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翌日からおれは台所をあずかることとなった。
牛殺しは毎朝六時にでかけていく。それまでに飯を炊き、
弁当をこしらえる。一度に腹におさめるのは、一合の飯。
朝は味噌汁、梅干し、高野豆腐の煮付け。弁当に握りこぶし
ふたつ分の握り飯と、味噌漬け。夕食は芋と大根の炊き合わせが
主な副食だった。一週間がすぎたころその献立に首をひねった。
肉や魚がまるでない。味噌や醤油はふんだんにあるものの、
干し椎茸や山菜などが食材のほとんどだ。獣をしとめてくる
こともなく、いつも山のものを調達して帰ってくる。
山賊にそぐわない、精進料理のような献立におれは謎を
ふかめた。(*1)
吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焔火(ほむらび)」からの一節です。
どちらを本業と思っておいでか分かりませんが、吉村さんは“調理”に携わる仕事に就いておられる。いやいや、本業とか副業といった発想はもう古いですね。僕たちの内実は多層化、多角化が進んでいて、たったひとつの“かたち”では充足を見出しにくくなっている。それが本当ですよね。僕みたいな不器用な者ほど、正だの副だの順列を付けて安心したがる訳ですよ、どうしようもないですね。
兎も角、吉村さんは調理に日々取り組んでいる。そこで生じた隙間のような時間を縫って、取材や構想といった文筆業に同時に当たっていく。そんなことが影響していると見えて、作者の“食べもの”への眼差しには独特の執着が見られます。
味噌や醤油(および調理光景、料理といったもの)の具体的な描写はそう多くは並ばないのですが、上の記述はちょっと面白かった。流浪する主人公が山中で初老の男に出逢います。精神的な部分を浮き彫りにする役割として、味噌と醤油が“ふんだんに”備えられた台所が登場していました。その“ふんだんにある”味噌と醤油を使って、“精進料理のような”料理が坦々と作られていくのです。
僕たちが“精進料理”を口にする機会は稀にめぐってきますが、いずれも精神的な営みと深くかかわっていますよね。思えばあれって不思議な取り合わせになっている。食べてよいものと悪いものの取捨選択の基準はもちろん「肉」であり、代用品の意味合いもこめて大豆料理が幅をきかせている。それ以上に突き詰めて考えたことはなかったのだけど、もうちょっと踏み込んで思案しても罰は当たらないかもしれません。
肉や魚といった美味しくてヨダレがこぼれるような贅沢品が排除されていく一方の、どうしようもない“残り滓(かす)”でそれらはあるのか、それとも魂を研ぎ澄ますために積極的に選ばれたものなのか。どう捉えるかで、器を彩る食材の見え方はまるで違っていきます。
それ自体に聖性が付されている訳ではないけれど、仏への祈りや故人との交信に寄り添う“許しを与えられたもの”として味噌や醤油はあるのかもしれない、そんな連想が奔って面白く読んだところです。
あれこれ「焔火(ほむらび)」については書き留めたいことはあるのだけれど、連日の寒波と積雪に疲労困憊しているところがあり、今日はこれで筆を置きますね。この雪が大気を洗い、清らかな飲み水を僕らにもたらしてくれる。そう思えばどこまでも美しい光景であるのだけれど、さすがに疲れちゃいました。
皆さんもどうぞ気を付けて、転ばぬように、滑らぬようにお過しください。
颯爽と風切って、けれど一歩一歩を大切にしながら、街をお歩きください。
(*1):「焔火(ほむらび)」 吉村龍一 講談社 2012 引用は134頁
リシャール・コラスさんの新刊「紗綾 SAYA」(*1)を読みました。湿り気をうしなって砂交じりの仲になった夫婦が登場します。寝室も別にしてしまい、実のある会話も成立せず、もはや難しい局面に入りつつある。寝たきりとなった家族も抱え、青息吐息の毎日です。そのような膠着した局面で男は運命的な出会いをしてしまうのでした。ぼんやりした雨雲がすべてを覆っていく、そんな筋立てです。
夫婦の危機や嫁姑の確執は物語の題材として真新しいものではなく、むしろ陳腐なものです。わざわざ抜き書きして記録するに値する文章、作品とは誰も思わないかもしれないですね。人によっては途中で放り投げてしまうかもしれない。
