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2011年5月6日金曜日

山内久「若者たち」(1967)~ツケで食わしたのか~



6 佐藤家(朝)

 モリモリ飯を食う太郎、三郎、末吉の口、口、口。

オリエ「サブちゃん、先週の食費頂戴。八百四十円」

太郎「(ハッと)ツケで食わしたのか」

オリエ「だって、アルバイトのお金まだ入んないっていうんだもの」

太郎「サブッ!」

 ミソ汁のお代りをしようとする三郎の手からお玉を取り上げ、

太郎「すぐ出せ。金を」

 三郎、冷然と末吉の汁を飲み、食い続ける。

末吉「よせヨ!」

太郎「規律に従えない奴は出ていけ!」

 ガンガンと壁を叩く──。

 定「朝食四十五円、晩食七十五円、昼食又は弁当七十円」と

 書いて貼ってある。(*1)


遅い夕食を取りながらコントローラーでテレビを付けると、長距離トラックの運転手が助手席の相棒に向かって何か怒鳴っているところです。どうやら映画が始まったばかりのようで、題名も分からぬまま目の端っこで追っていると、やがて上に紹介した朝食の光景に切り替わりました。今は絶滅してしまったように思える貪欲この上ない食べっぷりで、椀に盛られた味噌汁を奪い、奪われしながら、こちらもぐびぐびと威勢よく飲み干されていくのです。卓袱台(ちゃぶだい)を挟んで田中邦衛さんと山本圭さん、それに松山省二さんの顔が見えて、あっ、これは「若者たち」だと気付きました。ちょっと胸がどきどきします。


これまで僕はこの作品を疎(うと)んじていた、と言うか、もっと端的に白状してしまえば政治色が濃厚に想えてひどく警戒していたのです。どこかの団体のプロパガンダだと思い、誰がその手に乗るものかと一方的に回路を遮断していました。あれこれ日頃世話になって敬愛している人の口から何かの拍子にタイトル名が転がり出たりすると、おや、この人は思想が偏向しているのじゃないか、こちらの気持ちを酌んではもらえない頑なで困った一面を抱えているのじゃないかと不安を覚えたりしました。そのような訳ですから、どうしても斜め目線はしょうがないのです。タブーを侵すみたいでもあり、据(す)わりの悪いまま見つめることになりました。


早い時期に親を失って、戦災に耐え、貧窮に苦しみ、偏見と闘ってきた五人兄弟の物語です。立ちふさがる様々なハードルを越えていく様子が感動をもって描かれるのですが、膨大な台詞に続いてけたたましい口論が起こり、組んず解れつの大喧嘩に至るというお約束がある。机や座布団が宙に舞い、器や食べものが飛び、人の身体さえばっと跳びかって痛快です。


論議の対象は深刻なものです。経営破綻と仲間割れ、被爆と結婚、労働災害と弱者切り捨て。畳み掛けてくる討論の内容に耳を奪われ、いつしか気持ちが引き込まれてしまいました。製作当時は題材の暗さから配給会社がこぞって難色を示し、公開さえ危ぶまれた作品だそうだけど、コンピューターを駆使した複雑な編集と特殊効果、重奏し混濁する音曲にすっかり慣れ親しんだ今(2011年)の視聴者目線からすれば、むしろしっくり来る分量と盛り付けになっている。時代が追いついて、娯楽作品としての趣きが具わって見えます。


ひとつの事象を五つの方向から見つめて、お互いの感じたまま、思うままを開陳して兄弟は議論を重ねていくのですが、最後の最後まで一方向のみに傾斜を強めたりしません。バランスが取れているのも見事です。片方が劣勢になって追いつめられ、狭い茶の間にひゅうと風が吹き抜けた感じになると、これまで隅で沈黙を守っていた兄弟がおもむろに口を開き加勢してぐいっと平衡を取り戻していく。満々と水を湛(たた)えた大きな水盤を、皆で支えて上手く運んでいるような案配(あんばい)で実に気持ちがいいのです。


