2010年11月4日木曜日

村上春樹(訳)「人の考えつくこと」(1991)~That’s just it~


 “By God,”Vern said.
 “What does she have that other women don’t have?” I said to Vern after a minute. We were hunkered on the floor with just out heads showing over the windowsill and were looking at a man who was standing and looking into his own bedroom window.
 “That’s just it,”Vern said.He cleared his throat right next to my ear.
 We kept watching.
 I could make out someone behind the curtain now.it must have been her undressing.But I couldn’t see any detail. I strained my eyes.(*1)


 友人に薦められて購入したものの、手に取れずにずっと枕元に置かれたままだった本があります。思うところがあって困難だったのですが、その外国の短編集を最近になってようやく読みました。レイモンド・カーヴァーさんの佳作を何篇か束ねたものです。中に「大聖堂」(正確には「大聖堂」という本に所載された短篇)があり、それが実に素晴らしい内容なのだ、きっと貴方も読んだ方が良いと薦められていたのです。翻訳を担った村上春樹さんの技量とセンスについても友人はそのとき褒めちぎったものでした。あのときの和んだ空気や笑顔をとても懐かしく思い返します。


 正月休みに幼なじみが会した酒席においても、村上さん翻訳のカーヴァー作品が話題になったことがあります(手掛けた全集が完結した頃ですね、たぶん)。天邪鬼の僕は流行りものを斜めに見てしまう癖がありますから、気にしつつもあえて距離を置いたところがあったのです。回りまわって遂に読んだ物語たちは予想を越えて胸の奥の奥までに跳び込み、照明弾のように僕の内部を明るくしました。幾らか消沈気味だった気持ちを見透かされて、救いの手を差し出されたような感じでいます。


 カーヴァーさんの描く人物は独特です。根っこから立ち上がっている。さらに言えば枝葉を繁らす前にざっくり剪定されてしまったような酷薄な面持ちを具えています。僕たち読者に対して虚勢を張る仕組み、花なり果実がまるで見当たらない。とことん“素”であり、だから放埓だし、だから軟弱だし、だから身勝手だし、劇中であまり成長しないのです。そして何より真剣です。そのように自然体で迫られてしまうと現実と物語の境界はたちまち消失し、彼ら登場人物の悲観や惑い、昂揚やささやかな願いといったものがあっという間に僕自身が抱えるものと融合していき、言い知れぬ心地よさから本を閉じられなくなってしまう。

 8冊の全集のうち現在4冊目を読み進めています。今度の旅の供もおそらくカーヴァー作品になるのでしょう。(うん、悪くありません。)

 上に取り上げた原文は“The idea”という作品の一節です。若い夫婦の住まう家の隣宅で奇妙なことが毎夜繰り広げられます。その家の主人が夜な夜な屋外にそっと出て来ては自分たちの寝室を覗き込むのです。カーテン越しに見るのはどうやら妻の姿態であって、彼女が着替えているのを見て、また見られることで夫婦は揺れるもの、不思議な高揚を吸収している様子です。若い夫婦はその痴態をあきれ返りながらも目を離すことがならずに、ずっとずっと見守っていくのでした。


 村上さんの訳はこのようなものです。


「まったくもう」とヴァーンは言う。

「あの女のどこがそんなにいいっていうのよ?」と少しあとで私はヴァーンに向かって


言った。私たちは床にうずくまって、頭だけを窓枠の上に出している。そして自分の家の

ベッドルームの窓の前に立って中を覗き込んでいる男の姿を見ていた。

「そこがミソなんだよ」とヴァーンは言った。私のすぐ耳もとで彼は咳払いをした。

我々はそのままじっと見物を続けた。

誰かがカーテンの向こうにいるのがわかった。彼女が服を脱いでいるのに違いない。

でも私には細かいところが見えなかった。私は目を凝らした。(*2)


 “That’s just it,”そこなんだよ、だからこそさ……声に出したは良いけれど、夫は次の語句を継げません。劣情や好奇心ともろに直結する言葉が首をもたげたのでしょう。不用意に口にしては波風の立ちそうな類いのそれを、配偶者の手前なんとか喉元で押し止めることに成功する。わざとらしい男の咳が、灯かりを消した暗い台所にこふこふと響いていく。


 意味深な“That’s just it,”を村上さんは「そこがミソなんだよ」と訳しました。もはや死語の領海、サルガッソかバミューダ・トライアングル(という例えも死語だよねえ)に幽閉されて久しい「そこがミソ」という言葉が、あろうことかアメリカの住宅地に突如出現したのが僕には楽しくてならないのだけど、これは違和感、上ずり感、ヘンテコ感を承知の上で(危険を冒して)採用しているに違いない。


 僕たちの日常の会話で(もしも、万が一)「そこがミソなんだよ」と言われたならどうなってしまうか。きっとくすぐったいような、鼻白むような奇妙な乾いた真空がぽつんと生まれ落ちて、しばしふたりの間に滞空するでしょう。相互作用せず十分機能しない、いわば壊れた表現になっているのが「そこがミソなんだよ」。


 刺激に溢れた今日の食生活において“ミソ”は味覚の奥深さ、嗅覚の深淵を司るキーマンたる位置を確保しにくくなっています。その流れに沿って失活してしまった過去の言葉として「そこがミソなんだよ」がある。村上さんは挿し入れることで生じてしまう“(逆)効果”を狙った上で、あえてこれを登用している。『1Q84』での味噌汁たちともどこか通底する村上さんらしい“ミソ”が湯気を立てて見えます。なかなかの荒技でしたね。恐れ入りました。



(*1):The idea Raymond Carver 1971
(*2):『人の考えつくこと』 レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 中央公論社 レイモンド・カーヴァー全集1「頼むから静かにしてくれ」1991 所載  表題の年数はこの全集発行の年にしてあります。村上さんが訳して最初にどんな雑誌に掲載されたものか分からないので、暫定的なものです。 





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