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2011年5月31日火曜日

豊田徹也「アンダーカレント」(2004)~買ってきたよ~



悟(幻影)「醤油もうなかったよね ついでに買ってきたよ」

かなえ「………」

悟(幻影)「や ごめん 心配かけたね」

かなえ「……」

木島「かなちゃん!?」

かなえ「……あっ おばさん」

木島「どおしたの ボォーっとしちゃって

   ロール紙も買っといたわよ もうあまりないでしょ」

かなえ「うん ありがと」

木島「あんた 本当に大丈夫かい?」

かなえ「大丈夫 大丈夫」(*1)


 学生だった頃と就職してからの数年間、住まいと場所をかえて通いつめたこともあって、僕の中には“銭湯(せんとう)”に対するセンチメンタルな思いが燻(くす)ぶっています。タイル張りの床、裸の男たちのたくましい背中や角ばった尻の並んだ様子、飛沫(しぶき)が飛び、泡のざわめく盛んな音と濛々(もうもう)たる白い湯気、からん、ことん、さぶりと反響する天井といったものが忘れえぬ思い出となっている。


 今こうして住まう町に銭湯の影を見なくなって久しいのだけど、代わりに温泉が、それもかけ流しで多彩な泉質のそれが身近にいくつかあって(温泉と銭湯は違うのです)、気分がささくれたり心に重石が乗ってくる気配がすると、早めに訪ねては気晴らしするようになっています。湯上りに何か飲んでも500円でお釣りが来る、いわゆる日帰り温泉ってやつです。


 お湯は濃い翡翠色であったり、乳白色だったり、まどろむような薄緑であったり、匂いも強烈なものからあえかなものとさまざまで興味深いのですが、何か大地の底に吸い込まれていくような、はたまた見上げる夜空にすっと捕り込まれるような、身体もこころも境界を失い溶けていく感じがたまらない。でも、一方ではあの銭湯の、まっさらの湯となんとも人間臭い時空も棄てがたいものがあって懐かしく振り返るのです。


 豊田徹也(とよだてつや)さんの「アンダーカレント」は単行本一冊に収まった小品で、偶然にも温泉帰りに寄った古書店で手にした本だったのですが、家業である銭湯を継いだ“関口かなえ”という名の三十代の女性が魂に深傷(ふかで)を負い、そこから再生していく話です。


 父親を看取り、精神的にも体力的にも心もとなく感じられていたとき、後に夫となる男“悟”と出会います。男はあっさり勤めをやめて銭湯を手伝い始め、頼もしい「共同経営者」となって主人公を支えていくのでしたが、ある日、同業者組合の慰安旅行に出かけた際にそのまま失踪して音信を断ってしまうのです。衝撃になんとか耐え、探偵を雇って夫の行方を追わせることを話の主軸としながら、己のこころの底流(アンダーカレント)にじっと向き合い、徐々に快復して行くおんなの魂の道程が緻密な筆致と抑制のきいたコマ運びで描かれている。なかなか読ませる内容なのでした。


 ここに醤油が登場していたのです。清掃の手を休めてぼうっと放心しているおんなの目の前に、突如夫が現われます。白いレジ袋を手に持ち、満面の笑みで留守を詫びる言葉のなかに「醤油を買ってきた」という言葉が交じるのでした。一瞬の後、夫の影は日頃手伝いに来てくれている中年女性の立ち姿とすり替わり、主人公が懊悩するあまり白昼夢を見てしまった事を読者は読み解きます。


 夢、幻覚のたぐいは支離滅裂なものであって、意味など寄り添わないものが大半だし(*2)、「醤油を買ってきた」という言葉は中年女性の発した単なる連絡事項だったかもしれず、ならば特段の意味は篭(こ)められていないと捉えるのが普通かもしれません。しかし、もう一箇所、作者の執着が垣間見える描写が「アンダーカレント」にはありました。


 同業者組合の紹介で働くことになった“堀”という男が開幕早々に登場するのですが、風来坊の男はアパートが見つかるまで裏の物置に寝泊りをさせて欲しいと主人公に懇願します。ほんのしばらくとは言え、若い男がすぐ近くに寝泊りする訳です。緊張するのは仕方ありません。子どものいないおんなにとっては、ひさしぶりの“同居人”でもあったのです。翌朝目覚めてすぐに朝食の支度をしますが、そこで丹念に描かれるのは味噌汁の調理風景でした。ご丁寧なことに鍋の脇には、ボトルに入った醤油も置かれているのが見えます。



 住み込みの職人に対し、ささやかな朝食(鮭の切り身を焼いたもの、味噌汁、ごはん、梅干)を雇い主たるおんなが用意するのは至極日本的で自然な振る舞いです。けれど、表情や物腰には柔和なときめきが灯っているのは明々白々であって、この不意の展開を歓迎しているところがある。(*3)


 作者の豊田さんは“味噌汁”の面立ちを「家族」と直結させ、とり残された主人公の淋しさや嬉しさを強調しようと試みています。小説空間、劇空間において味噌汁が母親像に連結し、家庭の団欒を彩るパーツに採用されることは特段目新しい表現ではないのだけど、最初に上げた「醤油を買いにいく」という行為はどうでしょう。「家族」と連なるのでしょうか、それとももっと微妙な何かと結ばれるものでしょうか。少し面白い流れです。


