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2012年5月9日水曜日

里羅琴音・Berry Star『銀のケルベロス』(2012)~猫まんましちゃだめ!~



ミドリ     「はーい 朝だよ さっさと起きる!」

沙紅耶  「うにゃ」

ミドリ     「だめだめ!とっとと… ちょっ…」

沙紅耶  「眠いよ─ あと10分…5分でいいから一緒に寝よう」

ミドリ     「あ た し も! 眠いのガマンして朝ゴハン   作ったんだけどな─」

沙紅耶  「ゴハン!」

ミドリ     「ほら 着替えた 着替えた(と身支度を手伝う)」

沙紅耶  「うーん… ぐるじい…」

ミドリ     「(傷が…)」(戦闘で負ったはずの傷が完全に癒えて見当たらない。)

ミドリ  「……ね ねえ サクヤの好きな玉子焼き お砂糖とお醤油の
              作ったから食べよ ほら これ食べてさっさと学校行くよ」

沙紅耶  「いただきます」

ミドリ     「また─ 猫まんましちゃだめ!」

沙紅耶  「だってミドリちゃんのお味噌汁 こうするともっと美味しい」(*1)

(*1): 『銀のケルベロス』CHAPTER.6 naked ape里羅琴音 作 Berry Star画 「月刊ヒーローズ5月号」 小学館クリエイティブ 所載 2012

2011年12月30日金曜日

山本義正「父 山本五十六」(1969)~一口吸うものだ~


 ある朝、食卓にのった沢庵(たくあん)があまりにおいしそうだった

ので、母が飯をよそってくれるのを待ちきれず、私はひょいと手を

のばして沢庵だけを食べたことがある。すると、私の向かいにすわって

いた父が、

「漬け物というのは、ご飯のおわりごろに食うものだ。」

と言った。そこで、私はあわてて飯をほおばろうとして、茶わんに

箸(はし)をつっこんだ。すると、

「飯を食うまえに、味噌汁を一口吸うものだ。」

 とやられてしまった。

 べつに、とくべつなしつけというのではなく、どこの家庭でもやって

いる食事のきまりを教えてくれたにすぎない。食べ物をがつがつ食べたり、

意地きたなくすることを、父はとくにきらっていたようだ。

「親から与えられた服をよろこんで着、親から与えられた食事をよろこんで

食べ、丈夫に大きく育てばいいんだ。」

 と、父はよく言っていた。(*1)


 立体駐車場から車を出すと、雪の勢いがもう半端でない降りかたになっている。冷え込みは更にはげしく、羽毛みたいに膨らんだ雪片が夜の街にけたたましく降り注いでいます。


 十一時を回って人通りもなく、酔客を求めて流すタクシーの影だけが目立ちます。閑散とした道路なのですが、こんな天気に何かあってもつまらないので慎重に進んでいきました。やがて大きな交差点で、信号は青から黄色になったばかりでそのまま突っ切ることも出来たのだけど、ブレーキを踏んで待つことに決めました。


 帰ったところで何があるでもない静か過ぎる夜です。時間だけはとりあえずあるから、ゆったりと楽しんでみたい気持ち。内面の微妙な変化も関わるのだけど、最近は車を飛ばさなくても平気の平左で、海原(うなばら)を漂うクラゲのようにのんびり走る方が心地良い。年末ですからね、疲れも身体の底に澱(おり)のように溜まっています。湯船につかるようにして空いた時間をゆらゆらと過ごす、そんな癖がついてしまいました。


 右手にガラス張りのホテルの建物が見えています。雪のベールの向こうには暖かそうな灯(あ)かりに染まったラウンジがあって、落ち着いた大人の時間を演出している。見知った友人が腰かけてお茶などしてはいないかしらと探してみたりするうちに、車の直ぐ脇の、僕の目線とちょうど同じぐらいの高さに奇妙なものを見止めて仰天しました。手の親指ほどの太さと大きさの黒い物体が宙に浮いています。最初は何か分からなかったのですが、それは一匹の羽ばたく虫でした。


 大きさから蝉(せみ)かと思ったのですが、空中に静止する蝉なんて聞いたこともありません。ましてやこんな季節です。ゴキブリでももちろんないし、なんだろう。まばたきして再度焦点を合わせてみればどうやら蛾(が)のようです。一匹の蛾が自分の身の丈ほどもある雪を縫うように、時に避け切れずに衝突して白く染まりながら果敢に飛んでいるのです。


 年末の酷寒の時期に虫が飛ぶのもめずらしく、加えて雪の延延と落ちてくる中を飛ぶ無鉄砲さというか、怖いぐらいの真剣さ、懸命さに僕はこころ打たれてしまって、今こうしてその事を、たかが虫一匹のことなのだけど書き留めようとしています。


 調べてみれば深い秋にわざわざ蛹(さなぎ)から羽化し、ほかの生き物の影の絶え果てて寒々しい雑木林を、一生に一度の愛の成就をめざして飛ぶものもいるらしい。雪=寒さ=過酷=死、と単純に連想して勝手に驚いている僕の了見が結局のところ狭過ぎる訳ですね。冬を好んで海を渡ってくる鳥だっているのだから、こんな白い季節に暮らす虫がいても不思議はない。


 長く空中で停まってみせる芸当と生態(誕生から死)を重ね合わせて比べれば、どうやら僕に会ってくれたのは雀蛾(スズメガ)の一種の“星蜂雀(ホシホウジャク)”です。信号はそこで青に変わり、彼なのか彼女なのかは知らないけれど、その後どうなったのかは分からない。真夜中の十字路の雪礫(ゆきつぶて)のなかに、さながら黒い“星” となって飛び続けるちいさな生命(いのち)の健気さに圧倒され、後ろ髪をつよく引かれながらアクセルを踏みました。


 “世界は生きよという暗号を送り続けている”

 そんな言葉を先日耳にしました。胸に響きます。確かにサインらしきもの、声援のようなものが世界には満ちているように感じられます。僕にとってはこのホシホウジャクも、そうだったのかもしれませんね。


 さて、話変わって上に引いたのは第二次世界大戦時の軍人山本五十六(やまもといそろく)さんの姿を、家族の目から辿り直した回想録の一節です。赤ん坊だった頃から学生の時分にかけて触れた父親の、物腰や言葉といった断片的な記憶をご長男の山本義正(やまもとよしまさ)さんが丹念に掘り起こして一冊に綴っています。巨大な戦艦や航空母艦を統括した公人ではなく、子供を愛でる私人山本五十六がつぶさに描かれていてとても興味深い内容でした。


 もちろん国を代表する組織の頂点に立ち、外遊もすれば豪華な会食もこなす五十六さんでありますから、美食に舌鼓を打つことも数限りなくあったはずです。けれど、それはそれ、これはこれであって、あくまでも基礎にあったのは倹約の精神みたいですね。ささやかな食の続くこと、身の丈に見合った家を選び、そこに住まい続けられることをこころから願った。


 若いころの海戦で砲弾の直撃に遭い、左手の指を二本瞬時に失い、足は赤ん坊の頭ほどもえぐり取られたという壮絶な怪我を負った五十六さんは、実に百六十日間という長期の入院生活を余儀なくされたのだそうです。幸せのハードル、生活の質を悪戯に高くしなかったのは、そんな苦闘を通じて体得した彼なりの人生哲学だったのでしょう。


 漬け物や味噌汁の食べ方をきびしく指導してはいますが、暴君となって家族を抑圧するつもりはさらさらなく、この世界で堅守すべきものとは一体全体何かを我が子に、そして時代を越えて僕たち今を生きる者にそっと諭してくれている。ここでの味噌汁はだから家庭の象徴、食卓のなつかしい記憶の枠をこえて、もっと清々しい、もっと強く語りかけるものが封入されて見える。


 すでに観たひとの話によれば、現在公開中の映画(*2)のそこかしこにこの本に書かれたエピソードが顔を覗かしていて、上の味噌汁を囲んでの食卓の情景もちゃんと描かれているそうです。三月の出来事や現在の世相を二重写しにするかのような意図的な、挑むような演出が随所に感じ取れて割合に考えさせられる内容とのこと。足を運ぶだけの価値があるかもしれませんね。スクリーンの奥にどんな味噌汁が置かれてあるのか、僕も時間を見つけて訪ねようと考えています。



 いよいよ年の境界を跨ぎます。


 ともに暗号を探して、それを励みとしながら新しい日々を越えていきましょう。

 この世界で堅守すべきものとは一体全体何かをずっと考えながら、

 懸命に力あるかぎり、羽ばたいていきましょう。



 善い年をお迎えください───



(*1):「父 山本五十六」 山本義正 手元にあるのは朝日文庫2011年版 引用はその163-164頁 あとがきによれば旧版は1969年に光文社より上梓されたとあるので、表題の西暦はこれに則った
(*2):「聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」 監督 成島出 2011

2011年10月24日月曜日

井伏鱒二「黒い雨」(1965)~さむけ~



 上に貼ったのは映画「黒い雨」(*1)のポスターです。主演を務めた女優田中好子(たなかよしこ)さんが震災から一ヵ月後に亡くなり、また、世間の原発事故に対する動揺とも共鳴するものがあって一時期ずいぶんとクローズアップされました。原作(*2)は1965年から翌年にかけて連載された井伏鱒二(いぶせますじ)さんの小説です。

 恥しいことにこれまで僕はこの本を読んでおりませんでした。今回初めて手に取り、就寝前や交通機関で長時間移動する際に読みすすめた次第なのですが、当然ながら他人事ではなく、憂いをもって臨まなければなりませんでした。

 このブログは味噌や醤油というものがどのように日本人の読んだり観たりする娯楽に関わり、そこでどのような役割を担ってきたかを読み解く目的があります。事故をめぐって僕の内奥にはもろもろの残響が居座っているのだけど、とりあえずそれらを吐き出すつもりはありません。「黒い雨」中の“味噌”について絞り込んでメモしておこうと思います。

 閑間重松(しずましげまつ)とその妻シゲ子、それに親戚から預かっている年頃の姪矢須子(やすこ)の物語です。彼らは原子爆弾が炸裂した広島の街を命からがら逃げ延びた過去を持ちます。お話の上での現在は“終戦後四年十箇月目”(*3)といいますから、昭和25年(1950)の6月ということになりますね。

 矢須子の縁談がいくつか流れた背景にあるのが被爆への偏見と考えた重松は、己が終戦後書きとめた「被爆日記」と矢須子の日記を清書して相手に渡すことが最良と思い立ち、机に向かって一心不乱に文字を写していくのでした。矢須子はあの光線や炎を直接浴びてはいない、四年経った今もこうして元気に、いや一層艶やかに花咲くように暮らしているではないか──

 しかし、この詳細な記憶の掘り起こし作業と前後して矢須子の体調は急速に悪化していき、当初の思惑とは離れた展開になっていくのでした。縁談うんぬんはすっかり霧散し、生命(いのち)のともし火を守るための険しい闘いに入っていく。ふたつの日記に妻シゲ子の綴る更にふたつの記録、すなわち“戦時下の食糧事情”と「高丸矢須子病状日記」が加わって、彼らを襲った災厄の詳細が浮き彫りになっていくのでした。

 味噌についての記述を抜き書きし、これを時系列的に並べ直してみます。そうすると重松と家族、および、当時の人々より味噌に向けられるまなざしの質が分かりますし、味噌が担った役割も見えて来ます。
 
 まず重松の幼少のころ、そして、会社員になった頃のエピソードに味噌が顔を覗かせています。味噌は重松に寄り添い、たいへん印象深い顔立ちを見せています。
 この仲三さんは小畠村の谷口屋という屋号のうちのもので、僕は
子供のころ、この人の父親から鰻(うなぎ)の穴釣の仕方を教わった。
そのとき釣の余興として、竹藪から取って来た筍(たけのこ)を河原の
焚火(たきび)で焙(あぶ)って食べることを教わった。筍を皮の
ついたまま焚火で焙って皮を剥き、最寄(もより)の家で貰って来た
味噌を湯気の立つ筍に塗って食べるのだ。(*4 )

 次に、会社の運営を円滑にするために、被服支廠に対して人聞きの
悪い奉仕をする。こちらとしては出血作戦をしているようなもので、
先方としては濡手(ぬれて)に粟(あわ)である。
僕はそんなことで厭な思いを何度も経験した。最初は入社して間も
なく味噌を仕入れたときである。備後府中町の松岡という味噌醸造所
から、四斗樽(だる)入りの味噌五十樽を買ったとき、その半分の
二十五樽は被服支廠へ譲った。(*5)
 妻シゲ子によるノートからは戦況の悪化が読み取れます。物資の流れが思うようにならなくなり、工夫して乗り切っていく様子がうかがえます。穀物や野菜が入手しにくい中で、なんとか腹を満たし、食欲を封じる手段として味噌や醤油の活用が描かれる。ここで味噌はずいぶんと褒められています。
 それからまた、米に大豆を入れたのを配給されることが
ありました。でも、大豆を混入して飯を炊(た)くと臭みが
移って食べにくくなりますので、大豆は選り出して、一合
あまり一夜(よる)水にひたしまして、翌朝、擂鉢(すりばち)
で磨(す)りつぶして木綿布で漉した汁を、味噌汁や醤油汁に
入れたりいたしました。また汁だけを豆乳として、多少糖分を
入れて飲むこともありました。ときたま、大豆のしぼり滓は
醤油で煮て副食物にもしておりました。
 代用食のパンは焼いて味噌をつけ、または味噌をつけて焼いたり
して食べまして、主食を延ばす貴重な材にしておりました。
パンのときには、つくづくバタやコンビーフの味覚を思い出す
ことでした。しかし味噌は東洋在来の調味料として、塩や醤油に
較(くら)べて実に堂々たるものだと思うようになりました。
戦時下になってから漸(ようや)くそれに気がついたのでございます。(*6)
 さらに食糧事情は悪化の一途をたどり、味噌すらも底を突く勢いとなります。そんな中での原子爆弾の投下──。九死に一生を得ての逃避行の先々で、かろうじて蓄えられていたものが床下や納屋から取り出されて一行の口を悦ばせていきます。
 重松は好太郎さんがコブツを仕掛けるとき、ひとりごとのように
ぶつぶつ云いながら鎌で割竹を削っていたのを思い出した。
「ほんまに、どえらい食糧難じゃ。糧秣廠の炊事部ですら、味噌の
配給が間に合わんちゅうて、おろおろしておった。明日は塩汁にするか
味噌汁にするか、見当がつかんそうな。献立表を書こうにも書けん
そうな」と云っていた。あのころはお互にひどい食生活であった。(*7 )

 古江に着いたのは午前六時半ごろ。農家はまだ雨戸をしめて
いたが、能島さんの奥さんの生家ではお父さんとお母さんが、
蔵の戸を明けて私たちを待っていて下すった。私たちは荷物を
卸して土蔵に入れた。能島さんの奥さんは念のためだと云って、
私たちに荷物引換の証文を書いてくれ、私たちは母屋(おもや)の
座敷にあげて茶菓子の代りに味噌を添えた胡瓜を出して下すった。
みんな親切な人ばかりである。(*8 8月6日)

 僕は敗残の百姓一揆(いっき)のようだと思ったが、竹槍を
つきながらシゲ子に脇(わき)を支えられて坂を登って行った。
そのとき初めてシゲ子が頭の髪を焦がしていることに気がついた。
「いつ髪を焼いた」と訊(たず)ねると、六日の空襲のとき焼けた
らしいと云った。
 昼飯は携帯餱糧(こうりょう)の焼米で、お菜は菜種油で
煠(いた)めた味噌である。その他には桜の花茶が添えてあるだけ
だが、我家の料理としてはこれでも最上の部類に入るのだ。
(*9 8月8日)

 矢須子は岡持ちのなかのものを一つ一つ食卓に載せた。会社の食堂で
仕出したものは、桑の葉の天麩羅(てんぷら)五枚、なめ味噌と食塩、
お新香二片、フスマを混ぜた麦飯の丼(どんぶり)である。これが四人
ぶんあった。桑の葉は炊事部の社員の発案で、工場の横の桑畑から採取
したものであるそうだ。戦争のため農家では養蚕を中止して、桑の枝を
刈込んで野菜の間作をやっている。今、桑は切株から土用芽を出して、
食べころの若葉をつけているそうだ。(*10 8月13日)

 朝飯はフスマを入れた麦飯と微塵切(みじんぎ)りの芹の
味噌汁で、昼の弁当は同じ飯のお握りと貝の佃煮である。芹は
四月すぎると蛭(ひる)の卵や幼生が附着しているから、
普通なら食べないことになっている。
僕の隣の席にいた中田君という中年すぎの工員が、食事運びの
女の雇員に、
「味噌汁はよく煮たのか」と聞くと、「いつもの倍くらい長く
煮てあります」と云った。
横合から僕が「弁当の貝の佃煮は蛤(はまぐり)かね」と聞くと、
「潮吹貝です。潮水で煮たのを闇屋が持って来たので、調理場さんが
お醤油で煮詰めました。皆さんの昼食のお菜です」と云った。
(*11 8月14日)
 終戦をもって重松の「被爆日記」は途切れます。原子爆弾が炸裂したとき頬に裂傷を負った重松は自身の健康を気遣い、何を食べるべきか、どんな療法を続けるべきか模索する毎日です。“終戦後四年十箇月目”の日常には味噌が静かに寄り添っていました。
 もう一人の仲間の浅二郎さんは、庄吉さんと同じく自発的に
勤労を買って出た奉仕隊員として広島に出かけていて被爆した。
(中略)この人の栄養の摂りかたは、巡回診察医の指示には従わないで、
お灸の先生に教わった安あがりの方法に従っている。食事は三度三度、
油揚と切干大根を入れた味噌汁を二杯と生卵を一つ必ず吸って、
一日に一回はニンニクを食べている。手当としては週に一回お灸を
すえる。(*12)

