※Larry Crowne 監督 トム・ハンクス 2011
2012年5月12日土曜日
2012年5月9日水曜日
里羅琴音・Berry Star『銀のケルベロス』(2012)~猫まんましちゃだめ!~
ミドリ 「はーい 朝だよ さっさと起きる!」
沙紅耶 「うにゃ」
ミドリ 「だめだめ!とっとと… ちょっ…」
沙紅耶 「眠いよ─ あと10分…5分でいいから一緒に寝よう」
ミドリ 「あ た し も! 眠いのガマンして朝ゴハン 作ったんだけどな─」
沙紅耶 「ゴハン!」
ミドリ 「ほら 着替えた 着替えた(と身支度を手伝う)」
沙紅耶 「うーん… ぐるじい…」
ミドリ 「(傷が…)」(戦闘で負ったはずの傷が完全に癒えて見当たらない。)
ミドリ 「……ね ねえ サクヤの好きな玉子焼き お砂糖とお醤油の
作ったから食べよ ほら これ食べてさっさと学校行くよ」
沙紅耶 「いただきます」
ミドリ 「また─ 猫まんましちゃだめ!」
沙紅耶 「だってミドリちゃんのお味噌汁 こうするともっと美味しい」(*1)
(*1): 『銀のケルベロス』CHAPTER.6 naked ape里羅琴音 作 Berry Star画 「月刊ヒーローズ5月号」 小学館クリエイティブ 所載 2012
2012年4月24日火曜日
沖浦啓之「ももへの手紙」(2012)~わざと音を立てて~
止まった掛け時計の部屋で、ふたりは夕飯を食べ始めた。
おみそ汁とご飯。漬物と、おひたしと煮魚。ちゃぶ台の上の
夕飯は質素だ。お父さんがいたときは、もう一品か二品、
手をかけた料理が並んでいた。でもふたりになってからは
ぐっと品数が減った。お父さんが亡くなってからは、お母さんも、
ももも、しばらく食欲がなかったこともあって、自然とそうなった。
この島の買い物事情を考えると、この先もずっと食卓はこんな
感じなんだろうな。(中略)
「絶対なんかいるんだって」
「いません」
「いるよ!」
「いないのっ、もう、いいかげんにしなさい」
お母さんは食事の続きに戻った。ご飯をひと口食べ、
もうこの話は終わり、とばかりに、わざと音を立てて
みそ汁をすする。(*1)
(*1):「ももへの手紙」 原案/沖浦啓之 著/百瀬しのぶ 角川文庫 2012 67-68頁
2012年4月1日日曜日
「優雅な生活が最高の復讐である」(2012)

評論家 大宅映子
「両方でほんとに理想の住(じゅう)を演じていたのかな。
そのとき私はそうは感じなかったけれど、ただね、思ったのは──
たとえば彼女は自分の家(うち)で味噌汁なんかは絶対に
作らない、食べない。うちは味噌汁だとかお茄子の煮たのだとか、ね、
煮っころがしだとかやる家なんです。そうすると加藤さんが家に来て、
あの人京都でしょう、ハアッ、ほっとするなあ、こういう食べものって(笑)
言ったことあるんで、ああ、じゃあやっぱり苦しかったのかなあ、って
思いましたね。」(*1)
(*1):「優雅な生活が最高の復讐である 加藤和彦・安井かずみ夫妻最期の日々」 演出 大島新 脚本 横内謙介 2012年3月25日(日) BSプレミアム
番組放映は2012年であるが、安井さんと加藤さんの暮らしから味噌汁の排除された時期は1977年前後から安井さん永眠の1994年3月17日と思われるので、1970年代で一応分類。
2012年3月20日火曜日
三浦友和「相性」(2011)~そうやって徐々に~
2012年3月3日土曜日
芥川龍之介「葱(ねぎ)」(1919)~火取虫の火に集るごとく~

すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、
世界のはてまでも燦(きら)びやかに続いているかと思われる。今夜に
限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風(ほこりかぜ)も、
コオトの裾(すそ)を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い
空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……
その内にふとお君さんが気がつくと、二人はいつか横町を曲ったと見えて、
路幅の狭い町を歩いている。(中略)
その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子に、葱(ねぎ)の
山の中に立っている、竹に燭奴(つけぎ)を挟んだ札(ふだ)の上へ落ちた。
札には墨(すみ)黒々と下手な字で、「一束(ひとたば)四銭」と書いてある。
あらゆる物価が暴騰した今日(こんにち)、一束四銭と云う葱は滅多にない。
この至廉(しれん)な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、
お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如として
その惰眠から覚めた。間髪を入れずとは正にこの謂(いい)である。薔薇と
指環と夜鶯(ナイチンゲエル)と三越の旗とは、刹那に眼底を払って消えて
しまった。その代り間代(まだい)、米代、電燈代、炭代、肴代(さかなだい)、
醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、
過去の苦しい経験と一しょに、恰(あたか)も火取虫の火に集るごとく、
お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群(むらが)って来る。(*1)
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)さんが大正八年に書いた「葱(ねぎ)」の一部です。文中にある“至廉(しれん)”とは値段が非常に安い様子を指し、“火取虫(ひとりむし)”は夏の夜に灯火に集まる蛾(が)のことです。
十代なかばのカフェの女給“お君さん”が色男に目をつけられ、言葉巧みに夕暮れの街に連れ出されます。サーカスを観るという誘いだったのに、いつの間にか裏通りを歩かされている。おんなはいたって無邪気です。男の頭のなかには路地の奥に建つ宿屋の、妖しげな灯りがありありと浮かんでいるというのに、樹皮を割って若芽の生え出るごとき恋情の、いよいよ我が人生に起きるきざしに恥じらい、むず痒さに身をよじらせながら手を引かれ歩くのが至福と思えてなりません。夜空に星のきらめきを追い、背中に喧騒を感じて夢見心地でいるのです。
ところが、八百屋の店先に葱(ねぎ)の安売りなっているのを見止めた途端、おんなの心はがらりと色彩と様相を変えてしまう。男の手を振りほどくやいなや、店の奥の主人と交渉を始めます。ぷうんと臭う葱(ねぎ)の束を抱えて舞い戻ったおんなはふたたび男と裏通りを歩き始めますが、両者の気持ちはすでに失速し、特に男の方の想いは沈んだままとなって終に起き上がることはありません──
お陰で怖い思いをせずにおんなは済んだ訳ですが、笑えるような淋しいような、どこか断裂した読後感を読み手にあたえる、そんな小編となっています。
興味惹かれるのは野菜のプライスカードをきっかけにして突如開始されたおんなの連想のなかに、なんと“醤油”が顔を覗かせていることです。九十年ほど前の日本で電気、新聞、化粧といった花形産業と肩を並べて醤油がいた。面白いですねえ、今では誰もこんな風には思わないでしょう。
“過去の苦しい経験”とあります。なかなか買い足しがならずに味気ない食生活を悶々と耐え忍んだ、そんな時間もあったに違いない。醤油の味と香りが往時の暮らしのその中でちゃんと座を占め、深く意識に浸透していたことを窺わせる貴重な一節になっていますね。
それともうひとつ。物語世界への醤油の介入というものは登場人物の高揚する想いに水を挿す役割、いわば“消炎作用”を不思議と帯びるのだけれど、この芥川さんの「葱(ねぎ)」においてもそうで、恋慕の邪魔立てをして、うら寂しい路地裏に若い男女を足止めしている。偶然には違いないけれど、この連結も僕には滅法面白かった。
さて、本の紹介はこれぐらいにして、ここからは読書中に僕自身が連想してしまったことを少し綴っておこうと思います。芥川さんの文章を今風に直せば、「家賃、お米代、電気代、ガス代、おかず代、(醤油代、)新聞代、化粧品代、交通費――そのほかありとあらゆる生活費」となるのですが、ここで現代人ならば(醤油代)とはきっと書かないと考えるなら、それに替わって選ばれるのはいったい全体何だろうと考えた訳でした。
通信費とか医療費なんかもよぎりましたが、「油」という字面に導かれたか、寒くて暖房がまだまだ欠かせないという季節的なことも重なってか、僕の頭には“灯油代”という文字が燦然(さんぜん)と浮かんでしまい、いくつかの記憶もまざまざと蘇えって仕方なかった。
一年前のあの混沌とした時期に、水や食料を運ぶために車を走らせ、また、その車の燃料を得るためにスタンドを取り巻く長々とした行列に幾度も加わりました。あの時、あちらこちらの吹きさらしのスタンドで、国の発表も指導もまるで無いに等しいそのなかで、赤いポリ缶を携えて灰色の寒空の下を震えながら並んでいた人の列の誰もが悄然と押し黙っていた様子が、今、厳しさをともなって鮮明に脳裏に再生されていきます。
あんな光景は二度とごめんと思い、けれど同時に、きっと再び似た状況になるぞと警鐘をがんがん鳴らす存在が自分の中にいて、とても落ち着けるものではない。
先日の報道のせいでもあります。当時(僕たちから遠く離れた、どこか重い扉の向う側で)囁かれ、黙殺されたという半径170kmとも250kmとも言われる避難対象区域の、その狂ったとしか言いようのない広さや距離に息を呑みました。大袈裟でも机上のものでもなく、実際そのぐらいの事故であり汚染だったのだろうし、今後も同じような被害が次々と襲い来る可能性がある。
当然そこに含まれてくるに違いない湾岸施設や鉄路、道路交通網の麻痺や放擲(ほうてき)を想像し、その後即座に押し寄せるだろう“ありとあらゆる生活”に関わる物資の致死的な枯渇を思い、“苦しい経験”の強襲を予想して憂いは深まるばかりです。連想はあたかも火蛾のように四方八方から群(むらが)って来るようで、臆病な僕の胸の中をおびやかし続ける。
この国土で居住可能な平野は、世界から見ればせいぜい六畳間に等しい場処でしょう。そこから転がるように飛び出し逃げ惑う住人に、天翔(あまか)けてたちまち追いつき、うれし楽しと顔や手足を舌で舐(な)めまわすならまだしも、あろうことか幼子(おさなご)にすら容赦なく牙剥き喰い散らす獰猛な獅子(それも五十頭以上も)をそんな部屋で飼い続けているようなものであって、どう見ても無鉄砲で危険なことと思えます。
例えば涼しげな鉢に金魚を幾匹か飼うにとどめるべきではないか、それが駄目なら、あら大変、檻から出ちゃったと遠巻きにする住人を尻目にのんびりと草を食(は)み、昼寝を決め込むロバか羊をせめて飼うのが利口じゃなかろうか、いや、常識じゃなかろうか。