 ひとたび食卓に置かれてしまえば、むしろ厳格な父親像を浮き彫りにしたり恋情に水を差したりと悪役に回りがちな醤油なのだけど、“醤油を買いにいく”という行為や響きには僕たちの深層に光明をもたらす独特の作用があるようです。サランラップでも爪楊枝でも、シャンプーでも構わないところを、確信を持って作者は“醤油”を選んで見えます。


醤油、味噌といった細々したものすら大切に登用して物語の推進力に加えていく豊田さんは、日常を真摯に捉え、かなり綿密に思案して仕事をこなすタイプに思えます。寡作であられるので世に出ているのはこの「アンダーカレント」以外にはもう一冊だけのようですが、何か発見があるかもしれない。近日中に入手して拝読したいと思っています。



 湯に口元までどっぷり漬かっていると、自分が無くなる瞬間と自分と向き合う時間が交互に訪れますね。傍目からは素裸でぼんやりしているだけで、非生産性を極めたひどい在り様なのだけど、人間にとってはとてもとても大事なものみたい。あまり意識させられた事はこれまでありませんでしたが、ああいった弛緩した時間が全くなければ、今の僕たちはきっと別な人間になっていたろうとも思えます。手近な内と外に湯殿があって、僕はずいぶんと恵まれていますね。どうか皆さんも充実したお風呂ライフをお続けください。


善き夜を、好きお湯を。


(*1): 「アンダーカレント」 豊田徹也 講談社 2005 初出は「アフタヌーン」2004年10月号から2005年10月号に連載。引用箇所は7-8頁
(*2):全てがそうとは言わない
(*3):同上48頁

2011年4月15日金曜日

谷口ジロー「センセイの鞄」(2008)~闇の中で わたしたちは~


 そのような訳ですから、僕は谷口ジローさん描くところの「センセイの鞄」(*1)をとある街の古書店で見つけて最初に購読し、その後になって川上弘美さんの原作(*2)へと遡ったのでした。


よく手入れされた盆栽みたいな枯れた風情がいよいよ増して来ている谷口さんの絵ですが、初期の犯罪ものや探偵ものの頃には奔放にコマは配され、太い線が紙面を横切り、随分と尖って荒れた印象がありました。年数を経るに従い洗練されていき、誰とも違った独自の世界を築くに至っている。そのゆるやかな変貌ぶりに意識を向けると、ひとりの創作者の発芽から開花、結実を目撃し得たという深い愉悦に行き着きます。同じ時代を並走し、同じ世相を体感することが許されたごくごく限られた読者に訪れる“収穫の喜び”が在ります。


 妻に去られ子供や孫とも疎遠となって久しい元教師とかつての教え子が再会し、静かに交感する時間を育てていきます。類縁、似たもの同士と互いを認め、やがて無理なく寄り添うようになっていく。ふたつの魂の淡い航跡が交差していく様子が抑制の利いた谷口さんの筆つきとすごく合って、とっても好い感じです。


 味噌と醤油がしめやかな恋情と絡んで点々と顔を覗かせることにびっくりして、原作本の記述を確認しないではいられなかった。直ぐに近所の書店まで足を運び川上さんの文庫本を入手しました。そんな流れだったのです。


 さて、川上さんの原作を読み、谷口さんの漫画に再度目を転じてみると味噌や醤油に対する描写がやや減じているのが分かります。谷口さんは昔から“舞台”を大切にするひとで背景の描き込みは緻密を極めますし、そこに味噌と醤油はちゃんと存在するのだけれど、ピントは必ずしも合っていない。


 台詞も極力小説の中から写し取っているし、人物の造形も巧みで申し分ない。原作の雰囲気を壊さないように細心の注意を払っているのがよく分かる。「センセイの鞄」という小説の視覚化は漫画であれ映画であれ、今後有りえないと思わせるほど完成度は高いのです。よくよく思案した上での刈り込みであるでしょうから文句はないのだけれど、両者の比較を通じて「事象の捉え方」が人によってこうも違ってくるのかと驚かされもするのです。と言っても不満じゃなく嬉しさを従えた驚きなのですが。


 もともと僕は「原作本」と“台本”、そして“台本”と「舞台」を比べ視ることを愉しみにしてきました。例えば芝居や映画を観たことで原作まで読み切ったように捉える人がいますが、三者はまるで違った顔をしているのが普通です。どれだけ忠実になぞらえても、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間を介在する限り、何かしら違った伝達が起きてしまう。


 同じ音楽を聴いても、同じ絵画を眺めても受け止める人によって色々な印象を刻むのは避けようがない。気が合う二人であれば等しい反応に手を叩いて小躍りするかもしれないし、逆に違った受け止め方を新鮮に思い、相手へ注ぐまなざしの量を倍化させて、結果的に愛情はより深まるかもしれない。ひとつの事柄を各人が自由に、様々に解釈することは世界を輝かせる土台になっている。


 川上さんの世界が谷口さんの世界と連なり、けれど両者は重なり交わりながらもひとつ身にならず、優しく互いの背中に腕をまわし、しかと抱擁し続けているようで素敵でした。“ひとつ”ありながらで他者でもある感じが、連綿と歌われる恋歌のようで心地好い。そんな幸せな二作品だと捉えました。





