新年会で知人がおいでおいでと手招きします。おみやげと称して取り出したのは、緑色の表紙の薄い冊子でした。ゴシック体で「日本醸造協会誌」と白抜きされている、いかにも硬い顔立ちの学術誌です。
なかに“被曝に対する防護策を求めて”と小題を掲げた文章があり、目が釘付けになってしまいました。実を言えば昨春以来あれこれと気に病んでいる僕の様子を見るに見かねた知人が、わざわざ付箋を貼って持ってきてくれたのです。専門用語がわんさか列を為しています。門外漢の僕にはちんぷんかんぷんの箇所が多いのだけど、なんとなく明るい話題であるのは直ぐに見て取れました。
すぐにでも書き写したいところですが、学術論文を長々と引用するというのは小説や漫画のそれとは性質が違います。自由勝手に幻影を構築するものとは違い、現実世界に真っ向から切り込んでいるだけに賞賛であれ揶揄であれ、その反響はどうしても熾烈(しれつ)になってしまう。ツィッターのような新しい仕組みとこれがもたらす騒動も日頃から見知っておりますから、どうしても慎重に考えなければなりません。
「引用」という行為自体が学術書の域で許されるものかどうか、それももちろんあるでしょう。段を踏んで一歩一歩進める理詰めの内容を、ほんの数行に端折って紹介するのはとても危険なことにも思えます。井戸端会議で気ままに応答するレベルではなく、よく咀嚼して消化しきってから行動に移すべきことって世の中にはたくさん在ります。この度の事故の一件はまさにそれでしょう。
はてさてどうしようか悩んだのですが、本日論文の表題を試しに検索にかけてみれば何のことはない、当の研究に関わった会社のホームページで堂々と紹介されているじゃないですか。関係する皆さんは公言することに一切頓着しておられない様子ですので、もう遠慮することなく、僕なりにこの初春に読み取った“ささやかな希望”を日記に書き残そうかと思います。
6.まとめ
ヒト個体において、遺伝子情報保持に関わる生理機能(SOS応答)があることを対放射線ストレス応答の研究から見出している。その応答機能における細胞レベルでのかぎとなるものはシャペロンであり、GRP78やHSP27がある。それらの分子シャペロン類の細胞内量を、培養ヒト細胞RSaを用い、ウェスタンブロッティング法で測定した。36種の味噌食品を蒸留水(MilliQ水)に溶解させ作製した味噌サンプル液を用い、細胞死を誘導させない濃度(細胞培養液量に対し2%以下)で、48時間以内の処理をしたRSa細胞より、タンパク試料を得て測定した。GRP78とHSP27のいずれかに細胞内量を増大化させるサンプル16種が見出された。次に、サンプル液処理RSa細胞で紫外線(UVC)により誘導される変異の頻度が低下することを、ウアバインの致死作用に対する耐性化(OuaR)を指標とする形質変異検出法とK-ras癌遺伝子におけるコドン12の塩基置換をドットブロットハイブリダイゼーション法により検出する遺伝子変異検出法で検証した。11種のサンプルで、変異発生を抑制することが示唆され、その内の6種では調査シャぺロンの量的増加が連動した。10種の麹菌株それぞれを米麹、麦麹、および大豆麹化した後、水溶液サンプルを調整し、味噌サンプルと同様の処理をし、RSa細胞におけるシャぺロン量の変動値を計測した。増大化させるもの6種を見出した。一方、味噌サンプル液により増加したGRP78の発現量をGRP78遺伝子のsiRNAにより低下させると、変異発生の抑制は見られなかった。従って、シャペロンなどの細胞内分子を介して、米麹、麦麹、あるいは大豆麹の成分によりヒト細胞における変異の発生を抑制するという機能が示唆された。(*1)
紫外線や放射線など、さまざまな悪影響を受けてしまった細胞は変異暴走や自滅の道を辿るか、それとも踏み止まって正常な活動を続けるか、二通りの道を歩むことになります。その分岐の要(かなめ)になっているのが“シャペロン”と呼ばれるものだそうです。このシャペロンというのは辞書を引くとどうやらフランス語のchaperonが語源らしく、元々は“社交界に初めて出る若い女性に付き添う、介添えの女性”を指します。これが細胞内に多く含まれるとダメージを受けた際でも修復の手が伸び、壊されずに再生していく場合がある。細胞を上手にエスコートして若々しい健常な顔かたちに導いていく、応援していく、そんな健気な役割をシャペロンは負っているらしい。
