくどこまでもフラット。意見の衝突を上手く回避していますね。揚げ足をとるような合いの手を娘はちょっと挿し入れるのだけど、邪気は一切感じられずに両者はすっきり対等です。


 子どもが自立していく行程では、往々にして反発、憎悪を跳躍のバネに利用することがあります。けれど、本来の“自律”とはかくあるべきかもしれませんね。なかなかそうならないけどね。実態はひどく苦しいものです。


 母親や故郷と“味噌”を結びつける展開は安直で新鮮味がなく感動を覚えませんし、現実世界を生きている娘の都会暮らしには“味噌汁”が不在となっているイメージが連鎖して湧き出します。“味噌汁”が喪われつつあるような気配で、それを思うと応援団としては心中複雑です。


 最後の最後で具体的な地名を羅列して空間を限られた地方都市に収束させてしまう辺りにも感心はしませんでしたから、余程無視しちゃおう、忘れちゃおうかなとも思ったのだけど、それを引き止めてメモをこうして書かせているのはひとえに歌手山崎ハコさんの力量によるものです。


 僕は山崎さんをよく知るものではなく、唯一リフレーンして脳裏に響くのは彼女の「心だけ愛して」ぐらいなので何も言えた義理ではないのです。しかし、よくここまで地平を拡げることが出来るものだと感心することしきりでいます。ものを創り、魂を吹き込む不思議、魔術を目の当たりにした感じです。歌というのは凄いものがあると、しかと悟らせる仕組みがこの「おらだのふるさと」にはありますね。





  さてさて、散歩がてら理容店に行こうかな。さっぱりと刈り込んでこよう。

 お仕事や雑務で多忙極めるひともいるでしょうが、梅雨空を目前としたこの晴れ間、
どうぞ愉しんでお過ごしください。 



(*1):「山形・白鷹 おらだのふるさと」 唄 山崎ハコ 2010
   作詞 田勢康弘 作曲 山崎ハコ 編曲 安田裕美

2010年6月8日火曜日

中島丈博「味噌汁と友情」(2006)~どっと笑う~



深井 どういうわけって……別に理由なんて。

中谷 理由もなくて、こんなことをしたって言うの?

深井 先生、冷めちゃいますよ、折角の味噌汁が……
   
   ま、味見してください!

  と、お碗に注いだ味噌汁を中谷に押し付ける。

中谷 ちょっと、待ちなさい……。

深井 きっと美味しいよ……味見して……味見!

  口もとにお碗を押し付けると、拒もうとする中谷。
  
  その拍子にお碗がひっくり返り、味噌汁がモロに
  
  中谷の胸にぶっかかる。

中谷 (悲鳴)ひゃーッ……あちッ……あちちッ!

  と、胸をかきむしり、飛び上がって熱がる。
  
  一同、どっと笑う。(*1)


 中学校の学芸会を念頭にして書かれた脚本です。映画やテレビドラマでの活躍がめざましい中島丈博(なかじまたけひろ)さんが、中学生向けに提供しているのが先ずもって愉快なのだけど、よくよく読み込んでみれば随分と意味深な内容になっていて思わず唸ってしまいました。


 舞台設定が奇妙です。男子生徒だけが教室に集められ、家庭科の調理実習が行なわれます。“味噌汁”を作らせられるのだけど、皆から嫌われている男子がひとり交じっているために班分けからつまづいていく。大人びた背格好の深井少年が仲裁に入り、その若村という名の男子を自分の班に招き入れます。さらに、半端になった子供たちを別な班に次々と振り分けたことから、当初予定されていた班数がひとつ減ってしまうのでした。女性教師の中谷が深井に詰問した、上の“こんなこと”とは、生徒たちが独断で行なった班の再編のことを指しています。


 物語は嫌われ者の若村少年とリーダー的な色彩を放つ深井少年が友情を深めていく流れとなり、静かな余韻を残しながら幕を閉じます。いじめ、差別を批判する道徳的な展開と多くの観客は読み取るでしょうね、きっと。



 調理実習の課題がハンバーグでも粉吹き芋でもなく“味噌汁”で、それをわざわざ題名に冠していることは一体全体どういうことか。劇をゆっくりと振り返ってみるならば、必要な選択だったことが分かってきます。


 これからこの本を買い求めたいと願うひとは、先は読まずにここで閉じてもらいたいのだけど、作者は“味噌汁”を“家庭”の象徴として捉えていて、また、“母親”のイメージをもしかと重ねているのです。それ自体はありきたりの反応で何ら驚きに価しない訳だけど、中島さんのひねり方はさすがにプロなのです。そこから陰鬱な少年期の葛藤と身悶えする渇望をそれとなく露呈して見せるのでした。


 若村が妙に大人びているのは、父親の浮気がきっかけとなって崩壊寸前にある家庭に身を置いているせいであることが後半分かります。また、深井という少年にしても父親が公文書偽造の罪で服役中であり、針のむしろに座るような毎日なのです。世間の目と貧窮に対して闘っている真っ最中なんですね。


 若いおんな教師の中谷は彼らの胸の奥底に宿るものをまるで汲むことなく、実習の前にあろうことか「よい家庭」「円滑な家庭」には調理が不可欠だと朗々と説いてみせます。わだかまりを何ら家庭内に抱えていない他の子供たちは、劇中「おふくろの味、健康になる」と“味噌汁”賛歌を歌い踊って見せもするのです。


 不倫と犯罪という父親たちの不始末によって運命を反転させられ、極端に口数を少なくし、表情をすっかり失い亡霊のように暮らしていく、はたまた生活費の捻出に仕事に追われ過ごしているふたりの少年の“おふくろ”と味噌汁は、現時点では像を重ねることが難しいに違いなく、もちろん「円満な家庭」であろうはずがない。


