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2010年6月24日木曜日

峰岸徹「遺品の思い出」(2009)~現場を盛り上げた~



「映画作りにはこれがないとダメだろう」。2005年夏、沖縄・宮古島を

舞台にした映画「太陽(てぃだ)」の製作が決まると、峰岸さんは

そう言って、プロデューサーの西初恵さんに手渡した。紅白のペンキで

塗られた手作りのカチンコ。驚く西さんを尻目に本人は、「おめでたい

じゃないか」と目を細めた。(中略)峰岸さんはこの映画に主演したほか、

照明助手を務めたり、ロケ先でスタッフにみそ汁を振舞って現場を

盛り上げた。(*1)



 峰岸徹(みねぎしとおる)さんを追弔する小文からの抜粋です。一周忌のちょっと後に新聞に掲載されたものですね。


 大ぶりのお鼻が特徴的でした。リノ・ヴァンチュラLino Venturaやジャン=ポール・ベルモンドJean-Paul Belmondoにも似た、あくの強い、こってりとした甘い表情が思い出されます。整った顔立ちから役柄は絞り込まれがちで、スクリーンやブラウン管の中で窮屈そうに見える時もありましたね。


 記事に取り上げられていた「太陽(てぃだ)」の予告編がウェブ上に見つかりました。世代的にいくらか気持ちが重なる部分があります。



 今にして振り返れば、おっとりした色彩や音色を提供してくれた得難い個性だったと分かります。こんなにも人は群れ集っているのに、代わりになれるひとは誰もいない。一人一人が島宇宙。思想、風貌、性格、記憶の組み合わせは宇宙でたったひとつです。大事にしないといけませんね。


 映画の撮影風景が当然ながら顔を覗かせます。体験したり何時間も見学させてもらってようやく合点がいくのだけど、映画作りとは忍耐がひたすら求められる場処であって、決して華やいだものとは言えません。長時間に渡って集中力を維持していくことは、なかなか容易なことではない。慣れないひとはいら立ちを隠せないで、次第に仏頂面になっていったりします。


 出番のない峰岸さんが少し離れた場所で“みそ汁”を作っていく。味噌と具材の香りが鼻腔を満たし、咽喉を駆け下って胃膜をやさしく覆っていきます。暖色の明かりが身体の中心に灯って、じわりじわりと四肢の末端へと伝播していく、その嬉しさ、その温かさ── 。


 そう言えば、バレーボールのプロチームを陰で支える管理栄養士の方の講演を拝聴する機会に先日恵まれましたが、単に栄養価という面のみならず、選手たちのメンタル面を整理し鼓舞していく上でも食事はとても大事だと力説されていました。


 根幹類、海藻類を多く含んだ“みそ汁”は、イライラする気持ちを抑えるには有効だとか。へぇ、そうなんだ。過酷な仕事の現場で振る舞われる“みそ汁”には、単なる腹の足し以上の役回りがどうやら期されている。

 “みそ汁”程度のものに何をまた驚いているの、と怪訝に思われそうだけど、実際のところ「そんな程度のもの」であることが“みそ汁”の露出をひどく抑制してもいるのであって、めくれどめくれど新聞紙面に載ることはあまりない。(料理レシピは別だよ) だから、かえって今のご時世では“みそ汁”の登用には意味深いものが感じ取れるし、送り手の作為や深意が読み取れたりするのです。


 「ロケ先でスタッフに“食事”を振舞って現場を盛り上げた」とは書かずに、「みそ汁を振舞って」と書いた執筆担当の石間さんの視線には“語り部”たらんとする傾きがあります。そして、記事を目にした読者の多くには峰岸さんの心の奥底にそっと触れさせてもらったような特別な感慨が宿るのだけど、そういった様々な反応も含めてこの小文は興味引かれるものでした。


  “みそ汁”とは精神の荒野に隣接した食べものであって、地味な存在ながらも同時に多数のひとの琴線に触れていく大したバイプレーヤー、つまりは得難い“性格俳優”であると感じるのです。紙面に載ったのは昨年の10月でかなり時間が経ってしまったのだけど、“みそ汁”への言及に不思議をふと感じてしまい、処分出来ずに机のうえに置かれたままだった、そんな切り抜きです。