けれど、この物語をつらぬく視座が、実は前作「遙かなる航跡」(*4)に引き続いて登場したある人物に置かれたものであり、新旧ふたつの物語がこの人物を間に挟んで秘かに連結し、最終的に螺旋を描き天空に向かって飛翔を開始しているのだと巻末で知れると、僕の胸には言いようのないおごそかな想いが湧きました。一見ステレオタイプの不倫劇に見えるけれども、かなり緻密にふたつの物語は構築されて世に送り届けられている。
ウェブを検索すると作者のインタビュウ(*5)が見つかります。震災と発電所事故という巨大な壁がたくさんのひとの行く手を阻(はば)んで、航路を揺るがし、ひどく狂わしてしまった。このような時に求められるのは人とひとの心を繋ぐ“絆(きずな)”であり、その確認が大切と思う。そんな啓発の念をこめて上梓したことが静かな口調で語られています。
物語のなかの男女とそこに関わる若い娘は、最後散り散りとなって自壊していくのでしたが、作者は前作の主人公だった人物(作者の分身)の視線を“絆”と為して離散を食い止め、忘却の淵に追い払われるところを寸でのところで回避しているように見えます。救われない話に見えて、ぎりぎりのところで救われているのですね。
誰もが同じようなものを抱えて人生という演目をこなしている。“ばみり”が見当たらずに途方に暮れたときには自分の物語を隣人に預けてみてはどうか。そうして気持ちを整理し、呼吸を整えてみてはどうか。家族の絆だけでは何ともならぬ凄惨な現状にたじろぎ、自棄的な行動に走らず、思い切って“他人との絆”に賭けてみてはどうか───そのようにコラスさんは言いたいのでしょうね。
本国フランスで二年も前に出版され、こんどは作者自身の翻訳で世に送り出された日本語版「紗綾 SAYA」は、作者の言う通り“震災後の物語”として記憶に刻まれていい、こころざしのともなった一冊のように受け止めています。
さて、味噌汁の記述を並べてみましょう。
夫との関係は、すっかり冷えてしまいました。毎日夕食まで
帰るかどうかもわかりませんから、夫のためにわざわざ食事を
用意しません。炊いたご飯と残り物のおかず、それに味噌汁が
あれば十分です。
ビールを冷やし、簡単なつまみを用意するだけのこともあります。
夫はきちんとした食事がなくても、冷えたビールとつまみがあれば、
それで満足なのです。(*1)
“習慣化”したり“義務”を感じ始めると、どのような崇高な行為であっても生彩をたちまち喪っていく。先日読んだ本(*2) にそんな記述がありました。そうですね、たしかにそういう時期って在るもの、起こるものです。仕事だってそうだし、遊びだってそう。食事はその典型です。“日常のかなめ”となるのはリズムの持続であったり程度の保持であったりする訳で、どうしてもループを作って“習慣化”させていく流れです。
祭事であったり記念日だったり、それは人それぞれではあるけれど、特別な日に特別なものを存分に食べて“習慣”を押し崩す。難しい言葉を持ち出せば“蕩尽(とうじん)”して疲れたこころを洗濯する。そんな工夫を僕たちはします。けれど、それすらも“義務”的な色彩を帯びてくると気持ちはやや乖離してしまうし、解放感どころか窮屈を覚えたりもします。シンプルなのだけど、シンプルでいられない。歯痒い“難しさ”があります。
上に引いたのは「紗綾 SAYA」の最初の方に登場する場面です。習慣として義務として食事は作られ列をなしていく。“炊いたご飯、残り物、簡単なつまみ”といった表情に乏しい字面(じづら)が蛇のようにとぐろを巻くばかりで、そこには共振を誘うものはありません。
“それに味噌汁があれば十分”という言い回しはそれにしても強烈です。願いや祈り、気づかいは微塵もこめられていないし、健康にも寄与しない、具のほとんど入っていない生しょっぱい液体が目に浮かんできます。肘鉄を喰らったような気分です。
“味噌汁”はさらに続いて次のような、どんよりと曇った風情で再度振る舞われています。
朝、夫と子どもたちの食事はトーストにヨーグルトと簡単に済む
のですが、義母だけはそうはいかないのです。彼女にはきちんとした