 教師と同級生により、また、僕たち観客もが無意識に振りまく“味噌汁の、そんなステレオタイプのイメージの渦”から主人公ふたりは気分的にまったく孤立していくのです。中島さんはそれを明確に形づけるために、(騒動の責任を取るかたちにて)ふたりを教室から廊下に締め出しさえするのです。重いこころを体現するように水の入ったバケツまで執拗に両手に持たせて、ふたりの少年は暗い廊下に異分子として佇みます。


 単純な寸劇を装いながら、その実、かなり情念の絡んだ会話を敷き詰めていて、投げ掛けられているテーマは存外に厳しいのです。子供たちを預かる学校とは突き詰めれば家庭の修羅、地獄を預かることではないのか、その覚悟は大人たちに本当にあるのかと問うているようにも読めるし、僕たちがどれだけ単純に事象を見てしまい、呆れるほどステレオタイプな判断や物言いに日常染まっているかを囁き教えてくれているようにも感じます。


 ここでの“味噌汁”とは、ですから偏見や無関心、絵空事、仲間意識といった負のイメージを帯びているのです。少年が利き味を強要し、結果的に口も付けられずに胸元にどばっとかかり茶色に汚していく味噌汁の様子は鮮烈なものがありました。“聖なるもの”から一瞬後には“汚れ”に変転して流れて行く“味噌汁”には、行き場のない怒りや哀しみが色濃く感じ取れる。こんな酷薄な面持ちの“味噌汁”はあまり見たことがありません。


(*1):「味噌汁と友情」 中島丈博 2006 「読んで演じたくなるゲキの本 中学生版」(幻冬舎)所載。

2010年6月4日金曜日

滝田ゆう「寺島町奇譚 どぜうの命日」(1969)~かえたのか……~


トメ「おや 金坊の命日……………」

フク「利口な子だったよ」

キヨシ「頭がよすぎてもノーマクエンになるんだって」

フク「そんなことだれがいった……」

甚太郎「むう」

カズエ「中耳炎で死んだんでしょ」


甚太郎「味噌かえたのか……」


キヨシ「ごっそうさま」

トメ「ほら いっといで いっといで」

フク「キヨシッ 言ってまいりますは!!」

キヨシ「イッテマイリマス」(*1)(*2)


 ブログに取り上げるのを延延と逃げてきた場景に、“家庭劇と味噌汁”があります。茶の間の真ん中にドンと鎮座した座卓に寄り集って「おはようございます」「ああ、おはよう」、幼子たちは寝ぼけまなこをこすり「いただきます」、父親は無表情で新聞をめくり、エプロン姿の母親が台所とお茶の間をかいがいしく行き来する。味噌汁碗がそこに花を添えます。白い湯気と甘ずっぱい匂いが天井へとくねくね立ち昇って、辺りをオレンヂ色にほんわか染めていく──そんな風景を僕は意固地に避けてきました。


 食事を介した家族団欒はある時期からホームドラマにて活発に再現されていき、笑顔と弾む会話の
つるべ打ち。而して、食卓に並んだ料理の数々は、あってもなくても構わない背景画の役割にことごとく甘んじていったのです。家族会議への出欠に一喜一憂し、遅刻に憤慨し、多数決の結果にへそを曲げ、ヤジや紛糾が上下関係に翳を落とす。そんなところに焦点が当然ながら絞られていって、“食べること”は二の次です。いつしか食べものなんだか蝋細工のオブジェなのか、形骸化して誰も気に止めなくなってしまった。


 ひとの胸中に渦巻く想いや苦渋を体現するものではもちろんなくって、朝なり夕なりの設定をドラマに刻む時計の針の役目しか負わなくなった。“味噌汁”である必要、“醤油”がある必要は全くなくなり、コーンスープでもケチャップでも一切かまわない物語。

“味噌汁”や“醤油”(だけに止まらず、食べもの全般)の顔立ちを“ぼんやりしたもの”に変貌させてしまったのが、一連のホームドラマであったように思われてならなかった。それのいちいちに目を向けて思案する意味はないのではなかろうか、そんな反抗心に僕はとらわれていました。






 平成2年(1990)に58歳で早世された滝田ゆうさんの「寺島町奇譚」は、膨大な幼少時の記憶の集合体でホームドラマの範疇には到底収まり切らない内容です。なれど、背骨となって貫くのはやはり“家族”。ホームドラマの亜種である以上、それにあえて着目する必要はない。僕はそのように勝手に断じていました。手に取り読んだのは、だからつい最近のことです。


 劇中“銘酒屋(めいしや)”と呼び慣わす私娼街があり、これに隣接した小さな住宅兼酒場、それが主人公のキヨシ少年の家です。祖母、両親、姉との暮らしぶりに酔客や娼婦たちの刹那的な動態がさらさらと交差し、小川の流れのようなリズムを紙面に刻んでいます。


 上に取り上げた光景はある朝の場景なのだけど、ここでキヨシの父親が“味噌”について言及していました。時代は太平洋戦争へ突入して、徐々に戦局が劣勢に回っている頃です。具体的な描写は多くないのですが、街の活気は日に日に損なわれており、きっとこの味噌の変化も食糧事情の悪化を反映しての事なのです。


  幼くしてキヨシの兄は病死しており、ちょうどその日は命日に当たっていました。歳月の壁は一家の哀しみをずいぶんと癒していて、交わされる会話に湿ったものはもう含まない。けれど子供のがさつな物言いはエスカレートしてしまい、いくらなんでも酷い内容になっていく。それを遮るようにして父親は“味噌”についてつぶやき、家族の会話を破断させるのでした。


