2010年1月25日月曜日

たかぎなおこ「ひとりぐらしも5年目」(2003)~禁断症状が出る~



基本的には和食が多い。

私はみそしる好きなので

2~3日飲まない日が続くと

禁断症状が出る。

「み~そ~し~る~  ゲホ……」(*1)


  上で紹介したのは、たかぎなおこさんの絵入りエッセイ本(ハウツウ本なのかな)からの一節です。三重の実家からひとり離れてのアパート暮らし。若い女性の暮らしにまつわる諸相があけっぴろげに語られていきます。


  不安と笑いに充ちた花の独身生活を誰もが一度は経験するものですが、たかぎさんの場合、その端緒に“みそしる”を渇愛して床をのたうち回るあられもない姿態が在ったのでした。“禁断症状”という表現が、なかなかウフフないい感じです。末尾の呻き声も意味不明ながらアクセントが利いていますね。


  たかぎさんはだから“みそしる中毒者”、なわけです。真面目に反応しちゃいけないのでしょうが、文字を読む限りではそうなります。“やめられない、助けて!みそしる中毒者の叫び”、“本誌だけが掴んだみそしる常習者裏相関図”、“わたしはこうして罠に堕ちた、みそしる依存の深い闇”、“危険な隣人、魔性のおんなはみそしるに身もこころも溺れ狂った”。


  それにしても“みそしる”に疼いちゃうって、ちょっと珍しい表現ではあります。依存食物(この言葉が正しいかどうか分かりませんが)の代表は言わずと知れたコーヒーでしょう。“コーヒー中毒”という表現はかなり定着して見えます。それからチョコレートなんかも一般的なのかな。しかし“みそしる”はあまり聞きませんよね。検索サイトで文字列指定にて調べてみれば、ずいぶんと奇特な存在だと分かります。(*2)


“チョコレート中毒”  155,000件 
“同 禁断症状”    219件 
“コーヒー中毒”    125,000件   
“同 禁断症状”    285件


  これに対して“味噌汁中毒”は86件、“味噌汁禁断症状”に至っては1件しか見つかりません。味噌汁には人間を依存症に陥れるだけの劇烈な成分は含まれず、僕たちの動作を縛ったり拘引するものでは決してない。味噌汁依存が幻影ということは明々白々です。


  だからこの「み~そ~し~る~ ゲホ……」のコマは受け狙いで滑り込まされたに過ぎない訳ですが、それでは、たかぎさんの眼差しや囁きは何もかも絵空に過ぎないのかどうか。もちろん床を這い廻る動作を真に受ける人は誰ひとりいません。誇張されたあり得ないものとして誰もがエヘヘへ、と口角を上げていく次第なのだけれど、さてさて、僕たちの胸の内にあえかな共振、体感出来ない微震は起きていないものでしょうか。


  たかぎさんご自身のホームページがありますね。http://hokusoem.com/
  上の本以外は読んでいませんし、僕の性別や年齢、環境から言ってもたかぎさんの本に今後触れていくことは予想できませんけれど、この書籍の数や奮闘ぶりを見ると相当な人間観察の達人であられるような気がします。


  2003年に初版が出されたこの冊子ですが、僕がブックオフで見つけたのは2008年の、実に15版のものでした。幼少年時のインプリント(刷込)が希薄になり、徐々に“みそしる”から縁遠くなっていく若い人が増えていく時流にあって、こうした本が版を重ねていくことは極めて面白いことだと思っています。食物に限定して書いたものではないにしろ、呪縛というのか信仰と呼ぶべきかよくわかりませんけれど、“みそしる”の根の深さとずるずるの絡み具合を指先に感じます。作者もその事をよく解かった上で、読者に仕掛けてきているように思えます。


  身体を左右するでもなく、依存症を招くでもないけれど、何かふわふわと漂いまとわり付き振り払えない、“みそしる”の雲が僕たちを包んでいるように思えます。


(*1):「ひとりぐらしも5ねんめ」 たかぎなおこ メディアファクトリー 2003
(*2):ちょっと長い蛇足です。

  食べものって人によって嗜好が千差万別で本当に面白い。医療関係者は危険を訴え、教育者は大いに嘆くわけだけれども、偏食の域に突入しての悲喜劇はほど、はたで見ていて可笑しいものはありません。僕もチョコレートにはハマル性質(たち)で、もう駄目、逃げられなくなります。特に某メーカーの某チョコの前では憐れ虜囚の身に成り果てるのです。


  脳のゼラチン皮質が湿り気をじゅんじゅん増していくような、口腔から喉、胃の腑に至るピンクの粘膜がべったり、ねとねとに蜜に染まっていくような、血が酩酊してぺたぺた粘りを増すような、そんな生理的な充足感やよろめきに浸かりながら過ごす隙間の時間は、やっぱり嬉しく何ものにも代え難かったりするのです。生きていることの実感をふんわり認識させもします。ちまちまと平均的にものを食べ出すと、何か大事なものを置き忘れていくような、穴の開いた靴下を履いているような、変な消沈感が憑いてしまうような気がします。


  自己弁護かもしれないけれど、そういった性癖を持つひとの方が不思議と生き生きとして見える、そんな気もいたします。送られてきた果物なんかを延々食べまくり、あれよあれよと言う間に箱の中身全部を平らげてしまう、そんな偏食、暴食の場景に遭遇すると、人間って実にたくましいしエネルギッシュな生きものだと思うものです。


  聞いた瞬間に耳を疑ってしまうものもマレにありますが、モノは試しと付き合って口に放り込み、舌の上で転がしていると不安や疑問は氷解する、どころか、地平線がするすると広がっていくような爽快感が飛び出しても来ます。音楽もそうですが、味覚や嗅覚も“新たに知る歓び”って、かなり突き抜けたものがありますし、相手と深く結び付いていくような、内側から重なるイメージも心を急速に温めますね。


  食にそんな悦びをそっと見出してしまうのは、僕がそろそろ整理整頓の年齢に入った証拠かもしれません。机の上やベッドの脇は乱雑なままですが、身体とこころが求めるものが、幾らかすっきり背表紙を揃えていき、きれいに書棚のなかに収まってきた感じをこのところ受け止めています。

  歳をとるって、やはり悪くないものです。(う~ん、ちょっとやせ我慢。)

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