社会であれ会社であれ、もわもわとした矛盾を潜み、奥底には泣けてくるよな不合理を孕んでいるものですが、それを単純に断罪するのでなくって、非難する側、弁護する役を兄弟のそれぞれが担って全力でぶつかっていく。当然の事として波は立ち、飛沫(しぶき)は跳ねてずぶ濡れになるのですが、盆を引っくり返して台無しにすることはない。目指す方向はすこぶる建設的であって、基調となる色彩も日本人好みにとことん浪花節的であるから劇中の実生活から乖離したり空転したりしないのです。


つまり、これまで僕の抱いていたイメージこそが余程偏向し、頑なで困ったものだったのです。大いに反省を促がされると共に、急ぎ脚本を担当されていた山内久(やまうちひさし)さんのシナリオ集を探して噛み締めるようにして読みました。


本のなかには「若者たち」の他に続編にあたる「若者はゆく」(*2)、および「若者の旗」(*3)も収められていて、年数を経て兄弟の成長していく様子がたいへん興味深く、面白く拝読しました。学園闘争、労働争議、公害、夢の島、交通戦争といった当時の世相は直接僕たちの日常にリンクするのでないけれど、問題に向き合う姿勢や規範となる型のような普遍的で大事なものを教わったように感じます。


川面(かわも)を呆然と見守るだけでなく、渦中(かちゅう)に身を投ずる気構えで見据え、討論を導き、大丈夫なのか、本当にそうなのか、後で後悔しないのかと納得するまで何度でも蒸し返していくことの重要性を山内さんは訴えてくれている。今回起きてしまった原子力発電所の事故にしたって面倒な討議を排して、楽な方へ楽な方へと流れてしまった国策のツケが回ってきたように感じますし、爆発後はパニックを恐れる余りに情報を統制して自由な論争を封じた結果、ちょっと回復が難しいほどにも不信の念が国中を覆ってしまった。


ほとんどの国民が蚊帳の外に置かれ、曖昧な言葉ではぐらかされ、新たな基準値を押し付けられ、良心の呵責に悩んで飛び出た人には守秘義務の名目でもって口を封じ、金持ち喧嘩せずといった事なのか分からないけれど、ディスカッションはまるで見えぬままに時間ばかりが過ぎていく。


安直に決め付けるのはおかしいし、なによりも危険だよね。話の輪から皆を外して本当にいいのかな、もっと僕たちは丹念に話し合う癖を身に付けた方が良いのじゃないかと、懸命に、親身になって“44年前の若者たち”が語り掛けている。


NHKの電波を介してあの夜、あの時間に同じようにして食い入るように観ながら、僕と近しい思いを抱いたひとは少なくなかったのではなかろうか。羨ましい感じが凄くするんですよね。僕たちはディスカッションをとても希求している。密度があって、誰もが納得できる討論が面前で展開され、意見が尽くされるのを心待ちにしている。


次々に椀に盛られ、奪い合い飲み干されていった「若者たち」冒頭の味噌汁は、ぜいたくな具が入っていない薄っぺらなものだったかもしれないけれど、とても豊かで健康なものに映りました。いくらか貧乏の象徴として登用された気もしなくはないけれど、個食(孤食)を避け、顔付き合わせる仕組みを作り、腹を割った話し合いを誘導してなかなかに味わい深い役柄だったと思うのです。


(*1):「若者たち」 監督 森川時久 1967 引用はシナリオ集「若者たち」 山内久 汐分社 1984
(*2):「若者はゆく 続若者たち」 監督 森川時久 1969
(*3):「若者の旗」 監督 森川時久 1970 たとえばこんな台詞がありました。「生きることの意味は、環境の改善と、生命の再生産だぞ。その二つには誰だって喜びを感じるだろう。だから誰もがそれを円滑に出来るように保証してゆくことが、生きることの意義だし目的だろう」

2010年11月30日火曜日

池内淳子「女と味噌汁」(1968)~ぴんしゃんして~



 池内淳子(いけうちじゅんこ)さんがこの九月の終わりに急逝されました。死を悼む報道の多くで最初に掲げていたのが「女と味噌汁」でしたね。彼女の面影がこの奇妙な題名のテレビドラマ(*1)によって深く刻まれていた(らしい)。


 僕は池内さんをよく存じ上げません。いや、いくらなんでも顔や声はわかります。ご多分に洩れず茶の間でずいぶん刷り込まれた口だけど、遠い存在と思っていたというか、偶然同じ電車に乗り合わせたひとりひとりを記憶しないと同様、ぼんやりした印象を抱いてこれまで来てしまいました。


