※Larry Crowne 監督 トム・ハンクス 2011
2012年5月12日土曜日
2010年9月17日金曜日
米林宏昌「借りぐらしのアリエッティ」(2010)~ビスケット~

この年齢でそれはないよ、と恥らいつつ、時折、劇場に足を運んではのんびりと極彩色のマンガ映画を楽しんでいます。極端な絵空事にはもはや付いていけなくって、現実に深く拮抗しているものか、発達し続けるテクノロジーが社会や家庭をどう変えていくかをシミュレートする、そんな指先が届きそうな“近しい物語”に限られるのですけどね──。この夏は『借りぐらしのアリエッティ』(*1)と『カラフル』(*2)を観ました。(*3)
いとけない少年少女のお話で、いずれも身近な日本の風景を舞台に選んでいます。あれこれ語るのは年輩者の役割ではないでしょうから、例によって話題を絞ります。『借りぐらしのアリエッティ』は古い西洋風の家屋の床下に小人の家族がこっそり住み着いていて、夜になると忍び出ては食品や雑貨を盗んでいく、そんな一種のおとぎ話、妖精譚です。
原作はイギリスの児童文学らしく、Youtubeには海外でドラマ化されたものの一部が載せられていますね。上で“妖精”と書いたのは原作の持つイメージがきっとこの映像に近しいと思うからです。赤毛のちんちくりんな頭とずんぐりした体躯、甲高い声とバタバタした動きは人間ばなれして見える。コロボックル、座敷童(わらし)、キジムナー、そんな感じです。
映画はそんな奇矯なキャラクターをきれいに捨て去って、寡黙で知的な家長を主軸と為して懸命に団結し、生き残りをかけて手堅い日常を送っている“人間たち”が描かれる。“人間”であれば出逢いもあり、胸の奥につかえて鈍痛を覚える悩みの思いがけぬ吐露だって起きてしまうものだし、密やかな感情の交錯もそっと生じていく流れ。
重い病気をかかえた少年とそわそわして自立を模索する少女が出逢って、雲母のような薄く儚(はかな)い“きらめき”を反射していきます。大胆この上ない換骨奪胎の演出が面白かったですね。
悪い意味ではなくって“可笑しさ”のひとつとして脳裏を駆け巡ったのは、彼ら床下の小人たちの“食生活”についてでした。階上のテーブルでは茶碗にごはんが盛られ、また、味噌汁椀も見受けられます。箸を使ってのささやかな食事が淡々と描かれている。
そのような日本的な食事の“おこぼれ”にあずかっているはずの小人たちの栄養補給の仕方は、どう見ても頑固な洋食主体であって、その段差が僕には相当に意図的に見えたのです。彼らはビスケットを台所からくすねると、それを持ち帰っては苦労してゴツゴツと細かく砕き、ようやっと粉にしてから、どうやらそれをさらに加工してパンか何かに仕上げて主食とするらしい。どうしてまた、そんな回りくどいことを!
