2010年11月26日金曜日

アンジェラ・カーター「花火 九つの冒瀆的な物語」(1987)~やりこなした~ 



わたしが帰化した街、トウキョウ。四年前はじめて訪れたわたしは、

二年間を新宿にある木と紙でできた家で暮らした。(中略)

わたしは米屋から米を買い、銭湯に通って、三十人もの女たちが

異国の裸身をつつましやかに見てみぬふりをするなかで、体を洗った。

お金があるときは刺身を、ないときは豆腐を食べ、いつも味噌汁を

のんだ。つまりわたしは、すべてをやりこなした。(*1)


 新聞の書評欄を見て以来、気にかかって仕方がなかった本を旅先の書店で見つけました。1992年に51歳で世を去ったイギリスの作家アンジェラ・カーター Angela Carterさんの短編集(*2)で、収められた九つの作品中三つが日本を舞台にしています。前述のリシャール・コラスさんの本がすこぶる面白かったものだから、ちょっと図に乗っているところもあるのです。海外文学での醤油、味噌の役割が気になりそわそわして頁をめくった訳なのでした。

 結論から言えば、印象深い記述は見当たらない。官能レベルでも文化レベルでも意味ありげに発信されているものは特段なくって、恋人とふたりして花火大会見物のため東京の郊外におもむいた際、道脇の屋台で焼かれていたイカを立ち食いする。その時塗られて匂った醤油の香味について、至極あっさりと述べられているだけなのです。


 小道に沿って屋台が出ていて、シャツを脱いで、顔に汗よけの

鉢巻きを巻いた料理人たちが、炭火の上でトウモロコシやイカを

焼いていた。私たちは串に刺したイカを買い、歩きながら食べた。

醤油をつけて焼いたもので、とても美味しかった。(*4)          


 ちょっと拍子抜けもしたのだけれど、巻末の翻訳者榎本義子さんによる解説を読んで得心するものがありました。カーターさんは1969年の秋以来、通算2年に渡って日本に滞在しているのですが、榎本さんは当時彼女が雑誌等に寄稿した小文などを丁寧にひもときながら、徐々に人間として、大人として、なにより作家として覚醒していく様子をしめしていくのです。とっても興味深い内容でした。


 冒頭取り上げた文章もそこで紹介された“エッセイ”の一部です。思いつくまま書かれたような言葉はハミングするようにゆったりして、目で追っていて本当に気持ちがいいのだけれど、ご覧の通り可愛らしい達成感とともに味噌汁がちょこんと顔を覗かせている。


 日本という不思議な国、カーターさんの表現を借りれば「まったく、完全に違うのです。すべてが同じですが、すべてが異なる」そんな世界に“最初に”踏み入れた際にそれなりの圧迫があったことがこの一節からだけでも読み取れますし、一種の関門として味噌汁は役割を果たしていたことは明白です。「いつも味噌汁をのんで」いくことが心理的に「帰化」する上で欠かせないものであり、日本で生きる印象を相手に説く上で口にするに値する存在なのだとよくよく認識してもいる。


 小説世界からそんな味噌や醤油が消失した経緯については勝手に類推するしかないのですが、二年間の滞在中、小説に登場したようなお相手も実際いたらしい。もはや彼女が目を凝らして覗き込む対象は日本という国全般ではなかったようなのです。数ミリ先の至近距離にあった。舞台上の立ち位置を示す“バミリ”となるのは直接的に恋人の皮膚や表情であり、彼の言動や物腰しであり、捕縛し続ける厄介な因習であったりするのであって躊躇する間はもうどこにもなく、血と涙を流し、唾や体液にまみれる肉弾戦の局面が訪れていた。


 耳奥にきりりきりりと弦の残響がのたうつような胸苦しい余韻に襲われる幕引きが彼女の小説にはしばしばなのだけど、同時に奇妙な安堵感も備わっているのはナゼなんだろうと考えてみると、それは、彼女が曖昧模糊たる魂の緩衝地帯を相当前に“横断し終えていた”からでしょうね。異邦人として外周に追いやられるのではなく、自分を世界の中心にしかと据えて、すべてを再構築していく。そんな悠々たる気概が伝わってきて気持ちがいいし、勇気付けられもするのです。地に下ろされた両足がぶれないことで、境界はすっかり消失されて見える。



 世界を分断して見える“境界杭”(醤油や味噌によって表されがちな)は、もうずっと遥か後方にあって意味のないものだった。隠喩に頼って言葉尻を合わせる段階はとうに過ぎていた。味噌汁椀の挟み置かれる隙間はどこにも残されていなかったし、醤油にしたって今さら取り上げるに値しないのでした。それはそれで気持ちのよい、いっそ清々しい(表現上の)訣別に思えて否定のしようがない、自律した素晴らしい世界としか言いようがない。


 お金のある無しに関わらず彼女の身近にあった味噌汁を思い描くとき、そしてそれを日々飲み干し血肉と化して世界と拮抗し、姿勢を整えながら勇猛果敢に躍進を続けたひとりの女性の一生に想いを馳せるとき、嬉しくって微笑みを禁じえません。魂に通じる素敵な味噌汁がここにはちゃんと記され、そして足音も立てずにそっと降壇している。気負いのない、分別のあるものが寄り添い見守っている。

 
 訳者の榎本さんが紹介してくれているカーターさんのエッセイは一部分に過ぎません。ウェブで蔵書検索をかけたら幸運にも見つかりましたので、今度のお休みにはひさしぶりに図書館まで足を運ぼうかと考えているところです。きっと元気がもらえそう。


(*1):「わたしの新宿」 アンジェラ・カーター 「文芸春秋」1974年5月号所載とのこと。うーん、全文を通して読むのが楽しみ。
(*2):「花火 九つの冒瀆的な物語」 アンジェラ・カーター 榎本義子訳 アイシーメディックス 2010 原著は1987年に出版されている。表題の年数はこれに由る。

購入してから気付いたのだけど、彼女の本は以前読んだことがありました。“青ひげ”などのおとぎ話を骨格にして描いたもの(*3)で、相当面食らったところがありました。現実と空想が波状になって仕掛けて来て、なんて自由な作風だろうと驚くと共に、木偶(でく)の坊で融通の利かない僕は途方に暮れて指が凍り付いた。ファンの方にはごめんなさい、それが本当のところです。その分今度の本で彼女がより現実の世界、それも日本と深く切り結んでいるらしいのが強く惹かれたし、考えさせられました。途方もなく奥行きのある人だったんですね。

決して読みやすい文章ではないのだけれど、その分、こころの奥の奥をまんま差し出されているような、それとも皮膚の内側に隠した温かい闇夜にすっぽり取り込まれているような居心地の良さが感じられて大そう面白かったし、有り難い感じを持ちました。肝胆(かんたん)相照らす類縁の友と、しっぽりお茶してるみたいな嬉しさがずっと僕のなかに有り続けました。彼女(等身大の自画像と思われる)の眼差しや見解に幾度も頷かされ、周囲の明度や冴度がすっかり上がったような真新しい気分になっていく。魅了されるひとが存外多いのも頷かされるところがあります。見事です、素敵すぎますね。カッコいい!
(*3):「血染めの部屋」 アンジェラ・カーター 富士川義之訳 筑摩書房  1999
(*4):「日本の思い出」 9頁

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