獅子でなければ象だって麒麟だっていいのです。僕たちを襲うことは稀でしょうし、もちろん170kmや250kmなんて逃げる必要もない。掃除は必要でしょうけど、玄関も台所も寝室も玄関も、トイレだってそのまま使えるでしょう。お気に入りの家具も衣装棚も、丹念に育てた鉢植えの花も、棚に背表紙向けて並ぶ思い出のたくさん詰まった本たちも、幼い日に遊んで捨て切れないでいた遊具や楽器なんかも、そのまま人生の道づれとなって時を刻んでくれるに違いない。
“正しく怖れること”の継続がとても大事な段階に入ったことを、ある識者が訴えていました。その通りだと思います。赤いポリ缶の連なる光景を見てしまった者の務めとして、ずっとこれからも考えていきたい、そう思っているところです。
(*1):「葱」 芥川龍之介 文末に“大正八年十二月十一日”の記述あり。手元にあるのは角川文庫「舞踏会・蜜柑」の26版で、「葱」も所収されています。引用はその175頁。最上段の画像は別な本で、米倉さんの絵がちょっと良かったので借りました。
2012年2月28日火曜日
“Уха(ウハー)”

“食べもの”を口に含んだ瞬間、こころの芯を燻(いぶ)され、思いがけず汗ばみ上ずって、やがて軟化させられた挙句に深い恋に落ちる、そんな設定のお話がたまにあります。
それ等はどれもこれもが地味な顔立ちをしており、起伏に欠けて退屈至極の内容と思われがちなのだけど、実際は隅々まで細工がほどこされていることが多い。後からじわり“押し味”の効いてくる層の厚い作りになっている。
日常の事象、そのひとつひとつに目が行き届き、裏打ちされた幽かな想いが寄り添います。これに気付く感度の良さ、視力や嗅覚をフルに活用しようとする意志といったものがドラマの登場人物に、また僕たち観る側にも求められてしまう。
先日観たイタリアの映画はまさにそれでした。“Уха(ウハー)”という魚のスープが登場するのだけど、これが料理の域を越えた役目を担っていて凄かったなあ。(僕の惹かれる“味噌汁”の描写に通じるものがありました。)この“Уха(ウハー)”の起用にとどまらず、色んなもの、衣裳や美術、音楽までずいぶんと手が入っていて、充足感がとてもあった。冒頭は雪の降り積もった白い街の遠景で、こんな凍てつく季節に観るのもどうかと最初は思ったのだけど、結果的にはたくさんの事を考えさせられてなかなか良い時間になりました。
今夜から明日にかけて雪の場所もあるそうですね。どうか気を付けて、怪我のないようにお過しください。温かくして風邪をひかれませんように。
(*1): Io sono l'amore 監督/脚本 ルカ・グアダニーノ 2009
2012年2月12日日曜日
夏目漱石「草枕」(1906)~通じねえ、味噌擂(みそすり)だ~

「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ一人前じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その後(のち)発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修業三昧じゃ。
今に智識(ちしき)になられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前なんざ、
よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――
女ってえば、あの狂印(きじるし)はやっぱり和尚さんの所へ行くかい」
「狂印と云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂(みそすり)だ。行くのか、行かねえのか」
「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷(ごきとう)でもあればかりゃ、癒(なお)るめえ。
全く先の旦那が祟ってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」
「石段をあがると、何でも逆様だから叶(かな)わねえ。和尚さんが、
何て云ったって、気狂(きちげえ)は気狂だろう。――さあ剃れたよ。
早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞(ほ)められよう」
「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
「咄(とつ)この乾屎(かんし)けつ」
「何だと?」
青い頭はすでに暖簾(のれん)をくぐって、春風(しゅんぷう)に吹かれている。(*1)
ハードディスクプレイヤーに録り溜めした長編映画(*2)を昨日一気に観たおかげで、頭の芯が痺れたようになっています。昨年の春の震災とそれに続く事故は、ひとの生命や生活を粉微塵にし、見通しの利かない借り住まいを余儀なくされている人も大勢います。どうしてもそんな状況と物語を重ね観てしまうものだから、気持ちが入ってしまって仕方ありませんでした。計7時間という長編ということもあるけれど、あれこれ考えながらの時間となったのが痺れをもたらした原因でしょう。
戦禍が日常に及び、暮らしの趣きをことごとく変えていく、そのような激動の時代に生れずに済んだことを感謝していた僕でしたが、この度の震災は世に例外はなく、遅かれ早かれ誰も彼もが艱難辛苦との対峙を迫られることをはっきりと諭されたように感じます。テレビジョンや雑誌の送り出すものが精彩を失い、替わってこれまでは絵空事にしか見えなかった物語世界が我が身の未来を予見するやもしれぬ黙示録にも見えてくる。古い小説が新訳されたり、色の褪せた映画が丹念にリストアされてスクリーンに蘇えり、濃淡ありありと眼前に広がるようにして、急速に息吹を増してくる。世界がはげしく伸縮して感じられる。
先日観たグレン・グールドのドキュメンタリー(*3)に触発され、年甲斐もなく手に取ったのが「草枕」でした。百年以上も前に書かれた話ですが、やはりこちらも胸に響いた。こんな年齢で漱石(そうせき)作品に触れるのは滑稽を越えて哀れな感じがして、とても恥ずかしく、余程書き留めるのをためらったのだけど、生きて暮らしていることの記録として残しておこうと思います。グールドが関心を寄せただろう芸術論も面白く読みましたが、当時の世間をくまなく覆っていた戦争の暗い影(日露戦争)とこれが狂わす人間の運命が切実で、厳粛な気持ちで頁を繰りました。
上に引いた箇所は物語の中段に登場する床屋の様子です。山奥のひなびた宿に逗留している主人公が、村の理容店を訪れて頭を刈ってもらいます。後から入って来た寺の小僧と店主との間で交わされるのがこんなやり取りなのでした。話題の主は主人公の泊まる宿の出戻り娘で“那美(なみ)”というおんなであり、また、かつて彼女に懸想した挙句に行方をくらました若い僧“泰安”のことです。謎めいた面持ちの那美に深い関心をよせる主人公は、横でそのやりとりにそっと耳を澄ましている。
麹(こうじ)や大豆の硬い粒が残る味噌をすり鉢に入れてはごりごりと擂(す)って、舌触りをなめらかにしてから利用することが往時の家庭では当たり前だったのでしょう。今では想像しにくい家事のひとつですが、寺社にあってはそのような調理前の下ごしらえを目下の者が行なうのが常でした。これが転じて半人前の僧を“味噌擂り(小僧)”と称するらしい。“みそっかす”とも通じる風合(身近から追い出さない、逃げ道が設けられた柔らかな印象)があります。
会話の最後に登場する“咄(とつ)”とは舌打ちした時の音「ちぇっ」とか「ちっ」の意味であり、“乾屎(かんし)けつ”とは、厠(かわや)に備えられた木のへらの事です。専用の紙が無かった時代に各人が各人のしりの汚れをそれを使ってぬぐっておりました。“味噌擂(みそすり)”という蔑称に対する少年側からの逆襲なわけで、ここで両者は対となって一種の“クソミソ”的表現になっている。「ちぇっ、クソ取りべらめ」という意味ですからね、それにしても随分な悪態です。
“乾屎(かんし)けつ”について気になって調べてみれば、禅話によく登場するものらしく、小僧の口から飛び出したのも日頃和尚から聞かされている法話が影響しているのでしょう。ウェブのあちこちにある解説を読めば分かりますが、決して悪い言葉ではないのが分かります。狭くて娯楽もない小さな山の村にあって、寺の小僧と店主はそんな“邪気のない悪口”をたたきながら日々の溜飲をさげているわけです。
抗い難い世の流れにあって、想いを交わす人はちりぢりになり、時にはどちらかの生命が無情にも奪われさえします。例外のない一生はない。それと静かに向き合いながら、諦観を湛えながら人は言葉を探し、互いを鼓舞していくものなのでしょう。詮無いことと決めつけず、今後もあれこれと他愛もないお喋りをして行きたいものです。時には“邪気のない悪口”を言い合って、肩を叩き春風に吹かれたいものです。
(*1):「草枕」 夏目漱石 初出「新小説」1906(明治39)年9月 手元にあるのは新潮文庫138刷 引用は74‐75頁
(*2): ВОЙНА И МИР 監督 セルゲイ・ボンダルチュク1965-67
(*3):Genius within: The Inner Life of Glenn Gould 2009 監督ミシェル・オゼ、ピーター・ レイモント
2012年2月2日木曜日
吉村龍一「焔火(ほむらび)」(2012)~ふんだんにあるものの~

翌日からおれは台所をあずかることとなった。
牛殺しは毎朝六時にでかけていく。それまでに飯を炊き、
弁当をこしらえる。一度に腹におさめるのは、一合の飯。
朝は味噌汁、梅干し、高野豆腐の煮付け。弁当に握りこぶし
ふたつ分の握り飯と、味噌漬け。夕食は芋と大根の炊き合わせが
主な副食だった。一週間がすぎたころその献立に首をひねった。
肉や魚がまるでない。味噌や醤油はふんだんにあるものの、
干し椎茸や山菜などが食材のほとんどだ。獣をしとめてくる
こともなく、いつも山のものを調達して帰ってくる。
山賊にそぐわない、精進料理のような献立におれは謎を
ふかめた。(*1)
吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焔火(ほむらび)」からの一節です。
どちらを本業と思っておいでか分かりませんが、吉村さんは“調理”に携わる仕事に就いておられる。いやいや、本業とか副業といった発想はもう古いですね。僕たちの内実は多層化、多角化が進んでいて、たったひとつの“かたち”では充足を見出しにくくなっている。それが本当ですよね。僕みたいな不器用な者ほど、正だの副だの順列を付けて安心したがる訳ですよ、どうしようもないですね。
兎も角、吉村さんは調理に日々取り組んでいる。そこで生じた隙間のような時間を縫って、取材や構想といった文筆業に同時に当たっていく。そんなことが影響していると見えて、作者の“食べもの”への眼差しには独特の執着が見られます。