 脇道にそれてしまうけれど、合わせてこんな事も思います。大きさ、硬さ、彩りを変えて意見や感想は噴石のように宙を舞い、雨あられのごとく地上に降り注いでいく。それが人の世の常なのだと好意的、楽観的に捉えようとする僕なのですが、さすがに今回の発電所事故に関しては困惑させられ続けです。


 起きていることは“たったひとつの事”なのに、どうしてこうも違った意見が飛び交い、情報が錯綜し、明らかに間違って見える伝達が起きてしまうのか。また、異なる少数意見を封殺する方向へ見えざる舵がぐいぐい切られているようにも思え、それはそれでひどく薄気味が悪いのです。気持ちがざわめくのです。


 広大な大地を毒で侵され、水や食べ物を汚された悲しみと怒りは日増しに膨れるばかりだけれど、それ以上にこの狭い国土で寄り添い暮らす僕たちのこころを二分し、自尊心に泥を塗り、猜疑心ばかりを煽り肥らせてしまったブラウン管の向こうの人たちを僕は恨めしく思います。他者でありながら“ひとつ”である感じを終に醸成出来なかったマイク越しの人たちの下手な演出を哀しく思います。


 僕たち、多彩な感情を抱え、千差万別の育ち方をした人間たちが“ひとつの事柄”である「電力不足」にこれから挑まなければならない。発電所事故に関する報道や避難誘導という舞台はひどい役者のオンパレードだったけれど、今度は僕たちが舞台に登る番になります。今度こそ“他者でありながらひとつ”になれれば嬉しいですね。


 先週の大きな余震により僕の住まう場処では長い停電がありました。その停電は何人もの弱い人たち、病気の人たちの命を奪い去りましたから、軽率に喋ってはいけない事柄が“電気”であると十分に僕は認識しているつもりです。


 けれど、あの停電で仕事場から急遽呼び出され、夜明けまであと2時間といった時間にようやく解放されて家路に着き、漆黒の闇に寝入った町を貫いている本当に墨汁の流れのような真っ黒の舗装路に独り佇んで、疲れ切った身体をうむうむ、と伸ばして仰いだ天頂に、満点の星々のそれこそ隅々まで敷きつめられて神々しく輝いているのを僕は見ました。電気を失ったゆえに得るものも十分に有るのだという強い感慨を抱き、豊穣の時間を得た思いがあったのです。




 電力会社もブラウン管の人たちもこぞって“電気”の恩恵を訴え、供給量の安定こそが世の幸福の鍵であると言葉巧みに誘導することでしょう。家電品を使わず、電灯を消す行為は文明の退化であると思わせたいところでしょうね。けれど、闇になってようやく見えるものが確かにあり、それは必ずしも酷薄な様相ばかりをしていないと僕は信じています。豊かなものがきっと微笑むだろうと信じます。


(*1):「センセイの鞄」 原作川上弘美 作画谷口ジロー 双葉社 2009‐2010 初出は「漫画アクション」2008-2009
(*2):「センセイの鞄」 川上弘美 詳しくは11日の日記参照

2011年1月4日火曜日

宇仁田ゆみ「うさぎドロップ」(2005)~びみょうなきもち~




りん「ダイキチー ごはんできたー」

────茶の間に布団を敷き寝ている大吉を、りんがゆさゆさと揺さぶる

大吉「うう~… うう~…」

りん「もうムリ 遅刻するって ダイキチ!!」

大吉「う~ん…」

りん「もう 大人のくせにちゃんとしてよ」

大吉「……… お前はアレだなー」

りん「何?」

大吉「ナリはアレだけど 中身はおばあちゃんみたいだなー

  朝っぱらからシャンとしやがって」

りん「もうっ ダイキチ ひとり暮らしの時 どーしてたの──!?」

大吉「それを言うなぁ──!! つーか先…食えばいーのに」

りん「やだ ひとりで食べるのキライ」

大吉「…… はいはい」

────ズルズルと座卓にいざり寄る大吉。りん、両手を合わせて拝んだりしている。

大吉、味噌汁椀を口に運んで

大吉「み…味噌汁がどんどんかーちゃんの味になっているような…」

りん「だってお料理 おばさんに教わってもらってるから」

────りん、大吉の手元に目を止めて

りん「ずぼら箸だめでしょー」(*1)


昨晩、人生で三度目の“お一人様映画”を体験しました。他に観客がおらずにたった一人でスクリーンを独占することです。一度目は子どもの頃に観た日本のアクション映画、二度目は昨年のことでイタリア貴族の末裔を題材にした家族劇、昨夜はロシアの文豪の晩年を描いた小品(*2)でした。


興行というのはなかなかに難しいものです。作品の質は決して悪くないのにこういう事が起きてしまう。けれど、劇場スタッフの方には申し訳ありませんが、150席ほどの中型のスクリーンとはいえ悠々と真ん中に陣取って遠慮なしに笑ったり呻いたりしながら音と光を満喫出来たのは、すこぶる贅沢な気分であって実に嬉しいお正月になりました。


これからの急激な人口減に対応するには思い切った工夫も必要かもしれないなと想像廻らせたりもして。どうせなら座席数を間引いて距離を置くとか、人工芝を敷いて寝転がらせるとか、大きなベッドをでんと設えるとか。恋人とふたりで手足絡めての映画鑑賞、わあ、なんて素敵。バカじゃねえ、正月から妄想全開かよ。