 重松は箱膳(はこぜん)の前に坐って、茶色の液体が入っている
ボテボテの茶碗を取りあげた。これは夕食前の重松の飲みもので、
内容は、乾燥させたゲンノショウコ、ドクダミ、ハコベ、オオバコを
煎じた汁である。
 膳の上のお料理は、ミツバの根を刻んで入れた舐味噌(なめみそ)と、
卵焼と、沢庵と、それから鰌(どじょう)の浮いている味噌汁である。
「こりゃあ豪勢だ」と重松は、鰌汁の椀を取った。(*13)
 この「黒い雨」は実在の人物の日記を基幹に据えたもので、当時広島に住み被爆した多くの人たちの実像に迫っていると思われます。作者は同県出身でもあり、直接原子爆弾のもたらした惨禍を目にしていないにしても極めて身近なものと感じたことでしょう。終戦を四十代後半で迎えており、世相や民衆の奥底に潜むものも十分に透かし見る度量も育っていたはず。その地その時に渦巻いた修羅の詳細を脳裡に再現し、肉薄することは可能だったことでしょう。ですから、物語のなかの重松一家を支える“食生活の面立ち”は想像ではない、偽りのない“広島での日常的な食事”に他ならないのです。
七月二十六日 晴 涼風
朝、三十八度の熱、さむけ。味噌汁、海苔、らっきょう、漬物、卵、
御飯半膳。(*14)

七月二十七日 晴 むくむくと夕立雲
朝、三十七度。気分よろしく、朝飯は茄子の味噌汁、いんげん豆、
卵、御飯二膳。
久しぶりに笑う。(*15)

七月二十八日 快晴 お昼ごろ夕立 すぐ快晴(中略)
病人、気分よろしく、熱三十七度。朝飯は、ずいきの味噌汁、
ラッキョウ、卵、漬物、御飯二膳。
三度目の腫れもの潰れ、病人自身で膏薬を貼る。(*16)
 “病状日記”にも味噌汁は寄り添い続けます。災厄から“四年十箇月”も過ぎて後、唐突に、まるで奈落に落とされるように暮らしを、夢を、未来を剥奪されていく若い娘が淡々と描かれています。彼女は何ものかに祈る想いで必死に食べものを口にしていったのでしょうが、物語は娘の行く末を描こうとせず、あいまいなままで筆を折ってしまうのでした。

 味噌が消化管を保護して放射線障害の進行を緩和し、被曝した人たちを助けるのではないか、毎日の摂取が有効ではないか、大事ではないか、という“噂話”があります。僕もその話題をここで取り上げましたし、祈る思いで毎日飲んでもいます。

 しかし、こうして「黒い雨」の徹頭徹尾“味噌”と歩んでいる日常描写に触れてみると、“助かる”とか“助ける”といった表現は簡単に口にすべきではないと分かります。助けられない、救えない、どうしようもない、遠巻きにして見守るしかない、祈り続けるしかない、そういった事が現実にあることを思い知らされた、学ばされた気持ちで今はいます。

 そうして思うのです。子どもを逃がしてあげなさい。逃げるのが正しい、そういう戦法もあります。相手は無慈悲な化け物であって、祈りなど通じない。相手が悪過ぎるのです。


(*1):「黒い雨」 監督 今村昌平 1989
(*2):「黒い雨」 井伏鱒二 新潮社 1966 手元にあるのは新潮文庫74刷 引用頁もこの文庫版のそれを表わします
(*3):11頁
(*4):257頁
(*5):217頁
(*6):80-81頁
(*7):74-75頁
(*8):17-18頁
(*9):183頁 
(*10):357‐358頁 
(*11):366頁 
(*12):31頁
(*13):72頁
(*14):289頁
(*15):290頁
(*16):293頁 

ちなみに上記と重複しない“醤油”単体の登場する箇所は次の通り。その香りや味は困難な食糧事情を支えていく工夫のひとつとなって彼らの暮らしのなかで点滅している。やや出しゃばった感じが印象に残りますが、これ等の解釈はまた何時かといたしましょう。
 その蓮田の岸の草むらに、一羽の白い鳩がうずくまっていた。そっと近づいて両手で摑まえたが、鳩の右の目はつぶれ、右側の肩のところの羽がちょっと焦げていた。僕はこいつを醤油の附焼にして食ってやろうと食指を動かしたが、空に向けて放り出す仕方で逃がしてやった。(218頁)

 僕が葬式の読経をすませて寓居(ぐうきょ)に引返して来ると、燈火管制で締めきった雨戸の外まで餅を焼く匂がにおっていた。醤油の附焼にしているのだと分った。(中略)客人が土産に持って来た餅だろう。矢須子とシゲ子は、がつがつ餅を食べていた。(230頁)

 僕は工場長の向かい側に腰を卸した。「降伏らしいですな」
「どうも、そうらしい」と工場長は、案外あっさり云った。「今、陛下が放送されたんだ。しかしラジオの調子が悪くってね。工員が調節したが、いじればいじるほど悪くてね、はっきり聞えないんだ。しかし、とにかく降伏らしい」
 食卓の上にあるフスマを混ぜた丼飯(どんぶりめし)は、かさかさに乾いて蝿がたかり、醤油で煮しめた潮吹貝にも蝿がいっぱいたかっていた。誰もそれを追い払おうとする者はいない。
「さあ諸君、元気を出して食べよう」と工場長が、取って付けたように大きな声を出した。(382頁)

2011年7月27日水曜日

斎藤澪「この子の七つのお祝いに」(1982)~よく見るとそれは~


でも、私がいくら詫びても、説明しても、真弓の心は

もとには戻りませんでした。まったく口をきかず、蒲団に

潜ったままなのです。私が新聞を読んでいる。部屋がひっそり

静まっている。寝ているのかなと思って、そっとうかがうと、

蒲団の端から二つの目がじっとこっちを睨んでいる。

その目の冷たさ。不気味さ。

 その頃からです、真弓の異常さを知ったのは。

真夜中に、ふっと目が覚めると、枕元に真弓が坐っている。

味噌汁を作ろうと甕(かめ)の蓋(ふた)を取ったら、

白いカビが生えている。しかしよく見るとそれはカビでなく、

縫い針なんです。気をつけて周囲を見まわしたところ、大根

にも豆腐にも、無数の針が刺してある。こんなこともありま

した。私が可愛がっていた犬が、ある日消えていました。

餌入れをみると、猫いらずが湿った残飯が入っていました。(*1)


 いとしい男がこころ離れしていく、気持ちはもう此処にはないのだ。横顔を見やりながら、おんなが徐々に狂っていきます。やがて病床からずるり這い出していき、周辺のありとあらゆるモノを変質させることに残った力を注いでいく。


 斎藤澪(さいとうみお)さんの「この子の七つのお祝いに」の終盤に描かれた光景です。中でも秀抜なのは、ぬめぬめと銀に光る縫い針を、取り置いていた“食べもの”に突き刺すくだりでした。ひゃあ、これは怖い。


 縫い針であれ釘(くぎ)であれ、細くとがったものを人形や写真のなかの人物に突き立てる行為は作劇における常套手段になっていて、もう誰ひとり驚かない訳ですが、斎藤さんのこの“食べもの突き刺し”描写は意表をまったく突いてきて心底慄然といたしました。


 映画(*2)では、この真弓というおんなを岸田今日子さんが演じていましたね。背をまるめて座卓に向かい、呪詛の文句をもわもわと小声で放ちながら、大根の生白い腹めがけて針をぶち、ぶち、ぶちりと刺し続ける岸田さんの様子は恐怖を超えて思わず笑ってしまう域に達しており、観ていてとても楽しかったのでしたが、こちらの原作は到底笑えない、真に迫った怖さとそこはかとない哀しみが霧のように重く漂って、追い払いたくともねばねば纏わり付いて消えてくれない感じです。凄まじい一瞬でしたね。


 むしゃくしゃした気分を打破するために、僕たちは集中して何事かにのめり込むことが往往にしてあります。歌ったり、身体を鍛えたり、車で走ったり、旅行したり、愛し合ったり──それはとても自然なことだし、人間らしい花火みたいな一瞬だと思うのです。コップや携帯電話といった物に八つ当たりしたり、酒に呑まれたり、そんな事したくないのに恋人を邪けんに扱ったりするのだって、やや暴発気味ですが生きた花火の時間に違いない。


 映画での岸田さんには大根や豆腐を男の代用品として捉えている気配が濃厚で、ぶすりぶすりと刺す行為でもって鬱積を晴らして見えました。どれだけ目を剥こうが、どれだけ陰惨な言葉を吐こうが、どこか健常者の面持ちを含んでいたのです。蒼白く、細く流れる花火を間近で観るようで、ああ、人間だったらそんな気分にもなるだろうな、と共振する余地がまだあったのです。ところが齋藤さんの書いたものは全く違う、安っぽい同情を拒絶している。


 幼い娘を亡くしたばかりで、火の消えたようになった一間限りの安アパートです。病弱のおんなのために簡単な食事を作ってやっていたに違いない男が、再び味噌汁を食べてもらおうと思い立ち、流しの下にでも置かれていた小さな甕(かめ)を覗いた末に奇妙な光景を見止めてしまう。


 カビかと思えば無数の針がてらてら反射し、まるで味噌の表面に菌糸が蠢いて見える。これはもう花火とか鬱憤晴らしだとか、そんな呑気な事を言っていられる次元ではない。その時の男の驚きやおののきはいか程であったものか。想像すると、指先から肩や胸へとたちまち鳥肌が立って胸が悪くなる感じです。


 傍らにはこんもりと盛り上がった蒲団があり、おんなが息をころして男の動静をうかがっている。男の依代(よりしろ)として“食べもの”を選び、当り散らしたのではなかったのです。男に針を千本喰わせ、自らも針を千本呑んですべてを崩し去ろうとおんなは決めている。家庭や家族の幸福の代弁者となる味噌を破壊し、これまでの航跡を破壊し、男とのなれそめも必死の逃避行も、充実した懐胎と温かい乳児の匂いと、笑顔やささやきや抱擁や、あの頃の暖色に霞んで見えた未来も何もかも、宇宙のすべての一切合切を灰燼(かいじん)に帰す覚悟におんなは至ったということなのでしょうね。


 映画を楽しめた人には、機会を見つけて齋藤さんの文章をさらりと一読されることをお薦めします。岸田さんだけでなく、岩下志麻さん、杉浦直樹さん他の熱演をさらに補強し、群れ集う孤高の魂たちをおごそかな昇天へと導いてくれます。





(*1):「この子の七つのお祝いに」 斎藤澪 1982 角川書店 カドカワノベルズ
(*2):「この子の七つのお祝いに」 監督 増村保造 1982

2011年7月1日金曜日

庵野秀明「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(2009)~15年後、30年後~


 近頃の映画館は入場の際に好みの席を指定できる。従業員教育の行き届いた劇場ともなれば余程の人気作品でもない限り無理に詰め込まないし、前後左右に空席をもうけるようリクエストを上手く誘導し、誰もが気兼ねなく愉しめる環境をお膳立てする。僕が訪れるのは大概の場合、仕事帰りのレイトショーになるから、妙齢であれご年輩であれ女性と隣り合わせになったりすると汗臭くないかしらん、迷惑じゃないかしらんと余計な気を回してしまう。それがすっかり解消された分、居心地は数段良くなって実に有り難いことだと思う。


 以前は席の最後尾に陣取って、お客さんの反応も含めて観ることが多かったな。“作り物”として強く意識し、けれど醒めているというのでなくって、むしろ技法や演出を見逃すまい、聞き逃すまいと熱狂していた。映像に関わる“仕事”に憧憬を持って臨んでいたからだ。演じ手、作り手の名前を記憶し、専門用語も憶えて一瞬一瞬に目を凝らしていた。


 いまは違う。スクリーンから五、六列目に沈んで光と音の洪水に身をひたして揺蕩(たゆた)い、我が身やこころに照らして男なりおんなの表情やこころの綾にいちいち頷いたり、動揺したり思い出したりしながら、つらつら考える、そんな精神的な時間になっている。少しずつ少しずつ細胞の入れ替わるようにして嗜好は面立ちを変えていく。僕は確かに変わったのでしょう。決して悪いことでなく愉しいこと、面白いこと、とそれを捉えているところです。


 さて、先日劇場で一本、レンタルショップから借りたものを自宅で一本、まったく毛色の違う日本の作品を立て続けに観ました。ひとつは山村を舞台にしています。(*1) 誰もが立派な苗字を持ち、熊撃ちの鉄砲があることからすれば明治期の初めと時代設定しているのでしょう。そこでは七十歳を境にして村から放逐されてしまう“棄老(きろう)”のしきたりが続いていて、浅丘ルリ子さん演ずるおんながいよいよその番となるのでした。雪野で念仏を唱え死の淵をさ迷った末に辿り着いた場処は、三十年に渡って生き永らえてきた草笛光子さんをリーダーと為した“捨て老女”たちのコミューンで、おんなたちは輻輳(ふくそう)する想いを抱えながらも、今は村人たちへのはげしい復讐の念に駆られて竹やり訓練などしながら暮らしているのでした。


 クレオパトラみたいな馴染みの化粧ではない、「憎いあんちくしょう」(*2)の時分の自然な風貌を取り戻した浅丘さんや、アイパッチと真っ白く長い縮れ髪が素敵過ぎる倍賞美津子さんに見惚れたり考え込んだりしながら楽しく過ごした訳でしたが、僕が不思議に思ったのはコミューンの食生活の極端なみすぼらしさです。豊かな智見(ちけん)を内に湛える五十名もの老女が集結して、口にするのはどんぐり団子か小動物の肉ぐらいしかないのです。開墾する体力も残されてない弱者の集団ながら、いま少し工夫をしながら食生活の改善を図れたのではなかろうか。味噌作りや漬物作りを果敢に推し進め、ささやかながらも彩りに溢れた食餌を実現出来そうに感じます。


 具体的な説明はなかったのだけど、どうやら“塩”の欠如が足を引っ張っている。また、縄文時代の集落跡に建設されたコミューンであり、手慰みに土偶作りにいそしむ様子が何度も挿入されるところを見ると、土中に埋もれた古代の息吹を老女たちに注いで奥底に眠っている荒ぶる魂への点火を試みる、そんな演出意図が明々白々でありますから、あまりにも貧相な食料描写はきっと縄文の暮らしぶりに準じたものなのでしょう。


 それにしても、人里から隔絶したこの“デンデラ”と呼ばれる場処で味噌や醤油が跡形もなく消失し、(フィクションとはいえ)三十年という歳月を不平も言わず代用品も作らず、それら無しで坦々と生きてきた日本人の姿を目にして慄然とするものがあったのでした。漠然と“ソウルフード”という位置付けを思い描いていたのに、君の勝手な妄想に過ぎないよ、誰も味噌汁や醤油になんか執着してないよと冷笑されたようで、一抹の淋しさを禁じ得なかった。


 いまひとつは若い世代に人気のアニメーションです。(*3) 十五年前、人為的に引き起こされた大爆発により地球人口の約半分を失ってしまった近未来を舞台にしています。海はひどく汚染されて赤々と染まり、場所によっては魚や亀などの生物が残らず死滅したらしい、そんな暗澹たる状況なのです。しかし、事故の後に生まれ育った子供たちは当たり前の事として事態を受け止め、臆することなく押し寄せる難局に立ち向かっていくのでした。


 やはり視線は食べものへと向かいます。地球の地軸さえも衝撃で傾いてしまった、まさしく驚天動地の事態であるのに不思議とコンビニエンスストアには食品が溢れ、飲料やアルコール類が平然と並んでおりました。あの3月11日以降の様々な現実風景を思い返し、むず痒いような、無意識に流れに掉さしてしまうような、妙にちぐはぐな感覚が胸に湧きもして考えさせる時間となりました。フィクションの限界であるのか、それともフィクションゆえに人間の業、つまり、喉もと過ぎた後に熱さをけろりと忘れてしまうことや飽くなき食欲、非日常へ関心を寄せ続けることの限界といったものを残酷に晒して見せるのか。う~ん、よく分からない。


 より興味深かったのは(*4)子供たちがピクニックに行く光景が劇中挿入されており、そこで“味噌汁”が極めて印象深く登場していたことです。遺伝子工学でこの世に生まれ落とされた娘が交じっており、肉をまったく受け付けない体質らしく昼食の席で孤立してしまうのでした。見かねた仲間のひとりが水筒に詰めて持参した“豆腐とわかめの味噌汁”をカップにちょろちょろ注いで娘に手渡し、「これなら大丈夫ではないか」と呑ませていく。初めて口にした温かい味噌汁に目を丸くし、やがて破顔して、生き人形の胸の内にも微かな暖色のともし火が宿るという場面でした。


 常に死と隣り合わせに暮らす子供たちの各々の生い立ちには暗い影が投げ掛けられており、大概が肉親の情に飢えているという設定です。味噌汁の一件以来、子供たちは調理に目覚め没頭していくのでした。料理を介して別の誰かと密接に繋がっていける事に気が付き、慣れぬ包丁を振るって手指に傷を負ったりもするのです。いささかステレオタイプで青臭い展開ですが、地球滅亡、人類殲滅の土壇場に佇みながらも一杯の味噌汁が作られ、見守ってくれている相手に振る舞っていこうとする健気な様子には、人間の哀しみ、愛らしさが滲んで悪くありませんでした。私たちの奥まった場処に隠された内実を探知し得た作り手の賢さ、生真面目さが感じ取れて嬉しかった。


 創造の原野で本来は寄り添いがちな“おんなたち”があっさり味噌汁を棄捨し、見向きもしないと思われている“子供たち”が必死になって鍋に向き合います。時代が円熟し、味噌汁の作劇上の立ち位置が不鮮明になってきた印象も受けますね。


 わたしたちのこれからの十五年、これからの三十年はどうなっていくのか。そのとき、味噌汁はまだ存在するのかしないのか。僕はこの世にもういないかもしれないから、ジャッジは次の世代に譲ります。若いみなさん、これから生まれてくる皆さん、本当にどうか健康に留意して元気に過ごしていってください。油断なく、けれど伸び伸びと。こころからお願いしますね。


 そして、懸命に闘っている我が善き友人たち、
 暑い夏に負けぬよう、くれぐれもご自愛のほどを!