 男女間のかけ引きが主体となる花柳界のお話です。どうも親に“してやられた”感があります。そっと池内さんを陰で楽しんで、子どもはうまく遠ざけていました。平岩弓枝(ひらいわゆみえ)さんの原作(*2)も肌が合わず、自らの手で片隅に追いやっていたところがあります。そんな訳で池内さんと「女と味噌汁」は僕のなかではまるで結び付かないままだったし、(こんなブログを書いているのに関わらず)足跡の見えない処女雪みたいなもので、むやみに眩しいままにあり続けました。


 銀座の映画館で池内さんの追悼上映が連夜催されていて、丁度うまく具合に時間が取れました。テレビの方でなく“映画版”になりましたが、因縁の作品(*3)を観てまいりました。


 赤ちょうちんひしめく地下街の、やや奥まった場処にある小さな劇場です。傾斜の強い階段を何段も下りていかなければなりません。蛍光灯がぞんざいにコンクリの天井と地面を照らし、妙に切ない気分を煽っています。昭和の薫りが漂う、今となっては貴重な劇場ですね。ちょっと謎めいた感じのする息抜きとなりました。


 劇中“不景気”という言葉が飛び出しはしますが、いざなぎ景気の只中です。夜の飲食街はほろ酔い気分で腕組み歩くアベックで溢れ、陽が昇れば工事現場の建設機械が槌音(つちおと)をがんがん響かせていく。警笛を鳴らす車が行きかい、排気ガスと粉塵で薄っすらと背景は煙っていきます。
勢いのある作品です。

 
 そんな世間の喧騒からはやや隔絶した感じのする男女が幾人か登場し、人生の節目に面して思いあぐねてはついつい歩みを止め、呆然と立ちすくんでいくのでした。池内さん演じる苦労人が彼らを見守ります。そっと唇噛んでその背中を見送りしながら、これからの自らの針路を徐々に固めていく。
 

 なかなかの存在感を池内さんが示して、またこちらの心情もさらりと受け止めて見事です。窓が大きく開け放たれている印象があります。主役を張るだけの清楚な美人ですから、もちろん熱烈なファンも擁していた。例えば作家で批評家でもある虫明亜呂無(むしあけあろむ)さんはこんな狂熱的な賛辞(これは明らかに恋文ですね)を当時贈ってもいます。あれこれ拙い言葉を並べるよりも、その一部を写した方がきっと池内さんも喜ばれるでしょう。


 古風で、ひっそりと息づいて、いつも笑顔で人のいうとおりに

なったようで、根は片意地で、きりりんしゃんと自分を保ち、

それでも結局は、大きな目にみえないものの力に流されてゆく。

そのような典型的な日本女性の雰囲気が、彼女から感じられた。

そうした女の味をだせた──下劣な表現だが、男がどうしても

心を乱さずにはいられなくなるといってもよい──女優は、

戦後の日本映画界をつうじて池内淳子ただひとりしかいなかったと

断言してもよいくらいだ。(中略)


 東京風の和服が似合って、動作がぴんしゃんして、

颯爽(さっそう)とした残り香が襟のあたりから漂ってくる。

いなせな気っぷの持主だと想像させる。乾いて、あかるく、まわりを、

ほのかな女の味で、料理しあげる腕と才と知恵を身につけている。(中略)


 美しいひとであるが、池内さんには女の湿った執拗さは、

ひとかけらもない。むしろ男の無頓着さと共通した「乾き」が、

このひとを一層、美しくしてみせているようである。宿でも,

立居動作が透明で、一層なまめかしく、艶にして、妖であった。(*5)


 劇中の役柄と同一視してはいけないでしょうが、いちいち頷かされるところがあります。「四代にわたる江戸っ子が自慢」という家に生れて自然に身についたものでしょうね。作って作れるものではない。


 僕は友人に生粋の江戸っ子をたくさんは持たないけれど、なるほどさっぱりとした気風や美意識は重なって見えます。乾いていながら虚無というのでなく、叩けばコンコンと軽快な音が帰ってくるような身の詰まった内実の、それでいて浮力具えた容姿やいでたち、えも言われぬ色っぽさ、ハハハ、と声上げて快活に笑う彼ら江戸っ子の折々の姿を懐かしく思い出しながら、いつしかこちらにも伝染して温かいものがふわり灯っていく気分。人がひとに勇気付けられる、その不思議を想います。