家族間の葛藤が物語の主軸となっています。壮絶で、けれど笑ってしまう夫婦喧嘩がこれでもかとばかりに延々描かれていく。食卓の皿が粉微塵に叩き割られ、銃声が鳴り響き、フォークが背中に刺さったりします。食わぬどころか怖がって犬もどこかに隠れそうな程もけたたましいのです。子供たちも互いに意見が衝突し、家族は空中分解寸前に追い込まれています。


考えさせられる内容で有意義な時間になりました。リアルな家族や親族というのは程度の大小はあれ、なるほどこういったモノでしょう。外貌、内実ともに複雑であり、錯綜する局面を折り挟んでいく。ほとんどの人は“しこり”を抱えて悶え歩むしかなく、丸い輪に閉じられた長谷川町子さんの漫画のように安穏と笑顔でばかりは暮らせません。


上に引いたのは宇仁田(うにた)ゆみさんの描く「うさぎドロップ」の一場面です。間違いなく長谷川さんとは違った様相の家族が息づいています。描線は手塚治虫さんの系譜のようで甘ったるい印象をやや受けますが、構成が七十年代の劇画を想わせて巧みだし、現実の捉え方にちょっと気合いが入って見えて僕は大いに注目しているところです。


頑固一徹な性格から子どもたちと距離を置き、ひとりで暮らしていたはずの祖父に隠し子があったことが死後になって発覚します。まだ6才の女の子なのですが、実母は育児を一切拒否してしまい拠り所を失ってしまうのでした。外孫で独身男のダイキチが見るに見兼ねて彼女を引き取ることになります。


血族ではありながら微妙な立ち位置にいる“りん”という娘は、僕たちの文化に根を張った平坦で軋轢のない家族像に投じられた一石です。波紋は円弧を為して広がり、周辺の人々を確かに揺らしていくのでした。男は慣れない子育てに取り組むうちに、これまで意識に及ぶことがなかった事柄に真向かうことになっていく。もともとしっかりした性格でしたが、より深慮のある男に育っていく。そんなお話です。


家庭の基盤を家族ひとりひとりの幸福にまず求め、全体よりも個人の自立や満足に主軸を置いて脱皮を繰り返すようにして世界をリライトしてみせる逞しい欧米文化と比べてしまえば、まだまだ湿度が高く飛躍に乏しい日本的な展開です。けれど、これまで茶の間を覆ってきた単層な世界観と比べるとかなりの成熟を感じるところです。


おにぎり、カレーライス、コロッケ、焼きそば、と、劇中に食べものがめまぐるしく登用されていますが、味噌汁はこれらと一線を画してコントラストのある意味付けが加えられていました。ややステレオタイプの使われ方(母の味)がされていますが、家族とは何か、暮らしとは何か、血族とは何かを問い詰めていく過程において、作者の宇仁田さんはあえて意識的にこれを描き込んでいる。


十年という歳月を一気に跳躍させて、六歳の幼女はすっかり大人びた身体つきに育っています。第二部の開幕なのでした。おばあちゃんみたいにシャンとして、母親の味付けを踏襲して見せた“りん”という娘は、傍目にはすっかり家族に融け込んで見える。


そう見えるけれど、そう単純ではないんだと宇仁田さんは言いたいのでしょう。


物語とは僕たちに代わって僕たちの内部に巣食っている対立したり矛盾する価値観を引き出し、ぶつけ合い、考えさせる実験装置です。宇仁田さんは味噌汁でもって寄せる波を送り、その後では世界が氷結するような引き潮の場面を挿入してみせます。ふたつの抗う波の狭間に立つ登場人物の行き着く先が、はたしてどのような場処であるのか僕には想像出来ませんしハラハラしながら見守るしかありません。ダイキチと“りん”の間に置かれた味噌汁は波間に置かれた浮き標となって、境界はここだよ、君はあちら側、それともこちら側、どっちに来るつもりなのと尋ね続けているように見えて、確かに“びみょう”な顔付きなのです。


(*1):「うさぎドロップ」 宇仁田ゆみ 2005年より『FEEL YOUNG』(祥伝社)に連載。
上に引いたのは25話の冒頭部分で単行本第5巻に所載。奥付によれば2008年6月号に掲載されたものらしいが、ここでは連載開始時の2005年にて紹介しています。
(*2): The Last Station 監督 マイケル・ホフマン 2009

2010年10月19日火曜日

高瀬志帆「恋の秘伝味噌!」(2002)~フザけんなー~

 
 高瀬志帆(たかせしほ)さんの「恋の秘伝味噌!」(*1)は、かいつまんで書けばこんなお話です。

 
 結婚に踏み切れない男の気持ちをおんなが探っていくと、それが実家のホルモン屋の窮状に関わることが分かってきます。狂牛病騒ぎで多額の借金を負った店主(男の父親)が継続を諦めかけており、それを見かねて会社勤めからの転進を図ろうとする。債務を背負っての再出発に愛しいひとを巻き込んでいいのかを思い悩み、打ち明けられぬままに時間が過ぎていく。

 それを知ったおんなは「フザけんなー」と啖呵を切り、店に乗り込んで配膳の手伝いを始めます。焼鳥屋として改装なった狭い店でささやかな結婚披露宴が行なわれ、気のおけない友人たちの祝福を受けて喜色満面のふたりなのでした。