味噌や醤油(および調理光景、料理といったもの)の具体的な描写はそう多くは並ばないのですが、上の記述はちょっと面白かった。流浪する主人公が山中で初老の男に出逢います。精神的な部分を浮き彫りにする役割として、味噌と醤油が“ふんだんに”備えられた台所が登場していました。その“ふんだんにある”味噌と醤油を使って、“精進料理のような”料理が坦々と作られていくのです。
僕たちが“精進料理”を口にする機会は稀にめぐってきますが、いずれも精神的な営みと深くかかわっていますよね。思えばあれって不思議な取り合わせになっている。食べてよいものと悪いものの取捨選択の基準はもちろん「肉」であり、代用品の意味合いもこめて大豆料理が幅をきかせている。それ以上に突き詰めて考えたことはなかったのだけど、もうちょっと踏み込んで思案しても罰は当たらないかもしれません。
肉や魚といった美味しくてヨダレがこぼれるような贅沢品が排除されていく一方の、どうしようもない“残り滓(かす)”でそれらはあるのか、それとも魂を研ぎ澄ますために積極的に選ばれたものなのか。どう捉えるかで、器を彩る食材の見え方はまるで違っていきます。
それ自体に聖性が付されている訳ではないけれど、仏への祈りや故人との交信に寄り添う“許しを与えられたもの”として味噌や醤油はあるのかもしれない、そんな連想が奔って面白く読んだところです。
あれこれ「焔火(ほむらび)」については書き留めたいことはあるのだけれど、連日の寒波と積雪に疲労困憊しているところがあり、今日はこれで筆を置きますね。この雪が大気を洗い、清らかな飲み水を僕らにもたらしてくれる。そう思えばどこまでも美しい光景であるのだけれど、さすがに疲れちゃいました。
皆さんもどうぞ気を付けて、転ばぬように、滑らぬようにお過しください。
颯爽と風切って、けれど一歩一歩を大切にしながら、街をお歩きください。
(*1):「焔火(ほむらび)」 吉村龍一 講談社 2012 引用は134頁
2012年1月25日水曜日
楳図かずお「恐怖への招待」(1988)~まっきっき~

断わる勇気がなかったのと、気が弱いものだから、くたびれて
いるし、押しきるパワーが足りなくて、とうとう、やるしかないと
いう気になっちゃった。やったんだけど、案の定、次の日、
朝起きると、普段だと前の日くたびれていても、とりあえず朝に
なるとくたびれが抜けているんだけど、朝起きると顔がまっきっきに
なっていて、全然くたびれが取れてないんだよね。それからずっと、
そんな状態が四年間ぐらい続いちゃった。
ちょうど、『おろち』をかきかけの頃だったんだけれど、担当の
臼井さんという方が、毎日せっせとシジミのお味噌汁をこしらえて
くれて、それを飲んでいたけれど、お医者さんに診てもらったら、
やっぱり肝臓を悪くする手前という感じのところまでいっていて、
それがなかなか治らなくて、たとえば一日のスケジュールなんかでも、
ご飯を食べるのに時間を取ろうか、それとも寝るのに取ろうか、
どっちに時間を取ろうかと、こういう感じだったんだから。(*1)
“恐怖マンガ”の第一人者である楳図(うめず)かずおさんが、誰しもが抱えている怖れや惑いに想いを馳せ、それを普通の言葉で表わしてみせた“語りおろし”の一部です。どこでどんな事をきっかけと為して、こころの奥底に恐怖が生じていくのか。幼少年のころに自分を取り巻いていた野や川といった自然やその土地に息づく因習、おとなたちの奇妙な言動をひもとき、また、長じて後は博物館に自ら足を運び、科学者と対談して突きつめていく。四十年という画業を通じてひとつの事にとことんこだわった人の言葉だけに、いくつも頷かされる箇所がありました。
それと同時に(上に引いたような)現実世界での戦いぶりも語られていて、僕としては一層興味を引かれました。十代にデビューした同業者を強く意識し、出遅れたことを何とか取り戻したいと粉骨砕身努力していった楳図さんが、その言葉通りにボロボロの態となっていく。
「週刊少年サンデー」での『おろち』連載は、1969年から翌年にかけてのようですから、楳図さんはその頃まだ32、3歳といったところです。そんな若さで働き詰めに働いて“まっきっき”というのですから、漫画家という仕事は壮絶です。
編集者はあの手この手でもって、人気作家を盛り立てます。仕事場に差し入れをする、賄いの手伝いをするのもその一つかもしれませんが、黄疸(おうだん)の症状が誰の目にも明らかな作家に、“シジミのお味噌汁”を飲ませて執筆を後押ししなければならないというのも、なんともやるせない因果な商売ですね。
漫画家とアシスタントがそれぞれ葛藤を抱えながら机に向かい、ペンをかりかりと走らせている。一方では流し台に立つ編集者がおり、ガス台の青白い光と熱を受けてぼんやりと佇んでいる。当時の仕事場の様子を想像すると、随分と切ない感じを受けます。仕事というものには、どうしてもそういった“泣き笑い”の瞬間が付きもの。生きることの本質を歪めてしまうような、どうにも腑に落ちぬ瞬間に見てみぬ振りをしたり、疑念をぐいと呑み込んで踏ん張っていく、そんな時間ってかならずやって来るものです。
“断る勇気がなかったのと、気が弱いものだから”次々と編集者の声を受け止めてしまう徹底した“寛容のひと”であったことも知れて、ほのぼのと温かい気持ちになります。傍目(はため)にはファッションの奇抜さから唯我独尊の精神を表象して見え、何ら悩みを持たずに暮らして見える楳図さんなのですが、実際の創作現場は苦闘に次ぐ苦闘だったのだし、懊悩(おうのう)を余儀なくされた。
また、“まっきっき”の時期を経て仕事を連載物一本だけに絞り、自分のリズムはもうこれしかない、ほかに刻みようがない、そう自分に説き聞かせるようにして執筆活動の方針を大きく転回させていく辺りは胸に迫るものがありました。
時流に背いて独りで歩むことは勇気もいりますし、気負った肩のちからを弛(ゆる)めていくことは相当の覚悟もいります。「きちんと自分の順番が来た時に、それに合わせて頑張ったほうが、より無駄がない」という楳図さんから僕たちへ向けての吐露には、冴え冴えとした硬度と嘘のない重さをはっきりと感じます。
ひとりの才人のターニングポイントに忽然と現われたこの“シジミのお味噌汁”には、だから和やかさや笑いは映し込まれない。消えゆく白い湯気の裏から、今まさに壁に向き合っている人間の、その瞳の奥をそっと覗いているように見えます。こういう峻烈な装いの味噌汁も中にはあるのだと、しみじみと感心させられました。
さてさて、季節は再度めぐって氷の季節。足を滑らせ、怪我するひとが続出とか。いつもの歩調を少しだけゆるめて、硬度と重みのある確かな一歩をお続けください。怪我をするだけ損ですからね。
(*1):「恐怖への招待 世界の神秘と交信するホラー・オデッセイ」 楳図かずお 河出書房 1988 手元にあるのは加筆、訂正のなった河出文庫(初版1996)で引用箇所はその218頁。表題には最初に世に出された1988年を併記したが、味噌汁のくだりが最初から記載なっていたものか、それとも文庫版で加筆なったものかは未確認。
2012年1月21日土曜日
楳図かずお「井戸」(1974)~長い髪の毛~

食卓についている男と妻
椀をかかげて味噌汁をすすっていた男が、不意に大声をあげる
男「あっ!?」
妻「どうなさいました……!?」
男「みそしるの中から長い髪の毛が!?」
妻「まあ!?」
場面一転、街なかの公園
背広姿の男がその中を歩きながら、怪異を思い返している
男「も、もしやあれは20年前に突然おれにだまって
どこかへ行ってしまった浮気なカナ子の髪の毛では………?」(*1)
上に引いたのは楳図(うめず)かずおさんが70年代に発表した、わずか8頁(1コマ1頁構成、ですから計8コマ)の実験的な短編「井戸」の冒頭部分です。初老の夫婦がテーブルで食事をしていると、なんと“みそしる”の中から髪の毛が見つかります。頭はともに年齢相応の色になっていますから、黒々としたこの闖入者は妻のものでもなければ夫のものでもないのです。その長さからいって、どうやら女性のものらしい。二人暮らしの古い住居です。最近は訪ね来るひともそういませんから、なんとなく変です。
面白いお話なので、ざっと紹介してしまいましょう。(結末に触れます)
男はまだ会社勤めの身です。天気は快晴。鞄を下げて公園を横切りながら、不意に昔の記憶が蘇ってきました。訳も言わずに自分のもとを立ち去って、以来ぱったりと連絡が途絶えてしまった相手がいたけれど、もしかしたらそのおんなのものじゃないかしら。たった一本の髪の毛が隠栖(いんせい)するに似て乾燥気味だった男の日常を縛りはじめ、過去へと盛んにこころを誘(いざな)うのでした。
怪異は続きます──洗面台に男が向かっていたところ、蛇口から流水といっしょに指輪がひとつ、カタンと軽い音をたてて転がり出たのです。屋敷にはいまだ枯れずに水を湧かせる井戸があり、今は簡単な覆いがされ、据え付けられた小型ポンプが自働運転をしています。汲(く)まれた水は配管を通じて建物の方々へと行き渡り、炊事や洗面といった家事全般に使われている。謎を解く鍵はその井戸の奥にあるようです。
電灯の光もよく届かない深さと暗さです。こうなると意を決して臨むしか道はありません。単身ロープを伝い降り至った男の目に、ついに“何か”が映りました。「ま、まさか…そ、そんなバカなことが…………」男の叫び声がわんわんと反響します。場面替わって、井戸端会議の様子です。妻の言葉とさりげない描写から僕たちは、男が二度と井戸から這い出ることがなかったことを知ります。塀向こうのご近所の人に夫の失踪を伝える妻の顔は、不思議と穏やかで屈託がありません。妻は近日中に井戸を御役御免とし、土を入れて固める決意を合わせて報告するのでした───
楳図さんの「蝶の墓」や「アゲイン」なんかは読んでいましたが、気の弱い僕はいかにも怖そうなものは避けていたところがあります。小学生の時分には表紙を見ただけでごめんなさい、という感じだったのでしたが、年始の休みを利用してそんな“こわい本”ばかりを一気に読み進めてみました。
好奇心旺盛な少女たち、男たちが“見よう”とする衝動にどうしても抗し切れず、禁忌(きんき)を破って廊下の奥の部屋や朽ちかけた屋敷に足を踏み入れます。気付いた時にはもう遅く、ろくでもない事態に陥っているという流れですね。外貌が“怪物化してしまった人間”と目と鼻の先で向き合わなくてはならない。うろこで埋まったり、血と膿みでぐちゃぐちゃの顔に「ギャ~~ッ、うわーッ」と叫び、出口を求めて駆け出します。焦点のあわぬ目をぐわりと剥いて、かん高く笑いながらその背中に突進してくる楳図さんの化け物たちは不気味ですが、この齢になってみれば笑えるところもあります。