  記憶が無い姉弟と違い、ありありと当時を想い出したに違いありません。おのれの心に蓋をするような性急さがあって、複雑な余韻を残す一瞬になっています。“味噌汁”を故郷の山河や母親と重ねていく“記憶の再生装置”とするのが一般的ですが、ここでは“記憶の密閉”にうまく使われている。たいへん興味深い描写です。


  振り返って自分自身のこころを探ってみても、似たような仕組みは日に幾度となく働いているように思われます。不意に地中深くから噴き上がり、天空を真白く染める間欠泉のようにして抑え込んでいた思慕や慙愧の念が来襲します。仕事や家事が手につかなくなって、どうにも腕に力が入らない。その一方で溢れる想いは眼の奥と心臓付近でどんどん、どんどん密度を増して破裂寸前です。


  いかん、いかん、駄目だよ、そんなことじゃあ、と気を取り直して“日常”へと軌道を修正する。そんな折に僕たちがおもむろに手にしたり始めたりすることは、いずれも“他愛もないもの”だったりします。溜まった紙ゴミをシュレッダーにかけたり、洗濯を始めてみたり。実にありふれてつまらない時間へと回帰していく。


  生きていく時間の堆積は降り積もる枯葉のようです。そのいちいちは軽く儚いものが多いのだけれど、いつしか僕たちを圧殺する程にも肥大する。他愛のない“ぼんやりしたもの”に身もこころも委ねてこれを“やり過ごす”ことは、生きていく為に授かった本能的な知恵なのでしょう。


 「寺島町奇譚」に描かれた人たちは先の見えない時代にあって、さらに先の見えない暮らしを選んだ人たちです。気持ちに陰を落としてわだかまりやすい、酩酊や性愛を手段とした“情念の解放”を生業(なりわい)としているのですから、余計重たい思いをしたはずです。そんな彼らをリセットしたものが、もしかしたら“味噌汁”だった。


  朝食とは、そして、そこで供される“味噌汁”とは、夜の間に膨れ上がった夢や情念、恐怖に一時的に蓋をするスイッチなのかもしれません。記憶を束の間消し去り、今日を明日に繋ぐためのノリシロとしての役目です。負け戦であることは分かっています。忘れられっこないのだけど、とりあえず忘れた振りをするしかない。“味噌汁”かき込んでスイッチオン。


 “あってもなくても構わない”ものなれど、とっても重宝な道具として“味噌汁”が描かれている。魂の誘導員として僕たちの日常を支えている。ホームドラマを全面肯定するつもりは毛頭ないけれど、“記憶の密閉”を担うというのであるならば、これはこれで素晴らしい役割だと思えてきました。家族劇にも時には素敵な演出も見え隠れするということで、広く浅く、そして時折深く観ていこうと考えているところです。


(*1):「寺島町奇譚 どぜうの命日」 滝田ゆう 1969 初出は青林堂「現代漫画の発見 2 滝田ゆう作品集」への書下ろし。ちくま文庫「寺島町奇譚(全)」(筑摩書房)に所載。
(*2):「寺島町奇譚」に描かれる家族については、劇中の会話をいくらたどっても、どうしても名前が分からない人の方が圧倒的に多い。ここでは便宜上、テレビドラマ化された折に脚本家が割り振った名前、甚太郎、フク、トメを借用しています。
NHK土曜ドラマ「寺島町奇譚」~劇画シリーズ~(2) 1976年3月27日放映
「中島丈博(なかじまたけひろ)シナリオ選集 第二巻」 中島丈博 映人社 2003

物語の舞台となる界隈は昭和20年(1945)3月10日の空襲で壊滅します。滝田さんの描く日常には、そして、幾度となく繰り返される朝食の場景と味噌汁には、永久に喪われてしまったものに対する追慕のまなざしが寄り添ってもいますね。

2010年3月28日日曜日

上村一夫「同棲時代」(1972) その1 ~上村一夫作品における味噌汁(12)~


今日子「次郎……  次郎…あたし……

    あたし…戻れるかもしれない……」

次郎 「…(内ポケットから煙草を出しくわえ、今日子にもすすめる)」

今日子「ありがとう……(火をもらい)」

次郎 「…(瞬間視線が交差する)」

今日子「次郎……」

次郎 「ん?」

今日子「夜明けね……」

次郎 「うん……」

今日子「いつかもこんな朝があったわ……」

次郎 「…」

今日子「ねぇ 次郎 熱い味噌汁が飲みたくない?」

次郎 「熱い味噌汁か… そうだな 身体が暖まるだろうな」

今日子「ねぇ うちへ来ない?ごちそうするわよ」

次郎 「きみんちへ?どうして?そんなことできるわけないだろう」

今日子「いいえ かまわないわ 行きましょうよ」

次郎 「しかし………」

今日子「父と母のことなら心配しないで あたしの覚悟はできているの」

次郎 「熱いみそ汁…… 行くか!」

今日子「そうよ 行きましょう(ベンチから歩き出す)」

次郎 「(きびすを返して)いや……」

今日子「どうしたの?」

次郎 「やめとこう」

今日子「なぜ?」

次郎 「きみが作ってくれる味噌汁のことを思うと ぼくはたまらない……

    それを飲んだら ぼくはどんなにか身体も心も暖まるだろう……

    だけど こいつをよく覚えとこう この感じを……」

今日子「……」

次郎 「この寒さをよく覚えとこう…… 今 この寒さとひもじさに

    耐えられたら このさき何にだって耐えられるかもしれない……

    そんな気がするんだ」

今日子「次郎……」

次郎 「いい天気だ」

ト書き(一晩のうちに苦しみがすっかり薄らいでいるのを次郎は感じた

    しかしそれは また今朝だけのことで長い年月のうちには

    傷がどす黒い血を噴き出すのかもしれないと 次郎は思っていた──)(*1) 




