2010年1月12日火曜日

矢作俊彦「スズキさんの休息と遍歴」(1990) ~どれも夢の中~



  何一つ、夢は見なかった。眠りはとても深く、目覚めは唐突にはじまった。

ぱちっと目が開くと、もう手が2CVのドアを開けているといった具合だった。

だから、眠ったのではなく目を一回瞬いただけのようにも思えたし、前後の

出来事はどれも夢の中、たったいま、それから目覚めたようにも思えた。

  スズキさんは海に向かって歩いた。

  映画のスタッフは砂浜の焚火にかけた鍋をめぐって思い思いの格好で

寛いでいた。三脚の上で16ミリカメラがうなだれ、砂の上ではレフ版が朝陽を

いきおいよくはねかえしていた。ギャジット・バッグはどれも、即席の椅子や

卓子に変っていた。

  鍋ではミソ汁がぐつぐつ煮えたぎり、魚やエビやカニが、浮かんだり沈んだり

していた。一人の猟師が、近づいていったスズキさんにお椀一杯のミソ汁を

すすめた。一行の半分ほどは地元の猟師だった。見れば、すぐ近くに網が手際

よく干され、小舟が引きずりあげられていた。(*1)


  スズキさんが息子のケンタを脇に乗せ、北海道の留萌までひたすら愛車を駆るお話です。長時間の運転に疲れたスズキさんは運転席でまどろみ、夢かうつつか判然としないままに海岸を歩き始めます。かたわらにはミソ汁が現れます。 


  フェリーニの白黒映画(*2)のラストシーンを下敷きにしながら、旅の終わりを謳い上げています。政治と哲学をかつて夜通し語り明かしたおんな友だちとここで再会し、鳴り止まぬ波の音を背景として、実に穏やか大人の会話がくっきりとした輪郭で描かれています。往年の仏蘭西映画を髣髴させるものがあり、ちょっと素敵でしたね。漁師から差し出されたミソ汁も、思えばタルコフスキーみたいな詩的な波紋と湯気を具えて見えます。


  鍋では魚やエビやカニがぐつぐつ熱く煮えたぎり、浮かんだり沈んだり
していた。一人の猟師が、近づいていったスズキさんに暖をすすめ、
お椀に盛ってよこしてくれた。


  こんな風にせずにミソ汁、ミソ汁と連呼したことに、僕は矢作さんのこだわりを見出します。夢と現実の境界に、また、過去と現在の境界に矢作さんのミソ汁はあって、僕たちの深層に働きかけ、甘く、温かく捕り込もうとするのです。作為は明らかです。失われたものへの憧憬がミソ汁をアンプと為して増幅されています。


 
  映画の砂浜を参考までに貼っておきましょう。




  週末にでも車を飛ばし、日本海を見に行きたくなりました。冬のはげしい波と轟きを想います。


(*1):「スズキさんの休息と遍歴 または かくも誇らかなるドーシーボーの騎行」新潮社1990 初出は「NAVI」連載1988-1990 大幅加筆とあるから分類は1990年とした。(この本、好みが分かれるのでおすすめはしません。僕も最初からの再読はしていませんが、この浜辺のシーンだけは読み返しました。)
(*2): LA DOLCE VITA 監督フェデリコ・フェリーニ 1959

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