海外の原作を採用したことの歪みにも見えますが、それだけでなくって、わたしたちを取り巻く日本食がにちゃにちゃと粘性が高く、扱いにくいという点もあるやもしれません。実際、日本語のなかの食感に関わる形容で、ベタつく感じを表現するものの数は世界でも稀な多さらしい。(*5)
ごはん粒など拾おうものなら、カーマインの素敵なワンピースは澱粉でごわごわとなってしまうでしょう。床下の多湿な空間に濡れたものを持ち込みたくない、というのも理に適っている。思考の末に小人達はビスケットに狙いを定め、カサカサと袋をまさぐる階上の物音に耳をそばだてていくのでしょう。
加えて、いや、実はこっちの方がたぶん本筋なんでしょうけど、納豆や味噌臭い風体で少女が徘徊しては百年の恋も覚めるということじゃあないか。恋情と和食文化とのすれ違いが、意図的にか偶然かは知りませんが二重三重に、けれど、実にさりげなく劇中に起こっているようで、僕は少し面白く思ったのでした。僕たちの胸奥に巣食ったこころの化身のようにアリエッティは見えるのです。
(*1):「借りぐらしのアリエッティ」 監督 米林宏昌 2010 原作はメアリー・ノートン「床下の小人たち」The Borrowers
(*2):「カラフル」 監督 原恵一 2010
こちらの映画では「丸大豆しょうゆ」の容器が幾度か目に飛び込んできます。家族の再生を描く物語の常套として台所脇の食卓が登場するのだけど、彼らの背後にある流しの上のちょっとしたスペースに「丸大豆しょうゆ」がふんぞり返って僕たちを睨んでいます。演出の意図は何か、各人各様に受け止めるしかありませんが、のびのびとした風景とはなっていませんね。“しょうゆ”というのはなかなかに重苦しいもので、現実世界の覚醒を後押しするような役回りが多いのですが、ここの“しょうゆ”もそんな負の気配を纏(まと)って見えます。
(*3):マンガという世界は、思えば瑣末な背景描写のいちいちにさえも取捨選択を迫られる、言わば無制限に“決断”を迫られる場であって、作り手の意識や認識がべろりとさらけ出されてしまう仕組みです。カメラでもって現実の空間を掠(かす)め取る、いわゆる通常の映画と比べて随分と“批評的”に成らざるを得ない。(*4)
現在作られているマンガ映画であるならば、それは間違いなくこの時代を僕たちと共に生きている人間の、リアルこの上ない個人的な“世界観”がスクリーンにつぶさに塗布されていくわけで、観客の抱える“世界観”と衝突したり交合(まぐ)わったり、実は相当に激しい時間になっていく。もしも嘲り笑われるとしたら、その対象は表現手段にとどまらず、いきなり作り手の観察眼や見識といった真髄、真価に向けられる。逃げの利かない勝負を迫られているように見えますね。そんな独特の緊迫感が僕を捉えている、そんなところはアリマスね。
(*4):劇画出身の石井隆さんのように全方位的に目線がゆきとどいて統一した世界観を構築できる実写の監督さんもおられるけれど、そういう人はごくごく稀であるように思われます。
早川文代 (独)農研機構 食品総合研究所 食品機能研究領域 主任研究員 博士(学術) 「日本語のテクスチャー表現から見えてくること」 東洋クリエート株式会社発行「創造 №36」平成22年8月1日発行
2010年7月1日木曜日
小泉徳宏「Flowers フラワーズ」(2010)~懐かしい看板~

知人宅を訪ねた折りに、外国製のチョコレートをご馳走になりました。ほどほどの甘さとあえかなバニラの匂いが口腔にふわりと拡がります。少し儚(はかな)げな印象を刻む上品な香味に仕上がっている。何でも旅行のお土産だということで、その折に撮られた写真を何葉か見せていただきました。
場所は北米の太平洋岸の街、シアトルです。穏やかな笑顔をカメラレンズに向ける老夫婦の姿やマリナーズの本拠地である野球場などを微笑ましく眺めながら、徐々に成長して手堅いものとなる想いがあります。しっとりした落ち着きが街のあちこちから滲み出ている、これはなんだろう──。