そのシャペロンの量を増加させる機能が味噌の基本となる麹(こうじ 糀とも書く)にはあると執筆者は捉えているのです。これは本当に興味深い話ですね。
世界大戦末期の新型爆弾投下にかかわる幾つかの伝聞に端を発し、有害な放射線に対してなにがしかの抵抗力を喚起する成分が味噌の中には宿っているのではないか、そう推察する声がずっとありました。呼応した研究者の皆さんの努力により小動物を用いた検証が重ねられ、消化器官の損傷をやわらげる効果が実際確認されてはいたのです。ただ、それをもってこの度のような劇甚な災害に当てはめて何か言えるかといえば、あまりにも特殊で初めての事であり、地域ごと千差万別の様相を呈してもいます。実験室内の動物を相手にした結論ではどうにもならなかったところがあります。
いたずらに過ぎていく時間に歯がゆさを覚え、靄(もや)のかかったような事態を何とかしたいと願った末に、(僕もそのひとりでしたが)そんな過去の論文をひも解いて紹介しようとするひとが幾人(いくたり)か現われました。その後のなりゆきを視ているとフードファディズム (food faddism)の烽火(のろし)じゃないか、あざとい宣伝ではないかと悪罵(あくば)される場面もなかにはあって、その度に面識のない間柄ながらなんとも気の毒に思い、また、膨大な数の読み手を相手にするウェブの難しさも感じた訳なのでした。
今回の発表の革新性は動物でなく、一歩踏み込んで“ヒト細胞RSa”を使っていることです。確かに各人の免疫力の段差や複合的な汚染の実態を考慮すれば、この発表の結果があまねく当てはまるとは言い難く、光明を確信するに至るほどの内容ではない。これで助かると信じろったって、到底無理な相談です。その意味では先の研究結果と変わらず、何の進展もないのかもしれない。
けれども「買うな、食べるな、飲むな」の大合唱のなかにあって、逆に“食すること”で闘えるかもしれない、もしかしたら救えるかもしれない──という話はめずらしく耳朶(じだ)に新鮮ではないでしょうか。それはあまりにも小さな一筋の逆波(さかなみ)かもしれませんが、ちょっと雄々しくもあり、小意気で愉快な風姿とも感ぜられて妙にほのぼのとしてしまう訳なのです。
いまは万事洋風の味つけが好まれ、僕の大事の思う人にしたってスパゲティだの何だのを料理してみたり、毎日のように食べがちです。そりゃ美味しい、僕だって大好きです。でもね、お願いだから時どきはお椀一杯の味噌汁をすすってもらいたい。心配げに遠目に見守っている“介添え”シャペロンを、三食に一度ぐらいは思い返してもきっと罰は当たらない。大事に思えばこそ「食べてもらいたい」、そんな風にこころを込めて祈っているところです。
(*1):「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」Findings of Gene Protection by Japanese Miso and/or Koji based on Creation of Human Physiological Functions,SOS Response-to Search for Radio-protective Methods 鈴木信夫 姜霞 喜多和子 菅谷茂 日本醸造協会誌 2011年12月号 公益財団法人日本醸造協会・日本醸造学界 808-809頁
2012年1月7日土曜日
2011年10月24日月曜日
井伏鱒二「黒い雨」(1965)~さむけ~

上に貼ったのは映画「黒い雨」(*1)のポスターです。主演を務めた女優田中好子(たなかよしこ)さんが震災から一ヵ月後に亡くなり、また、世間の原発事故に対する動揺とも共鳴するものがあって一時期ずいぶんとクローズアップされました。原作(*2)は1965年から翌年にかけて連載された井伏鱒二(いぶせますじ)さんの小説です。