(*1):「デンデラ」 監督 天願大介 2011
(*2):「憎いあんちくしょう」 監督 蔵原惟繕 1962
(*3): 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」 総監督 庵野秀明 2009
(*4): 友人はだからこそ、この映画を紹介してくれたのでしたが


2011年5月31日火曜日

豊田徹也「アンダーカレント」(2004)~買ってきたよ~



悟(幻影)「醤油もうなかったよね ついでに買ってきたよ」

かなえ「………」

悟(幻影)「や ごめん 心配かけたね」

かなえ「……」

木島「かなちゃん!?」

かなえ「……あっ おばさん」

木島「どおしたの ボォーっとしちゃって

   ロール紙も買っといたわよ もうあまりないでしょ」

かなえ「うん ありがと」

木島「あんた 本当に大丈夫かい?」

かなえ「大丈夫 大丈夫」(*1)


 学生だった頃と就職してからの数年間、住まいと場所をかえて通いつめたこともあって、僕の中には“銭湯(せんとう)”に対するセンチメンタルな思いが燻(くす)ぶっています。タイル張りの床、裸の男たちのたくましい背中や角ばった尻の並んだ様子、飛沫(しぶき)が飛び、泡のざわめく盛んな音と濛々(もうもう)たる白い湯気、からん、ことん、さぶりと反響する天井といったものが忘れえぬ思い出となっている。


 今こうして住まう町に銭湯の影を見なくなって久しいのだけど、代わりに温泉が、それもかけ流しで多彩な泉質のそれが身近にいくつかあって(温泉と銭湯は違うのです)、気分がささくれたり心に重石が乗ってくる気配がすると、早めに訪ねては気晴らしするようになっています。湯上りに何か飲んでも500円でお釣りが来る、いわゆる日帰り温泉ってやつです。


 お湯は濃い翡翠色であったり、乳白色だったり、まどろむような薄緑であったり、匂いも強烈なものからあえかなものとさまざまで興味深いのですが、何か大地の底に吸い込まれていくような、はたまた見上げる夜空にすっと捕り込まれるような、身体もこころも境界を失い溶けていく感じがたまらない。でも、一方ではあの銭湯の、まっさらの湯となんとも人間臭い時空も棄てがたいものがあって懐かしく振り返るのです。


 豊田徹也(とよだてつや)さんの「アンダーカレント」は単行本一冊に収まった小品で、偶然にも温泉帰りに寄った古書店で手にした本だったのですが、家業である銭湯を継いだ“関口かなえ”という名の三十代の女性が魂に深傷(ふかで)を負い、そこから再生していく話です。


 父親を看取り、精神的にも体力的にも心もとなく感じられていたとき、後に夫となる男“悟”と出会います。男はあっさり勤めをやめて銭湯を手伝い始め、頼もしい「共同経営者」となって主人公を支えていくのでしたが、ある日、同業者組合の慰安旅行に出かけた際にそのまま失踪して音信を断ってしまうのです。衝撃になんとか耐え、探偵を雇って夫の行方を追わせることを話の主軸としながら、己のこころの底流(アンダーカレント)にじっと向き合い、徐々に快復して行くおんなの魂の道程が緻密な筆致と抑制のきいたコマ運びで描かれている。なかなか読ませる内容なのでした。


 ここに醤油が登場していたのです。清掃の手を休めてぼうっと放心しているおんなの目の前に、突如夫が現われます。白いレジ袋を手に持ち、満面の笑みで留守を詫びる言葉のなかに「醤油を買ってきた」という言葉が交じるのでした。一瞬の後、夫の影は日頃手伝いに来てくれている中年女性の立ち姿とすり替わり、主人公が懊悩するあまり白昼夢を見てしまった事を読者は読み解きます。


 夢、幻覚のたぐいは支離滅裂なものであって、意味など寄り添わないものが大半だし(*2)、「醤油を買ってきた」という言葉は中年女性の発した単なる連絡事項だったかもしれず、ならば特段の意味は篭(こ)められていないと捉えるのが普通かもしれません。しかし、もう一箇所、作者の執着が垣間見える描写が「アンダーカレント」にはありました。


 同業者組合の紹介で働くことになった“堀”という男が開幕早々に登場するのですが、風来坊の男はアパートが見つかるまで裏の物置に寝泊りをさせて欲しいと主人公に懇願します。ほんのしばらくとは言え、若い男がすぐ近くに寝泊りする訳です。緊張するのは仕方ありません。子どものいないおんなにとっては、ひさしぶりの“同居人”でもあったのです。翌朝目覚めてすぐに朝食の支度をしますが、そこで丹念に描かれるのは味噌汁の調理風景でした。ご丁寧なことに鍋の脇には、ボトルに入った醤油も置かれているのが見えます。



 住み込みの職人に対し、ささやかな朝食(鮭の切り身を焼いたもの、味噌汁、ごはん、梅干)を雇い主たるおんなが用意するのは至極日本的で自然な振る舞いです。けれど、表情や物腰には柔和なときめきが灯っているのは明々白々であって、この不意の展開を歓迎しているところがある。(*3)


 作者の豊田さんは“味噌汁”の面立ちを「家族」と直結させ、とり残された主人公の淋しさや嬉しさを強調しようと試みています。小説空間、劇空間において味噌汁が母親像に連結し、家庭の団欒を彩るパーツに採用されることは特段目新しい表現ではないのだけど、最初に上げた「醤油を買いにいく」という行為はどうでしょう。「家族」と連なるのでしょうか、それとももっと微妙な何かと結ばれるものでしょうか。少し面白い流れです。


 ひとたび食卓に置かれてしまえば、むしろ厳格な父親像を浮き彫りにしたり恋情に水を差したりと悪役に回りがちな醤油なのだけど、“醤油を買いにいく”という行為や響きには僕たちの深層に光明をもたらす独特の作用があるようです。サランラップでも爪楊枝でも、シャンプーでも構わないところを、確信を持って作者は“醤油”を選んで見えます。


醤油、味噌といった細々したものすら大切に登用して物語の推進力に加えていく豊田さんは、日常を真摯に捉え、かなり綿密に思案して仕事をこなすタイプに思えます。寡作であられるので世に出ているのはこの「アンダーカレント」以外にはもう一冊だけのようですが、何か発見があるかもしれない。近日中に入手して拝読したいと思っています。



 湯に口元までどっぷり漬かっていると、自分が無くなる瞬間と自分と向き合う時間が交互に訪れますね。傍目からは素裸でぼんやりしているだけで、非生産性を極めたひどい在り様なのだけど、人間にとってはとてもとても大事なものみたい。あまり意識させられた事はこれまでありませんでしたが、ああいった弛緩した時間が全くなければ、今の僕たちはきっと別な人間になっていたろうとも思えます。手近な内と外に湯殿があって、僕はずいぶんと恵まれていますね。どうか皆さんも充実したお風呂ライフをお続けください。


善き夜を、好きお湯を。


(*1): 「アンダーカレント」 豊田徹也 講談社 2005 初出は「アフタヌーン」2004年10月号から2005年10月号に連載。引用箇所は7-8頁
(*2):全てがそうとは言わない
(*3):同上48頁

2011年5月27日金曜日

江國香織「「おみそ」の矜持」(2010)~じっと、ちゃんと、~


 「おみそ」でいることは、私の性に合っていた。それはおそらく、

私にとって、周囲となんとか折り合いをつける術だった。

以来、いまに至るまでずっと「おみそ」だ。(中略)

 こうなったら「おみそ」の矜持を持ち、それを貫くほかにない。

「おみそ」の矜持とは何かといえば、それは「最後まで観察者たること」

だと私は思う。ときどき参加させてもらえるとしても、それはほんとうの

ことじゃない(子供の遊びで言うところのノー・カウント)。「おみそ」は

そこにいるのにいない者であり、その本分は、あくまでも世界の観察に

あるのだ。じっと、ちゃんと、観察し続けることに。

 小説家は、だから「おみそ」向きの職業である。(*1)


 会合が7時過ぎに終わり、予定していた映画のレイトショーまでちょっと時間が出来ました。幹線道路沿いの書店に飛び込み、ふわふわ回遊して過ごします。新刊コーナーで後ろ髪引かれる題名の本を手に取って覗いているうちに、江國香織(えくにかおり)さんのエッセイ集と出会いました。食べものをめぐっての小文を一冊にまとめたものです。


 料理レシピ本や食べ歩きのリポートを否定するのではありません。写真にときめき、涎(よだれ)を誘い、胃袋を刺激して楽しいのだけれど、こっそりと下意識に左右したり、魂を官能から情動へと橋渡しする、そんなやや奥まった食物(味噌、醤油)の役割を僕は追い求めてしまっている。だから、この手の食べもの系エッセイは自然と避けているのだったし、普段は買い求めてまで読むことはありません。


 目次のなかに「おみそ」とあって、そんな訳であまり期待せずに頁を開くとなかなかどうして悪くない内容だったのです。味噌を引き合いに出しながら江國さん自身の記憶や哲学が述べられていて、これは名文ではないかと思いました。


 「注文したお味噌がきょう届いた」。江國さんはこんな言葉で口火を切ったのでした。気に入りの味噌が無くなると困るから、時折取り寄せなければならないが、この取り寄せがなかなか難しい。そんな不器用な自分を振り返り、「子供同士で遊ぶとき、年下で、みんなと完全におなじことができず、いろいろと大目にみてやる必要のある子のことを、「おみそ」と呼んだ」ことを唐突に思い出します。支離滅裂なんて書くと叱られそうですが、イメージが横すべりして次々と発光していく感じがちょっと可笑しい。


 どんどん連想は膨らみます。「おみそ」が「みそっかす」の短縮形と知らぬうちは意味がまるで分からなかったと振り返り、いつしか当時の味噌屋の店頭風景が頭に浮かび、「おみそ」という言葉が身近にあったがゆえに味噌自体が好きで、なにかしら親近感を抱いていたと懐旧します。


 そうして江國さんは今の自分は「おみそ」ではないか、友人知人より許されて共に居させてもらう、そんな一歩半程度距離を置いた自分の性分は「おみそ」になっていると考え、けれど、それを爽やかに肯定してみせるのでした。引用したのは締めの部分ですが、「おみそ」を語ってここまで凛とし、誇らしげなものを僕はこれまで読んだ記憶がない。


 もちろん、ここでの「おみそ」は味噌でも味噌汁ではない。「みそっかす」という愛称と蔑称の中間にある愛らしく、妙にこころに響く呼び名なのだけど、僕にはそれ以上のイメージが湧いて止まらないのです。“味噌”という地味で目立たない存在が、料理においても、さらには日本という国にあっても確かに「そこにいるのにいない者であり」、その本分は、「最後まで観察者たること」ではないか。世界を食卓や台所からそっと観察して、尽きぬ想いを見えない言葉に綴って届けている「小説家」ではなかろうか。


 辞書で“矜持(きょうじ)”を引くと「自負、プライド」とあります。まなざしに強さと厚みをもたらす素晴らしいタイトルですね。元気をもらえた気がします。


(*1):「「おみそ」の矜持」」 江國香織 初出は「週刊文春」号数は把握していません 「やわらかなレシピ」 文藝春秋 2011所収 引用は115-116頁

2011年5月18日水曜日

岡本かの子「家霊(かれい)」(1939)~ふらりふらり~



 くめ子は、われとしもなく帳場を立上った。妙なものに酔わされた気持で

ふらりふらり料理場に向った。料理人は引上げて誰もいなかった。

生洲(いけす)に落ちる水の滴りだけが聴える。(中略)

握った指の中で小魚はたまさか蠢(うご)めく。すると、その顫動(せんどう)が

電波のように心に伝わって刹那に不思議な意味が仄かに囁(ささや)かれる

――いのちの呼応。

 くめ子は柄鍋に出汁と味噌汁とを注いで、ささがし牛蒡を抓(つま)み入れる。

瓦斯(ガス)こんろで掻き立てた。くめ子は小魚が白い腹を浮かして熱く

出来上った汁を朱塗の大椀に盛った。山椒一つまみ蓋の把手(とって)に乗せて、

飯櫃(めしびつ)と一緒に窓から差し出した。

「御飯はいくらか冷たいかも知れないわよ」

 老人は見栄も外聞もない悦び方で、コールテンの足袋の裏を弾ね上げて受取り、

仕出しの岡持(おかもち)を借りて大事に中へ入れると、潜り戸を開けて盗人の

ように姿を消した。(*1)


怪しげな表紙画と題名が目に止まり、書店の通路で足が停まります。しばし迷った末に買うことにしました。小説や映画といったフィクションに気持ちが少し傾くようになって来たのは、“いつもの日常”が戻ってきている証拠でしょうか。いえいえ、事態はまるで収束していないのだし、耳に飛び入る情報は胃袋をぎゅうっと収縮させるに十分な怖い話ばかりです。


異常な状況や恐怖に慣れていくに従い、快感や弛緩に再び手が伸びていってしまう、弱くていい加減なところがすっかり露呈していくようで、書くのが少し恥しい。のだけれど、向かう視線や飛び交う妄念を自分なりにつぶさに解析すれば、幽霊だの死者だの、冥界や狂気、失踪や殺人といった日頃は覗く気になかなかならない分野になびいているところがあって、何かしらの余震が心の奥で起きているのは間違いない。“いつもの日常”とはどこか違っているようです。


「家霊」は“かれい”と呼ばせるのですが、題名通りの中身であるなら屋敷に潜む霊的なるものが題材になっている。怨霊や化け物、狂人がひょいと顔を覗かせ跋扈する楳図かずおさんや諸星大二郎さん、伊藤潤二さんなんかのおどろおどろした漫画を想像してしまいます。唖然として背筋が凍り付く瞬間を待ち望んだ訳でしたが、あにはからんや読み終えてみれば実にしっとりと湿り寄る、巧緻な人情噺になっていて驚かされた次第です。所収された他の短編のどれもこれもが愛らしく、レイモンド・カーヴァーさんの作品をふと思い出したりもしたのです。
 

岡本かの子さんがその短い人生(享年49)で小説に打ち込んだのは大変遅く、“晩節”と呼んでも可笑しくない時期です。秀作ばかりを選んだせいもあるでしょうが、作品に独特の厚みの感じるのはその為かもしれませんね。ボートを漕ぐといったような激しい動作をともなう場面ですら愁いある影と澄んだ風が付き添い、磨き抜かれた光沢のある風情に世界のすみずみまでが染まっているようであって、まるで良質の映画をゆったりと眺めている気分になる。


夫婦生活の破綻、貧窮、相次ぐ幼子の死といった凄絶な苦闘や、欧州遊学、歌作、仏教による魂の救済といったあえかな、しかし着実な仕合わせを、幾重にも我が身とこころに堆積させて遂に完成の域に至った女性ならではの、密度ある多層が秘められている。言葉の数々が結晶体となって、きらめき溢れて見える。いや、本当の話、頷かされるところが随分と多かったのです。


 代表作のひとつがこの「家霊(かれい)」であって、“いのち”と名付けられた店が舞台となっています。「どじょう、鯰(なまず)、鼈(すっぽん)、河豚(ふぐ)、夏はさらし鯨――この種の食品は身体の精分になるということから、昔この店の創始者が素晴らしい思い付きの積りで店名を「いのち」とつけた」(*2)のでしたが、七八ヶ月ほど前から「いのち」に帰って来て、病気の母親に代って帳場に坐りはじめた娘のくめ子はくすぶりの日々に囚われていました。「女学校へ通っているうちから、この洞窟のような家は嫌で嫌で仕方がなかった」(*3)ために、存在感のまるで希薄なままに、毎日を只ぼんやりとやり過ごしているのでした。


 気乗りしない理由は母親の面立ちにもあります。遊蕩癖のあった夫に去られた後、ひとりで店を支え、娘を育て、今は病床にある母親なのでしたが、娘の目から見るとその人生と風貌にまるで魅力を感じなかった。「自分は一人娘である以上、いずれは平凡な婿を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。それを忠実に勤めて来た母親の、家職のためにあの無性格にまで晒されてしまった便(たよ)りない様子、能の小面(こおもて)のように白さと鼠色の陰影だけの顔。やがて自分もそうなるのかと思うと」、くめ子は思わず身慄いしてしまうのでした。(*4)


 仕事や暮らしといったものに人生を捧げる意味を見失って茫然とする、そんな曇天(どんてん)の時間が誰の胸にもあります。これからの時間や生活がひどくみすぼらしく感じられ、もはや“余生”ではなかろうか、と、どうにもやるせなくなって独り嘆いてしまう、そんな苦しくつらい魔の刻(とき)。僕たちの抱えるそんな惑いや不安に対し、最終コーナーに佇んだ在りし日の岡本さんから明確なメッセージが送信されて来る。具体的な言葉の数々をここで開陳するのはルール違反なので止めておきますが、どれもこれもが胸によく響きました。


 上に引いた箇所はこころがくすんでいた娘が開眼する瞬間です。物乞いのように店に日参しては“どじょう汁”を無心する年老いた彫金職人がおり、その話を一対一で聞くうちに仕事の本質や人生の機微の何たるかを娘は悟っていくのでした。