和食を出さなければなりません。味噌汁に魚沼産の炊きたてのごはん、
旬の魚、お新香と梅干。それらをきちんと用意させる上に、毎朝違った
食事でないと許してはくれません。私にとって義母の要求は、大きな
負担です。
それでも毎朝きちんと準備をし、今日もお盆にお絞りと箸をのせ、
味噌汁にごはん、お新香と梅干、のりが入った箱をきれいにセット
しました。お皿にほんの少し醤油をかけた大根おろしを置いて、焼き
たての鮭をつけて、お膳は整います。
小さなお盆にティーポットと茶碗、茶筒を揃え、台所に誰も入って
こないことを確認してから、私はエプロンのポケットからスポイトを
出しました。(*3)
年老いていよいよ介護の手を要するようになった姑なのですが、プライドが高く、意地だけは堅牢を保ち、他者への高圧的な態度を崩そうとしません。世話するおんなの内面では堆積するものがいっぱい一杯になっていく。極限に至った憤懣は“スポイト”から零れる水滴という形でついに顕現し、ちょろちょろと洩れ始めてしまいます。
ここで食事はまさに“義務”となり“習慣化”しています。弱い立場のおんなにとって、それがどれ程ひどく内面を荒廃させるかを、写実的に、けれど、やや誇張して作者は書いていく。漬け物と共に味噌汁が執拗に、印象深く顔を覗かせていますね。
コラスさんは前作で外から見た日本を描き、“非凡なもの、例外的なもの、普通でないもの”の一翼に和食を置きました。味噌汁も驚きと憧憬の視線をまとって陸続と登場し、読み手の僕を大いに悦ばせたのでしたが、今作では一転して暗い様相を呈して並んでいる。コントラストが鮮烈です。
絆によって結ばれていく人生という名の永久螺旋──。その両側面、日なたと日かげのいずれにも“味噌汁”があって僕たちをそっと見守っている。“習慣”の中で埋没してウヤムヤに見えるけれど、思えばなかなかの存在感ある脇役だったりする。境界線にたたずむ仏蘭西生まれのひとりの男が注ぐまなざしの、堅さ、純度を感じます。
(*1):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社 引用は14頁
(*2):EMMANUELLE,New Version エマニエル・アルサン 安倍達文訳 1988 二見書房 「もしそれが習慣的なよろこびであるとすれば、そのよろこびは、芸術的な性質を持つことをやめてしまう。非凡なもの、例外的なもの、普通でないものだけが価値を持つのです。つまり『決して二度と見ることができないもの』にこそ、価値があるのです。」(237頁)
(*3):引用は16-17頁
(*4):「遥かなる航跡 La Trance」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 集英社インターナショナル 2006
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/11/la-trance2006.html
(*5): http://www.sankeibiz.jp/econome/news/110917/ecf1109170501000-n2.htm
枝を拾って火をおこす。鉄鍋に湯を沸かし、ぶつ切りにし
た身欠き鰊と、ささがきにしたウドをほうりこんだ。湯だっ
てきたよころで味噌を溶いた。
「たんと食え」
椀に山盛りだ。一口啜ったおれはうなってしまった。鰊の
ダシが味噌となじんでいる。どっしりと腹わたに沁みる。(*5)
カナカナと哀しく唄う蜩(ひぐらし)の合唱に続き、盛夏の訪れに狂喜するかのような油蝉が鳴き出しました。事故の影響で何百万、何千万、いや、もしかしたら何億もの蝉の幼虫が暗い地中で息絶えたのではないか、目がただれ、身体を焼かれし、きゅうきゅうと悲鳴をあげながら苦しんでいたのではなかろうか、と怖い想像をしておりましたので、いつにも増してこころに迫る声となって聞えます。生きていてくれて、ほんとうに有り難うね。
