2010年1月6日水曜日

近藤ようこ「遠くにありて」(1987)~なにもかも違うのに~



拓「そんな先のことは、わかんないよ。

  それより おれ、腹へったな。」

拓の母「ああ、ごはんにしようね。」

朝生「お手伝いします!」

   湯気をあげる味噌汁の鍋。

拓の母「中山さん、味見してくれる?」

朝生「あ、はい。(味見しながら内心にて)
 
    うちとちょっと味つけが違う──

    やっぱり、ここはよその家なんだなあ。」

朝生「おいしいです。」

拓の母「よかった。これは、あたしがお姑さんから、

     習った味つけなんよ。あたしもこうやって、

     お嫁さんに伝えていくんだねぇ…」

朝生「(内心にて)わたし…この家の「お嫁さん」に

   なっちゃうのかなあ、なれるのかなあ。育った

   環境も、みそ汁の味つけも、なにもかも違うのに…

   ここは、よその家なのに。不安だ。こわい──」(*1)



  年が明けて、やたらと気ぜわしい毎日が続いています。学校や幼稚園など始まったところもあるようですし、世間というものは本当に休み知らずですね。止めようのない大河みたいです。


  こういう始動の時期はぼうっとする瞬間も増えて、ちょっとした事故も起こりがちではないでしょうか。僕も今朝、自宅内の階段をあやうく踏み外しそうになって冷や汗が出ました。どういう拍子にか、左足が二段一気に踏み降りようとしたんです。昨夜寝る前に観たフランス映画が残像となって眼の奥に蘇えり、僕を石畳の街並に立たせたようにも思えます。お馬鹿な左足が日に焼かれた白い石段を駆け降りたようにも思えます。不意を打たれて慌てました。皆さんもどうか気を付けて、時間に余裕を持ってお過ごしください。



  さて、今日取り上げるのは近藤ようこさんの「遠くにありて」です。今から二十年以上も前の作品なんですね。歳月の移ろう速さには驚かされます。


  学校を卒業した中山朝生(あさみ)は、実家にほど近い北陸の町で教師となって働き始めます。東京に残り小さな出版社で働く親友との会話にほだされ、ついつい自身の境遇を恨んでは再度の上京を夢見てしまう、そんな浮き足立った毎日を送っています。いつ辞表を出して職場を去ろうかと煩悶する様子は隠しようがなく、そんな情緒不安定気味の主人公を周囲は心配し、それとなく見守っていきます。


  なまぐさい人間模様を身近に捉え、胸襟を開いて回想や惑いを交感させるうちに心の表層を覆っていたとげとげしさは徐々に治まっていき、いつしか自立した世界を足裏に確信するようになる。少女からおんなへの(群像劇として見れば、さらにおんなから老女への)成長譚が物語の輪郭となっています。


  その中で “調理の味付け”にまつわる気苦労が彫り込まれています。同級生の西崎拓(たく)という青年も主人公を気遣う一人で、上に紹介した場景は酒販店を営む彼とその家族に招かれた際の断片です。味噌汁を巡る会話が突如はじまるのですが、それにしても典型的に過ぎるのじゃないか、いかにも、といった台詞が並んでいました。
 

  ひさしぶりにこの作品を読み返し、正直言えばずいぶんと醒めた思いを抱きます。二十歳過ぎの娘の一見すがすがしい“せせらぎ”に似た日常を目で追いながら、うまく懐柔されちまってお馬鹿さんだなあ、と可哀相な気持ちに今の僕はなってしまう。


  ひとの精神の懊悩は死ぬまで整理のつくものではないし、突如おし寄せる潮津波(しおつなみ)に思考を遮られ、渦に巻かれ砕かれて見るも無残な藻屑になってしまうことだって往々にしてあり、そうともなれば相当に苦しい。