 まあこっちはこっちで年季が入って身についちまったものがあり、同じ仕草という訳にはいかない。池内さんや江戸の友人のようにはいかない。うつむいて目を細め、ウフフ、ウフフと笑うしかないのだけど。

 現実味がどこか乏しい惚(とぼ)けた風情なのだけど、いろいろと考えさせられる時間となって僕には悪くありませんでしたよ。




(*1):「女と味噌汁」 TBS系列 東芝日曜劇場枠でシリーズ化 1965─1980 
(*2):「女と味噌汁」 平岩弓枝 1965 初出は「別冊小説新潮」
(*3):「女と味噌汁」 監督 五所平之助 1968 共演は川崎敬三、田中邦衛、佐藤慶、田村正和、長山藍子、山岡久乃ほか。監督の五所さんはインタビュウに次のように答えています。「東京映画から一本やれと言ってきまして。テレビでやっているのを映画にするのはいやなのだけど、映画のほうが面白いということを見せようと思って。これを引きうける理由のひとつとして、池内淳子さんと、いちどやってみたいという気持ちがありました。(中略) ひとつ、やってみようじゃないかと。」(*4) なるほど意気込みが伝わって来ます。緩急自在で軽妙、それでいて湿度もほのかにあります。楽しみました。この映画で「女と味噌汁」に逢えてほんとうに良かったな。
(*4):「お化け煙突の世界 映画監督五所平之助の人と仕事」 佐藤忠男編 ノーベル書房 1977 215頁
(*5):「女が通り過ぎる」 虫明亜呂無 「仮面の女と愛の輪廻」 清流出版 2009 所載。初出は「小説新潮」1969 4月号。 

2009年5月30日土曜日

舛田利雄「赤いハンカチ」(1964)③~人身御供となって~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。
   私のおみおつけ、とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」




 なんとなく腹の収まりが悪い。

 二谷英明演ずる石塚という元同僚は悪い奴で、裕次郎を罠にかけた上に密かに恋焦がれているルリ子と結婚までしてしまいます。淡い夢を粉微塵にされた裕次郎が憤懣やるかたないのは当然と言えば当然なので、復讐の刃(やいば)を研ぐのは理に適っているけれど、どうしても気になるのは“4年後の現在”の二谷の職業が“スーパーマーケットの経営”と設定されていることです。これは一体全体どうしたことだろう。


 僕はスーパーマーケットに直接関わる人間じゃないけれど、身近にたずさわる人を数多く知っています。とても地味な職業で満足に休日も取れませんし、根気と体力が必要です。ですから、そこで働く人たちを悪く見ることが出来ない。懸命に小売業に邁進して見える二谷という男に不器用さ、実直さ、コンプレックスを読み取り、シンパシーを感じてしまう。ルリ子を愛し抜いている、彼女の為に王国を少しずつ築こうとしている、その熱い恋情が時折言動にあふれ輝いて何度かほろりとさせられもします。

 闇の世界に通じ、自分の暗い過去を探ろうとする人間を保身の為に殺していく罪は確かに重いのですが、それでも勧善懲悪的な結末には首をひねってしまいました。どうして二谷がヤクザの親分とか悪徳不動産王でなく、スーパーマーケットの社長であるのか。

 先日、とある会合で、関東で店舗展開する「サミット」の元社長さん、荒井信也氏の講演を拝聴することが出来ました。荒井さんは作家でもあり、伊丹十三監督が「スーパーの女」(1996)を製作するきっかけとなった本(*1)を執筆しておられます。1934年生まれですから石原裕次郎の三つ下で、完全に彼と同世代であったわけですね。お話は日本におけるスーパーマーケットの生い立ちと将来についてでしたが、「赤いハンカチ」の背景がよく分かり疑問がみるみる氷解していきました。