さて、上に引いたのは、吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焰火(ほむらび)」からの一節です。第6回「小説現代」長編新人賞の受賞作として、同誌8月号に断片のみになりますが掲載されています。以下、幾らか内容に触れますのでご用心。年末には単行本化されるとの話です。一気呵成に物語に身を投じたい人は、それまでひたすら耳をふさいでお待ちください。
集落から代々疎外されてきた家筋(獣を狩り、皮と肉をさばく家系)に育った若者が、村の男たちからの悪辣な私刑に反撃して死闘を繰りひろげます。ぞっとする描写の連続なのですが、つよく惹き付けられる瞬発力、豊かな“しなり”のようなものに溢れていてとても面白く読みました。
その後、旅の途中の親切な船人にからくも救われ、若者はまさに九死に一生を得るのですが、ひと息ついてから振る舞われた食事が上のような“味噌鍋”だったのです。干し魚と山菜の具体名が素朴な味わいや匂い、質感をありありと夢想させ、そこに“なじんだ”味噌の厚みのある香りが加わって鼻先に立ちあがる。適確で無駄のない描写となっていました。
若者にとって味噌はご馳走であり、それを口にするのは歓喜の瞬間だとわかります。選考委員のお一人の言葉によれば、時代設定は昭和初期とのことであり、その頃の味噌の存在感が再現されているだけでも紹介に値すると思われたのですが、僕にとってもっと驚きであり、大いに楽しくもあったのは以下に並べた“味噌地蔵”のくだりなのです。
古代信仰の現場においては“聖域”と呼ばれる場処に死骸や汚物を放り入れたり、タブー視されがちな行為(例えば男女の交接)をあえて持ち込むことで聖性をより高める、そんな意識の大跳躍が図られたと聞いています。また、今でこそ整然として美しいお坊さんの袈裟(けさ)ですが、少し前までは図柄など混沌とした“つぎはぎ”然としていましたね。あれなども遥か昔にお坊さんが供養と修行のため、埋葬間際の死者を覆っていた布を譲り受けて我が身に纏(まと)っていたことに由来していると聞きます。これはよく知られた話ですね。
聖性をより高めるために穢(けが)していく。醜悪な外貌を強いて力を数段高めていく。一見真逆なマイナスとも思える行為をもって、信仰の対象となるものがいかに寛容であるかを広く知らしめ、精神世界の奥行きをぐんと延ばし、結果として内在する輝きを増強する。洋の東西を越えて共通する宗教の暗い一面です。
毎年仕上がった味噌を祠(ほこら)に献上し、そこに祀(まつ)られた地蔵像の顔や頭にすり付けるという風習は、日本のあちこちにひっそりと根付いたものとしてこれまで見聞きはしていましたが、ここまで明瞭に小説世界で取り上げられたのは初めてのように思います。
汚さ、醜さ、臭さを端整な優しい顔立ち、柔らかなそうな丸まっちい肢体にごわごわと付着させ、常人の意識や感覚をはるかに凌駕した強靭な息吹を石の身体に宿らしめる。物語の重要な支柱のひとつとして採用されて、繰り返し何度も若者の意識に立ち昇ってくるこの味噌地蔵の面影は、実に味わい深いものがあります。
食べものが仲立ちしていく魂の世界。味噌と日本人との結びつきの深さと長さ。僕たちが味噌に対して抱く両極端の想い、憧憬と侮蔑。それがない交ぜになって風となり、時代をこえて吹き抜けていく。──そんな事を考えるきっかけとなってくれて、実に刺激的でした。
年末に明らかにされるだろう吉村さんの物語世界と再度まみえるのが、今からとても楽しみです。生きていれば必ず手にするでしょうね。
お堂の床板はひんやり湿っていた。
背中が心地よい。
味噌まみれの石仏がこちらを見下ろしている。かさぶたの
ようにただれた味噌はすっかり水気をとばし、表情をあいま
いにかえていた。
脱ぎ散らかされた衣服が蛇のようにからんでいた。おミツ
の着物の赤がひときわ目についた。(*1)
地蔵さまは汚かった。かびがはえていた。顔にぬりたくら
れた味噌はひびわれている。表情もわからないほどだった。(*2)
味噌は酸っぱくなっていた。鼠のかじったあともある。そ
れをみかねたお父が顔を洗ったことがあった。きれいにして
やろうとの一心だった。しかしその晩から原因不明の高熱
にうなされてしまった。(中略)味噌が落とされた地蔵さまが
怒っている。それがお告げのこたえだった。翌日お母が味噌を
塗りなおしたとたん父はけろりと起き上がった。(*3)