 “結婚”をテーマにした雑誌(*2)に掲載なったものらしく、あとがきに筆者は「ククリに苦しんだ末、イカれた話に」なったと明かしています。単行本には5篇収められていて、どれもこれもがうら若き男女の恋愛譚なのだけど確かにいちばん空転した印象を抱かせます。ほかの収録作の放っている治まらぬ動悸、汗まみれの切実さ、荒々しさと比べていかにも優等生っぽい仕上がりです。


 死に至るまでが旅の途上にあり続ける“魂のこと”を、結婚をゴールと断じて集束していくことに違和感が生じるのだし、土台無理があるのですね。山なり谷なりの起伏が結婚に至るみちすじにはあるものだし、感情の衝突、計算、逡巡もあれば諦観もあって平坦なものでは決してない。“しあわせな”という冠が付いた結婚を描くとすれば、なおさら紙面なり文章をたくさん割いて向き合わないといけない。それを作者の高瀬さん自身が誰よりも先に気付いている、気付いていながらもペンを走らせねばならない。因果な商売です。


 代々受け継がれた“味噌タレ”にしても二つの魂の行方を変針させるには役不足であり、その肝心な部分を共感できない僕のこころは一向に波立たないのでした。ずいぶん前に買い求めた本であったのだけど、これまでこの日記に取り上げなかったのはこの“味噌タレ”がピンと来ないからでした。


 では何を思ってこの場に載せようとするかと言えば、興味深い絵が単行本の表紙を飾っているからなのです。これがなかなかの“みそ汁”で記録に値する怖さ、面白さです。


 華やかな晴れ着に飾られたおんなが小振りのお椀を胸元に掲げている。褐色のどろっとした液体が覗くその中に、白色のキュービックが3個浮き沈みしている。無理をすれば汁粉(しるこ)に見えなくもないけど、桃色に縁取られたタイトル文字との兼ね合いから言って十中八九これは豆腐の“みそ汁”です。そして、今まさにその“みそ汁”の器から汗だくになりながらひとりの男が這い出ようとしているのだったし、悲鳴を上げたり、転倒しながら一目散に逃げ出そうとしている若い男の群れが手前に配されている。


 おんながキングコングほども巨大なのでなく、男たちが矮小化されている。右往左往して逃げ惑う男たちを睥睨するおんなは、間もなく緑色の箸をぞわり動かして男の身体をつかみ上げ、ぶわっと裂け開いた唇の奥の奥へと押し込むに違いない。


 よくよく観察すればこの表紙画は、カバー裏の中央を飾るおんなの横顔と一対になっています。素裸にエプロンを羽織ったおんなが手に持っているのはオタマであって、これはおんなが“みそ汁”調理の只中にあることを示しています。

 金属質の輝きを放つオタマのへりを下唇にじっとり押し当てたおんなは、薬にやられて虚空を睨むベット・ミドラーさながらの洞穴(ほらあな)みたいな眼つきになっており、完全に幻影の虜(とりこ)です。おいおい…



 男とおんなの恋情をめぐる、喰うか喰われるかの駆け引きが象徴的に表されていると共に、女性が内側に潜めている肉欲、支配欲、観察眼、非情さ、たくましさが乱反射しています。“みそ汁”に託されがちな家庭の団欒、おんならしさ、母性を蹴散らす勢い。間違いなく「魂の食べもの」として登用された“みそ汁”が、白い湯気を昇らせながら中空に浮かんでいるのですが、ここまで妖しく色めいて描かれることは稀有なこと。


 怖いですねえ、作者の高瀬さんも、これを当たり前の漫画として頷く女性たちも。
 ほんとうに怖い、怖いけれど愛しい、困ったことながらそう思います。


 所詮、男は食べられる宿命、なのかもしれないですねえ…


(*1):「恋の秘伝味噌!」 高瀬志帆 2002 同題単行本 大都社 2003 所載 
(*2):「結婚しようよ」 ぶんか社 2002 詳細不明 

2010年7月8日木曜日

奥浩哉「め~てるの気持ち」(2006)~からくないですか?~



 奥浩哉(おくひろや)さんは戦術に長けた作家です。ひとの情念が“食べもの”を起点としてはげしく隆起するのを承知し、そっとメニューを変更する。読者にもたらす心理的な効果をさりげなく増幅してみせるのです。それが「GANTZ(ガンツ)」(*1)という作品に垣間見れた訳だけれど、同じ時期に別な雑誌に掲載されていた漫画「め~てるの気持ち」(*2)にも“食べもの”が意識的に登用されていたことが視止められます。


 十五歳の時分から実に十五年間も自宅に引きこもってしまった青年“慎太郎”を主人公とする小品です。父親の小泉安二郎は定年を間近とする会社員で、妻の死後、部屋に篭(こも)り切りになった息子の面倒をずっと看て来ました。開幕してすぐに安二郎は大病を患いあっけなくこの世を去ってしまうのですが、後妻となっていた“吉永はるか”という若干二十三歳の娘が、今度は安二郎に代わり義理の息子の自立を促がすために一念発起いたします。