 うん、捨てないで良かった。


(*1):讀賣新聞 2009年10月19日 追悼抄 下段
  「遺品の思い出 峰岸徹さんの手作りカチンコ」東京本社社会部 石間俊充 
   最上段の峰岸さんの写真も。

2010年1月25日月曜日

たかぎなおこ「ひとりぐらしも5年目」(2003)~禁断症状が出る~



基本的には和食が多い。

私はみそしる好きなので

2~3日飲まない日が続くと

禁断症状が出る。

「み~そ~し~る~  ゲホ……」(*1)


  上で紹介したのは、たかぎなおこさんの絵入りエッセイ本(ハウツウ本なのかな)からの一節です。三重の実家からひとり離れてのアパート暮らし。若い女性の暮らしにまつわる諸相があけっぴろげに語られていきます。


  不安と笑いに充ちた花の独身生活を誰もが一度は経験するものですが、たかぎさんの場合、その端緒に“みそしる”を渇愛して床をのたうち回るあられもない姿態が在ったのでした。“禁断症状”という表現が、なかなかウフフないい感じです。末尾の呻き声も意味不明ながらアクセントが利いていますね。


  たかぎさんはだから“みそしる中毒者”、なわけです。真面目に反応しちゃいけないのでしょうが、文字を読む限りではそうなります。“やめられない、助けて!みそしる中毒者の叫び”、“本誌だけが掴んだみそしる常習者裏相関図”、“わたしはこうして罠に堕ちた、みそしる依存の深い闇”、“危険な隣人、魔性のおんなはみそしるに身もこころも溺れ狂った”。


  それにしても“みそしる”に疼いちゃうって、ちょっと珍しい表現ではあります。依存食物(この言葉が正しいかどうか分かりませんが)の代表は言わずと知れたコーヒーでしょう。“コーヒー中毒”という表現はかなり定着して見えます。それからチョコレートなんかも一般的なのかな。しかし“みそしる”はあまり聞きませんよね。検索サイトで文字列指定にて調べてみれば、ずいぶんと奇特な存在だと分かります。(*2)


“チョコレート中毒”  155,000件 
“同 禁断症状”    219件 
“コーヒー中毒”    125,000件   
“同 禁断症状”    285件


  これに対して“味噌汁中毒”は86件、“味噌汁禁断症状”に至っては1件しか見つかりません。味噌汁には人間を依存症に陥れるだけの劇烈な成分は含まれず、僕たちの動作を縛ったり拘引するものでは決してない。味噌汁依存が幻影ということは明々白々です。


  だからこの「み~そ~し~る~ ゲホ……」のコマは受け狙いで滑り込まされたに過ぎない訳ですが、それでは、たかぎさんの眼差しや囁きは何もかも絵空に過ぎないのかどうか。もちろん床を這い廻る動作を真に受ける人は誰ひとりいません。誇張されたあり得ないものとして誰もがエヘヘへ、と口角を上げていく次第なのだけれど、さてさて、僕たちの胸の内にあえかな共振、体感出来ない微震は起きていないものでしょうか。


  たかぎさんご自身のホームページがありますね。http://hokusoem.com/
  上の本以外は読んでいませんし、僕の性別や年齢、環境から言ってもたかぎさんの本に今後触れていくことは予想できませんけれど、この書籍の数や奮闘ぶりを見ると相当な人間観察の達人であられるような気がします。


  2003年に初版が出されたこの冊子ですが、僕がブックオフで見つけたのは2008年の、実に15版のものでした。幼少年時のインプリント(刷込)が希薄になり、徐々に“みそしる”から縁遠くなっていく若い人が増えていく時流にあって、こうした本が版を重ねていくことは極めて面白いことだと思っています。食物に限定して書いたものではないにしろ、呪縛というのか信仰と呼ぶべきかよくわかりませんけれど、“みそしる”の根の深さとずるずるの絡み具合を指先に感じます。作者もその事をよく解かった上で、読者に仕掛けてきているように思えます。