恥しいことにこれまで僕はこの本を読んでおりませんでした。今回初めて手に取り、就寝前や交通機関で長時間移動する際に読みすすめた次第なのですが、当然ながら他人事ではなく、憂いをもって臨まなければなりませんでした。
このブログは味噌や醤油というものがどのように日本人の読んだり観たりする娯楽に関わり、そこでどのような役割を担ってきたかを読み解く目的があります。事故をめぐって僕の内奥にはもろもろの残響が居座っているのだけど、とりあえずそれらを吐き出すつもりはありません。「黒い雨」中の“味噌”について絞り込んでメモしておこうと思います。
閑間重松(しずましげまつ)とその妻シゲ子、それに親戚から預かっている年頃の姪矢須子(やすこ)の物語です。彼らは原子爆弾が炸裂した広島の街を命からがら逃げ延びた過去を持ちます。お話の上での現在は“終戦後四年十箇月目”(*3)といいますから、昭和25年(1950)の6月ということになりますね。
矢須子の縁談がいくつか流れた背景にあるのが被爆への偏見と考えた重松は、己が終戦後書きとめた「被爆日記」と矢須子の日記を清書して相手に渡すことが最良と思い立ち、机に向かって一心不乱に文字を写していくのでした。矢須子はあの光線や炎を直接浴びてはいない、四年経った今もこうして元気に、いや一層艶やかに花咲くように暮らしているではないか──
しかし、この詳細な記憶の掘り起こし作業と前後して矢須子の体調は急速に悪化していき、当初の思惑とは離れた展開になっていくのでした。縁談うんぬんはすっかり霧散し、生命(いのち)のともし火を守るための険しい闘いに入っていく。ふたつの日記に妻シゲ子の綴る更にふたつの記録、すなわち“戦時下の食糧事情”と「高丸矢須子病状日記」が加わって、彼らを襲った災厄の詳細が浮き彫りになっていくのでした。
味噌についての記述を抜き書きし、これを時系列的に並べ直してみます。そうすると重松と家族、および、当時の人々より味噌に向けられるまなざしの質が分かりますし、味噌が担った役割も見えて来ます。
まず重松の幼少のころ、そして、会社員になった頃のエピソードに味噌が顔を覗かせています。味噌は重松に寄り添い、たいへん印象深い顔立ちを見せています。
この仲三さんは小畠村の谷口屋という屋号のうちのもので、僕は
子供のころ、この人の父親から鰻(うなぎ)の穴釣の仕方を教わった。
そのとき釣の余興として、竹藪から取って来た筍(たけのこ)を河原の
焚火(たきび)で焙(あぶ)って食べることを教わった。筍を皮の
ついたまま焚火で焙って皮を剥き、最寄(もより)の家で貰って来た
味噌を湯気の立つ筍に塗って食べるのだ。(*4 )
次に、会社の運営を円滑にするために、被服支廠に対して人聞きの
悪い奉仕をする。こちらとしては出血作戦をしているようなもので、
先方としては濡手(ぬれて)に粟(あわ)である。
僕はそんなことで厭な思いを何度も経験した。最初は入社して間も
なく味噌を仕入れたときである。備後府中町の松岡という味噌醸造所
から、四斗樽(だる)入りの味噌五十樽を買ったとき、その半分の
二十五樽は被服支廠へ譲った。(*5)
妻シゲ子によるノートからは戦況の悪化が読み取れます。物資の流れが思うようにならなくなり、工夫して乗り切っていく様子がうかがえます。穀物や野菜が入手しにくい中で、なんとか腹を満たし、食欲を封じる手段として味噌や醤油の活用が描かれる。ここで味噌はずいぶんと褒められています。
それからまた、米に大豆を入れたのを配給されることが
ありました。でも、大豆を混入して飯を炊(た)くと臭みが
移って食べにくくなりますので、大豆は選り出して、一合
あまり一夜(よる)水にひたしまして、翌朝、擂鉢(すりばち)
で磨(す)りつぶして木綿布で漉した汁を、味噌汁や醤油汁に
入れたりいたしました。また汁だけを豆乳として、多少糖分を
入れて飲むこともありました。ときたま、大豆のしぼり滓は
醤油で煮て副食物にもしておりました。
代用食のパンは焼いて味噌をつけ、または味噌をつけて焼いたり
して食べまして、主食を延ばす貴重な材にしておりました。