山の上なのか高層ビルの最上階なのか分かりませんが、広々とした眺望が眼下に広がっています。海へ向けて傾斜を強めていく大地に、悠然と街並みが連なっていく。微妙な違和感を抱えながら再度しげしげと見返すならば、それら林立する建物が実にしっくりと地面の傾斜と足並みを揃えているのです。つまり、背丈を合わせて綺麗に列をなしており、眺望を邪魔する“でっぱり”が一切ないんですね。真新しい外壁のビルディングばかりなのに、そのどこにも看板が見当たらないことにもやがて気付きます。何かしらの強固な規制が働いていることは明らかです。
独裁政権を敷く首長のもと、大胆なグランドデザインが実行に移されたかのような、実に力強いものを透かし見ることが出来る。きらめく欧州の古都ならばまだしも、歴史的にまだ浅い北米の都市がここまで美しく展開している。凄いな、これは。
ウェブ(*1)で検索して調べてみると、景観規制が市民レベルで根付いていることが分かります。市民の意見に折れた末にスケールダウンしてオープンした海岸沿いのホテルなども見れますが、日本じゃとても考えられない“落としどころ”です。人生の舞台となる自分たちの街を本気で愛している人たちがいるのでしょうね。
“街並み”“景観”“看板”といったものに気持ちが傾いているのは、先日劇場で観た日本映画(*2)のせいでもあります。昭和初期から今日に至る七十五年の長く重い歳月を、三世代の女性群像を巧みに組み合わせて提示していく意欲作でした。そこにはシアトルとは対照的な風景がありました。
大手化粧品会社と共闘してのイメージ戦略が生い立ちである以上、女性の装いや美しさを過剰に描いていくことは素人目にも回避出来そうにない。それは観る前からわかり切ったことで、案の定、人生の機微たる“老い”“戦禍”“格差”という翳(かげ)の部分をすっかり削ぎ落としてしまい、立体感の乏しい単調な顛末になっているのですが、それはまあ、仕方のないこと。前の席に座っていたご婦人は終始すすり泣きでしたし、ひとときの娯楽を求める気持ちには十分応えている。浮世離れの数々も“ご愛嬌”と笑って許してあげるべきでしょう。
興味深かったのは、それぞれの年代のコントラストを思想の変転や流行り言葉をもって表わすのではなく、その時時に作られた映画の色調を徹底して再現して提示しているところで、その情熱と言うか固執の様子は呆れるほどでありました。(*3) 服装や髪型、小道具を駆使して年代に肉迫することは当然ながら、照明やカット割り、音質までも丸ごと動員してタイムスリップを目論んでいる。地味を装いながらも大胆不敵な演出です。その実験的な作業は観ていて気持ちの良いものでした。
そのようにしてスクリーンに映じられた“過去”の街並みには看板がひしめいており、中でも随分と目立つ位置に“醤油”のイメージが刻まれていたのです。竹内結子さんと大沢たかおさんが演じる若い夫婦が旅行で訪れる海辺の町。その駅舎の前に置かれたベンチには、ありありと醤油メーカー(群馬に拠点を置く)の亀甲型のマークと名前がホーロー看板に描かれ貼られていたのだったし、また、東京の出版社で孤軍奮闘する田中麗奈さんを描くパートでは、上司より呼び出されて説教を受けた屋上から望むビル群のなかに、排気ガスに曇ってやや輪郭がほどけているにしても随分と巨大な(こちらは千葉本社の)、やはり亀甲型の目に馴染んだマークと社名とが赤々と浮かんで目に飛び込んで来るのです。
物語の進行とはまったく無関係の登用であるのだけれど、この作品の“時代再現”への凄まじい粘着を想うとき、果たして意図なき偶然の産物であったか疑問が湧いてきます。1964年、1969年という過去のランドマークとして亀甲の印が選び取られたというのが正しい読み解きでしょう。
もちろん醤油の看板だけでなく、余白の隅々を埋めるものが実に懐かしい光彩を放っていて、例えば壁にかかった東郷青児さんの女性画であるとか、紫煙にまみれ果て黄色い脂(やに)でベタついた柱の時計とか、ウィスキーのロゴの刻まれた平たい灰皿とか、谷崎潤一郎さんの著作の背表紙とか、美術スタッフの熱意が結晶化したものが点在して目を愉しませるのですが、そうやって僕たちを過去に誘(いざな)うイメージの一端に亀甲型のマークが含まれていたことに、わずかながらも衝撃があったのでした。