 ルリ子と裕次郎を奥に配して、二谷の亡き骸が眠る墓がラストシーンで映されます。そこに突き立った白く真新しい卒塔婆に書かれた墨文字からも判りますが、映画は昭和38年(1963)を舞台としています。裕次郎が事件の参考人(ルリ子の父親)を誤って射殺してしまった“4年前”の事件とは、だから1959年に起きた計算になりますね。荒井氏のお話によるとさらに遡って3年前の昭和31年(1956)に“百貨店規制法”、正確には“第二次百貨店法”が制定されたそうです。中小商業者の保護のために新規出店や増床を禁じたと捉えられがちですが、業界をよく知り、同時代に生きた荒井氏の見方はもっと多層を含みます。

 中学、高校の卒業式で先生に言われた言葉を、荒井氏は鮮明に思い出すそうです。資源のない日本は働いて働いて、どんどん輸出して外貨を稼がないと駄目になってしまう。だから君たちもしっかり働くひとになってください──。こればっかりだったんですよ。

 そんな空気の中でこの規制は施行された。一般庶民の“ぜいたくを抑止する”ための政策だったのです。消費に耽溺して労働を厭えば、たちまち製造効率は落ちて外貨獲得の勢いも衰えてしまう。まだまだ外貨を蓄積しなければならぬ。享楽に身をゆだねてはならない、もっともっと働きなさい、と、国は大衆を押さえ込もうとして百貨店を忌み嫌った、というのが荒井氏の分析です。

 そう言えば劇中、身も心もすべてを捧げようとベッドで横たわるルリ子に対し裕次郎は、「今はその時ではない」と怖い目をして呟きました。ふたりは遂に身体を重ねることなく、異様なストイックさを保持したままホテルの部屋を後にしますが、この辺りの頑固なまでの自律、自戒の面影は“百貨店規制法”が施行された時代背景と無関係ではないわけです。

 しかし、もはや戦後ではないと考える“労働者”は、“消費者”たることを到底我慢し得ない、もう限界だったのです。それに応えたのがスーパーマーケットだった。「売り場を各系列企業のテナントが運営する形で規制を逃れ、大規模な店舗面積で出店するケースが増えた。これもデパートと呼ばれる場合もあり(その場合、あまり百貨店とは呼ばれない)、デパートとスーパーという用語の境界が不明確となった」(*2)

 その代表が中内功氏を統帥とするダイエーであり、1961年に日本最大の売り場面積1000坪を擁する三宮店を作り上げました。(この2階建ての店舗が今日のGMSのルーツだったわけね。) 本来は日常品、主に食品ばかりを取り扱う“市場”であったはずなのに、百貨店法の裏を潜って大衆の希望に応えていった“スーパーマーケット”は“非日常”を演出する衣料品、化粧品もふんだんに陳列していく。

 1959年に北海道のダム建築現場や漁港へと自罰の行脚(あんぎゃ)に旅立って、1963年に横浜に浦島太郎となって裕次郎は戻って来た訳ですが、そこで1961年頃から続々と建設された(デパートの形をした)スーパーマーケットを知り、群がる“消費者”を目の当たりにする。なるほど、そう言われてみれば、映画の中で二谷の店が画面に映し出されたとき、そこは食品ではなく婦人服の売り場でした。コートを品定めする御婦人たちで混雑した風景は、当時は奇異に映ったのですね。あたかも蜜の滴る花弁に群れ狂える蝶々に見えた。

 「しっかり働くひとになってください」と教えられ、それを信じて来た裕次郎の目にはどうしても“堕落や油断”に見えたことでしょう。ミンクのコートを着て歩き、高級車で走り回るルミ子を「違う、違う」と複雑な想いで見つめ、「今はその時ではない」と自制を促がす。そうして、消費文化の源泉であるスーパーマーケットと、その総帥である二谷に憎悪の念をたぎらせていく。

 つまり「赤いハンカチ」とは、時代の変革が教育にどれだけ影響を及ぼすか、そして教育が教え子にどのような変質を与え、苦悩をもたらすかを透かし彫りした社会的な作品だったわけです。敗戦による国家的損失を挽回するべく我慢に我慢を重ねることを学校で教わり、オリンピックと万博を目前にすると“消費は美徳”とがらり変質していく日本に対しての“戸惑い”が、映画の暗いトーンを決定付けています。