むしろ今回、つくづくと感心させられたのは、劇空間を貫いている心理描写の細やかさでした。見えない部分にこそ本当は楳図さんの真髄が宿っている。嫉妬と怨念、破壊願望、ささやかで切実なのだけど決して実現し得ない、それゆえに破裂するまで膨張が止まらなかったりする夢や希望といった“人間の見えざる内面”が主役になっている。震央となって胸を揺さぶり、噴泉となって降りそそぎます。
人と人とが接近し、交流と交感を果たしていくことは簡単そうで存外難しい。解らない相手に対する惑いや焦りはやがて“不安”を育ててしまい、荒々しい排除なり逃避へと雪崩打つことも間々あります。人間のこころとこころが結局は“恐怖”を醸成していく。黒い影のべったりと塗り込められた画面やノイズ雑じりの描線の奥で、そっと息づき、気配となってゆらめくものが実際は怖いのです。この「井戸」だってそうです。「黒猫」の亜流と笑うのも良いでしょうが、あれこれ思いを凝らすことで違った物語が見えてくる。露呈し切れない豊かな多層を秘めている。
小泉八雲(こいずみやくも)さんの本で知ったのですが、明治期あたりまでの井戸は、定期的な清掃の後に神事を執り行なって水神の怒りを抑えたそうです。その後に、一匹か二匹の鯉(こい)をわざわざ底に放して住まわせたらしい。“安全な飲み水”に対しての概念が今とは随分と違っていることに驚かされると同時に、生活の道具という域を遥かに超えた底知れぬ精神性に唸りました。
一方の味噌汁というのも随分と精神的な食べ物です。託されるものは当然違いますが、ほの暗い“見えざるもの”をしっかりと具(そな)えている。“母性”や“家庭”を誰もが連想するそんな味噌汁に、境界外に住まうおんなの髪の毛がにゅるにゅると侵入する構図も、だからきっと偶然ではない。
異界の入口となっている井戸と、コロイドの雲の背後にさまざまな想いを隠す味噌汁、そんな両者間を行き来するおんなの髪の毛──なんとも絶妙な取り合わせで、もの凄いかたちです。楳図さんを信奉するひとが出てくるのも宜(うべ)なるかな、納得がいくのです。
(*1):「闇のアルバム その7 井戸」 楳図かずお 「ビックコミックオリジナル」1974
年8月20日号掲載 手元にあるのは朝日ソノラマ「楳図かずお恐怖文庫・4 楳図かずお こわい本《闇》」1996 53-55頁
2012年1月7日土曜日
「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」(2011)~示唆~
新年会で知人がおいでおいでと手招きします。おみやげと称して取り出したのは、緑色の表紙の薄い冊子でした。ゴシック体で「日本醸造協会誌」と白抜きされている、いかにも硬い顔立ちの学術誌です。
なかに“被曝に対する防護策を求めて”と小題を掲げた文章があり、目が釘付けになってしまいました。実を言えば昨春以来あれこれと気に病んでいる僕の様子を見るに見かねた知人が、わざわざ付箋を貼って持ってきてくれたのです。専門用語がわんさか列を為しています。門外漢の僕にはちんぷんかんぷんの箇所が多いのだけど、なんとなく明るい話題であるのは直ぐに見て取れました。
すぐにでも書き写したいところですが、学術論文を長々と引用するというのは小説や漫画のそれとは性質が違います。自由勝手に幻影を構築するものとは違い、現実世界に真っ向から切り込んでいるだけに賞賛であれ揶揄であれ、その反響はどうしても熾烈(しれつ)になってしまう。ツィッターのような新しい仕組みとこれがもたらす騒動も日頃から見知っておりますから、どうしても慎重に考えなければなりません。
「引用」という行為自体が学術書の域で許されるものかどうか、それももちろんあるでしょう。段を踏んで一歩一歩進める理詰めの内容を、ほんの数行に端折って紹介するのはとても危険なことにも思えます。井戸端会議で気ままに応答するレベルではなく、よく咀嚼して消化しきってから行動に移すべきことって世の中にはたくさん在ります。この度の事故の一件はまさにそれでしょう。
はてさてどうしようか悩んだのですが、本日論文の表題を試しに検索にかけてみれば何のことはない、当の研究に関わった会社のホームページで堂々と紹介されているじゃないですか。関係する皆さんは公言することに一切頓着しておられない様子ですので、もう遠慮することなく、僕なりにこの初春に読み取った“ささやかな希望”を日記に書き残そうかと思います。
6.まとめ
ヒト個体において、遺伝子情報保持に関わる生理機能(SOS応答)があることを対放射線ストレス応答の研究から見出している。その応答機能における細胞レベルでのかぎとなるものはシャペロンであり、GRP78やHSP27がある。それらの分子シャペロン類の細胞内量を、培養ヒト細胞RSaを用い、ウェスタンブロッティング法で測定した。36種の味噌食品を蒸留水(MilliQ水)に溶解させ作製した味噌サンプル液を用い、細胞死を誘導させない濃度(細胞培養液量に対し2%以下)で、48時間以内の処理をしたRSa細胞より、タンパク試料を得て測定した。GRP78とHSP27のいずれかに細胞内量を増大化させるサンプル16種が見出された。次に、サンプル液処理RSa細胞で紫外線(UVC)により誘導される変異の頻度が低下することを、ウアバインの致死作用に対する耐性化(OuaR)を指標とする形質変異検出法とK-ras癌遺伝子におけるコドン12の塩基置換をドットブロットハイブリダイゼーション法により検出する遺伝子変異検出法で検証した。11種のサンプルで、変異発生を抑制することが示唆され、その内の6種では調査シャぺロンの量的増加が連動した。10種の麹菌株それぞれを米麹、麦麹、および大豆麹化した後、水溶液サンプルを調整し、味噌サンプルと同様の処理をし、RSa細胞におけるシャぺロン量の変動値を計測した。増大化させるもの6種を見出した。一方、味噌サンプル液により増加したGRP78の発現量をGRP78遺伝子のsiRNAにより低下させると、変異発生の抑制は見られなかった。従って、シャペロンなどの細胞内分子を介して、米麹、麦麹、あるいは大豆麹の成分によりヒト細胞における変異の発生を抑制するという機能が示唆された。(*1)
紫外線や放射線など、さまざまな悪影響を受けてしまった細胞は変異暴走や自滅の道を辿るか、それとも踏み止まって正常な活動を続けるか、二通りの道を歩むことになります。その分岐の要(かなめ)になっているのが“シャペロン”と呼ばれるものだそうです。このシャペロンというのは辞書を引くとどうやらフランス語のchaperonが語源らしく、元々は“社交界に初めて出る若い女性に付き添う、介添えの女性”を指します。これが細胞内に多く含まれるとダメージを受けた際でも修復の手が伸び、壊されずに再生していく場合がある。細胞を上手にエスコートして若々しい健常な顔かたちに導いていく、応援していく、そんな健気な役割をシャペロンは負っているらしい。
そのシャペロンの量を増加させる機能が味噌の基本となる麹(こうじ 糀とも書く)にはあると執筆者は捉えているのです。これは本当に興味深い話ですね。
世界大戦末期の新型爆弾投下にかかわる幾つかの伝聞に端を発し、有害な放射線に対してなにがしかの抵抗力を喚起する成分が味噌の中には宿っているのではないか、そう推察する声がずっとありました。呼応した研究者の皆さんの努力により小動物を用いた検証が重ねられ、消化器官の損傷をやわらげる効果が実際確認されてはいたのです。ただ、それをもってこの度のような劇甚な災害に当てはめて何か言えるかといえば、あまりにも特殊で初めての事であり、地域ごと千差万別の様相を呈してもいます。実験室内の動物を相手にした結論ではどうにもならなかったところがあります。
いたずらに過ぎていく時間に歯がゆさを覚え、靄(もや)のかかったような事態を何とかしたいと願った末に、(僕もそのひとりでしたが)そんな過去の論文をひも解いて紹介しようとするひとが幾人(いくたり)か現われました。その後のなりゆきを視ているとフードファディズム (food faddism)の烽火(のろし)じゃないか、あざとい宣伝ではないかと悪罵(あくば)される場面もなかにはあって、その度に面識のない間柄ながらなんとも気の毒に思い、また、膨大な数の読み手を相手にするウェブの難しさも感じた訳なのでした。
今回の発表の革新性は動物でなく、一歩踏み込んで“ヒト細胞RSa”を使っていることです。確かに各人の免疫力の段差や複合的な汚染の実態を考慮すれば、この発表の結果があまねく当てはまるとは言い難く、光明を確信するに至るほどの内容ではない。これで助かると信じろったって、到底無理な相談です。その意味では先の研究結果と変わらず、何の進展もないのかもしれない。
けれども「買うな、食べるな、飲むな」の大合唱のなかにあって、逆に“食すること”で闘えるかもしれない、もしかしたら救えるかもしれない──という話はめずらしく耳朶(じだ)に新鮮ではないでしょうか。それはあまりにも小さな一筋の逆波(さかなみ)かもしれませんが、ちょっと雄々しくもあり、小意気で愉快な風姿とも感ぜられて妙にほのぼのとしてしまう訳なのです。
いまは万事洋風の味つけが好まれ、僕の大事の思う人にしたってスパゲティだの何だのを料理してみたり、毎日のように食べがちです。そりゃ美味しい、僕だって大好きです。でもね、お願いだから時どきはお椀一杯の味噌汁をすすってもらいたい。心配げに遠目に見守っている“介添え”シャペロンを、三食に一度ぐらいは思い返してもきっと罰は当たらない。大事に思えばこそ「食べてもらいたい」、そんな風にこころを込めて祈っているところです。
(*1):「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」Findings of Gene Protection by Japanese Miso and/or Koji based on Creation of Human Physiological Functions,SOS Response-to Search for Radio-protective Methods 鈴木信夫 姜霞 喜多和子 菅谷茂 日本醸造協会誌 2011年12月号 公益財団法人日本醸造協会・日本醸造学界 808-809頁
なかに“被曝に対する防護策を求めて”と小題を掲げた文章があり、目が釘付けになってしまいました。実を言えば昨春以来あれこれと気に病んでいる僕の様子を見るに見かねた知人が、わざわざ付箋を貼って持ってきてくれたのです。専門用語がわんさか列を為しています。門外漢の僕にはちんぷんかんぷんの箇所が多いのだけど、なんとなく明るい話題であるのは直ぐに見て取れました。
すぐにでも書き写したいところですが、学術論文を長々と引用するというのは小説や漫画のそれとは性質が違います。自由勝手に幻影を構築するものとは違い、現実世界に真っ向から切り込んでいるだけに賞賛であれ揶揄であれ、その反響はどうしても熾烈(しれつ)になってしまう。ツィッターのような新しい仕組みとこれがもたらす騒動も日頃から見知っておりますから、どうしても慎重に考えなければなりません。