“醤油”もまた“昔のもの”となりつつあり、今や忘却とのせめぎ合いの域に軸足を踏み込んだのかな、少なくともこの映画の送り手の幾人かはそのように“醤油”という存在を解析しているに違いなかろう。“懐かしいもの、過去のもの”に直結するものとして、ここでは“醤油”が使われている───。
僕たちの住まう街はシアトルとは違い、乱雑で節操のない広告に埋まっている。美しい眺望なんて、だから望むべくもなく、破壊と再生を細かく繰り返しながら無秩序な街並みと看板の乱立が果てしなく続いていくでしょう。毎日が清々しい気分だろうと想像を巡らせる、そんな場所で暮らすことは僕にはやはり難しそうだ。
それでも意識的に街路を見直す機会にこうして恵まれてみれば、看板であれ何であれ構成するそのひとつひとつが短命であることが分かります。それらが懐かしい人、懐かしい家族の記憶といずれ直結するのかもしれず、そんな回想の仕掛け作りを僕たちは日々しつらえているのかな、なんて考えたりもするのです。混沌とした儚い風景であればこそ、その時々の変転する人の気持ちや、逆にいつまでも変わらぬ想いなんかを寄り添わせることが可能なのじゃないか。
日常にくたびれ、懐かしさに抗い切れずに足を止めて振り返ったときには、次々と入れ替わっていった看板たちや消え去った商品たちがその想いを受け止めて手を振り、きっと助けてくれるはず。僕たちの住まうこの街は時間旅行を可能たらしめる場処なんですね。ちょっと見苦しくても“ご愛嬌”と笑って許してあげるべきなのかもしれません。
(*1):「斜面都市における眺望景観保全政策の特性評価とview corridor施策の適用に関する研究」 栗山尚子 平成18年9月
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis/d2/D2002896.pdf
(*2):「Flowers フラワーズ」 企画・製作総指揮 大貫卓也 監督 小泉徳宏 2010
(*3): ウッディ・アレンさんの監督、主演による「カメレオンマン」(Zelig 1983)という映画も過去のフィルムの特性を丁寧に再現したものでしたね。合成技術の跳躍が最近めざましく、いよいよこの手の描写は精緻さを増して来ています。やがて古い映像が自由自在に編集され、まるで違った意味合いを持たされたりしちゃうのでしょうね。ちょっと怖い気もします。
そうそう、「Flowers フラワーズ」には味噌汁が登場しています。劇中、食事の風景は実に少なく、“老い”“戦禍”“格差”といったものと並んで“調理”もまたさりげなく排除されて見えました。唯一の“味噌汁”は冒頭近くに描かれています。昭和十一年(1936)前後を描く蒼井優さんのパートで、嫁ぐ前日の蒼井さんを囲んでのちょっともの哀しい食事の場面です。家族揃っては最後となるだろう予感が小さな食卓を重く覆っている。
ここでの“味噌汁”には旧来の隷属的で柔順な女性のイメージが幾らか投影されていたように感じ取れます。蒼井さんは父親が決めた婚礼に対して不服であり、翌日には白無垢姿で家から逃走するのだけど、それは“味噌汁”に象徴される束縛からの緊急避難でありました。映画ではそれ以降、実に75年に渡って“味噌汁”は影を潜めて消失してしまう。現在を生きる女性へ向けて作られた「Flowers フラワーズ」において、これもまた意図的な“空白の描写”であるように僕には思えました。何を足して何を引くのか、その結果導かれる物語を化粧品会社が支援していることは、考えてみると奥深いものがありますね。
知人宅をおいとまする時、お庭の可愛らしい花が目に止まりました。初夏の陽射しに照らし出された白く薄い花びらに、細いまっすぐな筋が幾本も走っています。刺繍を施された肌着のような繊細で柔らかな印象なのですが、驚いたことに、これがハエトリソウVenus Flytrapの花なんですね。僕の宇宙はまだまだ未開拓です。 とげとげの葉っぱで虫を捕らえる怖い一面と、清楚な花びらが同居している。なんて逞しい生きものだろう。僕の身近に咲く「Flowers フラワーズ」、彼女たちも一所懸命に生きています──。