 だからこそ、裕次郎は“早朝”ルリ子に鉢合わせしなければならなかったのです。“豆腐屋の自転車”は偶然ではなく、呼び止める「おトウフ屋さぁん!」という涼しげなルリ子の声も必要不可欠だった。対面商売、それも客の元に自転車を駆って巡回する「おトウフ屋さぁん!」がセルフサービスを原則とするスーパーマーケットと対置されている。

 時代の狭間に立って大いに動揺し、自問自答する日本人を代表して裕次郎が描かれている。極めて庶民的、かつ国家的な問題を「赤いハンカチ」は根幹に据えて物語を編んでいたのですね。


 問題は「おトウフ屋さぁん!」に続いての“私のおみおつけ”です。おトウフだろうとお味噌だろうと、当初からスーパーマーケットでも陳列されています。にもかかわらず、「赤いハンカチ」では裕次郎が憎悪するスーパーマーケットに組みしない側、つまり、「今はその時ではない」と“労働にいそしむ側”に取り込まれてしまったように見えます。“労働、生産、倹約”といったものの象徴にされてしまっている。

 さらに言えば、裕次郎は再会したルリ子に対し、そのコートを脱げとか、その化粧を落せといった野暮なことは強いませんでした。今の美しく化身したルリ子を内心好ましく思っているからです。混乱を抱えたまま魂の決着が付かず、逃げるようにして彼女に背を向け“労働と生産、倹約”の大地に戻っていく裕次郎によって、今や“ぜいたく”を享受し得る体質となったルリ子がぽつねんと取り残されてしまう。この終幕の意味することは、作り手も飲み手もいなくなり、この「赤いハンカチ」(=日本人の思い描くドラマ)の世界から忽然と“おみおつけ”が失われたことを指し示しています。

 情念、恋慕の世界から味噌汁が遠く離れていったのは、日本人の多くが上記のような中途半端な空隙に“おみおつけ”を追い落としたせいでしょう。消費文化への転換に当たり、もしかしたら人身御供(ひとみごくう)が必要だったのかもしれませんね。


 以来今日まで映画、小説、漫画に“おみおつけ”の影はことさら薄く、時折現われても安定を欠いているように僕は感じています。

 とんでもない選択を日本人はしたのではなかったかと驚き、嘆息するばかりです。


(*1): 安土敏著『小説スーパーマーケット』(講談社 1984)
(*2): ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%99%BE%E8%B2%A8%E5%BA%97#.E5.87.BA.E5.BA.97.E8.A6.8F.E5.88.B6

2009年5月25日月曜日

石原裕次郎「赤いハンカチ」(1964)②~漂泊のはじまり~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。
    私のおみおつけ、とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」

 昭和39年1月に公開されたこの映画を、僕はリアルタイムで観ていない。だから、ここで年長の識者ふたりの意見を仰ぎたいと思う。テキストにするのは関川夏央(せきかわなつお)著「昭和が明るかった頃」(文藝春秋 2002)と、少し年数が経っているけれど矢作俊彦(やはぎとしひこ)の「複雑な彼女と単純な場所」(新潮文庫 1990)の二冊。筆者らの生年月日から足し引きすれば公開当時は十四、五の多感な時期であるから、さぞ思い入れも深かろう。
 
 関川は「赤いハンカチ」に「戦後社会と観客の変質」を読み取っている。昭和39年の公開当時、労働格差、生活環境の段差が加速度を付けて拡がっていた。物狂おしい渇望とその裏返しの憎悪が火勢を強めた野火のように表層化していく。そんな経済背景があっての怨嗟に満ち溢れた「赤いハンカチ」なのだから、当然ながら“私のおみおつけ”はヒロインの純真を描くという単純なものではなく、段差を浮き彫りにするために登用された象徴のひとつだったと位置付けている。
『赤いハンカチ』の前半で特徴的なのは、労働という観念、あるいは
労働者そのものへの強い憧れである。裕次郎が北海道を放浪する
肉体労働者となったのは、たしかに自罰行為ではあるにしろ、工場
で体を動かしているのが好きだといったルリ子と、遠く離れながらも
おなじ地平で立っていたいという願望の表現だった。