  身体を左右するでもなく、依存症を招くでもないけれど、何かふわふわと漂いまとわり付き振り払えない、“みそしる”の雲が僕たちを包んでいるように思えます。


(*1):「ひとりぐらしも5ねんめ」 たかぎなおこ メディアファクトリー 2003
(*2):ちょっと長い蛇足です。

  食べものって人によって嗜好が千差万別で本当に面白い。医療関係者は危険を訴え、教育者は大いに嘆くわけだけれども、偏食の域に突入しての悲喜劇はほど、はたで見ていて可笑しいものはありません。僕もチョコレートにはハマル性質(たち)で、もう駄目、逃げられなくなります。特に某メーカーの某チョコの前では憐れ虜囚の身に成り果てるのです。


  脳のゼラチン皮質が湿り気をじゅんじゅん増していくような、口腔から喉、胃の腑に至るピンクの粘膜がべったり、ねとねとに蜜に染まっていくような、血が酩酊してぺたぺた粘りを増すような、そんな生理的な充足感やよろめきに浸かりながら過ごす隙間の時間は、やっぱり嬉しく何ものにも代え難かったりするのです。生きていることの実感をふんわり認識させもします。ちまちまと平均的にものを食べ出すと、何か大事なものを置き忘れていくような、穴の開いた靴下を履いているような、変な消沈感が憑いてしまうような気がします。


  自己弁護かもしれないけれど、そういった性癖を持つひとの方が不思議と生き生きとして見える、そんな気もいたします。送られてきた果物なんかを延々食べまくり、あれよあれよと言う間に箱の中身全部を平らげてしまう、そんな偏食、暴食の場景に遭遇すると、人間って実にたくましいしエネルギッシュな生きものだと思うものです。


  聞いた瞬間に耳を疑ってしまうものもマレにありますが、モノは試しと付き合って口に放り込み、舌の上で転がしていると不安や疑問は氷解する、どころか、地平線がするすると広がっていくような爽快感が飛び出しても来ます。音楽もそうですが、味覚や嗅覚も“新たに知る歓び”って、かなり突き抜けたものがありますし、相手と深く結び付いていくような、内側から重なるイメージも心を急速に温めますね。


  食にそんな悦びをそっと見出してしまうのは、僕がそろそろ整理整頓の年齢に入った証拠かもしれません。机の上やベッドの脇は乱雑なままですが、身体とこころが求めるものが、幾らかすっきり背表紙を揃えていき、きれいに書棚のなかに収まってきた感じをこのところ受け止めています。

  歳をとるって、やはり悪くないものです。(う~ん、ちょっとやせ我慢。)

2009年11月2日月曜日

ローズ・ジョージ「トイレの話をしよう」(2009)~ギジオブツ~



  ゴーリーはどれにも満足しなかった。最後に、だれかがあるメーカーの味噌を

買ってきた。見た目も、浮き方もぴったりだと考えたのだ。「人の便を触って

調べたわけではありませんよ。社員のなかに子持ちの者が何人かいて、彼らが、

密度も、水分の含み具合も本物らしいと判断したのです」(中略)


  ゴーリーのほうは、テスト媒質を改善する必要があった。味噌ペーストは、

密度や重さの点では申し分なかったが、便器が汚れるし、再利用できないという

欠点があった。そこで技術者が「コンドームに砂を入れてはどうです?」と提案

した。砂は、便とは似ても似つかないが、この言葉をきっかけに、ゴーリーはある

ことを思いついた。そして、潤滑剤を塗っていないコンドームを一箱買って研究室

に戻ってきた。同僚たちは懐疑的だった。「それじゃあ強度不足じゃないか、

と言われました」。そこでゴーリーは、コンドームに味噌を詰めて壁に投げつけた。

強度は充分だった。(*1)



  何てこった、ああ、神さま、こんなところにも味噌が!