とぎれとぎれに言葉を叫ぶ。着物をはだけたまま繋がりあ
う。うめきがお堂にこだまする。よごれきった味噌地蔵が、
錫杖(しゃくじょう)を手にこちらを見据えている。地蔵さまぁ。
おらだをお救いください。おれとおミツをあったけぇ場所さ
連れてっておごやい。(*4)
(*1):「焰火(ほむらび)」(抄録) 吉村龍一 「小説現代」 講談社 2011年8月号所載 240頁
(*2):同248頁
(*3):同248頁
(*4):同253頁
(*5):同260頁
「ママと、あの、あの田所さんと、食事するのか?」(中略)
「するよ。よく一緒に食べに行こうよって誘われるけど。
僕も祖母(ばあ)ちゃんも断ってるの」
「へえ、すると、ママと田所さん、二人で食事?」
「そうだな。二人で行ってるんじゃない?」
鶏肉を頬張っている口から、若干曖昧になった言葉を出した。
二順は顔を強張らせた。味噌汁のお椀を持ち上げ、むやみに
箸でかき混ぜた。白い豆腐が幾つも、平たく漂うわかめをかき分け、
わきあがった。それを唇も舌も経由させず、まっすぐ喉に注ぎこんだ。(*1)
楊逸(ヤンイー)さんの「獅子頭(シーズトウ)」からの一節です。2010年の2月より朝日新聞で連載されている小説ですが、ごめんなさい、僕はあまり熱心な読者ではありませんでした。ですから、この物語がどのような輪郭を持っているか、語る資格を全く持ちません。話せるのはこの回、それだけです。
中央にぽんと置かれた挿画に朱塗りの椀があり、白と深いみどり色の平行四辺形が薄茶の汁に浮いています。幕を下ろした後の舞台に落ちたまま捨て置かれた紙製の雪みたいに見えて、やや淋しげな風情です。ああ、豆腐の味噌汁だ。磁石に引き寄せられる砂鉄のようになって文字を追いました。実に細やかな描写がそこにあって、思わず溜め息が出ました。
二順(アーシュンと読むようです)という名の父親が、泊まりに来た息子の涼太のために夕食をこしらえます。めったに作らない純和風の献立です。涼太は喜んで箸を伸ばしていく。まだまだ子どもなのです。父親は息子の母親、どうやら別れた妻のことが気になり、口にしづらい質問をおずおずと切り出していくのでした。上ずる声の感じから父親の気持ちを酌み、息子は曖昧ながらも返答していく、そんな情景です。
焦り、震える胸中を代弁するように味噌汁の椀のなかで小型の嵐が突如発生し、具材がぐるぐる逆巻いています。味わい噛み締める余裕をもはや失くし、ぬるい液体がむなしく喉を駆け下っていく。その感じを僕たちはすっかり幻視、幻覚して、一瞬でこの男のやるせなさ、寂しさ、いくらかの嫉妬を自分のものとして深く共振するに至ります。
「やきもちを焼いているんでしょう?」
「やきもち?」
慌てた二順は、手元にあった雑巾で鼻を拭いた。
「祖母ちゃんが言ってたよ。田所の話をしたら、
パパがやきもちを焼くかもよ、ってさ」
涼太は得意げな表情で、両手で味噌汁のお椀を持ち上げ
ながらも、食べる素振りもなく、目をじっと二順の顔に据える。
全くワンパクで賢くて困った子だ。二順は味噌汁のお椀で
顔を隠し、息子の視線から逃げた。(*1)
顔の前まで掲げ持たれる味噌汁の椀。具材を箸で口腔内へ導く間、口もとから鼻、目元までの表情を覆い、向き合う家族、恋人からの視線を避けて、魂の個室を一瞬だけ創出していく。その特質を見事にとらえ切った描写です。これは素敵過ぎます、唸るしかない。楊逸さん、おそれいりました。
ものを食べるという行為のいちいちでここまで踏み込んだものがあっては、きっと疲労困憊しちゃって料理の半分も喉を通らないでしょう。けど、ときにはこういう時間、魂と料理が肌寄せ合うような得難い時間が人生にはめぐって来てもらいたい、そう心から願います。
どうか素晴らしい夕食を、そして、幸せな朝食を。
いい一日を、やさしい一瞬を。
(*1): 「獅子頭(シーズトウ)」 楊逸 2010 第254回より 私が読んだのは2010年12月29日の朝刊18面でしたが、大都市圏では夕刊に載っているようです。もしかしたら掲載日もずれている可能性があります。イラストは挿画を担当しておられる佐々木悟郎さんのもので、この回を飾っていたものです。旨味の利いた、美味しい絵ですね。ごちそうさまでした!