それは一方で「ブルジョワ的市民生活」への強い反感としてあらわれる。
その象徴がルリ子の(中略)毛皮のコートである。また彼女と二谷が
住む家のたたずまいである。


 “大衆”という一枚板に亀裂が走り、粉塵をばらばらとまき散らすような、べたべたと口中が苦いような、言い知れぬ不快感を混ぜ込んだ無数の視線がスクリーンを射抜いていたように読める。そういう生臭い解析は、同時代を生きた者にしか出来ないなぁ。


 一方の矢作は浅丘ルリ子演じる玲子という娘が内包する分裂や多層に着目し、「赤いハンカチ」とは社会変遷によって女性の意識、物腰が大きく羽化したことのひとつの顕現であったと断じている。


 「それまでの日本映画のヒロイン像から、あまりにもかけ離れている」玲子というおんなは時代のシンボルとして機能しているから、不自然でおかしな言動が目についたのだと書き留めていて、なるほどと感心する。手のひらでまさぐって得た触感の記憶を、そっと追想するようなやるせない分析であって、やはり同時代人のみが持ち得る意見だと思う。


自分のつくった食べ物を、それも味噌汁なんかを「とっても美味し
いんですよ」と言って、初対面の客に勧める日本人などいるだろうか。
男は、すぐさまそれを「いただきます」と受け取り、一口飲み、
「うまい!ヘソまであったまる」と笑い返す。すくなくとも昭和三十
年代、このやりとりはあまりに絵空、あまりに無国籍だった。
しぐさひとつにしても、この二人のそれは日本人から遠く離れていた。
彼と彼女の肉体がなければ失笑しか買えなかったろう。しかし、
事実、そこにあったのは、十三歳のガキにもぞくっとくるような
幸福感だったのだ。


 ここで彼らふたりの「赤いハンカチ」への(愛すればこその冷徹な)憧憬を“おみおつけ”という視座から見つめ直してみると、実は相当に哀しい気分に引きずり込まれてしまう。オリンピックと万国博覧会を目前とした“現在”ではなく、そこからさかのぼること四年という“過去”に“おみおつけ”は組み込まれている。

 その過去とは観客の目には「あまりに絵空」であった。郷愁に駆られて振り返りはしても、もはや生活の主軸ではない。理想と掲げたり、人生を賭して殉ずるには到底値しない。あたかも夢のようなふわふわと浮ついた「幸福感」でしかなくって、内心密かに渇望する「ブルジョワ的市民生活」とは相容れない。脇に追いやっていくべきものなのだ。フィクションに近しい存在だという「色分け」が、“おみおつけ”にしっかり為されてしまっている。


 裕次郎は自分を虜にした「おトウフ屋さぁん!」「私のおみおつけ」を、もはやルリ子に再現させようとしない。なぜ、あの時、彼女を固く抱きしめ、もう二度と離れるものか、おれのために“トウフのみそ汁”を毎朝作ってくれ、と言えなかったのか。「それまでの日本映画のヒロイン像から、あまりにもかけ離れている」浅丘ルリ子の成熟をよく認め、みそ汁を作らせる行為がもはや甘いフィクション、捨て去るべきフィクションだと気付いているからだ。


 けれども、だからと言って横浜に残って、彼女と共に豪奢な「ブルジョワ的市民生活」を目指すでもない。裕次郎はひたすら絵空の記憶に埋没するようにして、背中を私たちに見せて漂泊を開始してしまった。

 この時点をもって、日本人のこころから“おみおつけ”は乖離してしまった。彼と一緒に当て所ない漂泊を開始したのじゃないか、その漂うままに2009年の今もどこか彷徨って落ち着いていない、と僕は考えている。捨て去れないまま、胸の内に抱えながら歩いているように思う。



 そうそう、そういえば、三月末に頼んでおいたETC端末がようやく来ました。漂泊者の一員になって、北の大地を目的も半端に走ってみようか、と“絵空”に遊んでいるところです。





2009年5月24日日曜日

浅丘ルリ子「赤いハンカチ」(1964)①~わたしの“おみおつけ”~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。私のおみおつけ(*1)、
    とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」

 昭和39年1月に公開されたこの映画を、僕はリアルタイムで観ていない。“お味噌をめぐる対話”が綴じ込まれていると知ったのは二十年程前だったけれど、正直言えばそれまでは軽んじて、無視すらもしていた。拳銃だとか、麻薬だとか、美男美女の出逢いと別れなんて“絵空事”の極みであり、軽薄過ぎて観るに価しないと勝手に思っていた。