 あくまでも小道具に登用されたのは“どじょう汁”なのですが、出汁(だし)のよく利いた「味噌汁」が絶対に欠かせぬ土台となっていて、優しい湯気と香気を立ち昇らせています。神々しいと言えばやや言い過ぎですが、幽幽とした調理場にほのかに暖かい、目には見えぬ何ものかのそっと息づいているのが感じ取れて、確かに「家霊」というのはいるよな、そんな事ってあるよな、と、題名がすとんとお腹に納まったのでした。


 入手したのは280円の文庫版です。お釣りが山ほど来る、そんな素敵な本でした。

(*1):「家霊」 岡本かの子 初出は「新潮」昭和14年1月号 手元にあるのはハルキ文庫 2011 引用は87‐88頁
(*2):同72頁 
(*3):同74頁
(*4):同75頁

2011年5月6日金曜日

山内久「若者たち」(1967)~ツケで食わしたのか~



6 佐藤家(朝)

 モリモリ飯を食う太郎、三郎、末吉の口、口、口。

オリエ「サブちゃん、先週の食費頂戴。八百四十円」

太郎「(ハッと)ツケで食わしたのか」

オリエ「だって、アルバイトのお金まだ入んないっていうんだもの」

太郎「サブッ!」

 ミソ汁のお代りをしようとする三郎の手からお玉を取り上げ、

太郎「すぐ出せ。金を」

 三郎、冷然と末吉の汁を飲み、食い続ける。

末吉「よせヨ!」

太郎「規律に従えない奴は出ていけ!」

 ガンガンと壁を叩く──。

 定「朝食四十五円、晩食七十五円、昼食又は弁当七十円」と

 書いて貼ってある。(*1)


遅い夕食を取りながらコントローラーでテレビを付けると、長距離トラックの運転手が助手席の相棒に向かって何か怒鳴っているところです。どうやら映画が始まったばかりのようで、題名も分からぬまま目の端っこで追っていると、やがて上に紹介した朝食の光景に切り替わりました。今は絶滅してしまったように思える貪欲この上ない食べっぷりで、椀に盛られた味噌汁を奪い、奪われしながら、こちらもぐびぐびと威勢よく飲み干されていくのです。卓袱台(ちゃぶだい)を挟んで田中邦衛さんと山本圭さん、それに松山省二さんの顔が見えて、あっ、これは「若者たち」だと気付きました。ちょっと胸がどきどきします。


これまで僕はこの作品を疎(うと)んじていた、と言うか、もっと端的に白状してしまえば政治色が濃厚に想えてひどく警戒していたのです。どこかの団体のプロパガンダだと思い、誰がその手に乗るものかと一方的に回路を遮断していました。あれこれ日頃世話になって敬愛している人の口から何かの拍子にタイトル名が転がり出たりすると、おや、この人は思想が偏向しているのじゃないか、こちらの気持ちを酌んではもらえない頑なで困った一面を抱えているのじゃないかと不安を覚えたりしました。そのような訳ですから、どうしても斜め目線はしょうがないのです。タブーを侵すみたいでもあり、据(す)わりの悪いまま見つめることになりました。


早い時期に親を失って、戦災に耐え、貧窮に苦しみ、偏見と闘ってきた五人兄弟の物語です。立ちふさがる様々なハードルを越えていく様子が感動をもって描かれるのですが、膨大な台詞に続いてけたたましい口論が起こり、組んず解れつの大喧嘩に至るというお約束がある。机や座布団が宙に舞い、器や食べものが飛び、人の身体さえばっと跳びかって痛快です。


論議の対象は深刻なものです。経営破綻と仲間割れ、被爆と結婚、労働災害と弱者切り捨て。畳み掛けてくる討論の内容に耳を奪われ、いつしか気持ちが引き込まれてしまいました。製作当時は題材の暗さから配給会社がこぞって難色を示し、公開さえ危ぶまれた作品だそうだけど、コンピューターを駆使した複雑な編集と特殊効果、重奏し混濁する音曲にすっかり慣れ親しんだ今(2011年)の視聴者目線からすれば、むしろしっくり来る分量と盛り付けになっている。時代が追いついて、娯楽作品としての趣きが具わって見えます。


ひとつの事象を五つの方向から見つめて、お互いの感じたまま、思うままを開陳して兄弟は議論を重ねていくのですが、最後の最後まで一方向のみに傾斜を強めたりしません。バランスが取れているのも見事です。片方が劣勢になって追いつめられ、狭い茶の間にひゅうと風が吹き抜けた感じになると、これまで隅で沈黙を守っていた兄弟がおもむろに口を開き加勢してぐいっと平衡を取り戻していく。満々と水を湛(たた)えた大きな水盤を、皆で支えて上手く運んでいるような案配(あんばい)で実に気持ちがいいのです。


社会であれ会社であれ、もわもわとした矛盾を潜み、奥底には泣けてくるよな不合理を孕んでいるものですが、それを単純に断罪するのでなくって、非難する側、弁護する役を兄弟のそれぞれが担って全力でぶつかっていく。当然の事として波は立ち、飛沫(しぶき)は跳ねてずぶ濡れになるのですが、盆を引っくり返して台無しにすることはない。目指す方向はすこぶる建設的であって、基調となる色彩も日本人好みにとことん浪花節的であるから劇中の実生活から乖離したり空転したりしないのです。


つまり、これまで僕の抱いていたイメージこそが余程偏向し、頑なで困ったものだったのです。大いに反省を促がされると共に、急ぎ脚本を担当されていた山内久(やまうちひさし)さんのシナリオ集を探して噛み締めるようにして読みました。


本のなかには「若者たち」の他に続編にあたる「若者はゆく」(*2)、および「若者の旗」(*3)も収められていて、年数を経て兄弟の成長していく様子がたいへん興味深く、面白く拝読しました。学園闘争、労働争議、公害、夢の島、交通戦争といった当時の世相は直接僕たちの日常にリンクするのでないけれど、問題に向き合う姿勢や規範となる型のような普遍的で大事なものを教わったように感じます。


川面(かわも)を呆然と見守るだけでなく、渦中(かちゅう)に身を投ずる気構えで見据え、討論を導き、大丈夫なのか、本当にそうなのか、後で後悔しないのかと納得するまで何度でも蒸し返していくことの重要性を山内さんは訴えてくれている。今回起きてしまった原子力発電所の事故にしたって面倒な討議を排して、楽な方へ楽な方へと流れてしまった国策のツケが回ってきたように感じますし、爆発後はパニックを恐れる余りに情報を統制して自由な論争を封じた結果、ちょっと回復が難しいほどにも不信の念が国中を覆ってしまった。


ほとんどの国民が蚊帳の外に置かれ、曖昧な言葉ではぐらかされ、新たな基準値を押し付けられ、良心の呵責に悩んで飛び出た人には守秘義務の名目でもって口を封じ、金持ち喧嘩せずといった事なのか分からないけれど、ディスカッションはまるで見えぬままに時間ばかりが過ぎていく。


安直に決め付けるのはおかしいし、なによりも危険だよね。話の輪から皆を外して本当にいいのかな、もっと僕たちは丹念に話し合う癖を身に付けた方が良いのじゃないかと、懸命に、親身になって“44年前の若者たち”が語り掛けている。


NHKの電波を介してあの夜、あの時間に同じようにして食い入るように観ながら、僕と近しい思いを抱いたひとは少なくなかったのではなかろうか。羨ましい感じが凄くするんですよね。僕たちはディスカッションをとても希求している。密度があって、誰もが納得できる討論が面前で展開され、意見が尽くされるのを心待ちにしている。


次々に椀に盛られ、奪い合い飲み干されていった「若者たち」冒頭の味噌汁は、ぜいたくな具が入っていない薄っぺらなものだったかもしれないけれど、とても豊かで健康なものに映りました。いくらか貧乏の象徴として登用された気もしなくはないけれど、個食(孤食)を避け、顔付き合わせる仕組みを作り、腹を割った話し合いを誘導してなかなかに味わい深い役柄だったと思うのです。


(*1):「若者たち」 監督 森川時久 1967 引用はシナリオ集「若者たち」 山内久 汐分社 1984
(*2):「若者はゆく 続若者たち」 監督 森川時久 1969
(*3):「若者の旗」 監督 森川時久 1970 たとえばこんな台詞がありました。「生きることの意味は、環境の改善と、生命の再生産だぞ。その二つには誰だって喜びを感じるだろう。だから誰もがそれを円滑に出来るように保証してゆくことが、生きることの意義だし目的だろう」

2011年4月30日土曜日

宮部みゆき「裏切らないで」(1991)~俺たちに背中を向けてる~



 加賀美敦夫(かがみあつお)は、パジャマのままで歯を磨き顔を洗うと、

タオルで手を拭きながら台所へ入った。二口コンロの前では道子が味噌汁を

かきまぜている。彼が口のなかでもごもごと「おはよう」と言うと、

妻は訊(き)いた。

「卵、落とします?」

「うん」

 道子はきびきびと振り向くと、冷蔵庫のドアを開け卵を取り出した。

片手で鍋の縁にぽんとぶつけて割る。ほとんど同時にガスの火を止め、

蓋をする。こうしておいて三、四分待つと、卵が加賀美の好みの固さに

なるのだった。(*1)


 家族の稽古事が郊外の公民館を借りて行なうことになり、車での送迎役を頼まれました。近所の私設図書館で書棚の間を回遊しながら愉しく時間をつぶし、前もって言われていた時間に舞い戻ったのだけど稽古はまだ終わっていない。聞こえてくるざわめきの調子から、まだまだ時間がかかってしまいそうな気配です。世相を反映して玄関ホールは全て消灯され、なんとも物憂い感じです。もちろん空調も止められていますので、花冷えとなった昨日は身体の芯まで凍えていくようで、いつしかお腹がしくしく痛くなってきました。


 これはたまらん、車の中で待つしかないなと判断したのだけど、あいにく手持ちの本もなく暇を持て余してしまうのは確実です。たん、たたた、とトタンを叩く音が頭上でして大粒の雨が落ち始めたのが分かります。近所をのんびり散策して過ごす訳にもいかないのです。見ればホールの片隅に書棚が据えられてあり、そこは小さな図書空間となっているのでした。置かれたノートに名前と書名を記載すれば、誰でも二週間を限って貸し出すと掲示されています。その多くはミステリーやエッセイなど肩の凝らない内容のものでした。


 僕は元々ミステリーを積極的には読まない(それを素材にして人間の情欲や深層に踏み込んだ演出が為された映画は好きです)男ですし、震災後は“死”に関して軽々しく考えられなくなっているので尚更敬遠するところがあったのだけど、仕方なしに二、三を手に取って眺めたなかに上の記述が見つかってしまった訳でした。宮部(みやべ)みゆきさんの短編小説の一節です。


 濡れないように本を小脇に抱えて、雨のぱらつく駐車場を横切り、運転席に滑り込みました。敷地に面した小高い丘には桜の樹が数本並び(この辺りではようやく終わりの時期です)、花びらの雨にぱらぱらと散っていく様子などが濡れたフロントガラス越しに艶(なま)めかしく見えていました。花はいつものように咲き、蜂や蝶を招き寄せ、懸命に愛を交わして散っていく。大津波が襲い、原子力発電所が爆発したっていうのに、自然というのは随分と健気でたくましいものだと不思議な気分で見とれておりました。


 ミステリー小説でありますから殺人事件が当然発生し、所轄の警察が犯人探しに奔走します。主人公の加賀美は刑事のひとりです。幕開けと終幕が自宅の台所に設定されていました。顛末を開陳してしまえば、単調な地方の生活に倦(う)んでしまい、大都会に出てマンションに並び暮らす者同士が事件の当事者なのでした。互いに雑誌やテレビに煽られるままに高価な家具や衣類を買い求め、虚飾に溺れて暮らすうちに激しくライバル視するようになり、最後は罵り合いとなり、激昂して揉み合いとなって歩道橋から相手を突き落としてしまったという、書かれた当時の狂熱した世相(バブル末期)を切り貼りした騒々しい内容でした。


 関東圏に居住していた頃、酒の席でいわゆる“江戸っ子”と呼ばれる先輩から、街の良さを地方出身者が台無しにしている、さっさと田舎に帰ってもらいたい旨の発言がありました。憮然として返す言葉もなく苦い酒をあおった次第でしたが、その事をふと思い出しました。今こうして彼の地を離れ淡々と暮らす身になってみれば、あの時の彼の言わんとした主旨もすとんと胸に落ちるような感じがいたします。何を求めてあんなに集い、右往左往しながら暮らしているのか。苦言を呈されても仕方ない気がいたします。


 綺羅星のごとき才人が寄り集い、競争原理がそこに働き、激烈な研鑽を個々に求められた結果として、世界と肩を並べる仕事が次々と完遂していく。人が一極に集中していればこそ起きる化学反応と言えますね。なるほど都会は国の牽引役となって機能しているのは違いないことですが、この度の震災に端を発する停電による大混乱や今夏予想される電力消費ピークをめぐっての騒動を見ると、都会という幻想を皆で飼い馴らして来たゆえに“とんでもない無理”を助長してきた最終結果と思えてなりません。


 小説の中に描かれた哀れな地方出のおんなたちと、酒の勢いを借りた知人の文句と、こうして豊穣な大地と水を汚し疲弊させていく現実とが繋がって思えてならないのです。徐々に無理が利かなくなって、終にああなってしまった。今回の事故の根底には高度成長からバブルへと至る膨張と無制限の上昇志向があり、こうなることは40年も前から決まっていたのでしょう。


 宮部さんの創造した世界に話を戻しましょう。加賀美という男は捜査が壁にぶち当たると、盃に満たした日本酒を東に面した窓辺に供え、解決の糸口を授かるように祈る習慣を持つと設定されていました。面白い肉付けがされていると感じます。事件は真夜中に解決し、朝帰りした加賀美は盃の中身を台所の流しにさっと捨てるのです。誰がおんなたちを狂わせ、事件を引き起こしたのか。疲れた頭で振り返る男の脳裏に巨大な電波塔がどんと突き立っていく。華々しく輝いて見える暮らしこそが幸せの頂上であると放言し続けたメディア、その象徴、騒動の根幹として、ここでは東京タワーが引き合いに出されていました。


「なあ、道子」

「なあに」

「おまえ、東京タワーの正面がどこか、わかるか?」

 道子は黙っていた。

「俺には、どこから見ても、いつ見ても、東京タワーは俺たちに背中を

向けてるように見えるよ」

 道子が静かに歩いて、コンロにやかんをかけた。

「いいじゃありませんか。どっちにしろ、うちの窓からは東京タワーは

見えませんよ」

 少しして、やっと加賀美はちょっと笑った。まだ、かすかにお神酒の

匂いが残っていたが、道子が味噌汁をつくれば、それもすぐにかき消されて

しまうだろう。(*2)



 いささか唐突な連想でありますが、過度な文明が人を狂わせていく、ということを宮部さんは言いたかったのでしょう。刑事の妻は動揺した男の胸のうちを沈静しようと試みます。日常の象徴である味噌汁を作りにかかるのです。


 料理店のガイドブックにはよく“星”が使われ、ここは四つ星であるとか三つ星であるとか称(たた)えられますが、あれは味の“天”の世界なのでしょう。だから星がちかちか瞬いている。対して星とは無縁の“基礎=地”の味の代表格が醤油、味噌と呼べるかと思います。古来より料理の土台となる基礎調味料で醤油、味噌はありましたからね。どうしたって“地”の味、すなわち「地味」は宿命なんですね、味噌汁ってやつは。(これは友人の話の受け売りです)


 華美を極め麗色を誇る“文明”と対極にある“日常の光景”として味噌汁はあり続ける。大丈夫、あなたは地味に生きている、心配しなくていいのよ、足元は揺らいでいないよ、無理をしなくていいのよ、と語りかける図式です。こういう思考は現実世界でも大切だと思えます。


 なにもフランス料理を禁止しろ、味噌汁を国民食にして摂取を義務づけろと言っているのではありません。「自粛」も程々にしないと総倒れになりかねない。ただ、そろそろ「地味」を旗印と為し、幻影に毅然と対峙しながらゆったりと暮らし始める。そういう見直しの時期に日本人は来ているのじゃないか、そのように僕たちは世の諸相から語り掛けられているのじゃないかと思うのです。


 いま叫ばれている「復興」という言葉には、だから、生活基盤や経済の建て直しに留まらず、都会住まいに夢のような幻想を抱かず努めて堅実に生きていくことを強く意識付ける、そんな使命も帯びているはずなのです。「引き算をはじめる」、「足りるを知る」、「よき貧しさを構築する」──じゅんと胸に沁み込むような警句が、時おり目に飛び込むようにもなりました。有り難く、大事に受け止めないと罰が当たるように思われますが、被災した地方の街づくりを通じてその考え方を灯明として抱き、日本列島全体にゆるやかに拡げていくのが肝心な事、大切なことと信じます。


 明日、沿岸部にあって壊滅的なダメージを受けた町に、生活用品を僕は届けにいく予定なのですが、きっときっとたくさんの勉強をさせられる事でしょう。生きるということの“かたち”について思案をより深める機会を授けられたと、急遽、縁あって赴くこととなった不思議を噛み締めているところです。


(*1):「裏切らないで」 宮部みゆき 単行本「返事はいらない」 実業之日本社1991所収 167頁 奥付によれば初出は「週刊小説」91年3月29日号 
(*2):同203頁

2011年4月20日水曜日

池田敏春「人魚伝説」(1984)~成仏出来んなぁ~



のぶの家・台所
  のぶに続いて、みぎわが入って来る。
のぶ さーさ、坐って食べた食べた。
  食卓の上には、御飯と味噌汁、干物と漬物が並べられている──
  みぎわ、箸を取るが、ぼんやり食欲無げに見返しているのみ。(中略
)