黒い表紙の本(*2)を台所まで持っていき、ガタゴト食器棚から“はかり”を出します。試しにどのくらい目方があるかと量ってみたところ、針は330グラムを指しました。そんなものかと驚きました。僕にはとても重く感じられますから。ずんと胸に響いてしまい頁をめくるのが苦しい、しんしんと肌寒いものがこの本にはあります。



上村一夫(かみむらかずお)さんの「同棲時代」は1972年の3月から翌年11月にかけて連載された劇画で、氏の代表作とされています。映画やテレビ(*3)にもなり、上村さんが作詞し大信田礼子さんが歌ったレコードもヒットしました。



“同棲”という言葉を猥(みだ)りがわしいものから身綺麗な感じに変え、多層なイメージを世間に流布する役割を果たしました。しかし、映画であれドラマであれ、原作劇画の外貌をなぞったに過ぎない甘い内容となってしまい、ほとんどの人は主人公今日子と次郎の旅の完結がいかに凄惨なものであったかを知りません。原作の抱える硬さ、険しさは十分には知られていない。 (*4)





 まして、その幕引きの瞬間、男と女の会話に“味噌汁”が顔を出していたことを、まず十人にひとりが憶えていないか、まったく知らないのじゃないかな。


僕がその“味噌汁”に惹かれてずっと来たことは先に書いた通りです。最後に「同棲時代」をいま一度だけ読み返しながら、今日子と次郎、ふたりの会話の深層に触れて行こうと思います。と言うよりも、これまで上村さんの作品を読み進めた内容を薄絹のベールのようにそっと上に引いた会話に重ねてみれば、ごくごく自然に、無理なく何がひと組の男女に起きていたのか、分かっていくように思われますね。


ちなみに「同棲時代」の年代順の立ち位置はこんなところに在ります。

1971 マリア

1972 同棲時代

1973 狂人関係 
1974 離婚倶楽部 
1975 サチコの幸 
1976 すみれ白書 
1976 関東平野 
1976 津軽惨絃歌
1977 春の雪
1977 60センチの女 
1978 星をまちがえた女 


上村さんが“食(べもの)”を作劇に果敢に取り入れ、感情の“木霊(こだま)”にしようと模索した時期ですね。



さて、話替わって、あっと言う間に3月が幕を降ろそうとしていますね。いよいよ新しい季節のスタートが目前です。新しい環境、新しい仕事、新しい生活が次々と駆け出していく眩しい端境(はざかい)の週です。


 のろまな僕は結局のところ周回遅れですね。いい加減、あと数回でしっかり区切りを付けないといけません。前を向いて歩かないと!


(*1):「同棲時代」 上村一夫 1972-1973 初出は「漫画アクション」 最上段に引いたのは「VOL.69 終章」より
(*2):手持ちの僕の本は双葉社のアクションコミックス、全6巻で、計ってみたのは最終巻です。
(*3):「同棲時代─今日子と次郎─」 監督 山根成之 1973
「同棲時代」 脚本 山田太一 主演 梶芽衣子 沢田研二 1973 TBS
http://www.youtube.com/watch?v=46roDK-sNWs
(*4):うーん、そうでもないのかな。案外皆知っているのかな。

2010年1月12日火曜日

矢作俊彦「スズキさんの休息と遍歴」(1990) ~どれも夢の中~



  何一つ、夢は見なかった。眠りはとても深く、目覚めは唐突にはじまった。

ぱちっと目が開くと、もう手が2CVのドアを開けているといった具合だった。

だから、眠ったのではなく目を一回瞬いただけのようにも思えたし、前後の

出来事はどれも夢の中、たったいま、それから目覚めたようにも思えた。

  スズキさんは海に向かって歩いた。

  映画のスタッフは砂浜の焚火にかけた鍋をめぐって思い思いの格好で

寛いでいた。三脚の上で16ミリカメラがうなだれ、砂の上ではレフ版が朝陽を

いきおいよくはねかえしていた。ギャジット・バッグはどれも、即席の椅子や

卓子に変っていた。

  鍋ではミソ汁がぐつぐつ煮えたぎり、魚やエビやカニが、浮かんだり沈んだり

していた。一人の猟師が、近づいていったスズキさんにお椀一杯のミソ汁を

すすめた。一行の半分ほどは地元の猟師だった。見れば、すぐ近くに網が手際

よく干され、小舟が引きずりあげられていた。(*1)


  スズキさんが息子のケンタを脇に乗せ、北海道の留萌までひたすら愛車を駆るお話です。長時間の運転に疲れたスズキさんは運転席でまどろみ、夢かうつつか判然としないままに海岸を歩き始めます。かたわらにはミソ汁が現れます。 


  フェリーニの白黒映画(*2)のラストシーンを下敷きにしながら、旅の終わりを謳い上げています。政治と哲学をかつて夜通し語り明かしたおんな友だちとここで再会し、鳴り止まぬ波の音を背景として、実に穏やか大人の会話がくっきりとした輪郭で描かれています。往年の仏蘭西映画を髣髴させるものがあり、ちょっと素敵でしたね。漁師から差し出されたミソ汁も、思えばタルコフスキーみたいな詩的な波紋と湯気を具えて見えます。