「引用」という行為自体が学術書の域で許されるものかどうか、それももちろんあるでしょう。段を踏んで一歩一歩進める理詰めの内容を、ほんの数行に端折って紹介するのはとても危険なことにも思えます。井戸端会議で気ままに応答するレベルではなく、よく咀嚼して消化しきってから行動に移すべきことって世の中にはたくさん在ります。この度の事故の一件はまさにそれでしょう。
はてさてどうしようか悩んだのですが、本日論文の表題を試しに検索にかけてみれば何のことはない、当の研究に関わった会社のホームページで堂々と紹介されているじゃないですか。関係する皆さんは公言することに一切頓着しておられない様子ですので、もう遠慮することなく、僕なりにこの初春に読み取った“ささやかな希望”を日記に書き残そうかと思います。
6.まとめ
ヒト個体において、遺伝子情報保持に関わる生理機能(SOS応答)があることを対放射線ストレス応答の研究から見出している。その応答機能における細胞レベルでのかぎとなるものはシャペロンであり、GRP78やHSP27がある。それらの分子シャペロン類の細胞内量を、培養ヒト細胞RSaを用い、ウェスタンブロッティング法で測定した。36種の味噌食品を蒸留水(MilliQ水)に溶解させ作製した味噌サンプル液を用い、細胞死を誘導させない濃度(細胞培養液量に対し2%以下)で、48時間以内の処理をしたRSa細胞より、タンパク試料を得て測定した。GRP78とHSP27のいずれかに細胞内量を増大化させるサンプル16種が見出された。次に、サンプル液処理RSa細胞で紫外線(UVC)により誘導される変異の頻度が低下することを、ウアバインの致死作用に対する耐性化(OuaR)を指標とする形質変異検出法とK-ras癌遺伝子におけるコドン12の塩基置換をドットブロットハイブリダイゼーション法により検出する遺伝子変異検出法で検証した。11種のサンプルで、変異発生を抑制することが示唆され、その内の6種では調査シャぺロンの量的増加が連動した。10種の麹菌株それぞれを米麹、麦麹、および大豆麹化した後、水溶液サンプルを調整し、味噌サンプルと同様の処理をし、RSa細胞におけるシャぺロン量の変動値を計測した。増大化させるもの6種を見出した。一方、味噌サンプル液により増加したGRP78の発現量をGRP78遺伝子のsiRNAにより低下させると、変異発生の抑制は見られなかった。従って、シャペロンなどの細胞内分子を介して、米麹、麦麹、あるいは大豆麹の成分によりヒト細胞における変異の発生を抑制するという機能が示唆された。(*1)
紫外線や放射線など、さまざまな悪影響を受けてしまった細胞は変異暴走や自滅の道を辿るか、それとも踏み止まって正常な活動を続けるか、二通りの道を歩むことになります。その分岐の要(かなめ)になっているのが“シャペロン”と呼ばれるものだそうです。このシャペロンというのは辞書を引くとどうやらフランス語のchaperonが語源らしく、元々は“社交界に初めて出る若い女性に付き添う、介添えの女性”を指します。これが細胞内に多く含まれるとダメージを受けた際でも修復の手が伸び、壊されずに再生していく場合がある。細胞を上手にエスコートして若々しい健常な顔かたちに導いていく、応援していく、そんな健気な役割をシャペロンは負っているらしい。
そのシャペロンの量を増加させる機能が味噌の基本となる麹(こうじ 糀とも書く)にはあると執筆者は捉えているのです。これは本当に興味深い話ですね。
世界大戦末期の新型爆弾投下にかかわる幾つかの伝聞に端を発し、有害な放射線に対してなにがしかの抵抗力を喚起する成分が味噌の中には宿っているのではないか、そう推察する声がずっとありました。呼応した研究者の皆さんの努力により小動物を用いた検証が重ねられ、消化器官の損傷をやわらげる効果が実際確認されてはいたのです。ただ、それをもってこの度のような劇甚な災害に当てはめて何か言えるかといえば、あまりにも特殊で初めての事であり、地域ごと千差万別の様相を呈してもいます。実験室内の動物を相手にした結論ではどうにもならなかったところがあります。
いたずらに過ぎていく時間に歯がゆさを覚え、靄(もや)のかかったような事態を何とかしたいと願った末に、(僕もそのひとりでしたが)そんな過去の論文をひも解いて紹介しようとするひとが幾人(いくたり)か現われました。その後のなりゆきを視ているとフードファディズム (food faddism)の烽火(のろし)じゃないか、あざとい宣伝ではないかと悪罵(あくば)される場面もなかにはあって、その度に面識のない間柄ながらなんとも気の毒に思い、また、膨大な数の読み手を相手にするウェブの難しさも感じた訳なのでした。
今回の発表の革新性は動物でなく、一歩踏み込んで“ヒト細胞RSa”を使っていることです。確かに各人の免疫力の段差や複合的な汚染の実態を考慮すれば、この発表の結果があまねく当てはまるとは言い難く、光明を確信するに至るほどの内容ではない。これで助かると信じろったって、到底無理な相談です。その意味では先の研究結果と変わらず、何の進展もないのかもしれない。
けれども「買うな、食べるな、飲むな」の大合唱のなかにあって、逆に“食すること”で闘えるかもしれない、もしかしたら救えるかもしれない──という話はめずらしく耳朶(じだ)に新鮮ではないでしょうか。それはあまりにも小さな一筋の逆波(さかなみ)かもしれませんが、ちょっと雄々しくもあり、小意気で愉快な風姿とも感ぜられて妙にほのぼのとしてしまう訳なのです。
いまは万事洋風の味つけが好まれ、僕の大事の思う人にしたってスパゲティだの何だのを料理してみたり、毎日のように食べがちです。そりゃ美味しい、僕だって大好きです。でもね、お願いだから時どきはお椀一杯の味噌汁をすすってもらいたい。心配げに遠目に見守っている“介添え”シャペロンを、三食に一度ぐらいは思い返してもきっと罰は当たらない。大事に思えばこそ「食べてもらいたい」、そんな風にこころを込めて祈っているところです。
(*1):「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」Findings of Gene Protection by Japanese Miso and/or Koji based on Creation of Human Physiological Functions,SOS Response-to Search for Radio-protective Methods 鈴木信夫 姜霞 喜多和子 菅谷茂 日本醸造協会誌 2011年12月号 公益財団法人日本醸造協会・日本醸造学界 808-809頁
2011年12月30日金曜日
山本義正「父 山本五十六」(1969)~一口吸うものだ~

ある朝、食卓にのった沢庵(たくあん)があまりにおいしそうだった
ので、母が飯をよそってくれるのを待ちきれず、私はひょいと手を
のばして沢庵だけを食べたことがある。すると、私の向かいにすわって
いた父が、
「漬け物というのは、ご飯のおわりごろに食うものだ。」
と言った。そこで、私はあわてて飯をほおばろうとして、茶わんに
箸(はし)をつっこんだ。すると、
「飯を食うまえに、味噌汁を一口吸うものだ。」
とやられてしまった。
べつに、とくべつなしつけというのではなく、どこの家庭でもやって
いる食事のきまりを教えてくれたにすぎない。食べ物をがつがつ食べたり、
意地きたなくすることを、父はとくにきらっていたようだ。
「親から与えられた服をよろこんで着、親から与えられた食事をよろこんで
食べ、丈夫に大きく育てばいいんだ。」
と、父はよく言っていた。(*1)
立体駐車場から車を出すと、雪の勢いがもう半端でない降りかたになっている。冷え込みは更にはげしく、羽毛みたいに膨らんだ雪片が夜の街にけたたましく降り注いでいます。
十一時を回って人通りもなく、酔客を求めて流すタクシーの影だけが目立ちます。閑散とした道路なのですが、こんな天気に何かあってもつまらないので慎重に進んでいきました。やがて大きな交差点で、信号は青から黄色になったばかりでそのまま突っ切ることも出来たのだけど、ブレーキを踏んで待つことに決めました。
帰ったところで何があるでもない静か過ぎる夜です。時間だけはとりあえずあるから、ゆったりと楽しんでみたい気持ち。内面の微妙な変化も関わるのだけど、最近は車を飛ばさなくても平気の平左で、海原(うなばら)を漂うクラゲのようにのんびり走る方が心地良い。年末ですからね、疲れも身体の底に澱(おり)のように溜まっています。湯船につかるようにして空いた時間をゆらゆらと過ごす、そんな癖がついてしまいました。
右手にガラス張りのホテルの建物が見えています。雪のベールの向こうには暖かそうな灯(あ)かりに染まったラウンジがあって、落ち着いた大人の時間を演出している。見知った友人が腰かけてお茶などしてはいないかしらと探してみたりするうちに、車の直ぐ脇の、僕の目線とちょうど同じぐらいの高さに奇妙なものを見止めて仰天しました。手の親指ほどの太さと大きさの黒い物体が宙に浮いています。最初は何か分からなかったのですが、それは一匹の羽ばたく虫でした。
大きさから蝉(せみ)かと思ったのですが、空中に静止する蝉なんて聞いたこともありません。ましてやこんな季節です。ゴキブリでももちろんないし、なんだろう。まばたきして再度焦点を合わせてみればどうやら蛾(が)のようです。一匹の蛾が自分の身の丈ほどもある雪を縫うように、時に避け切れずに衝突して白く染まりながら果敢に飛んでいるのです。
年末の酷寒の時期に虫が飛ぶのもめずらしく、加えて雪の延延と落ちてくる中を飛ぶ無鉄砲さというか、怖いぐらいの真剣さ、懸命さに僕はこころ打たれてしまって、今こうしてその事を、たかが虫一匹のことなのだけど書き留めようとしています。
調べてみれば深い秋にわざわざ蛹(さなぎ)から羽化し、ほかの生き物の影の絶え果てて寒々しい雑木林を、一生に一度の愛の成就をめざして飛ぶものもいるらしい。雪=寒さ=過酷=死、と単純に連想して勝手に驚いている僕の了見が結局のところ狭過ぎる訳ですね。冬を好んで海を渡ってくる鳥だっているのだから、こんな白い季節に暮らす虫がいても不思議はない。
長く空中で停まってみせる芸当と生態(誕生から死)を重ね合わせて比べれば、どうやら僕に会ってくれたのは雀蛾(スズメガ)の一種の“星蜂雀(ホシホウジャク)”です。信号はそこで青に変わり、彼なのか彼女なのかは知らないけれど、その後どうなったのかは分からない。真夜中の十字路の雪礫(ゆきつぶて)のなかに、さながら黒い“星” となって飛び続けるちいさな生命(いのち)の健気さに圧倒され、後ろ髪をつよく引かれながらアクセルを踏みました。
“世界は生きよという暗号を送り続けている”
そんな言葉を先日耳にしました。胸に響きます。確かにサインらしきもの、声援のようなものが世界には満ちているように感じられます。僕にとってはこのホシホウジャクも、そうだったのかもしれませんね。