 若く美しい義母が突如出現し、異性との接触をまだ知らぬ容姿端麗な男子のこころを氷解させて広い世界に導いていくというストーリーラインは取り立てて目新しいものではないのだし、枠にはまって見える娘はるかの言動や物腰を同姓の読者が目にすれば、きっと憤懣やるかたなく、大きくチッと舌打ちするに違いない。まあ、正直言えば読んでいて苛立ちを覚えもする場面が目白押しの困った漫画です。


 けれども、顛末のあちらこちらにさりげなく“食べもの”が顔を覗かせ、僕ら読み手の共振を巧みに誘ってくるところは技術的にとても面白くって、結局最後まで読み切ってしまったのでした。


 例えば、慎太郎より恋慕の念を告白されて動揺したはるかが、衝撃の余りに満足な調理が行なえなくなり、おかずもなく、箸さえも添えられていないご飯と味噌汁だけの奇妙な朝食を配膳してしまう件(くだり)(*3)などは、まさにこの劇が“食べること”と“精神”とを二人三脚と為して歩んでいることを如実に現わしていましたし、劇の終わりにようよう自立を果たした慎太郎が、終に摑み取った職業が食堂(ラーメン店)であったことも意味がある訳です。堂々たる背骨がまっしぐらに物語を貫いている。しっかりと練り込まれ、丁寧に構築されているという感触を抱きます。


 父親が毎日自室に運んでくるコンビニエンスストアの弁当から始まり、さまざまな“たべもの”が列を為して劇中に現れては消えていきますが、「和食全般で、普通に焼魚とかお味噌汁とか納豆とか…」(*4)──が好きなはるかが登場したことも、だから偶然ではないのだし、自室に立てこもった慎太郎と扉越しに食事をしながら、「どうですか?お味噌汁、からくないですか?」とはるかが廊下で声を張り上げる辺りも相当に煽動的。僕たちの懐(ふところ)の奥深くで“共振”を誘発せんと目論む作者の深意がびんびん伝わってきて、妙に可笑しくなってしまうし、また臆面なく仕掛けてくる情熱には感心もさせられる。(*5)


 ここでの味噌汁には明確に“母親”“母性”が重なっており、これもまた定型でありきたりのものなのだけど、同じ旋律を飽くことなく奏で続ける頑固なピアノ弾きか粘り強い歌い手みたいな雰囲気が作者の奥浩哉さんには感じ取れるのです。またかよ、しつこいなあ、と唇の端で笑いながらも、いつしか根負けしてしまう。


 唇をつぐみ頬づえを突きながら耳をそばだて、本気になって聞き入っている自分に気が付き驚かされる、そんな流れなんですね。こういう書き手も出て来てるんだなあ、まったく油断できないし、嬉しいなあ。


(*1): 「GANTZ(ガンツ)」奥浩哉 2000年~ 「週刊ヤングジャンプ」(集英社)連載
(*2): 「め~てるのきもち」奥浩哉 2006‐2007「週刊ヤングジャンプ」(集英社)連載
(*3):第12歩「他人のことも!」 第2巻所載 
(*4):第9歩「言える!」 第2巻所載
僕はここで、石井隆さんの映画のなかに時折顔を覗かせる意味深な“階段”を連想しました。神は細部に宿る。“情念”と“世界”とがニワトリと卵のような関係になっている、要するにそういう造り込まれた世界が好きなんだよね。 
(*5):第8歩「めちゃくちゃ」 第1巻所載 

奥浩哉「GANTZ(ガンツ)」(2000)~ありきたりの~



 人気グループ“嵐”のメンバーを起用して、大掛りなアクション映画が撮影中と知りました。道端の石塊(いしくれ)をつい連想しちゃう題名なのだけど、もう十年も前から連載中の漫画(*1)を原作としているそうで、海外でも翻訳されて愛読者を増やしているとか──。にわかに興味が湧いて来ました。


 不景気が追い風になってもいるのでしょう、新しいタイプの貸し本業“レンタルショップ”が花盛り。書店経営の方には本当にお気の毒ですが、一冊五十円で貸してくれるのだから助かりますね。職場の帰りにお店に立ち寄って、初巻から27巻までを順次借り受け就寝前に読み耽(ふけ)りました。


 “ガンツ”(*2)とは黒い球形をした謎の機械を指します。そのガンツに選ばれた老若男女が、それこそ有無を言わせぬ勢いで戦場に送り込まれてしまうのです。身体のラインがむっちりと露わとなる黒い戦闘服を纏(まと)い、不恰好な銃を撃ちまくります。街なかに潜伏している凶暴な異星人を探し出して、皆と力を合わせて殲滅しなければ逆に命はありません。繰り広げられる死闘と紙面の隅ずみまで埋め尽くされた精緻な描き込みは、僕の育った頃の作品で言えば池上遼一さんの「男組(おとこぐみ)」(*3)の血筋のようだし、楳図かずおさんの「漂流教室」(*4)にも大胆さ、奇抜さが重なって見えます。


 玄野計(くろの けい)と加藤勝(まさる)というふたりの高校生を軸に物語は進行します。心身両面で成長の真っ盛りですから、男同士のせめぎ合いがあり、恋愛を廻る鞘(さや)当てや煩悶がでろでろと咲き乱れて、さまざまな濃淡にて場景を染めていく。