  鍋では魚やエビやカニがぐつぐつ熱く煮えたぎり、浮かんだり沈んだり
していた。一人の猟師が、近づいていったスズキさんに暖をすすめ、
お椀に盛ってよこしてくれた。


  こんな風にせずにミソ汁、ミソ汁と連呼したことに、僕は矢作さんのこだわりを見出します。夢と現実の境界に、また、過去と現在の境界に矢作さんのミソ汁はあって、僕たちの深層に働きかけ、甘く、温かく捕り込もうとするのです。作為は明らかです。失われたものへの憧憬がミソ汁をアンプと為して増幅されています。


 
  映画の砂浜を参考までに貼っておきましょう。




  週末にでも車を飛ばし、日本海を見に行きたくなりました。冬のはげしい波と轟きを想います。


(*1):「スズキさんの休息と遍歴 または かくも誇らかなるドーシーボーの騎行」新潮社1990 初出は「NAVI」連載1988-1990 大幅加筆とあるから分類は1990年とした。(この本、好みが分かれるのでおすすめはしません。僕も最初からの再読はしていませんが、この浜辺のシーンだけは読み返しました。)
(*2): LA DOLCE VITA 監督フェデリコ・フェリーニ 1959

2009年12月31日木曜日

角田光代「夜をゆく飛行機」(2004)~廊下に漂っていた~



お店から戻ってきた母は切れ目なくしゃべりながら食堂を横切り、

台所にいく。素子(もとこ)が人数分の味噌汁を運び、大皿に

のった海草サラダを運んでくる。

「おとうさん今日会合でしょ?あんまり飲まないほうがいいよ、

どうせあっちでもお酒出るんだから」(*1)


 夜空に月を見上げるのが柄にもなく好きです。見詰めながらあれこれ想いを巡らす、小さな隙間の時間をとても大事にして暮らしています。三々五々同僚が帰ってしまい、独り残された仕事納めの昨日夕刻、外に出て、涼しく澄んだ空気を胸の奥まで吸ってみました。締め括りのこの一瞬に肺腑を満たした夜気はひりひりと凍みて、目尻に熱いものが湧きました。天頂近くに月は丸くあり、その形を、その白さを、その光を僕はただただ嬉しく愛しく感じました。


  月齢カレンダー(*2)によれば30日は十五夜、元日の夜が満月とのこと。新しい年が満月に照らされて始まるなんて、ちょっと素敵ですよね。これを読むすべての人にとって、暗き夜道にも月光が指し届く、そんな足元の明るい一年となりますように心から祈っています。


  月のわずか下を銀色に雲を引きずりながら、赤い灯火をにじませた米粒のような飛行機が右から左へ飛んでいくのを見送りました。そうそう、二階から屋根に突き出た物干し台から夜毎に空を眺め、飛行機を探し見つめる女の子を主人公にした小説を調度読み終えたばかりです。


  角田光代(かくたみつよ)さんのこの「夜をゆく飛行機」ほど、味噌と醤油が意識的に散りばめられた小説は無いように思われます。さりげなく随所随所に味噌と醤油を登用することで物語の湿度や香りを上手く調節していますね。僕はこれまで角田さんの作品を丹念に読み込んだことはなかったのですが、物語を理詰めで構築する人だということを窺わせる緻密なバラマキが為されていて、とても楽しく読了した次第です。


  昔ながらの商店街に創業当時からの顔付きのままで収まっていた個人経営の酒店が舞台です。両親と年頃の四姉妹が肩を寄せ合い暮らしていたのですが、近くに巨大なショッピングセンターが建設され開店間際となり、一点にわかに掻き曇り、といった感じの緊迫した大気を冒頭から孕んでいます。これを案ずる父親はもう気が気ではなくなり町内会の会合に毎夜足を運んだりするのですが、そんな事をしたってどうしようもないことは本人も家族も百も承知です。また、子供たちは各々変革の時期に差し掛かりもしていて、出たり入ったりの動きが活発になっていく。末っ子の視線を通じてひとつの家族と家屋の変貌していく様子が紹介されていきます。


  2004年から書き始められたこの小説の時空は、1999年から翌年2000年をまたぐ“近過去”に設定されています。その事からも端的に分かるように物語の肝となっているのは、遡及し得ない一度限りの浮世の苦しさです。後戻りの利かない人生の哀しさを見据えた上での、記憶の嬉しさ、温かさを静かに顕現してみせて、僕たち読者ひとりひとりにおのれの過去を“振り返らせる”ことを角田さんは目論んでおられる。


  主人公の記憶や感情に味噌や醤油がまとわり付きます。姉のひとりが泣き出した様子を見て「私はなんだか、この廊下がタイムマシンで、十五年前に戻ってしまったような気がした」のですが、その過去と現代を橋渡しする情景として味噌汁がふわりと浮上いたします。



朝の光が廊下に延び、味噌汁のにおいが廊下に漂っていた。(*1)


  と、こんな具合です。物語の最後のあたりにはこんな記述も見つかります。


谷島酒店で働く、まだおばあちゃんにはなっていない祖母が、

知っている光景みたいに思い浮かんだ。味噌の樽や駄菓子の

入ったガラスケースが並んだちいさなお店、割烹着を着た祖母、

前の道を走る古めかしい自動車と舞い上がる土埃。ちいさい

子どもだった父や祥一おじさんが、あわただしく店から飛び出し

てくる様まで、昨日見たように思い浮かんだ。(*1)



  “味噌の樽”というのはどうです、珍しいでしょう。小道具としてかなり特殊ですよね。映画「赤いハンカチ」では新しい流通システムが根こそぎ古い商業形態を駆逐し、そこに寄り添っていた人情や絆を破断させていくという時代の転換点が舞台になっていました。失われていくものを代表するイメージとして、自転車の豆腐売りと味噌汁がセットになって象徴的に取り上げられていた(*3)のでしたが、あれに似た状況設定と手法が「夜をゆく飛行機」には確かに認められます。取り返しのつかない過去に味噌汁は連結させられていくのです。