さて、話変わって上に引いたのは第二次世界大戦時の軍人山本五十六(やまもといそろく)さんの姿を、家族の目から辿り直した回想録の一節です。赤ん坊だった頃から学生の時分にかけて触れた父親の、物腰や言葉といった断片的な記憶をご長男の山本義正(やまもとよしまさ)さんが丹念に掘り起こして一冊に綴っています。巨大な戦艦や航空母艦を統括した公人ではなく、子供を愛でる私人山本五十六がつぶさに描かれていてとても興味深い内容でした。
もちろん国を代表する組織の頂点に立ち、外遊もすれば豪華な会食もこなす五十六さんでありますから、美食に舌鼓を打つことも数限りなくあったはずです。けれど、それはそれ、これはこれであって、あくまでも基礎にあったのは倹約の精神みたいですね。ささやかな食の続くこと、身の丈に見合った家を選び、そこに住まい続けられることをこころから願った。
若いころの海戦で砲弾の直撃に遭い、左手の指を二本瞬時に失い、足は赤ん坊の頭ほどもえぐり取られたという壮絶な怪我を負った五十六さんは、実に百六十日間という長期の入院生活を余儀なくされたのだそうです。幸せのハードル、生活の質を悪戯に高くしなかったのは、そんな苦闘を通じて体得した彼なりの人生哲学だったのでしょう。
漬け物や味噌汁の食べ方をきびしく指導してはいますが、暴君となって家族を抑圧するつもりはさらさらなく、この世界で堅守すべきものとは一体全体何かを我が子に、そして時代を越えて僕たち今を生きる者にそっと諭してくれている。ここでの味噌汁はだから家庭の象徴、食卓のなつかしい記憶の枠をこえて、もっと清々しい、もっと強く語りかけるものが封入されて見える。
すでに観たひとの話によれば、現在公開中の映画(*2)のそこかしこにこの本に書かれたエピソードが顔を覗かしていて、上の味噌汁を囲んでの食卓の情景もちゃんと描かれているそうです。三月の出来事や現在の世相を二重写しにするかのような意図的な、挑むような演出が随所に感じ取れて割合に考えさせられる内容とのこと。足を運ぶだけの価値があるかもしれませんね。スクリーンの奥にどんな味噌汁が置かれてあるのか、僕も時間を見つけて訪ねようと考えています。
いよいよ年の境界を跨ぎます。
ともに暗号を探して、それを励みとしながら新しい日々を越えていきましょう。
この世界で堅守すべきものとは一体全体何かをずっと考えながら、
懸命に力あるかぎり、羽ばたいていきましょう。
善い年をお迎えください───
(*1):「父 山本五十六」 山本義正 手元にあるのは朝日文庫2011年版 引用はその163-164頁 あとがきによれば旧版は1969年に光文社より上梓されたとあるので、表題の西暦はこれに則った
(*2):「聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」 監督 成島出 2011
2011年12月24日土曜日
リシャール・コラス「息子の帰還 Le Retour」(2007)~灰色の綿のような~

父の前に置かれた味噌汁の表面は、灰色の綿のようなもので
覆われていた。母が手に持つ漬け物には黴(かび)がまだらに
生えていた。男は身を凍らせたまま、後ろ手に、一気に扉を閉めた、
思ったよりも勢いよく。扉は鈍い音を立てて縁枠にぶつかり、
空気の渦が生じた。(*1)
そそくさと衣服をまとい、手短に髭(ひげ)をあたって家を出る。五時過ぎたばかりでまだまだ空は暗いのだけど、前夜から降り積もった雪は踝(くるぶし)の高さを優に越えており、その時間であれば本来なら墨を流し込んだような車道が白々と発光している。いよいよ来やがったな、つらい季節だなと嘆息すると同時に、妙に浮き立つものが湧いてくる。踏みしめれば靴裏に真綿の固まりをつぶすような、ぐぐぐ、と跳ね返ってくる感触がある。普段は無自覚の土踏まずがじんわり押し返されるのが新鮮で、きゅうきゅと鳴いて応える音も楽しい。
行き交う車も人の姿もなく、また、音もない。わずかに光の粒子を含んだ暁闇(ぎょうあん)をだいだい色の“みそかの月”が細く円弧に切り裂いている。新雪に怯えたか、それとも興奮したか、若い一匹の黒猫が真白い道を跳ねながら横切っていく。
綿毛のような雪片の大量に舞い落ちてきて、この汚された大地を染めていく。まるで夢にまぎれたか昏睡に陥ったかのような非現実じみた風景で、しばし呆然となって眺めていた。考えてみればこの雪だって何を含むか知れたものじゃないのだけれど、それでもこうして廻り来た日本の冬はやはり凄絶で美しいものとしみじみ思う。
悪くだけ考えることも出来ず、良いことだけを思うこともならず、行きつ戻りつの思案が沈鬱で仕方ない。ぱっと何かに没入して、数時間でも数分でもいいから全てを忘れて身軽になりたい。思う存分、何泊も夜を重ねながら見知らぬ街を歩けたらさぞ嬉しかろ楽しかろ、鬱陶しい気分もすっかり失せて、生命(いのち)の不思議とよろこびがきっと実感されるように想う。許されるのであれば、どこかにそろそろ出かけてみたい、旅したいと願う気持ちがこのところ募る一方だ。
知らない土地を訪れるだけでなく、見知った場処にいつもとは違った時刻に立つことだって一種の旅なのかもしれない。実際、こんな風景だって目に飛び込むのだし、なんちゃって、うそうそ、そりゃ負け惜しみ。本当の旅は違う。
背表紙が目に飛び込んだ瞬間に捕縛されてしまったのは、だから仕方のないことだ。リシャール・コラスRichard Collasseさんの新刊書は「旅人は死なない」といい、そのタイトルの示唆する通り、旅愁や郷愁が全編をくまなく覆っている。
「SAYA 沙耶」(*2)が店頭に並んでからまだそんなに経っていない。随分とまたハイペースではないか、とまず首をかしげてしまったのが本当のところ。騒然とするこんな世相の只中でもあり、コラスさんは大きな組織の経営者でもあるから舵取りに気を揉むことだらけに違いない。指示待ちの案件も山積しているはず。よく筆が進むものだ、と感心しながら手に取り眺めました。
巻末の初出一覧を見て納得したのは、この本はかつて雑誌に掲載された短編を一冊にまとめたものであって、一部書き下ろしもあるにはあるけれど、基本的に震災前の作品ばかりなのです。いちばん古いもので2007年の春といいますから、五年近くも前に執筆されているものを含んでいる。
正直にいえば僕はあの事故が国の諸相と人のこころを一変させるのではないかと不安視しているし、その窯変なり衝撃は実は“これから”本格的に押し寄せるものと思ってもいます。動揺を抑え、勇気を奮い起こさせ、闘志を育む上で小説なり物語の真価が試され、また、頼りにされていくものと信じるのだけど、そんな拝むような、祈るような気持ちをずっと胸中に抱えているためなのでしょう、“三月以降に書かれたもの”をどうしても探しては貪っていく傾向がどんどん強まっている。
その点この本に収まっているのは“昔の物語”ばかりになるから、僕の望むような回答はたぶん見出せないものと諦めながら頁を繰ったのでした。けれど、不思議と苛立ちは起こらず、むしろ“今の物語”として頷き、勇気づけられながらの時間となったのは有り難かったですね。
最初に引いたのは所載されている一編「息子の帰還」の終幕近い描写です。寒村を飛び出した若者が町の洋装店に雇われ、そこで必死に働くうちに客のひとりである娘に恋をします。残念ながらそれは一方的なものに終わり、傷心した男は久方ぶりに帰郷するのでした。変わらぬ村の風景と生家の様子にほっとする男でしたが、扉を開いて覗いた土間の奥には一見変わらぬ様子で座っている老いた両親の姿があり、よくよく見ればその手に持たれた味噌汁の椀には異様なものが浮いているのでした。元気そうに見えた両親ですが、実は──という話です。
八雲か鏡花か、といった感じでコラスさんには珍しい幻想譚なのですが、誰しもが懐(ふところ)に抱く生れ故郷や親族に寄せる“両面感情”が透かし込まれており、とても面白く読みました。先人たちの知恵を集束して保存性を高めた味噌や漬け物が、息子の帰宅を待ちきれずに変質している。単純に食べものが腐るのでなく、“故郷”や“母親”とイメージを結線する味噌汁なんかがあえて選ばれ、ぶわぶわのものが増えてむごたらしく破壊されていくあたりが斬新というか容赦ないというか、精神的でとても興味深い描写になっています。
この一篇を含む十九の物語が本には収まっているのだけど、いずれも庶民目線(と言うより作者目線)の物語で、悲劇に終わるものも含めて描かれているのは生きることに関わるハードルの出現と跳躍、または落下であって、読者それぞれが担っている日常と連結しやすい。
コラスさんの贈り出す物語に磁性じみたものを以前からは僕は感じていて、それはどうしてなのか考えてみると、結局のところ編み出された物語が作者の内実に寄り添っていて、どんなに突飛な舞台設定を組もうと、どんなにディテールを尽くして異国を装っても、最終的に人間の内側までがそんな“絵空事”に陥っていないのが大きい。ときに視座は若い現代女性の内部に置かれたりもするけれど、台詞や行間ににじむものは総じて1953年生れの男のものであって、読み手である僕として投影しやすいものとなっている。
半生を費やして蓄積なった慚悔(ざんかい)、諦観、自戒といったものが頁の片隅に金属製の栞(しおり)のような面持ちでそっと挿されてあって、それが時折閃光をともなって目に飛び込みます。人生の不遡及性、途轍もなく残酷な面なんかと、その逆にひとりひとりに託された唯一無二で比類なきもの、奇蹟のような多様性とが再確認させられる。そんな内省的で穏やかな時間になっていく。
気を許し合える年長の友とこころ静かに会食している。悩みを打ち明け、過去の失敗談や苦労談が返されるなか、落ち着いた時間と酒杯が重なっていく、そんな風の暖かいものが読書中ずっと網膜の裏側に宿っているのです。
今回の一冊は震災のなかった頃の物語ではあるから、そこに今後の指針は示されてはしないけれど、読了してみれば、作者と僕たちそれぞれの背中に遥かなる航跡が白く尾を引き水平線の彼方まで続いているのが視認される。その長さと確かさが何よりも心強い。こんな自分でもまだまだ捨てたものじゃない、これからも航海は続くのだという気持ちが固まってくる。(頷くにせよ、首を振るにせよ)認めていかざるを得ない実人生を想い、腹がどしんと据わるところがあるのです。
(懸念や恐怖に打ち克つ術を“離日”という形で鮮烈に示されるということがなければ)コラスさんの次の執筆はいよいよ鎮魂なり覚悟なり、戦いなりを主軸に据えたものとなるでしょう。日本に残り、そこで暮らして舵取りをするとはそういう烈しいものにどうしてもなっていく。僕は単なる好奇心や時間つぶしではなく、今からもう心待ちにしています。彼の背景にある文化や彼自身の魂を介して、どのような言葉がこの国と読者に寄せられるのか、じっくりと耳を傾け考えたいと願っています。
聖夜ですね。特別な一年でもありましたから、出歩かずに家のなかで家族や恋人と過ごすひとが多いと聞きました。いつもと違って蝋燭の炎も原色の飾り付けも目に沁みて、格別な夜になるでしょうね。