 死の淵に沈んで何ヶ月間も帰宅が許されなかったり、記憶をすっかり喪失して苦悩するといった不条理な展開もしばしばです。多くの場面にて登場人物は感極まり、涙は滂沱して頬をびっしょり濡らしていくのでした。興味深いのはそのように寄せては返す魂の波濤(はとう)に交じって、月光に照らされて切なく瞬く金波銀波(きんぱぎんぱ)のようにして、“食卓の光景”が彼ら登場人物の脳裏にさっと蘇えっていくことです。“食べもの”が慕情をより鮮烈に盛り立てて行き、そこに“味噌汁”がしかと描かれているのです。


 加藤勝は数ヶ月間冥府をさ迷い、ようやくにして愛する弟の元へ帰ることが出来ました。兄弟は両の親を交通事故で失っており、陰険な親戚の家にて忍従を強いられながら生きて来たのです。この数ヶ月間、戻らぬ兄をひたすら想いながら幼い弟はどれ程の寂寥と苦難を味わったことか。息せき切って夜道を急ぐ兄、勝(まさる)の心中に去来するのは幼い笑顔であり、食卓に並ぶ“ありきたりの献立”に目を細めて喜んでいる弟の、いかにも華奢な体躯であったのだけど、そこには明瞭に像を結んで“味噌汁”が置かれていた。(*5)




 同じ現象が回を置かずに再度出現しています。玄野計(くろの けい)の恋人である小島多恵という少女がいるのですが、ガンツによって同時期にともども記憶を奪われてしまいます。視線を交わすたびに胸掻きむしる熱いものが若いふたりを襲うのだけど、それが何に由来するのか理解出来ないので混乱します。


 多恵はある時、自宅の机のなかに見知らぬ鍵を見つけます。もしかしたらと計(けい)の住まうアパートと関係があるのじゃないかと思いを巡らし、勇気を出して部屋を訪ねます。案の定カチャンッと扉は開錠してしまって、少女は狭い室内へと足を踏み入れたのでした。ああ…この風景を自分は知っている。確信が突如浮上して来ます。遂にはこれまでその部屋で、自らの瞳に刻んで来たものであろう映像の数々が堰を切って再生されて、小さな胸の奥でわっと駆け回るのです。その中には食卓に並んだ“ありきたりの献立”に両手を合わせて感謝する少年の姿があるのだったし、きちんと“味噌汁”も添えられていた。(*6)


 僕たち読者の共振を目論んで、あえて“ありきたりの献立”が起用されているのは間違いなくって、それに不可欠な要素として“味噌汁”が脇を固めている。たくさんの懐かしい情景の堆積に埋もれるようにしてある一コマなのだけど、それで何かしらの感情の起伏が僕たちの胸に生じたのであるならば、そして、その一端が“味噌汁”からも発しているのであるならば、なんて精神的な、なんて奥深い食べものなのだろう、そう感嘆しない訳にいかないのです。地味ながらも雄弁な描写になっている。その地味さこそが実は凄いことなのではないか。


 さながら研究室の動物のようにして、僕たちは一瞬で“ありきたりの献立”と“味噌汁”の像に反射しています。平穏なる日々の暮らしや愛する人との静かな語らいを即座に想起してしまう。得難い、思えば奇蹟にも近い真情の交換や魂の交歓をゆるやかに回顧して、ああ、あの人は自分にとって、いかに“大切なひと”であったかと再認識していく。


 映画フィルムのなかに秘密裏に埋め込まれたほんの数コマの画像が、観客の潜在する意識を煽り次々と欲望を誘爆してしまう“サブリミナル効果”というのがあるけれど、あれを僕は思い出します。作者の奥浩哉(おくひろや)さんは、人間のこころと日常を取り巻く事象の相関をよくよく知り抜いた練達の士だと感心しているところなのです。


(*1):「GANTZ(ガンツ)」奥浩哉 2000年~ 「週刊ヤングジャンプ」(集英社)連載
ムンクEdvard Munchの“The Sin (Nude)”なんかを雛形にして宇宙人の親玉を描いたりする作者の性向も、僕の波長にちょっとシンクロしちゃうんだよね。
(*2): 石森章太郎さん原作のテレビ番組に「がんばれ!! ロボコン」(1974─1977)というのがありましたが、あそこからこの題名が来てる(笑)。そこを察することの出来る世代には、二重に楽しめるかもしれません。
(*3):「男組」 原作 雁屋哲 作画 池上遼一 1974-1979
(*4):「漂流教室」 楳図かずお 1972‐1974
(*5):0222「兄と弟」19巻所載 奥付によれば雑誌掲載されたのは2006年
(*6):0225「カギ」 19巻所載         同



2010年6月21日月曜日

室山まゆみ「あさりちゃん」(2007)~夢がない~


真弓(心の中で)「プリンミックスを買うって、何年ぶりだろ。

    いや、何十年ぶりか。」

  自宅の台所で紙パック詰の牛乳などを並べながら

真弓「プリンカップ出して─。」

真里子「んなもんあるわけねーじゃん。30年前に捨てたよ、

     使わないから。」

  真里子、おもむろに器を突き出す

真里子「ミソ汁椀でいいんじゃない。(でかいのつくれば)」

真弓「……(ショック)。

   (心の中で)──まだ作っていません。デザートは夢を作るんだよ。

    これじゃ夢がない」(*1)