  劇中天寿を全うする祖母の存在は、懐かしくも喪われていく風景と同じ立ち位置に在るのですが、そんな老女を描く際にも角田さんはこっそり味噌を挿し入れてみせる手堅さを見せています。



「あの子は一番下な上、女の子でみそっかすだったから、

あんたたちを見ると、長女気分になれるんだろ。ねえ、

あんたたち、お願いがあんのさ」祖母は袂に手を突っ込んで、

ごそごそしている。(*1)



  “みそっかす”という耳にしなくなって久しい形容が突如ここ、2004年の作品で顔を覗かせるのは、僕には到底偶然とは思えません。


  このような味噌や醤油から記憶の共有や共感を導く手法は幼少の頃に外国暮らしをした人や海外のひとには通じない、僕たちここに産まれここに住む者の深層にのみ訴える、ある意味偏狭な日本固有の小説技巧だと思われます。海外での翻訳を見据える村上春樹さんや大江健三郎さんは避ける泥臭いやり方なのでしょうけれど、僕たちが僕たちのこころと向き合い、僕たちの社会とは何かを考えるときにはとても有効であるし、実に奥深くて面白い顕現だと思えるのです。


  失われるものと寄り添い、共に失われていく宿命を帯びた味噌汁。そんな切実なイメージを作家は投げ掛けてくるのですが、そのような食べ物は他には見当たらないように思えます。これに対して違和感なく眼差しを注ぎ続ける僕たち日本人のこころの傾き具合も、奇妙で不思議なものに思えます。永別を果てしなく意識しながら、大豆や小麦を醗酵させたスープを呑む民族、それが僕たちなんですねえ。可笑しいよねえ。


(*1):「夜をゆく飛行機」 角田光代 初出は「婦人公論」2004年8月より連載、

翌年2005年11月まで。 現在、中公文庫で入手可。
(*2): http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm
(*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_30.html

2009年7月4日土曜日

矢作俊彦「スズキさんの生活と意見」(1992)~歴史的な妥協~


「野球でもしようか」彼は言った。

「本当!?」息子が歓声をあげた。

「ほうれん草も食べなさい」妻がパン皿の横に緑色のペーストを押してよこした。

「ぼく、おひたしの方がいいんだよ。ゴマで和えた奴」

「パンって言ったから作ったのよ」

「別にいいじゃないか」とスズキさん。「ペーストでなくてもさ」

「味があわないわ」

「合わないと言えば、味噌汁だってそうじゃないか」

「これは歴史的な妥協よ。サダト的な、ね」

「何を言っているんだ」

「味噌汁とパンよ。あなたとお坊ちゃまのイェルサレムでしょう」

「だから何がサダト的なんだい。キリスト教徒が妥協だなんてよく言うよ」

「あら、俗世の政治については、バチカンも仏教に学ぶところが多いと思うわ」(*1)



矢作俊彦さんは息の長い書き手です。漫画原作、随筆、小説など難なくこなして現在に至っています。ご自分の小説の挿し絵だってお手の物です。別名で漫画を描いていた時期もあるから、もともと器用な人なのです。


彼を語るとき、大友克洋さんが絵を担当した「気分はもう戦争」(*2)を外すことが出来ません。それで分かる通り“時事ネタ”を接ぎ木するのが得意です。面白さもつまらなさもそこに集約されるきらいがあり、散らかった雰囲気が紙面を覆ってしまうことも。好みが別れる作家のひとりではありますね。どうしても読み手の体調や時間を選んでしまう。


「スズキさんの生活と意見」は作者の分身であるらしい“スズキさん”が、とある朝に自宅の食卓についたところから始まります。「たとえようもなく豊か」な朝食で幕が開きます。「味噌汁とベーコン・エッグ、それに御飯かパンがつく」のがスズキ家の慣習となっていて、「今朝の味噌汁は、大根」です。献立内容が少しずつ洋風に変質していくのは、7才の倅にイニシアティブを奪われかけているからです。内心忸怩たるものがあるのですが、奥さんともども息子をも深く愛して止まないスズキさんはあえて守勢に甘んじてやり過ごしています。


さて、奥さんが「サダト的」と口にしたのは何でしょう。僕より上の世代のひとにはありありと映像が浮かぶのでしょうが、エジプト大統領の電撃的なイスラエル訪問とそれを踏まえての一連の出来事を指しています。1977年11月にエルサレムの国会で「平和」を叫ぷ演説をサダト大統領は高らかに行ない、中東情勢の雲行きを見守っていた世界の人々をあっと言わせました。翌1978年9月にはキャンプデービッドで三カ国会談が行なわれます。カーター大統領、サダト大統領、イスラエルのペギン首相の三人が握手し、肩を寄せ合う映像が繰り返しテレビに流されましたね。早いですねえ、あれから30年も経ちました。




紛争当事者であるパレスチナPLO抜きに和平工作が進められたために、世界が待ち望む恒久的な紛争解決はなりませんでした。あれから延々と衝突が引き起こされているのは承知の通りです。雲間を裂いた光明が、ああ、眩しいと思った刹那にざんざんの土砂降りになる、その繰り返しです。

かくてエルサレムは狭い区域内に多様な宗教史蹟をモザイク模様のように抱え、平和の礎とも紛争の火種とも分からぬ繊細で危うい綱渡りを続けています。その地勢的なちぐはぐさを食卓上のパンと味噌汁の組み合わせのちぐはぐさに重ねている訳です。


