2010年11月2日火曜日

風のやうに



 来週、仕事ふたつが重なって、遠方まで足を運ぶことになりました。

 いや、強引に組み合わせてそうすることに“した”のです。関東の目的地Aから路線をたどれば、北陸の古都Bに至る。いつか顔出しをしなきゃならない、そう思っていた取引先が在りました。丁度いいタイミング、なんて絶妙の連結かしらんと思わず吐息も漏れちゃいます。ぽんと背中を叩かれた気分。


 旅程の立て方は綿密な方、と思う。これが見納めじゃないか、一期一会となって次の機会は巡ってこないんじゃないかと切迫するものが渦巻き、ついつい頑張ってしまう癖があります。分刻みで組んでしまわないとどこか落ち着かない。僕ぐらいの年齢に到達した人なら誰もが幾ばくかの“焦り”なり“渇き”なりと共に旅にいそしむのじゃあるまいか。そんなこともないかな。


 かけるべき費用は(湯水のごとくとはいかないけれど、気分的には無理なく)かけられるのだし、貧乏性というのとはちょっと違う。“時間貧乏”、そんな感じでしょうか。手間かけて丹念に練り上げたものなのに、旅客になってしまえばまるで頓着無くなってしまうのも不思議。ハプニングは当然付き物だと思うし、計画を変更して前後を替えたり端折(はしょ)ったりするのもいたって平気であって、かえってそんな突発的な波風を面白がってさえいる。あくまで「計画」の段階でとことん貪欲、狂ったようになってしまうのだけれど、最近特にその傾向がひどい。ウェブ検索に慣れ親しんでコツが呑み込めたせいもあるけれど、自分でも若干おかしい、病的に思える時があります。


 まあ、何となく解かってはいるのです。ぼんやりした空隙(くうげき)を作ってしまい、たとえばベンチで呆然と座ってみたり、ベッドで何することもなく寝転んでいるのがとてつもなくこわい。無性に空いちまった時間を怖がっている。彷徨(さまよ)うことは嫌いじゃないのに、迷子になるのが厭なのです。

 いわゆる“観光”からは距離を置こうとするのも根が小心なせいです。ずっしりとした収穫、ざらついた手触りが欲しくて続々と連結させていきます。非日常に耽(ふけ)るのでなくってあくまで仕事に絡めながら、また、友人知人との会話を懐かしく思い返しながら、あれもこれもと学ぶつもりでいる。どこに泊まるか、何を食べるか、空いた時間にこれを観れるか、あれはどうか、車中ではどれを読もうかと目の色変えて調べまくってしまうのだけど、来週についてはおおよそ日程を埋め尽くし、いまは泰然と構えているところ。実際の旅はどうあれ、嵐は一応過ぎてしまった。狂気は去れり、です。


 無数の若者のいのちを奪い去ったという山稜を目の当たりにすることも、帰路東京で三島由紀夫や澁澤龍彦と交錯した孤高の絵描きの作品群に小さな画廊で対峙出来るのも、水彩画の巨匠の個展に回遊して過ごすのも、いずれも隙間の僅かな時間で駆け足を迫られるだろうにしても本当に愉しみでなりません。起きる全てを意味あって誰かから施された善き時間、善きことと信じてみよう。細々(こまごま)したものを含む何もかもを深く噛み締めてみようと、じっと想いを凝らし黙考を重ねています。




 昨晩、もう初冬と呼んでもおかしくない凍て付いた夜気を裂いて、やわらかな雨が降り続きました。しとしとと屋根打つ雨音に沈降するようにして蒲団に埋まり、冷たい指先を這わせて竹久夢二の「風のやうに」「秘薬紫雪」(*1)を読了したのももちろん今回の旅行に関わるものがあるからなのだけど、そのような“曰く付き”のテキストでも読み始めてみれば新たに発見するもの、感じるものがあるのだから人生はまだまだ面白いと思います。夢二という男が等身大にようやく見えてきて、目からウロコが落ちた感じ。読んで良かった、そう仕向けてくれた旅行を有り難く思います。




 浪漫あふれる晩秋、皆さんも存分に楽しんでくださいな。
 

 素敵な時間を上手に紡(つむ)いでいってください。


(*1):「風のやうに」 竹下夢二 1964 龍星閣
    新聞小説二編が所載されており、「秘薬紫雪(しせつ)」は1924年、
   「風のやうに」も同年「都新聞(東京新聞)」に連載されたもの。

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