パンのときには、つくづくバタやコンビーフの味覚を思い出す
ことでした。しかし味噌は東洋在来の調味料として、塩や醤油に
較(くら)べて実に堂々たるものだと思うようになりました。
戦時下になってから漸(ようや)くそれに気がついたのでございます。(*6)
さらに食糧事情は悪化の一途をたどり、味噌すらも底を突く勢いとなります。そんな中での原子爆弾の投下──。九死に一生を得ての逃避行の先々で、かろうじて蓄えられていたものが床下や納屋から取り出されて一行の口を悦ばせていきます。
重松は好太郎さんがコブツを仕掛けるとき、ひとりごとのように
ぶつぶつ云いながら鎌で割竹を削っていたのを思い出した。
「ほんまに、どえらい食糧難じゃ。糧秣廠の炊事部ですら、味噌の
配給が間に合わんちゅうて、おろおろしておった。明日は塩汁にするか
味噌汁にするか、見当がつかんそうな。献立表を書こうにも書けん
そうな」と云っていた。あのころはお互にひどい食生活であった。(*7 )
古江に着いたのは午前六時半ごろ。農家はまだ雨戸をしめて
いたが、能島さんの奥さんの生家ではお父さんとお母さんが、
蔵の戸を明けて私たちを待っていて下すった。私たちは荷物を
卸して土蔵に入れた。能島さんの奥さんは念のためだと云って、
私たちに荷物引換の証文を書いてくれ、私たちは母屋(おもや)の
座敷にあげて茶菓子の代りに味噌を添えた胡瓜を出して下すった。
みんな親切な人ばかりである。(*8 8月6日)
僕は敗残の百姓一揆(いっき)のようだと思ったが、竹槍を
つきながらシゲ子に脇(わき)を支えられて坂を登って行った。
そのとき初めてシゲ子が頭の髪を焦がしていることに気がついた。
「いつ髪を焼いた」と訊(たず)ねると、六日の空襲のとき焼けた
らしいと云った。
昼飯は携帯餱糧(こうりょう)の焼米で、お菜は菜種油で
煠(いた)めた味噌である。その他には桜の花茶が添えてあるだけ
だが、我家の料理としてはこれでも最上の部類に入るのだ。
(*9 8月8日)
矢須子は岡持ちのなかのものを一つ一つ食卓に載せた。会社の食堂で
仕出したものは、桑の葉の天麩羅(てんぷら)五枚、なめ味噌と食塩、
お新香二片、フスマを混ぜた麦飯の丼(どんぶり)である。これが四人
ぶんあった。桑の葉は炊事部の社員の発案で、工場の横の桑畑から採取
したものであるそうだ。戦争のため農家では養蚕を中止して、桑の枝を
刈込んで野菜の間作をやっている。今、桑は切株から土用芽を出して、
食べころの若葉をつけているそうだ。(*10 8月13日)
朝飯はフスマを入れた麦飯と微塵切(みじんぎ)りの芹の
味噌汁で、昼の弁当は同じ飯のお握りと貝の佃煮である。芹は
四月すぎると蛭(ひる)の卵や幼生が附着しているから、
普通なら食べないことになっている。
僕の隣の席にいた中田君という中年すぎの工員が、食事運びの
女の雇員に、
「味噌汁はよく煮たのか」と聞くと、「いつもの倍くらい長く
煮てあります」と云った。
横合から僕が「弁当の貝の佃煮は蛤(はまぐり)かね」と聞くと、
「潮吹貝です。潮水で煮たのを闇屋が持って来たので、調理場さんが
お醤油で煮詰めました。皆さんの昼食のお菜です」と云った。
(*11 8月14日)
終戦をもって重松の「被爆日記」は途切れます。原子爆弾が炸裂したとき頬に裂傷を負った重松は自身の健康を気遣い、何を食べるべきか、どんな療法を続けるべきか模索する毎日です。“終戦後四年十箇月目”の日常には味噌が静かに寄り添っていました。
もう一人の仲間の浅二郎さんは、庄吉さんと同じく自発的に
勤労を買って出た奉仕隊員として広島に出かけていて被爆した。
(中略)この人の栄養の摂りかたは、巡回診察医の指示には従わないで、
お灸の先生に教わった安あがりの方法に従っている。食事は三度三度、
油揚と切干大根を入れた味噌汁を二杯と生卵を一つ必ず吸って、
一日に一回はニンニクを食べている。手当としては週に一回お灸を
すえる。(*12)
重松は箱膳(はこぜん)の前に坐って、茶色の液体が入っている
ボテボテの茶碗を取りあげた。これは夕食前の重松の飲みもので、
内容は、乾燥させたゲンノショウコ、ドクダミ、ハコベ、オオバコを