良き夜を、こころ休まる夜を──
(*1):「息子の帰還 Le Retour」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 「旅人は死なない LES VOYAGEURS NE MEURENT JAMAIS」2011集英社 所載 66頁 初出は「SPURLUXE」2007年冬号
(*2):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社
2011年12月3日土曜日
"Lilacs"

革命によって仕事を奪われ、生活圏を追われ、四十半ばにして新天地を求めざるを得なかった作曲家の半生を描いた映画を観たところです。思えば偉人たちに限ったことではなくって、僕たちの数世代上の誰しもが途方も無い長く苦しい旅の当事者です。ここ半世紀の安泰に慣れ過ぎてしまった僕たちではありますが、そろそろ先達の身の上を振り返り、各人が胸に抱く人生のスケールや航路の範囲を変えておいた方が良いのかもしれません
そんなことを考えながら観終わったところです
雨模様の週末です
憂いごとを何もかも洗い落としてくれればいいのだけれど、かえって心配の種に化けていくようで落ち着きません。せめて風邪やインフルエンザを寄せ付けず、笑顔で乗り切っていきましょう。まずは目前の迫る物事を見据え、しっかり取り組んでいきましょうか。それしかないものね───
2011年11月18日金曜日
“反抗するその力よりも”

脚本家の山田太一(やまだたいち)さんが八雲八雲(こいずみやくも)さんのことを書いた「日本の面影」も合わせて読んでいる最中だけれど、予想通り味噌と醤油に関する特段の記述はないですね。古い全集をひもときながら想いをめぐらした気ままな散歩も、そろそろお終いみたいです。
食べもの”について触れたものではないのですが、最後に備忘録をかねて書き写しておきたい箇所があります。“結局この文章に出会うために読み進めてきたのではなかったかと思わせる、とても刺激を含んだ内容です。文頭に“東京、1904年8月1日”とありますから八雲さん晩年の一篇ですね。当時の日本はロシアとの戦争の只中にありました。前年の明治36年の12月21日にロシアの満州侵略に対し抗議を提出し、同28日には連合艦隊が編制されている。年明けて2月10日に開戦、たちまち海も山も砲火に砕け、戦死者の山を築いていく。
そのような暗澹たる世相にあって、東京という街が、そこに住まう人がまるで何事もないように動き、微笑み、ざわめく様子に八雲さんはひどく驚いているのです。理解しようと努め、どうにかこうにか思案を取りまとめていくのですが、読んでいると随所に不協和音が感じられる。困難なテーマに立ち向かっている証拠です。百年以上も前の考察ながら、あの三月の震災後に生きる僕たち“現代の日本人”を考える上で有益な言葉を多く含んでいるように思えます。
東京、1904年8月1日(中略)
日本にとっては、恐らくは、その国民的生命の無上の危機である。(中略)経験に乏しい人の観察には、日本人はいつもと異なったことは、何ひとつしておらぬように見えるであろう。(中略)心配あるいは意気沮喪(そそう)の情態を示すものとては実際にまったく何ひとつ無いのである。それどころか、国民一般の自信が喜ばしげな調子を見、また幾度の捷報(しょうほう)に接しても、国民の自負心が感心なほど制御されているのを見て誰しも驚く。西からの海流が、日本人の死体をその海岸に撒き散らしたことがある。鉄条網の防備のある陣地を襲撃して幾連隊の兵士が絶滅したことがある。幾艘の戦闘艦が沈没したことがある。だが、いかな瞬間においても、国民的興奮は微塵だもこれまで見ない。人々はまさしく戦前通りに、その日日の職業に従事している。物事の楽しそうな様子は、正しく戦前と同じである。芝居や花の展覧は戦前に劣らず、贔屓(ひいき)を有っている。市外の生活は何の影響もこうむらず、ほかの年の夏同様に、花は咲き、蝶は舞っているが、外見では、東京の生活はそれと同様に、ほとんど戦争の事件の影響をこうむっていない。(中略)この戦争の話はすべて悪夢だと思い込むことが出来るくらいである。(*1)
“捷報(しょうほう)とは戦闘に勝ったことを知らせる報道のことで、そういった報せに関してすら大騒ぎしない様子に八雲さんは首を傾げている。誰からも号令をかけられていないのに、まるで「悪い夢」のよう、「無いこと」のように誰もかれもが振る舞っている。なぜここまで統制されていくのか、不思議を感じている訳です。八雲さんは十四年間の暮らしで習得した知識を総動員して、この謎を解こうと躍起です。
古昔(こせき)、この国民は、その情緒を隠すばかりでなく、精神的苦痛のいか圧迫の下にあっても、楽しそうな声で物を言い、愉快そうな顔を人に見せるように訓練されたのであった。そして彼らは今日もその教訓を守っている。陛下のため、祖国のために死ぬる者どもを亡くした個人的悲哀を現すのは、今なお、恥辱と考えられているのである。(*2)
一般公衆は、あたかも人気のある芝居の舞台面を見るように、戦争の事件を観ているように思える。興奮はせずして興味を感じている。そして、彼らの異常な自制心は「遊戯衝動」の種々な表現に特に示されている。(*3)
日本の武家社会には士農工商といった厳格な身分制度や教育機会の不平等、それから男尊女卑や家長制度などが縦横に張りめぐらされていて、人間の思考はさながら蜘蛛の巣に捕まった羽虫のようなもの。前進も後退もままならない。感情を表に出すことを恥と捉える風潮も重なって、完全に手足をもがれた格好になったのだと八雲さんは(それを悪いこと、遅れたことと単純には否定はしていないのですが)推察するわけです。心の奥に渦巻く軋轢は吹き抜ける穴を探して“娯楽”の形にやがて変幻していき、お芝居や子供の遊び、歌や衣装といったもので花開いていく。深刻な討論や表現が回避され、華やいで笑いが寄り添う分野で“無上の危機”が盛んに玩(もてあそ)ばれる。八雲さんはそれを日本の国に巣食う独特の「遊戯衝動」によるものと捉えている。
刻下の世界震盪(しんとう)的なる事件のうちにあって、歌舞を見て感ずると同一様な楽しみを感じ得る、その不思議な度量を見ると──誰しもこう訊(たず)ねたくなる。『国民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであろう』と。……思うに、それは事情如何(いかん)によることであろう。クロパトキンが日本に侵入するという。その軽率な威嚇を実行し得るなら、日本国民は恐らく擧(こぞ)って起つであろう。然しそうでない、どんな大不幸を知っても雄雄しく耐え忍ぶであろう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異変の頻繁な国であった。一瞬時にして幾多の都市を破壊する地震があり、海岸地方の人口ことごとくを一掃し去る長さ二百里の海嘯(かいしょう)があり、立派に耕作された田畑の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋没する噴火があった。こんな災害がこの人種を鍛錬(たんれん)して甘従(かんじゅう)と忍耐とを養い来たっている。そしてまた戦争のあらゆる不幸を勇ましく耐え忍ぶ訓練もまた十分に為し来たっている。これまで日本と最も近く接触し来たっている外国国民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻撃を耐え忍ぶその力は、攻撃に反抗するその力よりもあるいは遥かに勝っているかも知れぬ。(*4)
“クロパトキン”とはロシア満州軍総司令官アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンのことです。“海嘯(かいしょう)”とは、ここでは大津波のことを指しています。日本人の寡黙、微笑み、どんな不条理な事態に面しても憤然とすることなく決して拳(こぶし)を振り回さない“おとなしさ”は、天変地異に幾度も襲われ、そのたびに耐え忍び、生き延びてきた歴史の産物ではないか──そのように八雲さんは考えるのです。
八雲さんが言う“頻繁な異変”とはどんなものか。来日してから亡くなるまでの期間、どのような災害が我が国を襲ったかをここで振り返ってみましょうか。(*5)
【1890年(明治23)】~八雲来日の年~
2月27日 浅草の大火(約1500戸焼失)
9月5日 大阪の大火(約1800戸焼失)
【1891年(明治24)】
12月30日 鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
【1892年(明治25)】
4月10日 東京神田の大火(約4000戸焼失)
【1893年(明治26)】
3月29日 伊勢松坂町の大火(約1000戸焼失)
【1894年(明治27)】
1月24日 鹿児島市大火(503戸焼失)
5月27日 山形市の大火(1200戸焼失)
6月17日 横浜市の大火(約1000戸焼失)
【1895年(明治28)】
6月2日 越後新発田の大火(約2000戸焼失)
【1896年(明治29)】
4月13日 越前勝山町の大火(1200戸焼失)
6月15日 三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月7日 富山県下の大水害(流失3000戸)
8月26日 函館の大火(約2220戸焼失)
【1897年(明治30)】
4月22日 八王子の大火(約3100戸焼失)
【1898年(明治31)】
6月5日 直江津の大火(約1600戸焼失)
【1899年(明治32)】
8月12日 富山市の大火(約5000戸焼失)
8月12日 横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)
9月15日 函館の大火(約2000戸焼失)
【1900年(明治33)】
4月19日 福井の大火(約1700戸焼失)
【1902年(明治35)】
3月30日 福井市で大火(約3000戸が焼失)
8月7日 鳥島が大爆発、島にいた125人全員が死亡
9月28日 関東・東北地方に大暴風雨(足尾銅山の山崩れで死者34人、不明170人)
【1904年(明治37)】~八雲急逝の年~
5月8日 小樽の大火(2481戸焼失)
これは酷い。なるほど毎年のように大きな火事があり、その度に何千もの家屋が焼け落ちています。今回の被害を語る際に話題によく上る三陸地方の大津波も、八雲さんはすごく身近に感じていたんですね。ここまで大きな災害がくり返されると、八雲さんの言わんとすることも当たっているような気になって来ます。喜んでいるのじゃありませんよ、逆に困惑している、心配になってくる。