のぶ ちゃんと食べんと……

辰雄 かまわんかまわん。
のぶ かまわん事あるかいな。そのオカズ嫌やったら、昨日の残りで
   済まんけど……
  と、バタバタと立ち上がり冷蔵庫の中を探し始める。
辰雄 もう終いやから……。御馳走さん。
  と、立ち上がり
辰雄 ちょっとブラついて来るわ。(みぎわに)ごゆっくり……
  と、出て行く。
のぶ もう、ほんまにしょうの無い人やで。(中略)
  みぎわ、のぶをみつめ返して、残った飯に味噌汁を掛けて、
  流し込むように食べ始める──(*1)

 
 上に引いたのは池田敏春(いけだとしはる)さんの映画「人魚伝説」のシナリオの一節です。池田さんを偲ぶ追悼上映があると知り、二十数年ぶりに押入れの奥からパンフレットを取り出して再読しました。完成された映画からはカットされた食事の風景です。

 「人魚伝説」は一種のおとぎ話です。風習、土俗信仰の要素を注入して非現実感を大胆に地平に拓き直し、みぎわという主人公のおんなの爆発していく観念を観客のこころにぶつけて来ます。劇の中盤でおんなが緊急避難した小島ではおじいさん(宮口精二)とおばあさん(関弘子)が待ち受けるあたりも昔話のみたいですね。竜宮城の豪華な歓待というわけにはいきませんが、朝夕の食事の世話になり、愛らしいふたりの口喧嘩を見つめながら身体とこころの痛手を静かに癒していく。味噌汁はそこに登場していました。

 こころ許す仲となったみぎわと老夫婦だったのですが、みぎわが厄介なトラブルを抱えた身と知って夫婦は島をどうか去って欲しいと切々と願い出るのでした。味噌汁を含むほのぼのとした描写の数々が上映時間の関係か割愛されてしまったのは残念ですが、この竜宮城を追い立てられていく人魚の悲しみを了解すれば物語の奏でる哀切もより増して、幕引きを飾る大殺戮の寂寂(さびさび)としてどうしようもない感じが鮮明になるように思えます。「人魚伝説」に惹かれて止まない人は多いようですが、機会あればこのシナリオも一読してもらいたい気がいたします。

 さて、脱線を覚悟で話をそらします。よく知られた話ではありますが、サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督は自作の中にマクガフィンと呼ばれるものを多用しました。たとえばイングリッド・バーグマンを主演に迎えた「汚名 Notorious(*2)という作品のなかで、怪しげな砂利の詰まったワインの壜が登場しています。それを闇から闇に秘蔵し、大量破壊兵器を開発しようと目論む悪の組織があるのです。

 国の情報機関に協力して潜入捜査をしていたバーグマンに危機が迫るという筋書きなのですが、観終わってみればこの怪しげなものが兵器原料である必要は全くなく、麻薬であっても病原菌であっても、はたまた政治家の醜聞(スキャンダル)だって構わないのでした。要するにバーグマンが怖い目に遭えばいいのです。これがマクガフィンってやつ。以来、この手の最後まで実態の見えない小道具で、雰囲気を後押しするために盛り込まれるものをマクガフィンと映画界では呼びならわしているのです。

 「汚名」でのワイン壜の中身は何だったかと言えば、粉末のウラニウムなんですね。振り返れば僕が観て育った映画や小説、漫画ではウランや放射能が随分と小道具に使われていました。例えば「ゴジラ」(*3)にしてもその発生は原水爆実験による環境破壊に原因すると設定されていた。大きなスクリーンに映る怪物の姿とその吐き散らす青白く発光する息、たちまち爆発していくビルディングの様子に震え上がった覚えがあります。ぼうっと背びれなんかも光って薄気味悪かったですが、あれのお陰で人知をはるかに越えた存在だと納得させられましたね。

 戦争の傷痕が十分に癒えない日本において、放射能は恐怖の象徴として十分に機能していたのです。身体に悪いもの、猛毒であるもの、得体の知れぬ秘密めいたものという認識を無理なく広め、劇場に集う観客なりブラウン管に群がる家族を同じうねりで包(くる)むことが出来た。作劇上、とても重宝なマクガフィンとなって、とことん使い回されていた訳なのでした。

 他にも発電所が大爆発して死の灰が撒かれたり、放射性物質をめぐって狂信的なグループや宇宙人が暗躍したり、人間の身体や精神に影響をおよぼして超人的な能力を発現させたりとなんとも騒々しかった。多くは娯楽作品であったから科学的な考証がないがしろにされ、描写も乱暴だったりしました。確かに無茶苦茶なお話もありましたね。批判を浴びて製作者サイドが急遽謝罪する、そんな展開もありました。

 公開当時に僕は観ているのですが、27年程前に作られた映画「人魚伝説」も似た色調に染まっていました。小さな漁村を舞台に原子力発電所建設のための策謀が渦巻き、反対する若い夫婦が厄介者として葬られそうになります。夫を殺されたおんなは復讐の鬼と化して首謀者に襲い掛かり、終幕をほとばしる鮮血で真っ赤に染めていくのです。

 開発の誘致をめぐる村内の対立がメインであって、原子力発電そのものに対して声高に意見するのではない。廃棄物処分場でも大型量販店でも、ダムでも空港でも何でも良かったように思えます。元々は観光レジャーランドを建てるか否かで衝突していた村人同士だったのですが、躍起になっていた土木業者の社長がすり寄ってきた電気会社に取得済みの土地を丸々提供したあたりから話が錯綜していくのであって、なんとなく唐突な感じが付き纏う。レジャーランドを巡っての紛争で押し通しても一切差し支えなかったわけですから、放射能マクガフィン映画の典型だな、と思ったものでした。

 ところが監督の池田さんの追悼上映にあわせて再読したパンフレットのそこかしこからは、当時の作り手の思いは存外に熱いものだったと知れるのです。娯楽作品の皮をかぶっていながら、内奥では拡大する原子力政策に対し盛んに警鐘を鳴らしている。例えば「太陽を盗んだ男」(*4)とかもそうだったけれど、この「人魚伝説」にしても生真面目過ぎる武骨さが雑じっており、どっしりとした重石と挑戦的なまなざしが添えられている。先行きがまるで視通せぬ暗澹たる状況にある今の僕たちからすれば、なおさらに胸にびんびんと響いて来るものがあるのです。

 特に原作者の宮谷一彦(みややかずひこ)さんの寄稿には故郷を喪失していくことの苦悩がにじみ、また過疎地にその手の施設が林立するメカニズムも吐露してあって実に痛々しい印象を受けます。煩悶する内実を発言や作品というかたちにすれば、それ以来地元のメディアからの声掛けが皆無と化したという冷徹な現実にも触れてあって、今この時も多発して表現者や記者を苦しめていく舌禍(正統な意見や情報発信だと僕は思うけれど)がいかに根深く強大かが分かります。

 そのような予備知識を得て再度向き合った「人魚伝説」は放射能マクガフィン娯楽活劇ではなくなっていました。追悼上映会は八割ほども席が埋まって盛況だったのですが、誰の胸にも明確なメッセージがどんどん雪崩れ込んできて揺れ動かされるものが確かにあったのです。

 上映後にはこの映画の製作を務めた方が池田さんを悼むトークを行なってくれて、話の流れはどうしても発電所事故に触れざるを得なかったのですが、その語句のひとつひとつに僕は頷くばかりでいました。宮谷さんの原作にはなかった「原発」を主人公と対峙する巨悪に据えたのは池田さんの直感に縁(よ)るものであったのだけど、ロケ地の海で昨年暮れに池田さんが生命を絶って以来、現実が物語通りに展開しているように思えてならないこと、膨大な利潤を手にほくそ笑んでいる会社なり機関に深くいきどおっていること──。本当にそうですよね。僕だけでなく耳を傾けた多くのひとも実際そのように感じていたと信じます。

 池田さんの造形したみぎわ(白都真理)というおんなの憤怒や苛立ちや脱力感が隙間なくシンクロして、物語空間に呑み込まれてしまった感じがします。「立派な映画です」と評する関係者の言葉には身びいきは露ほども含まれていませんでした。「それがこういう形(事故)で立証されてしまったことは悔しいが」と小さな言葉で関係者は継がれましたが、ほんとうにそう思います。立派で、そして悔しい映画ですね。

 さらに胸に沁みたのは、次のようなお話でした。何をやっているのだと怒りが湧く一方で、竣工して40年も経って耐用年数もとっくに過ぎた施設があのような状態になったことに色々な感慨を抱く。自分は東京に生まれ東京で育って今は六十歳だけれど、これまで四十年の月日をあの発電所の送る電気の下で過ごして様々なものを享受してきてしまった。それを思えば一方的に原発反対と声を荒げることが出来ない。自分のはね返ってくるものが随分とある──

 確かに僕だってそうでした。暮らしたり遊んだり、泣いたり愛したりしたあの時、あの場面の光の数々は確かに今や瓦礫と化したあの場処から送られた電気によるものだった。関東以外の場所に足を運んだとき、その地でも同じようにして原子力発電プラントの力に僕は知らず知らずの内に頼っていたはずです。敵対者ではなく身内としてよくよく内省し、今後どうあるべきかを一緒に模索するのが正しい姿勢かもしれません。

 創造する者は世相をよく読み取り、受け手を絶えず揺れ動かしていくのが役目である、池田はそういう作り手だった、という主旨のお話も壇上から出されました。

 放射能という響きが使い古され、もはや新鮮味を欠いてマクガフィンに適さなくなった事、メディアミックスを戦術の根幹に置くようになってから表現上の制約が進んでいること、さらに差別表現を回避して訴訟トラブルを未然に防ぐこと、クライアントに睨まれず、仕事を干されず日々の糧を必死で守らねばならぬこと。そのような諸条件が何重にも縛ってか、いつしか娯楽の世界からすっかり原子力放射能は影を潜めてしまいましたが、消えてなくなっては良いもの、では決してなかった。玉石混淆であっても構わないから、漫画家、小説家、劇作家の皆さんには次の世代、その次の世代、百年後、二百年後の世代に向けて既成概念を揺れ動していく「考え続けるための種」を勇気持って蒔いてもらいたいと心から願います。

 ウェブを介して色々な意見が飛び交っていますが、大事なのはいつまでも語り続けることであり、そういった意味合いでは朽ち果てることなく時折再生されていく映画という媒体は貴重な発言者なのだと思わせる濃密な夜でした。電車を乗り継いで苦労して行った甲斐がありました。

(*1):「人魚伝説」 監督 池田敏春 脚本 西岡琢也 1984  引用は劇場版パンフレット「アートシアター157号」より
(*2): Notorious 1946
(*3):「ゴジラ」 監督 本多猪四郎 1954(第五福竜丸の被爆事件の年)
(*4):「太陽を盗んだ男」 監督 長谷川和彦 1979

2011年4月15日金曜日

谷口ジロー「センセイの鞄」(2008)~闇の中で わたしたちは~


 そのような訳ですから、僕は谷口ジローさん描くところの「センセイの鞄」(*1)をとある街の古書店で見つけて最初に購読し、その後になって川上弘美さんの原作(*2)へと遡ったのでした。


よく手入れされた盆栽みたいな枯れた風情がいよいよ増して来ている谷口さんの絵ですが、初期の犯罪ものや探偵ものの頃には奔放にコマは配され、太い線が紙面を横切り、随分と尖って荒れた印象がありました。年数を経るに従い洗練されていき、誰とも違った独自の世界を築くに至っている。そのゆるやかな変貌ぶりに意識を向けると、ひとりの創作者の発芽から開花、結実を目撃し得たという深い愉悦に行き着きます。同じ時代を並走し、同じ世相を体感することが許されたごくごく限られた読者に訪れる“収穫の喜び”が在ります。


 妻に去られ子供や孫とも疎遠となって久しい元教師とかつての教え子が再会し、静かに交感する時間を育てていきます。類縁、似たもの同士と互いを認め、やがて無理なく寄り添うようになっていく。ふたつの魂の淡い航跡が交差していく様子が抑制の利いた谷口さんの筆つきとすごく合って、とっても好い感じです。


 味噌と醤油がしめやかな恋情と絡んで点々と顔を覗かせることにびっくりして、原作本の記述を確認しないではいられなかった。直ぐに近所の書店まで足を運び川上さんの文庫本を入手しました。そんな流れだったのです。


 さて、川上さんの原作を読み、谷口さんの漫画に再度目を転じてみると味噌や醤油に対する描写がやや減じているのが分かります。谷口さんは昔から“舞台”を大切にするひとで背景の描き込みは緻密を極めますし、そこに味噌と醤油はちゃんと存在するのだけれど、ピントは必ずしも合っていない。


 台詞も極力小説の中から写し取っているし、人物の造形も巧みで申し分ない。原作の雰囲気を壊さないように細心の注意を払っているのがよく分かる。「センセイの鞄」という小説の視覚化は漫画であれ映画であれ、今後有りえないと思わせるほど完成度は高いのです。よくよく思案した上での刈り込みであるでしょうから文句はないのだけれど、両者の比較を通じて「事象の捉え方」が人によってこうも違ってくるのかと驚かされもするのです。と言っても不満じゃなく嬉しさを従えた驚きなのですが。


 もともと僕は「原作本」と“台本”、そして“台本”と「舞台」を比べ視ることを愉しみにしてきました。例えば芝居や映画を観たことで原作まで読み切ったように捉える人がいますが、三者はまるで違った顔をしているのが普通です。どれだけ忠実になぞらえても、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間を介在する限り、何かしら違った伝達が起きてしまう。


 同じ音楽を聴いても、同じ絵画を眺めても受け止める人によって色々な印象を刻むのは避けようがない。気が合う二人であれば等しい反応に手を叩いて小躍りするかもしれないし、逆に違った受け止め方を新鮮に思い、相手へ注ぐまなざしの量を倍化させて、結果的に愛情はより深まるかもしれない。ひとつの事柄を各人が自由に、様々に解釈することは世界を輝かせる土台になっている。


 川上さんの世界が谷口さんの世界と連なり、けれど両者は重なり交わりながらもひとつ身にならず、優しく互いの背中に腕をまわし、しかと抱擁し続けているようで素敵でした。“ひとつ”ありながらで他者でもある感じが、連綿と歌われる恋歌のようで心地好い。そんな幸せな二作品だと捉えました。





 脇道にそれてしまうけれど、合わせてこんな事も思います。大きさ、硬さ、彩りを変えて意見や感想は噴石のように宙を舞い、雨あられのごとく地上に降り注いでいく。それが人の世の常なのだと好意的、楽観的に捉えようとする僕なのですが、さすがに今回の発電所事故に関しては困惑させられ続けです。


 起きていることは“たったひとつの事”なのに、どうしてこうも違った意見が飛び交い、情報が錯綜し、明らかに間違って見える伝達が起きてしまうのか。また、異なる少数意見を封殺する方向へ見えざる舵がぐいぐい切られているようにも思え、それはそれでひどく薄気味が悪いのです。気持ちがざわめくのです。


 広大な大地を毒で侵され、水や食べ物を汚された悲しみと怒りは日増しに膨れるばかりだけれど、それ以上にこの狭い国土で寄り添い暮らす僕たちのこころを二分し、自尊心に泥を塗り、猜疑心ばかりを煽り肥らせてしまったブラウン管の向こうの人たちを僕は恨めしく思います。他者でありながら“ひとつ”である感じを終に醸成出来なかったマイク越しの人たちの下手な演出を哀しく思います。


 僕たち、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間たちが“ひとつの事柄”である「電力不足」にこれから挑まなければならない。発電所事故に関する報道や避難誘導という舞台はひどい役者のオンパレードだったけれど、今度は僕たちが舞台に登る番になります。今度こそ“他者でありながらひとつ”になれれば嬉しいですね。


 先週の大きな余震により僕の住まう場処では長い停電がありました。その停電は何人もの弱い人たち、病気の人たちの命を奪い去りましたから、軽率に喋ってはいけない事柄が“電気”であると十分に僕は認識しているつもりです。


 けれど、あの停電で仕事場から急遽呼び出され、夜明けまであと2時間といった時間にようやく解放されて家路に着き、漆黒の闇に寝入った町を貫いている本当に墨汁の流れのような真っ黒の舗装路に独り佇んで、疲れ切った身体をうむうむ、と伸ばして仰いだ天頂に、満点の星々のそれこそ隅々まで敷きつめられて神々しく輝いているのを僕は見ました。電気を失ったゆえに得るものも十分に有るのだという強い感慨を抱き、豊穣の時間を得た思いがあったのです。




 電力会社もブラウン管の人たちもこぞって“電気”の恩恵を訴え、供給量の安定こそが世の幸福の鍵であると言葉巧みに誘導することでしょう。家電品を使わず、電灯を消す行為は文明の退化であると思わせたいところでしょうね。けれど、闇になってようやく見えるものが確かにあり、それは必ずしも酷薄な様相ばかりをしていないと僕は信じています。豊かなものがきっと微笑むだろうと信じます。


(*1):「センセイの鞄」 原作川上弘美 作画谷口ジロー 双葉社 2009‐2010 初出は「漫画アクション」2008-2009
(*2):「センセイの鞄」 川上弘美 詳しくは11日の日記参照

2011年4月11日月曜日

川上弘美「センセイの鞄」(1999)~やっぱり~

 正月の三日、兄一家が年始のあいさつに行った昼に、

母が湯豆腐を作ってくれた。母の作る湯豆腐が、

昔からわたしは好きだった。(中略)

おいしい。わたしは言った。あんたは昔から湯豆腐が

好きだったわね。母も嬉しそうに答えた。どうしても、

自分ではこういうふうに作れないの。そりゃあね、お豆腐が

違うでしょ、こういうお豆腐は月子の住んでいるあっちのほうじゃ

売ってないでしょ。 そのあたりで、母が黙った。わたしも、黙った。

黙ったまま 湯豆腐をくずし、酒で割った醤油にひたし、黙ったまま食べた。

二人とももう、けっして何も言わなかった。話すことが無かったの

だろうか。話すことはあったかもしれない。何を話していいのか、

突然わからなくなった。(*1)