「もしもコストを度外視して、安全でよいものだけを集めると
いうのであれば、現在でもできます。試算ですが、お手元の
資料にもありますように、玄米一膳に五〇円、ブリの切り身に
二〇〇円、味噌汁の味噌に二〇円、里芋と大根の煮物一人前に
一三〇円をかければなんとか供給できます。」(*1)
昨晩からずっと雨がしとしと降っています。雨自体は嫌いじゃありませんから、ベッドでごろごろしながら買い溜めていた単行本や雑誌をひも解いたり、見ないでいた映画などを眺めてゆったりと過ごしています。先程読み終えたのは三百頁ほどの小説。帯に“「食」は魂を救えるか?”とあり、その言い回しが気になって買い求めたものでした。 2081年に始まり2101年に幕を閉じる“食”にまつわる冒険譚です。作者の将口真明(しょうぐちまさあき)さんより贈られる70年以上先の僕たちの未来がどのような波乱を含むものか、あまり詳細を説明してしまうとこれから読もうとする人の邪魔になるので止めておきますが、基本的には明るいものになっていますね。
電子制御された快適この上ない交通手段が街を縦横無尽に貫き、立体映像を介して人と人との交流が各家庭のリビングで花咲いている。大きな地震が襲ったりするけれども、致死的な謎のウィルスで人類が絶滅するでもなく、戦争で新型爆弾が落とされるでもない。凶悪なロボットが叛乱を起こすこともありません。
けれども、繁栄の影で日常に無制限に浸透してしまった電子ツールが子ども達や独身者を終日鎖に繋ぐこととなり、次第に身体をむしばんで奇妙な“免疫不全”へと追い込んでいくのです。死に至らしめるという最悪の現象が次々に発生して、政府も対応に悩みます。そうこうするうち、身近な人がひとりふたりと死んでいく。主人公の女性は“魂のエイズ”と称されるこの奇病の蔓延に抗うべく、パートナーのイタリア人シェフと組んで旧約聖書に描かれている“マナ”という神の恵みを探していくのでした。トム・クルーズが未来都市で殺人者の汚名を着せられて逃避行を演じる、そんな映画が以前にありましたけど、ちょっと雰囲気は似てますね。
上に引いたのは劇中の会議で話される未来の食のコストです。食以外の価格がどうなっているのか、人々の収入の増減が一体どうなっているのか判然としませんので、ここに並んだ金額がどの程度“度外視”されて並んだものか僕には見当がつかない。 けれど70年後の世界で“味噌汁”が出現しているのは、くすぐったいような感じで読んでいて愉しかったですね。 ちなみに椀一杯に使用される分量は15gから20gといったところでしょうから、「味噌汁の味噌に二〇円」というのは1kg換算で今の価格にして千円から千三百円ぐらいになりますね。うむ、確かに高いかも──。
この表記以外にも“たまり醤油”が小皿に用意されますし、金目鯛やゴボウ、山芋は“醤油”をベースにして煮込まれて供されています。値段はさて置き、僕がこの世から跡形もなく消え去っているだろう70年後から90年後の世界で“味噌”と“醤油”が精神的な食べものとして多用されている、それは面白いし、この小説を読む人の誰もがそれを素直に受け止められるとするならば興味深い事実ではないかと感じるわけです。
僕たちの深層に両者がどれだけ注がれ、どれだけ染め上げているのか、その事実がそれとなく裏打ちされていく。なかなかの予言書でありカルテであると思いました。
(*1): 「マナをめぐる冒険 魂を潤す究極のレシピ」 将口真明 講談社 2010 126頁
そのようにして海辺の「猫の町」での天吾の日々が始まった。
朝早く起きて海岸を散歩し、漁港で漁船の出入りを眺め、それ
から旅館に戻って朝食をとった。出てくるものは毎日判で押した
ように同じ、鯵の干物と卵焼きと、四つ切りにしたトマト、
味付けのり、シジミの味噌汁とご飯だったが、なぜかいつも
うまかった。朝食のあとで小さな机に向かって原稿を書いた。