 日常の煩雑さを逃れて過ごす密やかなひと時を、さらにゆったり安穏としたものにするために購入した尾篭この上ない本であったはずなのに──。(そうさ、僕はお下品な話が大好きなのさ!)


 なのに、パンツを下ろし腰掛けてクスクスと笑いながらページをめくっていたら、突如味噌が顔を覗かせてしまうのです。もうビックリして引っ込んじゃったよ。


  カナダのウォーターエンジニアのビル・ゴーリーさんは水洗式トイレのメーカー別機種別の技能比較に長年疑念を抱いていました。使用される物体が“リンゴ”であったり“スポンジ”であったりして、現物とえらく乖離しているので正確な判断が付かないと考えていたからです。日本のメーカーではギジオブツ(擬似汚物)というものをかねてより使用し、節水や汚れの残存付着率を減らすことに心血を注いでいたのですが、北米においてはもってまわった上品な検査の仕方を長年変えられず、各メーカー品のどれもこれも改良が遅れておりました。


  ゴーリーさんと仲間は“現実的なサンプル”こそが改善の鍵と捉え、ギジオブツの製造に着目、仲間と共に試行錯誤を開始しました。そこに味噌が登場するのです。250gの味噌を詰めたコンドームは形状や弾力、浮力共に申し分なく、これが各社の便器の性能を客観的に見直す契機となって、飛躍的進歩を業界にもたらしたのです。


  ご承知の通り、今後世界は枯渇していく清澄な水をめぐって国家間、部族間の陰惨な紛争を繰り返すだろうと予測されています。改善が施されなかった古いタイプの便器では一度に使用される水量もたいへんなもので、不順な天候がもたらす一過性の水不足を解決するためにも、また、長期的な展望から言っても水洗トイレの改良が社会的に強く求められてもいました。段違いの節水を可能とする便器の改良にゴーリーさんの考案したギジオブツは貢献したのであって、その陰の主役である味噌は、人類を救い世界の環境を保守するという素晴らしい役割を担ったと言えるわけです。


  にもかかわらず、“クソミソ”という言葉がリアルな風景と共に目に浮かび、なんとも言いようのない複雑で重苦しい気持ちに僕はなってしまいます。ゴーリーさんの慧眼と実行力には感心し敬意さえ抱きますが、しかし、その発案はやはり海外の人のものだと感じます。


  もしかしたら日本のメーカーで使われているギジオブツだって、日本であるゆえに味噌と深い直接的な関わりがあるのかもしれず、ですからゴーリーさんの発案したものに難癖を付ける事は滑稽千万なことかもしれない。しかしながら、僕のなかでは良しとしない想いが強く湧き出してくるのです。何もそんな風に扱わなくたって、と思い、理屈が分かれば粘土だって良いはずなのに最後まで味噌にこだわり抜いていく、それがちょっと引っ掛かる。


  まあ、どうしようもないですね、仕方ありません。“クソ”と“ミソ”は誰の目にも似たもの同士に見えてしまうものです。国境を越え、人種を越えてこの連想は広がり留めようがないのです。


  改めて思うのは、味噌というものの不思議な多層性です。一方では母の味、郷里の味とすがり付かれ、片やクソの代用品としてコンドームに詰められ、壁に叩きつけられ、便器の穴にボトリと落とされていく。聖と俗を共に内包した極めて特殊な食べ物だということです。こんな食べ物は他にあるでしょうか。僕はざっと見渡す限り、こんなブレの大きなものはやはり味噌以外に無いように思います。

  
  それを毎日のように口に運ぶ僕たちも、ずいぶんと特殊な位置にいるようにも思います。


(*1):「トイレの話をしよう 世界65億人が抱える大問題」 ローズ・ジョージ NHK出版 2009 このギジオブツのことは、第一章に掲載されています。第二章以降は現在読み進めているところです。僕の通じは至極順調なのでトイレでは数行しか進めないからね、持ち出しました。いまは枕元に置いて丹念に読んでいます。また味噌が出て来たら報告いたしますね。尚、原著は2008年に上梓されております。