煎じた汁である。
膳の上のお料理は、ミツバの根を刻んで入れた舐味噌(なめみそ)と、
卵焼と、沢庵と、それから鰌(どじょう)の浮いている味噌汁である。
「こりゃあ豪勢だ」と重松は、鰌汁の椀を取った。(*13)
この「黒い雨」は実在の人物の日記を基幹に据えたもので、当時広島に住み被爆した多くの人たちの実像に迫っていると思われます。作者は同県出身でもあり、直接原子爆弾のもたらした惨禍を目にしていないにしても極めて身近なものと感じたことでしょう。終戦を四十代後半で迎えており、世相や民衆の奥底に潜むものも十分に透かし見る度量も育っていたはず。その地その時に渦巻いた修羅の詳細を脳裡に再現し、肉薄することは可能だったことでしょう。ですから、物語のなかの重松一家を支える“食生活の面立ち”は想像ではない、偽りのない“広島での日常的な食事”に他ならないのです。
七月二十六日 晴 涼風
朝、三十八度の熱、さむけ。味噌汁、海苔、らっきょう、漬物、卵、
御飯半膳。(*14)
七月二十七日 晴 むくむくと夕立雲
朝、三十七度。気分よろしく、朝飯は茄子の味噌汁、いんげん豆、
卵、御飯二膳。
久しぶりに笑う。(*15)
七月二十八日 快晴 お昼ごろ夕立 すぐ快晴(中略)
病人、気分よろしく、熱三十七度。朝飯は、ずいきの味噌汁、
ラッキョウ、卵、漬物、御飯二膳。
三度目の腫れもの潰れ、病人自身で膏薬を貼る。(*16)
“病状日記”にも味噌汁は寄り添い続けます。災厄から“四年十箇月”も過ぎて後、唐突に、まるで奈落に落とされるように暮らしを、夢を、未来を剥奪されていく若い娘が淡々と描かれています。彼女は何ものかに祈る想いで必死に食べものを口にしていったのでしょうが、物語は娘の行く末を描こうとせず、あいまいなままで筆を折ってしまうのでした。
味噌が消化管を保護して放射線障害の進行を緩和し、被曝した人たちを助けるのではないか、毎日の摂取が有効ではないか、大事ではないか、という“噂話”があります。僕もその話題をここで取り上げましたし、祈る思いで毎日飲んでもいます。
しかし、こうして「黒い雨」の徹頭徹尾“味噌”と歩んでいる日常描写に触れてみると、“助かる”とか“助ける”といった表現は簡単に口にすべきではないと分かります。助けられない、救えない、どうしようもない、遠巻きにして見守るしかない、祈り続けるしかない、そういった事が現実にあることを思い知らされた、学ばされた気持ちで今はいます。
そうして思うのです。子どもを逃がしてあげなさい。逃げるのが正しい、そういう戦法もあります。相手は無慈悲な化け物であって、祈りなど通じない。相手が悪過ぎるのです。
(*1):「黒い雨」 監督 今村昌平 1989
(*2):「黒い雨」 井伏鱒二 新潮社 1966 手元にあるのは新潮文庫74刷 引用頁もこの文庫版のそれを表わします
(*3):11頁
(*4):257頁
(*5):217頁
(*6):80-81頁
(*7):74-75頁
(*8):17-18頁
(*9):183頁
(*10):357‐358頁
(*11):366頁
(*12):31頁
(*13):72頁
(*14):289頁
(*15):290頁
(*16):293頁
ちなみに上記と重複しない“醤油”単体の登場する箇所は次の通り。その香りや味は困難な食糧事情を支えていく工夫のひとつとなって彼らの暮らしのなかで点滅している。やや出しゃばった感じが印象に残りますが、これ等の解釈はまた何時かといたしましょう。
その蓮田の岸の草むらに、一羽の白い鳩がうずくまっていた。そっと近づいて両手で摑まえたが、鳩の右の目はつぶれ、右側の肩のところの羽がちょっと焦げていた。僕はこいつを醤油の附焼にして食ってやろうと食指を動かしたが、空に向けて放り出す仕方で逃がしてやった。(218頁)
僕が葬式の読経をすませて寓居(ぐうきょ)に引返して来ると、燈火管制で締めきった雨戸の外まで餅を焼く匂がにおっていた。醤油の附焼にしているのだと分った。(中略)客人が土産に持って来た餅だろう。矢須子とシゲ子は、がつがつ餅を食べていた。(230頁)