数日前から左目がごろごろしている。瞼はぼんやり熱を帯び、いよいよ薄っすらと赤らんでも来た。強くこすったあの時のせいと思い当たるものがあり、数年前にも似たような事態となって難渋したことを記憶の底から掘り起こす。花粉の舞うこの時期にたまにしくじってしまう。早めに医者に行って抗生物質をもらおうかと思う。


一軒目の入口には“停電につき午前中休診”の貼紙があった。前夜遅くに大きな余震があり、地響きのなか電灯や家電品のモニターの緑や赤い光が数度瞬いてから闇のなかにおもむろに沈んだ。体育の長距離走で軟弱な学生が息切れ眩暈(めまい)しグランドにへたり込む感じにもちょっと似ていて、何となく哀れで淋しかったのだけど、朝の随分遅い時間まで復旧は遅れたから昼近い頃となっても不穏な空気がもわもわ街中に漂っている。


二軒目の受け付けでは“午前11時までで終了”とあしらわれた。なんてこった。そうか、学校の入学式が集中しているせいだ。きっとここの女医さんもお母さんに戻って、今頃は鏡台に向かいお粧(めか)しに懸命なのだろう。


ようやく三軒目の医院で診てもらうことが出来た。待合室で順番を待つ人から発散されるものはいずれも穏やかで、痛みや悪寒に囚われ内に内にときりきり集束していく内科医とは違い、気持ちのベクトルが元気いっぱい外側に向かっている。なんとなく周囲の人に親しげな思いが湧き、下世話な興味が湧いてしまう。妙齢の女性が腰掛けているのが随分と気になったりする。眼科というのは不思議とエロチックな場処だと思う。診察室の妖しげな暗闇に久方ぶりに身を預け、顎を台座に乗せて言われるままに目玉をぐるぐる上下させながら心躍るものが強くあった。


生まれ変わったならばきっと眼科医になりたいものだなどと妄想していると、「おや、何か入っていますね」とホラー映画のドラキュラ役者みたいに髪をぺたりと撫で付けた鷲鼻の医師に高い声で告げられ、平たい器具でぺたりぺたりと眼球を撫でられる。粘膜を弄ばれている感じにちょっとぞくぞくする。照明を点けられ白くまぶしい部屋で見せられたものは1ミリ足らずの細く黒い棘のようなもので、これが炎症の原因であったらしい。


いささかもドラマティックな事など無い半日だけど、充足した気分でそこそこいられるのは丁度読み終えたばかりの川上弘美(かわかみひろみ)さんの「センセイの鞄(かばん)」のせいだ。


七十歳を目前とするかつての老教師との邂逅を通して三十台後半の月子という女性が恋情や人生の意味を問い直していく。足裏や臀部が地面なり座板から片時も離れずにいる感じがあって、恋物語にしては重心がすこぶる低い。それは結局のところ“自分が自分であり続けること”が最も崇高で居心地のよい展開であることを揺るがず騒がず指し示していて、毎日の暮らしを紡ぐ地道な行為から到底免れそうにない、そんな市井に漂う我が身にはなんとも頼もしい声援となって胸に残るのだった。


センセイとの二十年ほど隔てての再会とそこから始まる逢瀬の舞台が、小ぢんまりした居酒屋に設定されていることもあって物語中に料理がめじろ押しなのだけれど、川上さんはかなり意識して筆を尽くし、繊細な官能レベルの構築を試みており面白かった。丹精こめて盛り付けられたいちいちの表現を嗅ぎ、味わい、ゆっくり口腔で反響させた後にゆるゆると嚥下させるうち、大事な“魂のことごと”も共にゆったりと考える時間が生まれ醸成されていく、そんなペース配分が手堅く絶妙である。料理を味蕾(みらい)でとろとろと愉しませるために、醤油や味噌といった脇役もくまなく動員されていくのが心憎い。隙のない差配は見事で申し分なく、素朴な題材を扱いながらも密度は相当に濃く仕上がっている。


冒頭に引いたのは月子と母親との間で交わされる“湯豆腐”の場景なのだけど、豆腐の良し悪しをめぐる会話で親子の距離をそれとなく諭すことが出来るだろうに、川上さんは醤油と酒をそこに投入して鼻腔を貫き天に抜け行く“覚醒される気分”を挿し込んだ。穏やかな午後の母娘の対話はいつしか途絶え、醤油と酒の混じり合うことで生まれる鋭い香気成分が淋しく立ち昇って、娘から母への気持ちをどんと突き放していく。何気に凄い。


下に引いたのは、こんどは味噌の素晴らしい登用場面。センセイの余生と自らの残り少ない開花の時期を重ねることを決意した月子が、馴染みの居酒屋でセンセイをひとり待っている。気の置けない店主はつまみ代わりに麦味噌をひとつまみ皿に盛ると、さっと月子の前に置くのでした。携帯電話での甘く充足した会話を閉じた後、月子は味噌をひと舐めしてみせます。五感と“魂のこと”を連結してみせた極めて官能的な瞬間になっており、作者の恐るべき手並みが伺える描写となっています。指先に盛られて唇に吸われた味噌の舌上で放ったであろう芳香は、ささやかな登攀ながらも頂きに立った者のみが感じ取れる幸福の証しとなって鮮やかに口腔に拡がり、強い印象を刻んでいるのです。


 そのへん、座ってて。三十分くらいしたら店開けるから。

そう言いながらサトルさんは、ビールを一本とコップと栓抜きと

手塩皿にのせた味噌を、わたしの目の前に置いた。(中略)

 ビールが体の中を下りていった。しばらくたつと、下りていった

道すじがほんのりとあたたまる。味噌をひとなめ。麦味噌だ。

 電話使いますね、とことわって、わたしは携帯電話をバッグから出し、

センセイの携帯電話の番号を押した。(中略)

「いらっしゃいますか」

「はい」

「うれしい」

「同じくです」

 ようやく「はい」以外の言葉が出た。サトルさんがにやにやしている。

そのままカウンターから出てきて、サトルさんは暖簾をかけに行った。

わたしは味噌を指ですくって、なめた。おでんを煮返す匂いが、

店の中に満ちていた。(*2)


こんな描写もあります。掛け値なしに幸福な味噌汁です。恋情の境目に味噌汁椀があって、白く儚げな湯気を立てているのでした。ごちそうさまでした、川上さん。


「おいしいですかツキコさん」

 食欲のある孫をいとしむような様子で、センセイは言った。

「おいしいです」

 ぶっきらぼうにわたしは答え、それからもう一度、

「おいしいです」と、さきほどよりも感情をこめて、答えた。

 野菜の煮物とお新香が出てくるころには、わたしもセンセイも

すっかり腹がくちくなっていた。ご飯は断って、味噌汁だけにして

もらった。魚のだしのよくきいた味噌汁を肴に、残った酒を二人で

ゆっくりと飲みほした。

「さてそろそろ行きますか」センセイは部屋の鍵を持って立ち上がった。(*3)


(*1): 「センセイの鞄」 川上弘美 「太陽」(平凡社)に1999年から2000年にかけて連載。手元にあるのは文春文庫 第6刷(2005) ここに引いた湯豆腐のくだりは「お正月」の回87、88頁に記載
(*2):同上「センセイの鞄」256-260頁
(*3):同上「島へ その2」193頁 他にも「キノコ狩 その1」の回(54頁)で醤油が会話に上り、「キノコ狩 その2」では採ったキノコが味噌鍋にされ振舞われ(72頁)、「ラッキーチャンス」ではとび魚がしょうが醤油で食されている(146頁)。月子に好意を寄せる小島という男は彼女を旅行に誘い、その口説き文句はどうだったかと言えば、「近くの畑でつくったものを収穫して、その日のうちに使うんだ。味噌もしょうゆも、やっぱり近くの蔵のものなんだぜ。くいしんぼうの大町にはぴったりだろう」であった。いかにこの物語が“味噌もしょうゆも”意識的に使っていたか判る会話になっていました。

2011年3月29日火曜日

中沢啓治「はだしのゲン」(1973)~たのむけえ~

ゲン「ほら おかあちゃん 口をあけえや ほらほら

   しっかり食ってはよう元気になってくれよ……」

君江「ハアハア 元(げん)いま食べたくないけえ あとで…」

ゲン「だめじゃ 無理しても食べるんじゃ 食べないと体が弱る

   ばっかりじゃないか  わしが買い出しで手に入れてきた米じゃ

   たのむけえ食べてくれや ほらうまいミソもあるぞ」

君江「ハアハア」

ゲン「……………………おかあちゃんのばかたれ~~ どうして

   食べんのじゃ バカバカバカ  ううう おかあちゃん

   たのむけえ食べてくれよ~~ うううう」(*1)



一進一退で、むしろ深刻さを増して見える福島第一原子力発電所。冷静沈着、大胆奔放、そんな相反する意思なり行動を取っ替え引っ替え求められる複雑な状況にあり、渦中で闘う人の苦労は並大抵のものではないでしょう。為すすべなく見守るしかない僕のような者は、呑気に構えて日常を楽しめばいいのでしょうけれど、気持ちは毎日泡立ち波打って、随分と苦しい時間になっています。


 錯綜する情報に思考は千千(ちぢ)乱れるばかりだけど、そんな中で放射能汚染に対し“味噌”が効くとの噂が飛び交っていると耳にしました。原子爆弾で自ら被爆しながら治療に全力を投じた長崎の臨床医師の貴重な手記や伝記に依っているのですが、このような状況下ですから誰しもが気になる内容です。 噂をどう捉えどう動くのが正しいのでしょう。信ずるべきかどうか僕自身のなかで激しくせめぎ合うものがあるのですが、幸いにして味噌についてあれこれ友人から教えてもらえる環境です。少し情報を整理して僕なりに思案を深めようと思います。


 最初に確認しておかなければいけないのは、仮に“何らかの力”が味噌にあったとしても深甚且つ急襲されての放射能被害の前ではそれは“微力”に過ぎない、ということですね。もしかしたら微力どころか“無力”かもしれない。


 上に引いたのは中沢啓治(なかざわけんじ)さんの「はだしのゲン」の一場面です。映画化されたものを学校の授業か何かで見せられて、凄惨極まる家族の永別の場面にひどくおののき、暗い館内で嗚咽(おえつ)してしまった記憶があります。あの時のスクリーンの映像が生々しく脳裏に蘇えるのを嫌って、じっくりと腰据えて原作を読んだことはこれまで一度もありませんでした。


 節電のために照明が落とされ、暖房も控えめになった寒々しい市立図書館に足を運び、職員の女性により倉庫の奥から出してもらった全十巻を一気に読み進めました。快適とはとても言い難く風邪をひいてしまいそうな中での読書であったのですが、あの時あの瞬間の光景を実際に瞳に焼き付けた中沢さんの筆には終生冷めることはないだろう熱く湿ったものが宿っているようで、時間や気温や周囲の人の行き来をすっかり忘れて僕は物語の中に引き込まれたのです。


 1945年の夏、広島は“飢餓状態”にあったと本の冒頭に書かれています。原子爆弾が炸裂して多くの人の髪と肌を焼き、衣服と手足を吹き飛ばし、肉と希望を引き裂いていくのを生々しく哀切を込めて中沢さんは描かれているのですが、主人公ゲンとその家族を物語の当初から一貫して圧迫し続けたものが“空腹”だったのです。原子爆弾の悲惨さと共に、戦争末期に僕たちの世界を覆っていく“飢え”の克服について多くの頁が割かれている。


 からくも生き残ったゲンと母親君江でありましたが、容赦なく彼らに原爆症と栄養失調のふたつが襲い掛かります。ゲンの髪の毛は全て抜け落ち、君江は嘔吐して起きる気力を失ってしまうのでした。ゲンは母親の快復を願って、田舎の村々を巡っての買出しに身を投じます。


 なんとか入手できた米でお粥(かゆ)を作り、スプーンにすくい、横臥した母親の口元に運んでやるゲンであったのですが、君江はひと口含んだだけで激しく嘔吐してしまいまるで受け付けません。紆余曲折があってこの母親は多発性の癌に内臓を蝕まれて死んでいくのです。このような広島や長崎の地で星の数ほども繰り広げられた必死の努力と、その末に星の数ほども林立していった墓標の「現実の在り様」を垣間見せられてしまうと、放射能汚染に味噌がたいへん有効であり、それは長崎の体験に基づくものだ、と口にする気力は到底起きてこないのです。


 足裏に肉刺(まめ)を作り、罵声や嘲弄に甘んじ涙しながらゲンが入手した野菜や米に混じって味噌がある。それを笑顔で「ほらうまいミソもあるぞ」と母親に差し出す漫画のひとコマをわざわざ証しとするまでもなく、飢餓状態に置かれた彼の地の人たちにとって味噌はご馳走であり、目に入ったならばこぞって口に放り込む大事な栄養源でありました。


 今ほど多彩になっていなかった当時の単調で緊迫した食糧事情から察すれば、広島や長崎で被爆した人たちのほとんどが味噌を常用するなり好んで口にしていた人たちであった訳であり、そんな彼ら膨大な数の人間、広島市で約14万人、長崎市では約14万9千人ものひとが苦闘の末に亡くなっている事実は重たいものを含んでいる。


 味噌にそれ程までも馴染んだ生命を、味噌に含まれる成分が幾らも助けられなかった現実を厳粛に受け止めた上で、僕たちは今流れる噂話にそっと耳を傾けなければいけない。 傾聴するべきは無責任な流言でなく、責任ある人のしっかりした言葉と、それから、今から六十五年前の夏の日、火傷を負った喉奥からやっとのことで絞り出した怨嗟の声であるべきでしょう。その上でどう捉え、どう動くかが問われている。





 突然にスピーカーから音楽が流れ出して退館をうながされました。いつもは夕方遅くまで開いている図書館ですが、特別の状況ですから四時に閉めたいのだそうです。必要な箇所を慌ててコピーして後にしましたが、少し気懸かりなのは読ませてもらった中沢さんの本が全て真新しい感じのままであり、奥付を見れば購入して一年足らずであるにもかかわらず既にして暗い倉庫の奥に仕舞われていることですね。


 七十年代初めに連載された作品ですから差別用語も確かに点在し、歴史的事実とは違った部分も混在しているのは読んでいてよく解ります。けれど頁が開かれた形跡がまるで無いままに事実上の閲覧制限をするなんて、そんな事で本当にいいのかなと心配になります。この度の大混乱ともこうした事はどこか根茎を繋いでいるように思えるのです。


(*1):「はだしのゲン」 中沢啓治 1973年に「週間ジャンプ」に連載開始。その後発表の場所を替えながら1985年まで断続的に連載。上記に引いたのは汐文社の単行本(2009年第51刷)全10巻中の第6巻中盤56-57頁より。

2011年3月25日金曜日

手塚治虫「ワンサくん」(1971)~託されていること~

「──というわけでわしは会社をやめさせられたんだ…」

「いいのよ そのかわりこんなかわいいイヌをひろったんだから」

「こいつワンサって名にしようよ」(*1)

 生後まもなく母親から引き離され、わずか10円で売られてしまった子犬が主人公です。母恋しさから逃げ出して、煤煙と汚水を撒き散らす大きな工場の脇の川っぷちで暮らしを始めるのでした。


 ところが強欲な工場の主(あるじ)は施設の建て増しを計画して、純朴な老社員に邪魔な子犬の殺処分を命じるのです。情が移ってしまった老人はどうしても子犬に手を下すことが出来ず、とうとう会社に馘(くびき)られてしまうのでした。子犬は老人の家に引き取られて“ワンサ”と名付けられます。


 ワンサは夢にうなされ夜通し吼えて転げまわるものですから、その騒々しさに心優しい一家も耐え切れず、ワンサを捨てる決心をするのでした。ワンサは二度捨てられ二度とも舞い戻りますが、その口には何処からか掘り当てて来た10円玉が咥(くわ)えられていたのです。縁側にチャリンと乾いた音をたてて置かれたそれを見て、一家はワンサを家族として受け入れることを了承するのでした。もちろん10円に釣られたのではなくって、その子犬の必死な様子にこころ打たれ、哀しい彼の境遇を共有するに至ったためでした。


 ワンサが最初に連れてこられた時、そして何とか帰還なった際のいずれもが夕食の時分に設定されていました。茶の間の中央には座卓が置かれて老人と孫娘、その弟が仲良く取り囲んでいます。傍らにはお櫃(ひつ)と鍋が置かれていて、そこでご飯と味噌汁が一杯ずつよそわれていく日本らしい光景が描かれています。

 

手塚治虫(てづかおさむ)さんの漫画作品というのは数多(あまた)ある訳なのですが、僕の見る限りにおいてはこういう場面、実はほんとうに珍しいのです。海外でアニメーション作品が次々販売されたことも要因としてあるのかもしれないけれど、日本的な食の風景がほとんど見当たらない。


と言うよりも“食べる”という日常の行為を通じて人生の機微に触れていくというドラマ作りをもともと手塚さんはしなかった。飢餓、牢籠(ろうろう)、不死願望といった突飛な状況下で突飛なものを口に入れたりむさぼるという展開は多いのだけれど、ご飯に味噌汁を並べていただきます、という感じの絵はびっくりするぐらい少ない。


この「ワンサくん」で描かれるものにしたって、作者の興味は卓上の料理には向かっていない。日常空間を突き破って夕闇の奥から遠慮しいしい顔をひょっこり覗かす闖入者=ワンサの、その健気さと一本気な調子を強調するのが目的でありましょう。小さな身体で数時間も歩き通してようやっと一家の自宅を探し当てたワンサの見えざる闘いぶりを、決まった時刻に大概は訪れる夕餉の光景を挿し込むことでそれとなく読者に示す作劇上のテクニックなんです、きっと。