久しぶりに万年筆を使って文章を書くのは楽しかった。(*1)
実を言うなら、読み始めた当初は困惑するものがありました。行を目で追いながらもあれこれ思い返すものがあって、集中するのを妨げてしまうのです。
僕には若い時分からすこぶる敬愛し、丹念に読み続けていたひとりの作家がありました。けれど“最後の小説”と冠した物語を上梓してしばらく後に、臆面も無く再度執筆活動に入ったことから気持ちがどうにも乖離してしまって、以来新聞紙面に寄稿する小文を眺める程度に興味はとどまっています。また、故郷の蒼い星を守るために捨て身の突撃を為し、無惨に息絶えていく宇宙飛行士を主人公とする漫画がかつて在ったのだけど、これも劇場大ヒットに乗じる形にて数ヵ月後にはブラウン管で“生き返って”しまったものでした。 「1Q84 BOOK3」は一度区切られてしまった想いをなし崩しにして始まる点で、それ等ととても似ているのです。
小説であれ映画であれ、根幹にあって無視出来ないのは売上げです。ファンの一部を犠牲にしても部数を伸ばし、興収を上げてようやく一人前。器用に、そして逞しく泳いでいく商売上手のそんなしたり顔を、僕ほどにも年齢を経てしまった大人が疎(うと)んじ、ぼやくのは子供じみていることは百も承知なのだけど、当時の苦さ、渋さを口腔に再現してしまって落ち着かなかった。
けれども、ようよう読み通して静かに頁を閉じてみるならば、顛末は十分納得されるものだったし、提示される情景のいちいちは気高く爽やかなものがあって、決して不快な澱(おり)が胸底に沈み込んではいかない。まあ、好いように作者に弄ばれている気もしないではないけれど、幕引きの直前に融合を目指すふたつの魂の描写には、気持ちを捕らえられて胸踊り、また、素直に胸に来て、随分と嬉しかった。
僕の人生を左右する決定的な何かを含んでいた──なんていうロマンチックな言いぐさは、年齢的にもはや似合わないけれど、この年齢なればこそ解かるところもあったし、実生活のあれこれのモノの見方に陰影が少し増したような清清しく澄んだ感覚があって、読後感は上々でしたね。 二つ三つ若返ったみたいです。
さて、以前もこの場にメモした訳だけれど、このBOOK3においても相変わらず“味噌汁”が顔を覗かしてくれるのです。これまではアパート等でこつこつ自炊する際の献立にまぎれていたものが、いずれも戸外で供されていることがちょっと興味深いですね。“境界”に立ち現われるのが“味噌汁”とするならば、天吾という青年の抱える境界線が大いに揺らいでいた証拠かもしれない。 階段を降りて食堂に行くと、そこには安達クミがいた。田村
看護婦の姿はなかった。天吾は安達クミと大村看護婦と同じ
テーブルで食事をした。天吾はサラダと野菜の煮物を少し食べ、
アサリとねぎの味噌汁を飲んだ。それから熱いほうじ茶を飲んだ。
「火葬はいつになるか?」と安達クミは天吾に尋ねた。(*2)
実際の僕たちの食卓においては味噌汁の出現回数は徐々に減っている感じが明瞭なのだけれど、若者がこぞって読み進めるこの話題のベストセラー本に、その香りと旨味がしかと送り込まれている。それも否定的にではなく“うまかった”と評され、また、とても意味深く精神的な場面にも座がそっと設けられている。有ってもなくてもどうでもよいモノではなくって、物語の構築に不可欠な情景として明確な意図のもとで味噌汁の椀が顕われている(ように思う)。
“シャルル・ジョルダンのハイヒール”なんかと一緒にシジミやアサリの味噌汁が組み上げている“1Q84”の作品世界がいじらしくって、素敵なバランスだな、と思うんです。他愛のない事なのでしょうけれど、なんか嬉しいから書き残しておきます。
(*1):「1Q84 BOOK3〈10月-12月〉」村上春樹 新潮社 2010
第3章(天吾)みんな獣が洋服を着て 57頁
(*2):第21章(天吾)頭の中にあるどこかの場所で 447頁