 
 今日久しぶりに観直してみたら、まるっきり印象が違った。年齢相応の修練をささやかなりとも積んだためだろう、一言一句が耳朶を打って痛い。ふらふらになった。





「遊侠無頼」の小川英、山崎巌と「狼の王子」を監督した舛田利雄が

共同でオリジナル・シナリオを執筆、舛田利雄が監督した歌謡ドラマ。

撮影もコンビの間宮義雄。



三上(石原裕次郎)、石塚(二谷英明)の両刑事は、兇悪な麻薬ルートを

追っていた。容疑者一味の内、唯一人の生存者である屋台の親爺、

平岡が現場で犯人に接したことから、平岡は警察にひかれた。

が三上らの峻烈な調べに対しても口を開こうとしなかった。護送中に

にげようとした平岡と激突した三上らは、誤って拳銃を平岡の胸に

発射した。過失とはいえ世論は三上らにきびしかった。

それから三年、三上は北海道のダム工場で働いていた。

一方神奈川県警の土屋警部補の訪問を受けた三上は、石塚が

平岡の遺児玲子(浅丘ルリ子)と結婚し、今は大実業家になっている

と知らされた。そしてその裏には三年前のあの事件がからまっている

というのだ。決心した三上はその謎を解くため、再び横浜に帰って来た。

(キネマ旬報データベースより)(*2)


 上記にある“三年”は“四年”の誤りだ。こう着状態で進展しない取調べの打開に向けて、早朝、平岡の住まう長屋を目指した裕次郎はそこで娘の玲子(浅丘ルリ子)と鉢合わせする。豆腐屋の自転車を呼び止める「おトウフ屋さぁん!」という涼しげな声と、これに続いての「私のおみおつけ」、不意に目に飛び込んだゴミか羽虫をハンカチで取ってくれた気遣いにすっかり魅せられ、強く惹かれる。その時の会話が最初に紹介したものだ。


 四年の歳月を経て再会したとき、裕次郎は自分を虜にした「おトウフ屋さぁん!」「私のおみおつけ」といった素朴な面影を見い出すことができずにショックを受けてしまい、悪戯に街の与太者たちと喧嘩を起こす。四年前の彼女との出逢いの場所を訪ね歩いては、独り懐旧に耽り続ける。




 おんなは成長していく、ということか。 「ティファニーで朝食を」(*3) 、「シャレード」(*4)なんかでオードリー・ヘップバーンが艶やかに装ったファッションを踏襲し、負けず見事に着こなしている浅丘ルリ子はほんとうに美しく成長してみせた。


 「赤いハンカチ」の二年前に公開されている「憎いあンちくしょう」(*5)が、“装わない”時期のいちばんハツラツとした浅丘が定着なったフィルムだと僕は思い、そんな彼女にも秘かにぞっこんなのだけれど、ここでの“装い”、陰影を深めた彼女の成熟はやはり素晴らしい。

 なのに裕次郎は自分勝手な妄念に固着し続けて「違う、違う」とかぶりを振って、記憶とのずれに悶えていく。振り返らないおんなと振り返り続けてしまう男……。男は救われない馬鹿な生きものだ、と思い知らされる。


 さて、ここで男の愚かさを象徴するかのごとき「私のおみおつけ」のイメージなのだけれど、単なる懐旧や純朴さの現われと割り切っていいものだろうか。


(*1) :おみ‐おつけ【御味御汁】「おみ」は味噌の意の、「おつけ」は

吸い物の汁の意の女性語。味噌汁をいう丁寧語。(Yahoo!辞書より)

(*2):「赤いハンカチ」キネマ旬報DBhttp://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=21282

(*3): Breakfast at Tiffany's 1961 監督ブレイク・エドワーズ

(*4): Charade 1963 監督スタンリー・ドーネン

(*5):憎いあンちくしょう1962 監督蔵原惟繕

憎いあンちくしょう キネマ旬報DBhttp://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=20787 

youtubeで観ることが出来る「憎いあンちくしょう」の浅丘ルリ子http://www.youtube.com/watch?v=iwyuhZhLG3U