 だから、特別の光彩をここでの味噌汁は帯びていない訳です。登場人物の内奥にシンクロして声援を送ったり内省を促す、そんな充足感をそなえた味噌汁や醤油を探して紹介するこのブログの目的からすれば逸脱したものになっていますね。


 正直に言ってしまえば、僕は手塚さんについてちょっと触れたかったのです。そのために「ワンサくん」と食卓の場景を無理やり駆り出したところがあります。


 手塚さんがこの世を去ったのは1989年ですから、もう二十年以上も前のことです。生きている僕たちが僕たちの内にある工夫と知恵で越えていかなければならない苦境ではありますが、あえて僕は亡き手塚さんに問い掛けたい気持ちでいます。この事態を先生ならどのように思うものだろう。先生、本当におそろしい事が起こってしまいました。


 この度の大混乱を乗り切っていくための、とある場所のとある会合の様子が先日テレビに映されました。神妙な面持ちで並ぶ老紳士たちの直ぐ横にあるサイドテーブルか何かに「彼」が立っていました。短いパンツと長靴を履いただけであとは素肌をすっかり晒して見える“アトム”が片手を天に高々と伸ばし、すっくと立っていたのでした。僕はその姿に心臓を射抜かれたようになってしまい、しばし身動きできなくなりました。今も重い痛みを引きずっているような辛い気分でいるのです。


 “アトム”とその兄弟たちは技術の粋(すい)を集めた夢と希望の結晶体のような存在でありながら、際限無く膨らむ人間の欲望のために暴走させられていく“科学”に毎回のように翻弄され、無理な闘いを強いられた挙句に心身ともに傷ついていく、その繰り返しの日々でしたね。しょげ返った彼らの背中や哀しげな面影を鮮やかに思い返しています。わたしたちはあの時のアトムそのままにうな垂れ、まぶたを伏せ、とても苦しい毎日を過ごしています。


 手塚先生、私たちはどうあるべきでしょうか。これからどうすべきでしょう。そっと声もなく立っていた“アトム”の横顔はいつも通りに笑っていたけれど、僕にはなんだかとても悲しそうに見えました。泣いているようにも、虚ろなようにも見えました。“アトム”は何を言いたいのでしょう。先生は何を僕たちに伝えたいですか、何をさせたいと思いますか。先生の声を聞きたいです。


 公害、環境破壊、戦火の止まることない拡大。医術の独走とモラル崩壊、最新技術と“こころ”の乖離。復活が適わぬ徹底的な破壊と流れ落ちる涙。先生と同胞の方々から私たちの世代は数多くのことを学んだつもりでいます。  けれど、いつの間にか私たちは語り部の皆さんを失い、なのに自らは語り部の役回りを継がずに口をつぐみ、託されたはずの課題から調子よく逃げ、忘却を恥と思わず、ただただ快楽だけを追い求めてしまいました。その心の隙に慢心だけを醜く大きく育ててしまったような気がします。こうした事態を自ら招き寄せてしまったように思います。


 愛しい家族や友人、恋する相手だっているかもしれない若い人たちが自らのささやかな、本当にささやか過ぎる幸せの消失なるのを切実に怖れながら、そして己の生命と健康を大きく損なうのを顧みずに事態の収拾に当たってくれています。


 わたしたちの国の誇りであった大地や河は汚染され、食べものや飲み水までも害あるものに化してしまいました。


 ワンサを迎い入れたあの一家にきっと似ていただろう微笑ましい日常、住居と団欒、温かい味噌汁や湯気を昇らせるご飯といったものを根こそぎ奪われ、着の身着のままで運ばれて来た人たちがいます。夢を粉微塵に砕かれ、いまは手と手とを握り合い、歯を食いしばって恐怖をこらえている沢山の人たちがいます。



 今は無用な電気を消して心から祈り、恐れおののくばかりの無力極まる私ではありますが、もしも天より許されて事態が終息なった暁にはひとりで、いや皆でよく考え、先生の想像し警告してくれていた事態の数々を回避するべく、小さな小さな、けれど確実でもう二度と絶対に忘れない、そんなささやかな行動をしたいと思案しています。


(*1):「ワンサくん」 手塚治虫 初出「てづかマガジン れお」1971-1972(未完) 手元にあるのは秋田文庫版「ふしぎなメルモ」(2004)に所収なったもの。

2011年2月10日木曜日

与謝蕪村「新五子稿」(1770)~秘めた願いがあるのか~



味噌汁を食わぬ女の夏着哉   (*1)


「身近な存在で私たちの食生活に欠かせない“みそ”の、再認識のために」編まれた一冊の本(*1)があります。六百頁近くある労作です。その中に「みそを詠んだ俳句・川柳・狂歌」という章がありましたので、先日つらつらと眺めていました。


たとえば正岡子規(まさおかしき)さんの「八重桜咲きけり芋に蜆汁」とか小林一茶(こばやししっさ)さんの「汁鍋にむしり込んだり菊の花」といった句が整然と並んでいます。生活や四季折々の風景をスケッチして爽やかなのだけど、ここで僕が掘り下げている平野とはちょっと違う訳です。



桜や菊の花に代わって恋情や親愛を傾ける対象があり、その横に置かれる一瞬だってきっとあるはずで、その刹那に生じるだろう化学変化を想像しては愉しんでいる。ずいぶんと蒐集出来たものだと感心するものの、手を叩いて身を乗り出すまでには至らない。


ただひとつ、どうにも
曖昧なものが目に留まり、それが上に掲げた与謝蕪村(よさぶそん)さんの句なのでした。“味噌汁”に対置しているのが実に“女”ではありませんか。たちどころに僕の琴線に触れて来て、血が逆流を始めます。でも、これは一体全体どんなものでしょう、いまひとつ蕪村さんの想いが透き通ってきません。


季節は夏の盛り、なのでしょうか、強い陽射しに全世界が発光しています。炎暑を避けて出歩くひともほとんどなく、真綿のような静寂があたりを包み込んでいるのでした。アントニオーニの映画でこんな場面を見たことがある、そう男は思うのです。風が時おり駆け抜けていき、街路樹の緑の葉をさわさわと鳴らしていく。歩道に面した喫茶店のテラスに木陰がやわらかく落ちて、そこだけ雨に濡れたような落ち着きを生んでいる。


他に客はいません。たった一組の男女が世界から隔絶されてテーブルに向き合っているだけです。日焼けて赤らんだ男の腕や太い首筋に、汗の粒が生まれ並んでいく。おんなの纏(まと)う優しいフレアラインのワンピースには部分的に透け感があって、V開きから覗く素肌はそっと乾いて涼しげに見えるのでした。どうして男と女では汗腺の配置がこうも違うのだろう。ハンカチで押さえるようにして額の汗を拭いながら、男はしげしげと相手の様子を窺っているのでした。


だいじょうぶ、ブソンさん、ずいぶんとつらそうじゃない。瞳がサングラス越しに薄っすらと笑っています。カフェラテのカップを細い指先でつまむとふわり口元に持っていく様子は口惜しいかな実に優雅で、ただただ美しく、広がる街のまばゆさを背に受けもして、もはやこの世のものとは思えない。ありのままの今がとっても嬉しい、愛しい。味噌汁を食わぬ女の夏着哉。



馬っ鹿じゃないの、何が“ブソン”よ、どっかで頭でも打ったんじゃない。


情景ににじり寄れないもどかしさをこのまま放置するのは精神衛生上きっと良くありませんから、思い切って図書館に足を運びました。何か糸口がつかめるかもしれない。地下の書庫から出して来てもらったのは蕪村さんの全句集で、生涯を通じて産み落とされた2,870以上の句を総覧するものでした。(*2)


ようやく合点がいったのです。最初に先ず、上に紹介した句自体に間違いがあったのが判りました。蕪村さんの句は正しくは──


味噌汁を喰(くわ)ぬ娘の夏書(げがき)哉


というのが本当。“夏書”は「げがき」と読むのだそうです。そのような言葉を知る人はほとんでいないので、味噌の句や歌を懸命に探した編集者さんか、請け負った印刷所がつい“夏書(げがき)”を“夏着(なつぎ)”と写し違えたわけね。同時に“娘”が“女”に変化しているのが面妖でなんとも艶っぽいのですが、まあ、いろいろあるのでしょう。


なんだよ、それ。いや、きっと僕みたいな阿呆が暴想したんだよ。武士の情けで見逃してあげなよ。──全句集より添えられていた解説を書き写します。


〈夏書(げがき)・夏百日(げひゃくにち)〉

通常四月十六日から九十日間、僧侶が寺院に籠もって、座禅・読経などの

修行する夏安居のこと。その期間に写経するのを夏書という。在家の人も

これに習って行に入ることもある。

秘めた願いがあるのか、若い娘が味噌汁も断って一途に写経に打ち込む気高い姿。

味噌汁の生活臭と夏書の落差が眼目。落日庵269(新選・新五子稿)明和七年か



これはこれで素敵ではないですか。少女のこころに宿るのは何か分かりませんが、蕪村さんが眼を留めたぐらいですから余程真剣な面持ちだったのでしょう。そんな魂の突出した空間に味噌汁が絡んでくるなんて、嬉しく愉しい話です。明和七年頃と書かれていますから、享保元年(1716年)生まれの蕪村さんは54歳あたりですね。写経にいそしむ娘に対して、温かで丸みを帯びたまなざしが感じ取れます。


断食して、というのではないのですが、贅沢や好物を断ち切って御仏にすがらねばならない深い事情があったのです。ここでの味噌汁はですから、「日常」の代名詞であり、「安息」の代名詞となっているのであって、句のなかで姿を消失はしているけれど揺るがぬ存在感を湛え続けて独特の空隙を世界に穿っている。見事なバイプレーヤーとなって少女の静かな孤闘を支えています。




願うだけで叶うことはそう多くはありません。昔日に暮らした人たちだって、内心どこまで本気だったものか分からない。それでも人は、懸命に、心をこめて日々祈りを重ねていくのですね。


これを読むひとの健康と、人生の充実をこころから祈ります。

怪我のないように、大病などを決して背負わぬように。



(*1):「みそ文化誌」 2001
(*2):「蕪村全句集」 藤田真一 清登典子編 おうふう 2000 215頁
解説にあったように書かれた時期は正確には分からないようです。ここではとりあえず明和七年の句として表題に掲げておきます。45歳ころに結婚されて娘を得たとも言いますから、もしかしたら実の娘さんをスケッチしたものかもしれないですね。
最上段の写真は、L'ECLISSE  監督ミケランジェロ・アントニオーニ 1962

2011年1月14日金曜日

江戸川乱歩「孤島の鬼」(1929)~小屋の中に隠れて~


 昼間はじっと徳さんの小屋の中に隠れて、夜になると外気を呼吸したり、

縮んでいた手足を伸ばすために、コソコソと小屋を這い出すのであった。

 食物は、まずいのさえ我慢すれば、当分しのぐだけのものはあった。

不便な島のことだから、徳さんの小屋には、米も麦も味噌も薪も、

たっぷり買いためてあったのだ。私はそれから数日のあいだ、

えたいの知れぬ干し魚をかじり、味噌をなめて暮らした。

 私は当時の経験から、どんな冒険でも、苦難でも、

実際ぶつかってみると、そんなでもない、想像している方が

ずっと恐ろしいのだ、ということを悟った。(中略)

 私の心臓はいつも通りしっかりと脈うっていたし、私の頭は

狂ったようにも思われぬ。人間は、どんな恐ろしい事柄でも、

いざぶつかってみると、思ったほどでもなく平気で堪えて行ける

ものである。兵士が鉄砲玉に向かって突貫できるのも、これだな

と思って、私は陰気な境遇にもかかわらず、妙に晴ればれした気持に

さえなるのであった。(*1)


 上に引いたのは江戸川乱歩(えどがわらんぽ)さんの「孤島の鬼」の一節で、題名にある島での様子です。



 密室と衆人環視のなか、むごたらしい殺人事件が相次いで起こります。謎解明につながるとみられる小さな島を、主人公蓑浦金之助(みのうらきんのすけ)と年長の友人にして蓑浦を内心恋い慕う同性愛者の諸戸道雄(もろとみちお)がふたりして訪れますが、諸戸は悪魔のような島の住人によって土蔵に監禁されてしまうのでした。蓑浦は心細い思いを抱きながら友人奪還をひとり画策していきます。“当時の経験から”うんぬんというのは、この話が最初から最後まで主人公の回想形式を取っているからです。


 愛する者を殺され、知人を救えず見殺しにし、忌わしい殺人をさらに幾度も目の当たりにしたあげくに、見ず知らずの土地で孤独な逃亡生活を余儀なくされる。誰が味方で誰が敵やらわからぬ中で、手ぬぐいで顔を隠し、夜陰に乗じて悪鬼の館に潜入せねばならぬ。危機また危機の連続です。やや女性的な気質を内に秘めた都会育ちの男なのですが、しかしそのうち、肝がどんどん据わってきて大胆な動作が板に付いてくる、成長していく、それが自分でも分かってくる、そんな踊り場めいた描写なのでした。そこに“味噌”が登場しています。


 旧家の土蔵に座敷牢、ぐるりと囲む高い塀に屋根瓦、湿って冷たいコンクリの壁、地下室、抜け道、変装道具、気球に野獣それから血みどろの刃(やいば)、黒く光る拳銃……、乱歩さんの世界はたくさんの小道具で構成されていますが、よもやその中に“味噌”が顔を覗かせるとは想像もしませんでした。


 作者も読者も展開を追って走るの精一杯であって、食事の仔細に目を細めたりそれを談じたりはしないもの。まして調味料にまで気持ちを注ぐ余裕はない、味噌や醤油とは無縁の世界と思っていたのです。 恋する人と思いがけず街角で出くわしたみたいで、ちょっとドキドキしました。


 以前読んだ小冊子によれば、味噌のなかには血管の収縮をブロックして高血圧を防止する成分が入っているらしい。干し魚のカルシウムと味噌の成分がうまく作用して男のパニックを沈静化させている、と解釈するのは飛躍が過ぎるでしょうか。


 医学的にどのような役割を果たしたかはさて置き、ここでの味噌は一皮剥けて逞しくなった男の心持ちとは確かに連動していて“妙に晴ればれした”ところがあります。情念の噴出や決壊をそっと抑制して内観をうながし、静かでさらさらした時間を醸成していく。どうやら味噌にはそのような効用が物語のうえで期待されている。実際どうでしょう、“えたいの知れぬ干し魚”だけでは男の精神はすさむばかりで支え切れなかったに違いない。悪くない味噌の登用だったと思うのです。


 ごちそうさまでした、乱歩さん、面白かったですよ。

 
 往時の無頓着な世相を反映して乱暴この上ない題材が選ばれ、遠慮の微塵もない黒い笑いにまみれた場面が連綿と続いていく、そんな猟奇小説です。昨今の過剰な表現規制などを思うと、いつか絶版になるような気が致します。

 原初的で毒々しい恐怖と笑いを、けしからん、配慮が足らないと切除するなりフタなりをしてしまえば、創作の世界の地平はなるほどすっきりするかもしれない。けれど、意見を交わすことが出来る“開かれた闘技場”が失われていき、結果的にこれから育っていく若者のこころを未成熟にしないか、硬直させないかと僕はすこし心配しています。


 こういう本は何とか生き残ってもらいたい。人間の本質を鋭く突いた内容ともなっていて、興味深い、嬉しい時間となりました。



(*1):「孤島の鬼」 江戸川乱歩 初出は大衆雑誌「朝日」で一年間に渡る連載。表題にはいつも通り連載開始の1929(昭和4)年を入れた。手元にあるのは東京創元社の推理文庫 2010年の30版。引用はそれの283頁。最上段の画像もその中からで、連載当時の扉絵。同182頁より。竹中栄太郎さんの筆による。 

2011年1月12日水曜日

林芙美子「放浪記 第三部」(1947)~何処からか味噌汁の匂いが~



(七月×日)(中略)
 台所で一人で食事。来る日も来る日も、なまぬるい味噌汁と御飯。
ぬか漬の胡瓜を一本出してそっと食べる。ああ、たまにはジャムつきの
パンが食べたい。
 奥さんが、小さい声で叱っている声がする。恩を仇で返されたような
ものよと云う声がする。学者の家と云えどもいろいろな事あり。(中略)
女の泣き声が美しいのに心が波立つ。やぶれかぶれで、またぬか漬けの
茄子を出して食べる。
 酸っぱい汁が舌にあふれる。(*17)


 林芙美子(はやしふみこ)さんが1947(昭和22)年に「日本小説」という雑誌に連載を始めた「放浪記 第三部」は、やはり若かった折りに書き綴ってきた五年分の日記が土台になっています。二十年も前の文章を開陳しなければならないのは、いくら文筆家といえども大変な話です。林さんは当然のこととして加筆をされている。僕みたいな素人目にも随分と手が加えられているのが分かって、それが読んでいて興味惹かれるところでした。

 
 たとえば上に引いたところなどは直往邁進(ちょくおうまいしん)だった一部、二部の気ままな記述と比べてすこぶる技巧的で読みやすく、また楽しい感じに演出されています。林さんが女中として住み込んだ学者さんの家での情景です。台所で朝食を取っていると壁越しに館の主とその夫人との修羅場が演じられる。林さんは男女の悲鳴や囁きを漬け物をもそもそ食べる行為でサンドイッチして見せて、交互して読者の眼前に広がる光景がまるで映画のカットバックです。


さらに味覚や嗅覚を味方につけて、女の泣き声、涙、胃の腑から苦しく込み上げるものと「舌にあふれる酸っぱい汁」を上手く交じり合わせてもいる。哀しさを倍化することに成功しています。ここには明らかに文筆家としての成長が認められますし、既にこれは日記ではなく練り上げられた小説の域に突入してもいる。


