2010年1月12日火曜日

矢作俊彦「ボウル・ゲーム」(1992)~思い出してみろよ~



「どんなものかなあ」
 
  首をひねって、スペイン語に変え、店員に短く訊ねた。

  相手が答えると、また大真面目に頷き返した。

「ジェリーがシェルになるのにエネルギーを使うんだとさ。

くたくたに疲れて、栄養も旨みもあったもんじゃない」

「ミソ・ナベにするなら、かまやしないよ」

「ミソ・ペースト!」

 ムン・タイが、顔を歪めた。それから、教会の壁に殴り書き

 された四文字言葉を読みあげるように、低くゆっくり繰り返した。

「ミソ・ペースト!───キャロラインがどれほど嫌っていたか思い出してみろよ」

「ジョージは大好物だ」

 彼は、うんと狷介な気分に駆られて言った。

「ジョージがミソ・スープを旨そうに啜るところを彼女に見せたら、

 今夜はちょっとした展開になるような気がしないか」

「彼女は、匂いを嗅いだだけで帰っちまうよ。ドアを開けるだけさ。

 玄関にだって上がりゃあしないよ」(*1)


  暑気払いに鍋大会(ボウルパーティ)をしようということになり、主人公とその友人が買い物にいそしんでいます。ふたりが歩く通りや河、公園の名前がところどころで提示されており、どうやらニューヨークのダウンタウンが舞台なのだと分かります。ちょうど鮮魚店の前に来たところです。鍋にぶちこむワタリ蟹を吟味しながら、さらに会話が弾んで行きます。


  ムン・タイという名の友人と連れ立って歩く“彼”は、お喋りの端々から私たちの同胞なのだと知れます。キャロラインという妙齢の婦人に気があるのだけれど、なかなか格好良いところを見せられずにジタバタしている毎日です。そこにジョージという恋敵の出現も重なって、胸中さすがに穏やかではありません。夜毎に眺めては心ひそかに愛でていた白い月影が、黒い雲に遮られ目の前から消えようとしている、どうしよう、どうしよう。


  ジョージの足を引っ張るためにミソ・スープをパーティに用意し、ミソを毛嫌いするキャロラインの目の前でズルズルと呑ませることに成功するならば、きっと彼女も妄執から覚めるに違いない、そんな奸計をめぐらすのです。本当に恋に狂った男ってやつは救いようのない馬鹿ですね。そのくせミソ味こそが鍋の王道とばかりに固執して、歩道を跳ね回っているのは他ならぬ“彼”な訳ですから、奇怪この上ない展開です。


  こころ寄せる異性はどうやら最初から“彼”など眼中にないのですが、外貌やら文化やらの見劣りを勝手に意識しては頭に血が上り、コントロールをすっかり失っている。ちょっと捨て鉢となっている感じもします。世界と対峙した際に急激に膨張していく自意識は、誇りと自嘲で十文字に裁断されて無惨にも分裂していく。自虐趣味がフルスロットルです。


  この「ボウル・ゲーム」においては舞台をわざわざ国際都市に選んだ上で、孤高に埋没する滑稽な男の姿を矢作俊彦(やはぎとしひこ)さんは描いています。自分たちの世代と子供たちとの間に横たわる裂け目に味噌汁を配置し、それを国境線に例えて戯画化したことが別な小編(*2)にてありましたが、“彼”の自意識過剰な内面を如実に引き立てていくミソ・スープは、ここでも色々な境界上に置かれて見えますね。ねちっこい作為を感じ取らないわけにはいきません。


  さて、矢作さんが味噌汁を意識的に登用しているらしいことは分かりましたが、ここで作品から外れてちょっと考えてみましょう。この小編を笑えるひとは、一体どのくらい今の日本にいるものでしょう。


  僕も読んだ当時(18年も前になります!)は、そのくだらない展開、余裕のない“彼”の漫画じみた言動やミソ・スープへの執念を大いに笑ったものですが、それは年齢的に作者と重なる光景を幾つも抱えていたせいでしょう。同じ記憶なり似た食生活を共通項として持つ者として、共振し、揺さぶられるものがあった訳ですが、はたして現在、そして今後は同じような共鳴へと新たな読者を誘うものでしょうか。なかなか難しいような気が僕にはします。


  赤ん坊の時期に食べたものが人間の嗜好を決定付け、生涯に渡って拘束するということは栄養学者も言っています。インプリント(刷込)と呼んでいますね。その観点から言っても味噌汁を日常とらない人が増加していくことは、この飽食の時代においてはごくごく自然な流れです。ほとほと食べ飽いてしまって、というのではなく、幼い時分の暮らしぶりから無理なく味噌汁をとらない人が僕の知るなかにもおられます。多種多様な食事の前にインプリントの濃度は薄まり、自ずと各人を縛る強さは弱まっていくわけです。


  そのような捕縛を逃れて因習から解き放たれた人が、ジャンクフードに囲まれた不健全な食生活を送っているかと言えばそんなことは全然なくって、実際、僕の友人なんかは栄養面での気配りは平均以上だったりします。食べるときは豪快そのもので、バリバリ野菜を口に放り込んでは実に美味しそうなのです。見ていてこちらにも精気が宿ってくる感じなのだけれど、そんな様子を見ていると味噌汁は世界の片隅の偏狭な地域でしか通用しない、それも膨大なメニューのなかの選択肢の一部に過ぎなくって、既にこの列島に集う住民全般の共通項ではない、そんな印象を実感として持ちます。


  であれば、今後味噌汁は“違ったもの、異質のもの”の象徴としてのみ取り上げられていくのが宿命なのかもしれませんね。異国の地でミソ・スープに拘泥して友人をゲンナリさせる「ボウル・ゲーム」の“彼”を理解できなくなった「味噌汁嫌いの読者たち」は、物語に自分たちを投影させて遊ぶ余裕はきっとないでしょう。



  その時は、別な顔付きの別方向からのお話が編まれていくのかもしれませんね。いや、もうそれは始まっている気もします。僕のやっていることは解散が決まった組織の残務整理みたいなものかもしれません。


  今年の成人式の参加者は遂に全員が“平成生まれ”となった由、時代がどんどん移ろい行くことを感じますね。晴れ着で着飾った娘さんたちを運転席から眺めながら、不安と可笑しさのない交ぜになったものを感じます。いつか彼女たちが此処ミソ・ミソを覗いたとき、日々僕の書き連ねている言葉は魔女の呪文のようなものか、古代文明の象形文字に映るのかもしれない。う~ん、まあ、いいさ、それはそれで仕方がない。


  固定概念に縛られず、いたずらに内省的にならず、時流に乗った判断と動作を心掛けないといけませんね。それは確かに思います。思考は思考、日常は日常です。さあ、仕事に戻らないと!日常はどんどん面白く、ちょっとだけでも素敵な方へと変えていこう。そう思います。


(*1):矢作俊彦「ボウル・ゲーム」 初出不明。「東京カウボーイ」新潮社1992所載につき、執筆年を1992年ととりあえずしておきます。
(*2): 矢作俊彦「スズキさんの生活と意見」 1992
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/07/1992.html

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