  けれども、そんな感情の濁流ポロロッカこそが“生きている”ということの嬉しさと愛しさの根源なのだ、と、反撥する思いがやはり湧いてきて、悪戯に安定を望んで答えを急ごうとする「遠くにありて」の登場人物たちにしっくりとは寄り添えない自分を見つけてしまうのです。(*2)



  例えば似たような料理の描写が里中満智子さんの作品(*3)にも見出せますので、これを並べてみればいいのです。湯気上がる鍋があって味噌汁がことこと煮られているし、主人公は憂いを含んだ眼差しを整った面立ちに宿していて、ふたつの作品はここだけ切り取れば似た色彩を放って見えるのですが、内に潜むものはまるで正反対となっています。


  旅先で偶然に出会った病身の陶芸家を看護するうちに、予定調和ばかりを追っていた自分自身の人生に疑問を抱いてしまうという内容で、「遠くにありて」とは物語のアウトラインが対照的な作品です。主人公(早苗という名です)──の憂いの中には「遠くにありて」での「よその家」に来ている不安は露いささかも無い。




  僕がここで興味を引かれるのは、里中さんの作品においては“味つけ”への気兼ねが一切生じていないということなんです。気持ちが翻弄されてそのまま卒倒すらしかねない近藤さんの作品との段差はどうしたことだろう。

 
  知り合ったばかりの男の家に上がり込み、一切の気兼ねなく料理を提供する早苗というおんなは気の回らぬ馬鹿でしょうか。違いますよね。恋情の本質を突いているのではないかと、僕はふたつの作品を面白く見比べます。


  一方が一方に“かしづく”ということでなく、異質なるものを取り込み、その混濁をも楽しむ余裕こそが恋情という調理の味付けであることを、里中さんのおんなの体現する怒涛の勢いが僕たちに物語っているように思えます。




  ふたつの物語に描かれた二人のおんなの道程は、どちらも現実といえば現実、理想といえば理想。人生の最大振幅を具現化したものでいずれも実相をよくとらえて見えます。近藤さんのおんなと里中さんのおんな、二極の間を行きつ戻りつする、まるで振り子みたいなものが人生かもしれないですね。ひとの多くはそんな存在、振り子時計ではないのかな。僕だってそう。ほんとうは偉そうなこと、人様に言えやしないのです。


  さながら味噌汁は、振り子時計の上部に付いた機械仕掛けの鳩という訳です。恋情のある局面で急に存在感を露わにし、不思議な調べを奏で始める。ちがう、ちがう、ちがう、と唄い出す。いや、同じ、同じ、同じ、でしょうか。どちらにしても音階は狂っている。恋と愛としがらみの中で出番をひそかに待ち続けて、今夜も味噌汁はどこかの食卓で発声練習に励んでいるのです。


(*1): 「遠くにありて」 近藤ようこ 初出は「ビッグコミック」小学館 1987-1991
(*2): もちろん、近藤ようこさんの作品は読了後に硬いしこりを残すものが多いですし、この作品が描かれた時代は虚飾に踊ったバブルの頃と重なります。よくよく承知の上で逆説的な顛末をあえて描き進めて、浮かれる世間に挑んだというのが本当のところでしょうね。
(*3):「古いお寺にただひとり」 里中満智子 初出は「別冊少女フレンド」講談社 1976

2 件のコメント:

  1. バブル期に青春時代を過ごした人間にとって、朝生のような生き方はある意味うらやましいです(笑)
    里中満智子さんのヒロインは官能に流され易いくせに、いつも内省的でイライラするんですが(笑)両方とも女の属性をよく表してますね。
    しかし、「別冊少女フレンド」向きの内容だったのか!?と仰天してます……読んでみたくなりました(笑)

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  2. 分かったふりして書くと叱られそうですが、“内省的”というより“内観的”とでも言うか。省みるということよりも前を向いて踏み出す姿勢に圧倒されてしまいます。

    この頃の里中さんの作品は髪の毛や瞳の描線が繊細で、これまた圧倒されてしまいます。畏れ入りました。。

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