 上に紹介したひとコマは、漫画「あさりちゃん」の本編中にはありません。単行本に収まったお話とお話の隙間を埋める目的で挿入された「作者のぺえじ」に描かれていました。けれど、どうでしょう。購入者の年齢層は限られ、いわば閉じられた世界です。主として小学校に通う女の子の共感を得やすいように、この中継ぎの部分にしても話題は絞られていく。笑顔を絶やさないための工夫が絵とふきだし、オノマトペに丹念に施されて本編と連なっています。実質的には作品の一部と捉えても構わないでしょう。


 作者は二人三脚の実の姉妹で、お姉さんの名前を真弓さん、妹は真里子さんといいます。姉がプリンを作ろうとして妹に“プリン型”を探して欲しいと持ちかける。そんなものはとうの昔に廃棄してしまった、これで代用したらどうかと真里子さんは味噌汁椀を姉の鼻先に突きつけるのでした。そんなプリンはいやだ、と大いに落胆したところで幕引きです。まあ、実に他愛もない顛末なのだけど、そういった無防備な状況、力が抜けた場面で口を突いて出た言葉ってヤツには存外真実が含まれているものです。


 「夢がない」という姉の真弓さんの嘆息は、はてさて何処から湧いて出たものか。花びら状の凹凸がモワモワッと拡がる、あの銀色の器が見つからないことへの怨嗟からでしょうか。最後のコマがキラキラ輝いて“夢のよう”に見える“プリン型”ならばそう受け止めてもいいのだけど、実際に描かれていたのは木肌なのか漆調なのか、ぼけた地色に黒い花模様を引いた“ミソ汁椀”でした。「夢がない」と断じられているのは明らかに“ミソ汁椀”、ひいては“ミソ汁”なんですね。


 もしも姉が差し出したものが“ワイングラス”だったら、 “茶碗蒸し”の器や“コーヒーカップ”でもしもあったなら、もう少し違った展開になったのではなかろうか。「あらヤダ、すてき!」「ナニそれ、おしゃれ~」なんて反応だって容易に想像されてしまう。やはり“ミソ汁”だからこそ、ここでは「夢がない」と告げられている。



 漫画であれ映画であれ、フィクションと総称される数多(あまた)の創作の現場では、受け手である読者や観客の欲望と、送り手のそれとが巧妙にすり合わせられて増幅されていきます。送り手の独りよがりの言動は共振を生まずに、手の平でヤブ蚊の追い払われるごとく遠ざけられる宿命です。


 だから、創作活動の初めの一歩が踏み込まれる前には、作者や彼を取り巻く送り手たちが僕たち受け手のこころ模様を凝視する工程を挟むことになる。医療用の検査機器ですっかりスキャンされ、大切な部分まで丸裸にされているようなものでしょう。異様な作風を誌面やスクリーンで目の当たりにしたとき、作者の精神を疑う中傷や戸惑いがゆらゆらと跳躍することがあるけれど、実は僕たちは僕たち自身と向き合って頁を繰り、影像に目を凝らしていくのであって、異様さや奇怪さは存外まっとうな人格が計算づくで仕組んでいたりするものです。


 「あさりちゃん」の作者、室山まゆみ(むろやままゆみ)さんが彼女ら独自の“ミソ汁”観をここで吐露し、唐突に投げて寄越している訳では当然なくって、ミソ汁に対して「夢がない」と多くの子どもたち、そして母親たちが感じているとキャッチした結果が形になったと考えていい。


 僕は「あさりちゃん」をほんのわずか読んだに過ぎませんから、あまり断定的な物言いをすると叱られそうだけど、描き込まれた数多くの“食”の光景に“ミソ汁”の湯気は実に薄い。ぞんざいと言うか、単純というか、うまくその辺り、つまり食事時の“ミソ汁”描写を話題からそっと避けている風に僕は受け止めてもいます。仕事に追われ、私事に追われて調理に注力出来ずにいる母親、飽食の時代に育って好き嫌いのいちじるしい子ども、食事どころでなく締め切りに日々追われるばかりの作者姉妹──そういった環境を丸ごと捉えた末に、「作者のぺえじ」が浮上している。あれこれ思うところはあるけれども、これはこれで僕たちが暮らす現代の世相をよく捉え、上手に切り結んでいるんじゃないかと考えています。


 見方をさらに変えれば、無数にある“食べもの”の中よりこうして取り上げられるだけ立派だとも思います。こんな言葉も先人のひとりは遺していますね。「ここに一つの器がある。若しも私がその器を愛さなかったならば、私に取ってそれは無いに等しい。然し私がそれを憎みはじめたならば、もうその器は私と厳密に交渉をもって来る。愛へはもう一歩に過ぎない。」(*2)


 大多数の読者から圧倒的な(それがたとえ「夢なきもの」の象徴と貶(おとし)められようとも)──共感をこれほどにも得る料理というのは、そうそうに見当たりません。僕たちの精神世界に根茎をたくましく伸ばした「こころの料理」ならではの登用だったのだと、やはりそのように思いますね。愛へはもう一歩の距離に在り続ける、それが“ミソ汁”の微妙な立ち位置なんですね。



(*1):「あさりちゃん」 室山まゆみ 1978-連載中 小学館学習雑誌にて
   今回引用したのは単行本84巻(2007年9月発行) 108頁
(*2):「惜しみなく愛は奪う」 有島武郎 1920  
   新潮文庫 有島武郎評論集所載 322頁