僕は工場長の向かい側に腰を卸した。「降伏らしいですな」
「どうも、そうらしい」と工場長は、案外あっさり云った。「今、陛下が放送されたんだ。しかしラジオの調子が悪くってね。工員が調節したが、いじればいじるほど悪くてね、はっきり聞えないんだ。しかし、とにかく降伏らしい」
食卓の上にあるフスマを混ぜた丼飯(どんぶりめし)は、かさかさに乾いて蝿がたかり、醤油で煮しめた潮吹貝にも蝿がいっぱいたかっていた。誰もそれを追い払おうとする者はいない。
「さあ諸君、元気を出して食べよう」と工場長が、取って付けたように大きな声を出した。(382頁)
2011年4月1日金曜日
「みそサイエンス最前線」(1995)~やれること~

「味噌を摂取することで放射線障害に対抗し得る」という噂は先に紹介した臨床医秋月辰一郎(あきづきたついちろう)さんの伝記、ロシアでの事故後に急増した輸出量、そして広島大学の皆さんによる研究リポートなどをその根拠としています。このうち大学機関の研究概要は白い表紙の冊子(*1)に収められ、誇らしげに冒頭を飾っているのでした。市井の者に向けて噛み砕かれた平易な言葉が選ばれており、明快な文章になっています。
誰もが大きな不安を感じている今だからこそ声高らかに紹介して、たとえ“微力”であったとしても役立たせたら良いだろうと考える訳ですが、関わる業界の方々は沈黙をかたくなに守って見える。よくよく事情を聞いてみれば、口の重さは深慮を働かせた末の対応だったと解ってきました。
理由のひとつは研究にともなう実験がマウスのみを使って為されたものであり、人間の身体を用いた結論に至っていないこと。放射性物質を被験者にこっそり呑ませる訳にはいかないからです。人間ではどうなるかを調べて立証することは無理難題と思えますから、“仮定や推察”の域をどう頑張っても超えられない。確証のないものは無闇に話すべきではない、責任を負えないことを喋り散らすのは大人のすることではないという考えです。
また、噂を鵜呑みにして味噌の効用を過大評価した挙句、政府の避難勧告を無視したり、手渡された薬(安定剤)を服用せずに味噌汁だけを呑み続ける人が現れた場合、最終的にその人を重篤な事態に追い込むことになりかねない。そのとき味噌は救えたひとを救うどころか、破滅へと蹴落とすことになってしまう。適切な時に適切なレベルの医療機関に赴くチャンスをみすみす逃すことがないようにしたい、皆を救いたいという強い願望が背後にはある。
さらにもうひとつ、マウスに与えられる放射性物質は安全管理上どうしても選ばれたものになってしまい、猛毒のたとえばプルトニウムのようなものは使えない。だから、研究は未熟で徹底されていないのです。様々な物質が放出されているこの度の事態に対しての十分な答えとなっていない以上、沈黙を守ることが正しいとの判断です。
そのように理路整然と説明されてしまえば、なるほど返す言葉がありません。沈着冷静に思索を重ね如才なく対応していく業界人の姿に感服すら覚えてしまいます。けれど、けれども、今この危機的な状況において、そこまで理詰めで小さくまとまって良いのかという疑問と焦りがじわじわ胸の奥で湧いて止まらない。
ヨウ化カリウム錠剤の増産が進められていますが、それが関東以北の東日本全域に住むすべての子供たち、四十前の若いひとたち全員に行き渡るのは一体いつになるのか。
元々配るつもりもないのかもしれませんが、一部地域なり県に行き渡ったとして四十一歳、四十二歳の境界にいる人たちは精神的に耐え得るものだろうか。“副作用”があるから呑む時期は政府が指示するからそれまで服用は待てと言うけれど、それがどのタイミングで伝えられるのか。伝えられずに機会を逸して呑み損なうとどうなるのか。
効果は一日と聞いていますから、翌日に一錠、さらに次の日に一錠と飲み続けていけば生産と供給はその消費される速度に追いつけるものかどうか。大丈夫、問題ない、直ぐには何も出ないという低い値のものを生涯背負い続けた結果、どのような事態が起きるのか。本当に子どもたちの身に何も起きずに健康なまま暮らし、のびのびと恋をし、温かな笑い声に満ちた家庭を絶対に築けると誰が言い切れるのか。