ですから「スズキさん─」で描かれる食卓は、麗々しく知的な奥さんと利発で素直な息子に囲まれて大層華やいで見えますが、裏側から眺め直せば何やらとりとめのない諦観と疑念に貫かれていることが読み取れます。イスラエルの国際的“孤立”があり、これに対してイスラム世界から突出する形で手を差し出したがためにエジプトもまた“孤立”しました。結局のところは分かり合えない者同士の集団として家族を捉えていて、甘い蜜月はいつしか終わることを予感している、そんな節があります。


また、サダト大統領は1981年10月の屋外での式典のさなか、トラックから駆け寄る男に撃たれて暗殺されています。どれだけの精力を傾けて想いを寄せたところで、世の中は上手く行かない事だらけです。嬉しくそして悲しい記憶の延延の堆積。あれから約4年、全ては無駄なこと、だったのかな。一体全体、何だったんだろう…。銃創から噴き出す己が血にまみれながら彼は何を思ったか、想像するととても切ないですね。


そのようなほの暗い陰影を反映している訳ですから、ここで登用された“味噌汁”には自ずと孤愁の風貌が宿ります。柔軟さを兼ね備えない頑迷さ、勇気の無さ、裏返っての日和見主義などの自嘲的な負の性質が託されて見えます。ちょっと淋しい味噌汁です。


1950年生まれの矢作さんの実年齢をスライドすることが許されれば、分身のスズキさんは当時42歳になります。17年を経た今、彼は59歳、子供は24歳になっているはず。孤独を愛しこそしませんが、孤高をひどく意識して胸中思い屈して止まなかったスズキさんは、今どこでどんな机に坐し、どんな食事をしているものでしょう。


奥さんとは仲良くやっているでしょうか。子供とは意気軒昂な会話を続けているものでしょうか。とても興味をそそられますが、一方で怖くもあります。それはスズキさん同様に不器用で日常を歩むのがヘタクソな、この僕自身の17年後を想うことになるから。美味しく温かい味噌汁の椀に口を付け、こころから愛するひと、ほんとうに愛する家族と視線を交わしてゆったりと和んでもらいたい、そう願って止まないのです。(これがなかなか、ねえ…)


(*1):「東京カウボーイ」1992年 新潮社 所載
(*2):「気分はもう戦争」1981年 双葉社


2009年5月30日土曜日

舛田利雄「赤いハンカチ」(1964)③~人身御供となって~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。
   私のおみおつけ、とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」




 なんとなく腹の収まりが悪い。

 二谷英明演ずる石塚という元同僚は悪い奴で、裕次郎を罠にかけた上に密かに恋焦がれているルリ子と結婚までしてしまいます。淡い夢を粉微塵にされた裕次郎が憤懣やるかたないのは当然と言えば当然なので、復讐の刃(やいば)を研ぐのは理に適っているけれど、どうしても気になるのは“4年後の現在”の二谷の職業が“スーパーマーケットの経営”と設定されていることです。これは一体全体どうしたことだろう。


 僕はスーパーマーケットに直接関わる人間じゃないけれど、身近にたずさわる人を数多く知っています。とても地味な職業で満足に休日も取れませんし、根気と体力が必要です。ですから、そこで働く人たちを悪く見ることが出来ない。懸命に小売業に邁進して見える二谷という男に不器用さ、実直さ、コンプレックスを読み取り、シンパシーを感じてしまう。ルリ子を愛し抜いている、彼女の為に王国を少しずつ築こうとしている、その熱い恋情が時折言動にあふれ輝いて何度かほろりとさせられもします。

 闇の世界に通じ、自分の暗い過去を探ろうとする人間を保身の為に殺していく罪は確かに重いのですが、それでも勧善懲悪的な結末には首をひねってしまいました。どうして二谷がヤクザの親分とか悪徳不動産王でなく、スーパーマーケットの社長であるのか。

 先日、とある会合で、関東で店舗展開する「サミット」の元社長さん、荒井信也氏の講演を拝聴することが出来ました。荒井さんは作家でもあり、伊丹十三監督が「スーパーの女」(1996)を製作するきっかけとなった本(*1)を執筆しておられます。1934年生まれですから石原裕次郎の三つ下で、完全に彼と同世代であったわけですね。お話は日本におけるスーパーマーケットの生い立ちと将来についてでしたが、「赤いハンカチ」の背景がよく分かり疑問がみるみる氷解していきました。



 ルリ子と裕次郎を奥に配して、二谷の亡き骸が眠る墓がラストシーンで映されます。そこに突き立った白く真新しい卒塔婆に書かれた墨文字からも判りますが、映画は昭和38年(1963)を舞台としています。裕次郎が事件の参考人(ルリ子の父親)を誤って射殺してしまった“4年前”の事件とは、だから1959年に起きた計算になりますね。荒井氏のお話によるとさらに遡って3年前の昭和31年(1956)に“百貨店規制法”、正確には“第二次百貨店法”が制定されたそうです。中小商業者の保護のために新規出店や増床を禁じたと捉えられがちですが、業界をよく知り、同時代に生きた荒井氏の見方はもっと多層を含みます。

 中学、高校の卒業式で先生に言われた言葉を、荒井氏は鮮明に思い出すそうです。資源のない日本は働いて働いて、どんどん輸出して外貨を稼がないと駄目になってしまう。だから君たちもしっかり働くひとになってください──。こればっかりだったんですよ。