 「みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いている」(*15)と言う林さんの言に嘘はないのですが、“本当”を伝える術の巧みさがぐっと増している。読む方もそれだけ共振していき、他人事として静観することがいよいよ難しい。ふと我が身を振り返って内省を迫られるような部分とも多く出会ってしまう。驚くほど震幅が増しているのです。

 
「いったい、どこに行ったら平和に飯が食えるのだ。飢えていては何を愛する気にもなれない」(*12)と叫ぶ林さんの、けれど誰かを一心に愛さずにはいられない魂が「飢餓感」とみるみる結合して、実に稀有な協和音を奏でていく。愛憎と食べものが連結して魂を謳い、而して“味噌汁”もまた見事な光を放っていくのでした。


以下は熱情のおもむくまま後先無しに同棲をはじめてみたものの、結局は袋小路に行き果てた林さんと若い詩人との間に立て続けに現われ、強い印象を刻んでいく味噌汁の記述を抜き書きしたものです。このような哀しい味噌汁は他であまり見られないような気がします。


(十二月×日)(中略)

 どうにも空腹にたえられないので、私はまた冷い着物に手を通して、

七輪に火を熾(おこ)す。湯をわかして、竹の皮についたひとなめの

味噌を湯にといて飲む。シナそばが食べたくて仕方ない。十銭の金も

ないと云う事は奈落の底につきおちたも同じことだ。

トントン葺きの屋根の上を、小石のようなものがぱらぱらと降っている。

ここは丘の上の一軒家。変化(へんげ)が出ようともかまわぬ。

鏡花もどきに池の鯉がさかんにはねている。味噌湯をすする私の頭には、

さだめし大きな耳でも生えていよう……。狂人になりそうだ。

どうにもならぬと思いながら、夜更けの道を、あのひとがあんぱんを

いっぱいかかえてかえりそうな気がして来る。かすかにあしおとが

するので、私ははだしで外へ出て見る。

雪かと思うほど、四囲は月の光りで明るい。関節が痛いほど寒い。

ばったりと戸口で二人で逢えばどんなに嬉しかろう……。(*13)


(十二月×日)(中略)

 さて、私もいよいよ昇天しなければならぬ。駅の近くの荒物屋へ行って、

米を一升買う。雨戸がまだ一枚しか開いていない。暗い土間にはいって行くと、

台所の方で賑やかな子供達のさわぐ声がして、味噌汁の香りが匂う。人々の

だんらんとはかくも温く愉しそうなものかと羨ましい気持ちなり。

男の為にバットを二箱買う。(*14)


(二月×日)

 朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。

寝床のなかで、いつまでもあれこれ考えている。野村さんは紅い唇をして

眠っている。肺病やみの唇だ。(中略)
 
もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。

何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。

誰かの句をふっと思い出した。(*16)



 恋情の終着点でふと何処からか匂ってくる味噌汁。化け物の吐息でしょうか、それとも粉微塵になった淡い団欒の夢の残り香でしょうか。人がひとを愛した果てに訪れる真空の朝に、幻の味噌汁が湯気をそっと放っています。 


 関節が痛いほど寒い、そんな凍える日々に僕たちも入りましたね。

 元気に温かくしてお過しください。


(*12):第三部 421頁
(*13):第三部 438頁
(*14):第三部 448頁
(*15):第三部 450頁
(*16):第三部 470頁
(*17):第三部 498頁

「放浪記 第三部」は上に書いた通り、その原型を1922(大正11)年まで遡ります。けれどここでは加筆され完成されて雑誌に連載なされた時期、1947年を以って一応の区分けとしました。
最上段の写真は映画「放浪記」監督 成瀬巳喜男 1962 

林芙美子「放浪記 第一部・第二部」(1928)~米味噌の気づかい~



(二月×日)(中略)

 だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、

カフエーの女給とか女中だなんて!十本の指から血がほとばしって

出そうなこの肌寒さ……。さあカクメイでも何でも持って来い。

ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だが、とにかく、何もかも

からっぽなのだ。階下の人達が風呂に行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。

神よ嗤(わら)い給え。あざけり給えかし。

 あああさましや芙美子消えてしまえである。(*9)


 大学の入試試験だかの問題が新聞に載っていて、それをぼうっと眺めていたら林芙美子(はやしふみこ)さんの「放浪記」の一節が目に飛び込みました。昨年のことだったか、もしかしたら一昨年だったかもしれません。随分艶かしい中身と想っていたものだから驚いてしまって、その分記憶に刻まれました。今どきの高校生は誰もがこれを読んでいるものでしょうか。なんかとっても羨ましいというか、まぶしい感じがいたします。


 堕胎、私娼窟、複雑な家庭、貧困、言い寄る男、餓え、眠れぬ夜……。実際、生々しいお話です。手元にあるのは新潮文庫の第42刷、2002年のもので、年末に亡くなられた高峰秀子さんの映画を観たくなり、その前に原作にも目を通そうと買い求めたものです。おやおやと笑われてしまうでしょうが、この年になって始めて読み通しました。


巻末の小田切秀雄さんの解説によれば、1922(大正11)年から五年にわたって林さんが書きためたものが土台になっているとか。林さんが生をうけたのは1903年の暮れですから、十九歳から二十四歳頃の本来ならいちばん女性として華やかな時期の記録です。


 書くことで記憶を整頓し、思考を深め、気持ちを沈静させて明日へと繋げていく。そういう人は世の中にたくさんいて、僕が時折こうして向かってもいるブログの世界的流行が物語ってもいます。なんら不思議なことではない。けれども、五年分の“日記”を風呂敷に包んで木賃宿、下宿、場末の旅館、住み込みの狭苦しい部屋、同棲始めた一軒家と後生大事に持ち歩き、事あるごとにつぶさに書き綴ってきた林さんの執着には鬼気迫るものがあって、読んでいて圧倒されるものがあるのでした。書くことで救われるものがあったのでしょう、きっと。


 二十年後に発表された「第三部」は若干雰囲気が違いますが、1928(昭和3)年10月に雑誌に連載され、1930(昭和5)年に改造社より相次いで上梓なった一部と二部の方は混沌する彼女の日常と剥き出しの思いを実直に写し取ったところがあります。加筆や装飾、訂正の気配があまりない。赤裸々な食欲そして性欲、夢と希望が咆哮し荒れ狂う様は読むこちら側にじわじわ伝染するようであり、加えて挫折や打撃、絶望、猜疑や嫌悪という黒い部分も不意を討って胸底に跳び込む調子で相当に重いものとなっています。


若さゆえに文末ごと「ナニクソ」と奮起し、調子を直ぐに取り戻すのが救いといえば救いであって、これが三十や四十を越えてからの五年分の日記であれば相当違っていたろうと思われます。おかげで勇気を貰えたように感じています。


 生活の諸相を丹念に書きとめていくことで“味噌汁”の記述も面白いほど多い。さらに言えば独特の傾斜のそこに見止められそうに思えます。

(十二月×日)(中略)
「姉さん!十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
 大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
 労働者は急にニコニコしてバンコへ腰かけた。
 大きな飯丼(めしどんぶり)。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。(*1)

(十二月×日)(中略)
二寸ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。(*2)

(十月×日)(中略)
朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒(す)さんで、私はああと長い溜息をついた。壁の中にでもはいってしまいたかった。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりした自分の顔を見ていると、急に焦々(いらいら)してきて、唇に紅々(あかあか)とべにを引いてみた。(*3)

(十二月×日)(中略)
誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想はやっぱり古里へ背いて都に走っている。旅の古里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだけれど、なぜか侘しい気持ちがいっぱいだった。穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に坐っていると丹塗(にぬ)りはげた膳の上にはヒジキの煮たのや味噌汁があじきなく並んでいた。(*4)

(一月×日)
 暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮してみようかと思う……。(*5)

(一月×日)
 毎朝の芋がゆにも私は慣れてしまった。
 東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭の一片一片を身をはがして食べるのも甘味(うま)い。(*6)

(九月×日)
 もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなった。(中略)午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走っていった。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」
 上甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の袂(たもと)にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。あの人達は私が女である事を知らないでいるらしい。(*7)



 濁った、泥のような、あじきない、水っぽい──負の飾りにふちどられた味噌汁がずらり並んで怖い感じです。東京を離れてみて大豆臭の強い赤味ある味噌を懐かしく思い返す、そういう可愛らしい記述も一部あるけれど、全般的に宿る蔭はかなり暗めになっている。貧苦に喘ぎ、食費を削り、それでようやく口にするのが“味噌汁”ということで、ここでは明らかに貧窮の象徴として機能して見えます。


 朝起きて、小さな女中を相手に食膳をととのえ、昼は昼、夜は夜の食事から、米味噌の気づかい、自分の部屋の掃除、洗濯、来客、仲々私の生活も忙がしい。その間に自分のものを書いて行かなければならないのです。自分の作品の批評についても、私は仲々気にかかるし、反省もし、勉強も続けてはいるけれども、時々空虚なものが私を噛みます。(*10)


 第二部の終わりに林さんは“米味噌の気づかい”という言葉を挿し入れました。ヘンテコな言葉です。「放浪記」がヒットして文筆家の仲間入りを果たし、一軒家を構え、老いた親を養っていく。当時のまだまだ不安定な近況を語る中での“米味噌の気づかい”とは一体全体何か、僕は最初書き損じた箇所がそのまま残されたものかと訝りました。時折世話を要する“ぬかみそ”への気づかいならば分かるのです。“米味噌の気づかい”──なんでしょうか、この不思議な言葉。


実は林さんが味噌汁に固執していたからなんですね。朝食のほとんどを女中さんに任せていながら“味噌汁”だけは自分で作らないと気が済まなかった、そんな彼女の慣習に関わるものなのでした。生理的なものか精神的なものか僕には分からないけど、林さんは味噌汁を特別視している人だった。やや別格のものとして扱われている気がします。


 “味噌についての気づかい”を基点にして上に引いた苦しかった時分を再度振り返ってみれば、どの味噌汁も液面をきらきらと照り返らせ、ひとりの少女の受難をじっと見守っている、唇を噛み、涙を呑んで向かっていく真剣勝負の人間の、真摯な面(おもて)を見上げているようです。林さんだけではなかった。あの当時多くの日本人が味噌汁と共に喜怒哀楽を懸命に生きていた。希望と呪詛にまみれた味噌汁椀が家庭で、食堂で次々に傾けられていた、誰もがぎらぎらしていたそんな光景を脳裏に描き、襟を正さなきゃと真面目に思うのでした。

 
(*1):第一部 26頁(頁数はいずれも手持ちの新潮文庫のもの)
(*2):第一部 52頁
(*3):第一部 116頁
(*4):第一部 130頁
(*5):第一部 135頁
(*6):第一部 142頁
(*7):第二部 219頁
(*8):第二部 229頁
(*9):第二部 326頁
(*10):第二部 347頁
(*11):第三部 400頁

表題の年数1928は単行本化の前、雑誌に掲載され世間に公表された時点を選んだ。
ちなみに「放浪記」における醤油の記述は次の二箇所に絞られる。「味噌汁」というものがいかに魂に直結し、愛憎の対象となるか、この段差が静かに物語るように思える。

(三月×日)(中略)
 女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸を動かせる。
「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして、栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」(*8)

(九月×日)(中略)
 八重垣町の八百屋で唐もろこしを二本買って下宿に帰る。ダットのいきおいで部屋へ行き、唐もろこしの皮をむく。しめった唐もろこしの茶色のひげの中から、ぞうげ色の粒々が行列して出て来る。焼きたいな。こつこつ焼いて醤油をつけて食べたい。
 下宿の箱火鉢に紙屑を燃やして根気よく唐もろこしを焼く。(*11)

2010年12月10日金曜日

泉鏡花「高野聖」(1900)~居心のいい~



「さて、それから御飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香の物、

生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、

塩漬の名も知らぬ茸の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころ

ではござらぬ。

 品物は侘しいが、なかなかの御手料理、飢えてはいるし、

冥加(みょうが)至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に

肱(ひじ)をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。」(*1)


 なるほど、百万石の城下町だけのことはあります。古都金沢をはじめて訪れた際、気持ちが洗われる事しきりでした。重厚な町並みと悠々たる史跡群がとても目に映えて、歩いていてとても爽快でしたね。再訪が許されるなら真っ先に足を運びたい場処は、尾張町にある泉鏡花(いずみきょうか)さんの生家跡あたり。さっぱりとした風情の、けれど中身の詰まった記念館が建っています。


 幼少時分の鏡花さんを脳裏に描き、痩せた背中を追いかけるようにして細く曲がった坂段(“暗がり坂”そして“あかり坂”)を下って行く。やがて川沿いに広がる茶屋町の内懐(ふところ)にふわり降り立つその時の、気分の好さと言ったらもうたまらない。静謐な路地にとろりとした色香があふれて、何とも言えぬ雰囲気がありました。


 寺山修司さんの監督したもの(*2)や宮沢りえさんが出ていた映画(*3)の原作で知られた鏡花さんですが、僕には何より「夜叉ヶ池」(*4)、ですね。艶やかにして妖しげな霊気にすっかり捕縛された僕は、それこそ蛇に睨まれたカエルになって席を立てなくなりました。坂東玉三郎さんの演じた魔界の姫にノックアウトでしたね。あの頃の映画館は入れ替えも指定席もありませんでしたから、そのまま二度、三度と見入ってしまった記憶があります。後日テレビで放映されたものも録画して、飽かずに繰り返し観たものでした。懐かしいなあ、久しぶりに観直してみようかしらん。


 上に紹介したのは著名な「高野聖(こうやひじり)」の一節です。旅の途中で知り合った僧と言葉を交わす仲となり同じ宿に泊まることになった“私”は、寝物語に僧侶から奇怪な体験談を聞かされます。ずいぶんと若いとき、眉目秀麗でういういしかった頃のお話です。


 山で道に迷います。葉陰に潜んで待ち構える蛇や蛭(ひる)といった醜悪なモノにさんざ驚かされた末に、這う這うの体で一軒家に逃げ込みますと、そこを仕切っているのはひとりの美しいおんなでした。山の幸に彩られた夕餉が振る舞われ、心ばかりの歓待を受けるその様子が先の引用箇所ですね。素肌をそっと重ねていく夢幻の時間が過ぎていき、若い僧のこころは振り子のように揺れ動いていきます。しかし、おんなの正体は実は……。「夜叉ヶ池」にもどこか通じる幻想譚ですね。


 ここでの“味噌汁”は目の前にざっと並べられたおかずのひとつに過ぎません。特段の発色なり発光を味噌汁椀にだけ見出すことは難しい。それは他のおかずにも当てはまります。記録めいて淡々としている。では、意味なく列記されたのかと言えば、どうやらそうではないようです。ずらずら書かれた料理の献立には、妙な手触りが感じ取れる。


 ほかの鏡花さんの作品を読むと分かるのだけど、「高野聖」ほど食事の場景に傾注しているものは見当たらない。たとえばこんな件(くだり)も最初の方に出てきます。どうです、ちょっと粘っこい言い回しでしょう。


 亭主は法然天窓(ほうねんあたま)、木綿の筒袖の中へ両手の先を

竦(すく)まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁(おやじ)、

女房の方は愛嬌のある、一寸(ちょっと)世辞の可(い)い婆さん、

件(くだん)の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、莞爾々々(にこにこ)

笑いながら、縮緬雑魚(ちりめんざこ)と、鰈(かれい)の干物(ひもの)と、

とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取成(いいぶりとりなし)

なんど、如何(いか)にも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心の

可(い)いと謂(い)ったらない。(*5)


 生まれて初めて降り立つ駅から夕闇に包まれてとぼとぼ歩き、たどり着いた旅館で振舞われた食事です。旅路における淋しさ、心細さ、恐怖、虚しさといったものが一気に払拭されていく。それ以前のよるべなき時間と、しかと守られて人心地ついた今の時間が料理の詳細を挟んで強調されていく。怯える気持ちと手足伸ばしての安らぎが共に増幅されて見えます。

 
 日常の食事というものは弛緩を誘います。後ろ髪をぐいぐい引かれ、身を引き裂く過去への想いや、将来に対する漠たる不安から一時的であれ解放してくれる。鏡花さんはそんな魂の仕組みをよく見透して、上手く利用している。張られた弦を締めたり“たわめたり”して物語を奏でるのです。音色はきりきりと泣き叫んだり、無限の優しさを帯びたりと変幻自在でついつい惹き込まれてしまう。


 もっとも鏡花さんが本当に描きたいのは日常世界に首をにょろり突き出す“魔”であったり、胸の奥の洞窟から突如湧出する“情念”でありましょうから、ここで引いた料理や味噌汁はどこまでも背景の役割なんでしょう。不安定な場処(山中、異界、逢う魔が時、盂蘭盆など)で渦巻きぶつかり合うこころ模様を存分に描きたいがために、どうやら補助的に登用されている。


 “色気より食い気”という言葉があるけれど、さあ、あなたなら選ぶのはどっちと笑顔で差し出されているみたい。脇役ながらも大切な役割(=日常=情念を封じる)を担った味噌汁が湯気を上げています。(*6)


(*1):「高野聖」 泉鏡花 1900 手元のものは新潮文庫 2009 77刷 引用は61頁。最上段の絵は鏡花作品に心酔していたという鏑木清方(かぶらぎきよかた)の筆によるもの。
(*2):「草迷宮(くさめいきゅう)」 監督寺山修司 1979
(*3):「天守物語」 監督 坂東玉三郎 1995
(*4):「夜叉ヶ池」 監督 篠田正浩 1979
(*5):上記文庫 12頁
(*6):魔の世界に住まうおんな達が何をどのように食するかに視線を注げば、この「高野聖」が“食べ物”をどれだけ意図的に使っているか分かります。日常と非日常の綱引きが、食べものを巻き込んで凄絶に展開されている。両者間の強烈なコントラストは上村一夫(かみむらかずお)さんのドラマ、「狂人関係」なんかに連なりますね。