ここまで“大丈夫、大丈夫”と連呼されると“大丈夫”という語句の意味合いを軽々しく捉えているのではないか、結局のところ“問題ない”という言葉にしても“仮定や推察”の域を超えていない絵空事に思えてしまって、気持ちは轟々と逆巻き揺れに揺れてどうしようもないのです。
そうして思うのです、やってみたらいいのだと。
“仮定や推察”であっても今は試す価値はある。皆で“うがい薬”を飲もうって言っているわけじゃない(それはどう考えたって良策とは思えない)。意識して少しだけ食生活を替えてみる、それだけの話です。食事の度に何杯もの味噌汁を無理にあおったりすれば塩分の取り過ぎとなって身体を壊すかもしれないけれど、薬と違い“副作用”のない大豆由来食品を適量ずつ摂っていくことはそんなに難しい話ではない。
それは今回の一件に関して無力で徒手空拳の僕たちにも許される、静かで地道な闘い方のひとつだと思うのです。
確かに“微力”かもしれない、もしかしたら“無力”なのかもしれない。けれども「祈る」ような気持ちとおごそかな眼差しを目の前のお膳にそっと注ぎ、並んだ一食一食を大事にしていく、そうやってこの混沌とした日々を心身ともに乗り越えていくしかないじゃないか、と僕は考えています。
(*1):「みそサイエンス最前線 MISO NEWS LETTER」 みそ健康づくり委員会 平成7年初版発行 見せてもらったのは平成11年の改訂版 該当頁を下段に紹介しておきます。尚、著作権者よりクレームが舞い込みましたら残念ですが削除いたします。事態を思えば、そんな事をしてもらいたくありませんけれど。
2011年3月29日火曜日
中沢啓治「はだしのゲン」(1973)~たのむけえ~
ゲン「ほら おかあちゃん 口をあけえや ほらほらしっかり食ってはよう元気になってくれよ……」
君江「ハアハア 元(げん)いま食べたくないけえ あとで…」
ゲン「だめじゃ 無理しても食べるんじゃ 食べないと体が弱る
ばっかりじゃないか わしが買い出しで手に入れてきた米じゃ
たのむけえ食べてくれや ほらうまいミソもあるぞ」
君江「ハアハア」
ゲン「……………………おかあちゃんのばかたれ~~ どうして
食べんのじゃ バカバカバカ ううう おかあちゃん
たのむけえ食べてくれよ~~ うううう」(*1)
一進一退で、むしろ深刻さを増して見える福島第一原子力発電所。冷静沈着、大胆奔放、そんな相反する意思なり行動を取っ替え引っ替え求められる複雑な状況にあり、渦中で闘う人の苦労は並大抵のものではないでしょう。為すすべなく見守るしかない僕のような者は、呑気に構えて日常を楽しめばいいのでしょうけれど、気持ちは毎日泡立ち波打って、随分と苦しい時間になっています。
錯綜する情報に思考は千千(ちぢ)乱れるばかりだけど、そんな中で放射能汚染に対し“味噌”が効くとの噂が飛び交っていると耳にしました。原子爆弾で自ら被爆しながら治療に全力を投じた長崎の臨床医師の貴重な手記や伝記に依っているのですが、このような状況下ですから誰しもが気になる内容です。 噂をどう捉えどう動くのが正しいのでしょう。信ずるべきかどうか僕自身のなかで激しくせめぎ合うものがあるのですが、幸いにして味噌についてあれこれ友人から教えてもらえる環境です。少し情報を整理して僕なりに思案を深めようと思います。
最初に確認しておかなければいけないのは、仮に“何らかの力”が味噌にあったとしても深甚且つ急襲されての放射能被害の前ではそれは“微力”に過ぎない、ということですね。もしかしたら微力どころか“無力”かもしれない。
上に引いたのは中沢啓治(なかざわけんじ)さんの「はだしのゲン」の一場面です。映画化されたものを学校の授業か何かで見せられて、凄惨極まる家族の永別の場面にひどくおののき、暗い館内で嗚咽(おえつ)してしまった記憶があります。あの時のスクリーンの映像が生々しく脳裏に蘇えるのを嫌って、じっくりと腰据えて原作を読んだことはこれまで一度もありませんでした。