 そんな空気の中でこの規制は施行された。一般庶民の“ぜいたくを抑止する”ための政策だったのです。消費に耽溺して労働を厭えば、たちまち製造効率は落ちて外貨獲得の勢いも衰えてしまう。まだまだ外貨を蓄積しなければならぬ。享楽に身をゆだねてはならない、もっともっと働きなさい、と、国は大衆を押さえ込もうとして百貨店を忌み嫌った、というのが荒井氏の分析です。

 そう言えば劇中、身も心もすべてを捧げようとベッドで横たわるルリ子に対し裕次郎は、「今はその時ではない」と怖い目をして呟きました。ふたりは遂に身体を重ねることなく、異様なストイックさを保持したままホテルの部屋を後にしますが、この辺りの頑固なまでの自律、自戒の面影は“百貨店規制法”が施行された時代背景と無関係ではないわけです。

 しかし、もはや戦後ではないと考える“労働者”は、“消費者”たることを到底我慢し得ない、もう限界だったのです。それに応えたのがスーパーマーケットだった。「売り場を各系列企業のテナントが運営する形で規制を逃れ、大規模な店舗面積で出店するケースが増えた。これもデパートと呼ばれる場合もあり(その場合、あまり百貨店とは呼ばれない)、デパートとスーパーという用語の境界が不明確となった」(*2)

 その代表が中内功氏を統帥とするダイエーであり、1961年に日本最大の売り場面積1000坪を擁する三宮店を作り上げました。(この2階建ての店舗が今日のGMSのルーツだったわけね。) 本来は日常品、主に食品ばかりを取り扱う“市場”であったはずなのに、百貨店法の裏を潜って大衆の希望に応えていった“スーパーマーケット”は“非日常”を演出する衣料品、化粧品もふんだんに陳列していく。

 1959年に北海道のダム建築現場や漁港へと自罰の行脚(あんぎゃ)に旅立って、1963年に横浜に浦島太郎となって裕次郎は戻って来た訳ですが、そこで1961年頃から続々と建設された(デパートの形をした)スーパーマーケットを知り、群がる“消費者”を目の当たりにする。なるほど、そう言われてみれば、映画の中で二谷の店が画面に映し出されたとき、そこは食品ではなく婦人服の売り場でした。コートを品定めする御婦人たちで混雑した風景は、当時は奇異に映ったのですね。あたかも蜜の滴る花弁に群れ狂える蝶々に見えた。

 「しっかり働くひとになってください」と教えられ、それを信じて来た裕次郎の目にはどうしても“堕落や油断”に見えたことでしょう。ミンクのコートを着て歩き、高級車で走り回るルミ子を「違う、違う」と複雑な想いで見つめ、「今はその時ではない」と自制を促がす。そうして、消費文化の源泉であるスーパーマーケットと、その総帥である二谷に憎悪の念をたぎらせていく。

 つまり「赤いハンカチ」とは、時代の変革が教育にどれだけ影響を及ぼすか、そして教育が教え子にどのような変質を与え、苦悩をもたらすかを透かし彫りした社会的な作品だったわけです。敗戦による国家的損失を挽回するべく我慢に我慢を重ねることを学校で教わり、オリンピックと万博を目前にすると“消費は美徳”とがらり変質していく日本に対しての“戸惑い”が、映画の暗いトーンを決定付けています。




 だからこそ、裕次郎は“早朝”ルリ子に鉢合わせしなければならなかったのです。“豆腐屋の自転車”は偶然ではなく、呼び止める「おトウフ屋さぁん!」という涼しげなルリ子の声も必要不可欠だった。対面商売、それも客の元に自転車を駆って巡回する「おトウフ屋さぁん!」がセルフサービスを原則とするスーパーマーケットと対置されている。

 時代の狭間に立って大いに動揺し、自問自答する日本人を代表して裕次郎が描かれている。極めて庶民的、かつ国家的な問題を「赤いハンカチ」は根幹に据えて物語を編んでいたのですね。


 問題は「おトウフ屋さぁん!」に続いての“私のおみおつけ”です。おトウフだろうとお味噌だろうと、当初からスーパーマーケットでも陳列されています。にもかかわらず、「赤いハンカチ」では裕次郎が憎悪するスーパーマーケットに組みしない側、つまり、「今はその時ではない」と“労働にいそしむ側”に取り込まれてしまったように見えます。“労働、生産、倹約”といったものの象徴にされてしまっている。

 さらに言えば、裕次郎は再会したルリ子に対し、そのコートを脱げとか、その化粧を落せといった野暮なことは強いませんでした。今の美しく化身したルリ子を内心好ましく思っているからです。混乱を抱えたまま魂の決着が付かず、逃げるようにして彼女に背を向け“労働と生産、倹約”の大地に戻っていく裕次郎によって、今や“ぜいたく”を享受し得る体質となったルリ子がぽつねんと取り残されてしまう。この終幕の意味することは、作り手も飲み手もいなくなり、この「赤いハンカチ」(=日本人の思い描くドラマ)の世界から忽然と“おみおつけ”が失われたことを指し示しています。

 情念、恋慕の世界から味噌汁が遠く離れていったのは、日本人の多くが上記のような中途半端な空隙に“おみおつけ”を追い落としたせいでしょう。消費文化への転換に当たり、もしかしたら人身御供(ひとみごくう)が必要だったのかもしれませんね。


 以来今日まで映画、小説、漫画に“おみおつけ”の影はことさら薄く、時折現われても安定を欠いているように僕は感じています。

 とんでもない選択を日本人はしたのではなかったかと驚き、嘆息するばかりです。


(*1): 安土敏著『小説スーパーマーケット』(講談社 1984)
(*2): ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%99%BE%E8%B2%A8%E5%BA%97#.E5.87.BA.E5.BA.97.E8.A6.8F.E5.88.B6