節電のために照明が落とされ、暖房も控えめになった寒々しい市立図書館に足を運び、職員の女性により倉庫の奥から出してもらった全十巻を一気に読み進めました。快適とはとても言い難く風邪をひいてしまいそうな中での読書であったのですが、あの時あの瞬間の光景を実際に瞳に焼き付けた中沢さんの筆には終生冷めることはないだろう熱く湿ったものが宿っているようで、時間や気温や周囲の人の行き来をすっかり忘れて僕は物語の中に引き込まれたのです。
1945年の夏、広島は“飢餓状態”にあったと本の冒頭に書かれています。原子爆弾が炸裂して多くの人の髪と肌を焼き、衣服と手足を吹き飛ばし、肉と希望を引き裂いていくのを生々しく哀切を込めて中沢さんは描かれているのですが、主人公ゲンとその家族を物語の当初から一貫して圧迫し続けたものが“空腹”だったのです。原子爆弾の悲惨さと共に、戦争末期に僕たちの世界を覆っていく“飢え”の克服について多くの頁が割かれている。
からくも生き残ったゲンと母親君江でありましたが、容赦なく彼らに原爆症と栄養失調のふたつが襲い掛かります。ゲンの髪の毛は全て抜け落ち、君江は嘔吐して起きる気力を失ってしまうのでした。ゲンは母親の快復を願って、田舎の村々を巡っての買出しに身を投じます。
なんとか入手できた米でお粥(かゆ)を作り、スプーンにすくい、横臥した母親の口元に運んでやるゲンであったのですが、君江はひと口含んだだけで激しく嘔吐してしまいまるで受け付けません。紆余曲折があってこの母親は多発性の癌に内臓を蝕まれて死んでいくのです。このような広島や長崎の地で星の数ほども繰り広げられた必死の努力と、その末に星の数ほども林立していった墓標の「現実の在り様」を垣間見せられてしまうと、放射能汚染に味噌がたいへん有効であり、それは長崎の体験に基づくものだ、と口にする気力は到底起きてこないのです。
足裏に肉刺(まめ)を作り、罵声や嘲弄に甘んじ涙しながらゲンが入手した野菜や米に混じって味噌がある。それを笑顔で「ほらうまいミソもあるぞ」と母親に差し出す漫画のひとコマをわざわざ証しとするまでもなく、飢餓状態に置かれた彼の地の人たちにとって味噌はご馳走であり、目に入ったならばこぞって口に放り込む大事な栄養源でありました。
今ほど多彩になっていなかった当時の単調で緊迫した食糧事情から察すれば、広島や長崎で被爆した人たちのほとんどが味噌を常用するなり好んで口にしていた人たちであった訳であり、そんな彼ら膨大な数の人間、広島市で約14万人、長崎市では約14万9千人ものひとが苦闘の末に亡くなっている事実は重たいものを含んでいる。
味噌にそれ程までも馴染んだ生命を、味噌に含まれる成分が幾らも助けられなかった現実を厳粛に受け止めた上で、僕たちは今流れる噂話にそっと耳を傾けなければいけない。 傾聴するべきは無責任な流言でなく、責任ある人のしっかりした言葉と、それから、今から六十五年前の夏の日、火傷を負った喉奥からやっとのことで絞り出した怨嗟の声であるべきでしょう。その上でどう捉え、どう動くかが問われている。
突然にスピーカーから音楽が流れ出して退館をうながされました。いつもは夕方遅くまで開いている図書館ですが、特別の状況ですから四時に閉めたいのだそうです。必要な箇所を慌ててコピーして後にしましたが、少し気懸かりなのは読ませてもらった中沢さんの本が全て真新しい感じのままであり、奥付を見れば購入して一年足らずであるにもかかわらず既にして暗い倉庫の奥に仕舞われていることですね。
七十年代初めに連載された作品ですから差別用語も確かに点在し、歴史的事実とは違った部分も混在しているのは読んでいてよく解ります。けれど頁が開かれた形跡がまるで無いままに事実上の閲覧制限をするなんて、そんな事で本当にいいのかなと心配になります。この度の大混乱ともこうした事はどこか根茎を繋いでいるように思えるのです。
(*1):「はだしのゲン」 中沢啓治 1973年に「週間ジャンプ」に連載開始。その後発表の場所を替えながら1985年まで断続的に連載。上記に引いたのは汐文社の単行本(2009年第51刷)全10巻中の第6巻中盤56-57頁より。
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