ウェブを介して情報を収集する手癖の付いてしまった人には、はっきりとした触感となって感じられる話なのですが、海外の視線はまさに八雲さんが書いたこの“不思議な度量”に今なお注がれていていて、むしろ勢いは強まっている。一挙手一投足を睨(ね)め付けるかの如しです。“反抗するその力よりも遥かに勝っている”日本人の“耐え忍ぶその力”に対して唖然とし、いや、そろそろ愕然とする域に踏み込んで見えます。
僕たちの身体に染み入ってしまった忍従の力が、かえって“国民的生命の無上の危機”へと僕たちを追いやっていないか、真剣に考える必要がありそうです。現代のクロパトキンの侵入は軽率な威嚇程度では済まない。“甘従(かんじゅう)と忍耐”では抗しきれない相手のように思えます。
八雲さんの遺した言葉を日本人礼讃と捉え、美しい態度、素晴らしい姿じゃないか、さあ頑張ろう、いっしょに耐えていこう──そのようにまとめるのが普通かもしれないけれど、僕にはどうしてもそうは思えないんですね。きっと八雲さんも望まないように思えます。
(*1): The Romance of the Milky Way and other studies and stories(天の河縁起そのほか)「日本からの手紙」 小泉八雲 1905 大谷正信訳 全集第7巻 485-487頁
(*2):同487-488頁
(*3):同488頁
(*4):同506-507頁
(*5): http://meiji.sakanouenokumo.jp/
2011年11月17日木曜日
“無味に思える”

蛙(かえる)の冷たい、しっとりと湿った、緊(は)りの無い天性
に関して斯(か)く詩人が無言でいるのを怪しんでいる間に、突然
自分の胸に浮かんだことは、自分が読んだ他の幾千という日本の詩歌
に、触覚に関して詠(よ)んだものが全く無いという事であった。
色、音、匂いの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表わされている。
が、味感は滅多に述べて無い、そして触感は絶対に無視されている。
この無言もしくは冷淡の理由は、これをこの人種の特殊な気質または
心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うてみた。が、まだ自分はその
疑問を決定することが出来ずにいる。この人種は、西洋人の舌には
無味に思える食物で幾代も生活し来たっていることを憶(おも)い
起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或いは愛情のほかの肉体的
表明とかいう動作を為せる衝動は、極東人の性質が実際全く知らずに
いるものということを憶い起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なもの
にせよ、とにかく味感と触感とは、その発達が日本人は我々よりも
遅れているという説を抱きたくなる。(*1)
小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんが書かれた文章です。八雲さんは身も心も日本に投じ、この地で独自に発達を遂げた文化や思想を貪欲に吸収していきました。微に入り細を穿って書き留められた光景は、伝説やおとぎ話も含めて美しく、機微を含んでずいぶんと胸の奥深くまで沁みわたるのだけど、なぜか“食べもの”だけが蚊帳の外に置かれて見える。一体全体それはどうしてなんだろう、と先日来くずくずと考え続けて来た訳です。
先におこなった抜き書きからは八雲さんが日本の食事に物足りなさをどうやら感じ、それを悔しく思っていた様子が読み取れたのでしたが、上の文章を読むと嫌悪とまでは言いませんが、和食に対してかなり辛辣でどんと突き放している雰囲気があります。出版された時期から察するに、来日して七年か八年が経過していた頃でしょう。十分に風土に慣れ親しみ、四季を通じて多彩に変化していく日本の食料事情も飲み込めた時期です。そんな日本通の八雲さんから“西洋人の舌には無味に思える”と僕たちの食生活を評されてしまうと、いささかショックです。
隣国である大韓民国が小学校の給食にキムチを添えることを義務付けたりした理由がそうなのだ、と教わりましたが、味覚というものは幼年期に完全に組み立てられ、その時期に刷り込まれないと生涯にわたって“美味しい”とは感じ取れなくなるものらしいのです。人間の味覚、嗅覚の仕組みというのは実に不思議です。家庭の事情や根っからの異邦人という生来の体質から、地球のあちらこちらを転々として過ごしてきた八雲さんにとって、その四十年間に刷り込まれた食文化の情報量はさぞ激烈で膨大なものだったでしょう。そんな彼にとって日本での食事(醤油、味噌も含めて)は、正直言って味気ないものだったに違いありません。これが案外真相なんでしょうね。
そろそろ八雲さんをめぐる“食べもの”の話はやめにしましょう。いえ、何も和食をぞんざいに言われて気分を害した訳ではなくって、八雲さんの視点の面白さをもっと書き留めたくなっただけです。上の文章にある“触感”の話などきわめて面白いですよね。百年前の記述なのだけど、時代を超越した日本人論になって胸に迫ります。
海外での生活経験が豊富な友人から“握手”の話を聞かされたことがあります。出逢いや別れに際して交わされるあれですが、日常の何気ない儀礼に過ぎないと思われることなれど、そこで取り交わされる感情の綾は相当なものらしい。正のものもあれば負のものもありますが、実に多彩で大量のものが“触れ合い”を介して瞬時に行き来し、互い互いに汲み取っていく。文中にある“肉体的表明”という語句は古めかしい感じを与えるけれど、閃光にも似たまばゆい面持ちの、昂揚を誘う時間を築いている。
好感や信頼、融和、解放、休意、深慮、はたまた求心なり恋慕──実際のところはそんな単語をずらずらと述べていたわけではありませんが、数秒間に過ぎなかった一度の握手について、手のひらに宿る体温の印象やそこから派生する揺らぎや安息、土台に眠る気質や知性の奥行き、互いの状況と将来の展望といったことについて嬉々として語ってやまない友人を見ていると、「触感」は日本人の完全に出遅れてしまった分野だと素直に認めない訳にはいかない。対人間の交感や情報のやり取りを、ほんとうに真摯に積極的に捉えている印象を受けました。こりゃ敵わない、これが海外の基準だとすれば日本人の日常など“無味”で“遅れている”、空洞化していると揶揄されても仕方ないかな、と思います。
いつか上に書いたようなあざやかな、めくるめく明るさに充ちた“握手”が僕にも出来たらいいな。それにはもっともっと修練が必要だな──そんなことを夢想しているところなのです。
(*1): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「蛙」 小泉八雲 1898 大谷正信訳 第5巻 419-421頁 引用箇所には続きがあって、八雲さんは日本人の指先の器用なことを褒めたたえ、超絶技巧の工芸品を例に引いて後段を締め括っています。鈍感というのではなく、方向が違うのだと言いたいのでしょう。叱られないよう、そちらも合わせて書き写しておきましょう。(でも、日本食の味気なさについて補完する言葉は、最後の最後までないんですよ!)
──日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊な方向に発達している触覚の、ほとんど比較にならぬほど精緻なことを確証している。この現象の生理学的意義は何であろうとも、その道徳的意義は極めて重要である。自分が判断し得ただけのところでは、日本の詩歌は、我々が美的と呼んでいる高等な感性に微妙極まる訴えを為しながら、劣等な感性は普通これを無視しているのである。この事実は、他の事は何ひとつ表示しておらぬにしても、“自然”に対する最も健全な最も幸福な態度を表示しているのである。(中略)日本人だけが百足虫(むかで)の形態を美術的に使用し来たっているという事実は意義のないことであろうか。……模様のある革の上をば炎の小波のごとく 走っている金の百足虫(むかで)!が附いている京都製の自分の煙草入れを読者諸君に見せたいものである。
2011年11月11日金曜日
“朝食は汁と魚と”

朽ちかけた背表紙に手のひらを茶色くし、舞い散る粉でソファを汚しながら古い全集を読み進めるうちに、一枚の“忘れ物”を見つけました。図書館の本には思いがけないフロクが付いていることがあります。
四つ折りにされたわら半紙(今ではなかなかお目にかからない)が頁と頁の間に挟まっています。「生活設計表」と上に書かれてある。おとなの字です。謄写板によるものか、黒いインクがところどころ霞んだり滲んだりしながら几帳面にびっちりと罫線が引かれており、横軸には等間隔で左から右に6,7、8──と数字が刻んであります。硬い鉛筆で書かれた幼さの残る文字が行間で踊り、「起る」だの「飯」、「学校」だのと読めます。時どき「○○○公園にいった」とか「子どもの日で外出」とあります。どうやら小学校高学年か中学生による一行形式の日記のようです。生活習慣を意識付けるための宿題だったのでしょう。
「テレビ」は夜に限って1時間ほど観ています。就寝はほぼ毎日一定で9時です。昨今の傾向からすれば随分と早い時間です。紙そのものから染み出た油か何かが本の頁を真四角に染めており、両者が長い歳月ぴたりと寄り添っていたことが察せられる。ワードプロセッサーもなかった時期のものです、かれこれ四十年ほども遡った頃の日記でしょうか。“2年5組№13”と書かれた下に名前が読めます。落とし主は男の子ですね。彼がこの全集が明るい場所に並んでいた頃の最後の読者だったのかもしれません。
百年前に亡くなった小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの八十年前に出された全集に、四十年前の日記が挟まって眠っている。歳月を跨いで先人との会話が再開されていく、溝がさっと埋まって交感がさんざめく感じが嬉しいし、愉快です。
僕がこうして書き綴っているブログという名の吐息や囁きも、いつしか“落し物”となって忘れ去られ、40年後なり100年後に偶然に読まれるものだろうか。そのとき、子孫たちはどんなまなざしを向けてくれるものだろうか。そんな夢想もしてしまうのでした。
28.8年とか30年とか、はたまた2万4千年という年数を眉根ひそませ考えることを僕たちは今、(はた迷惑な話で怒りも湧きます)強いられています。ですから、未来を想うことはどうしても複雑な心境になります。もしかしたら怨嗟に満ちた目線でこの文章だって読まれるのかもしれない。どうして逃げなかったの、どうして手荷物ひとつで旅立たなかったの、そもそも何であんな未完成な機械に頼ってしまったの────。図書館の忘れ物のように気持ちをなごませる、微笑ましさと懐かしさを感じさせるもので在って欲しい、そんな穏やかな将来であって欲しいと願わずにはいられない。
脇道にそれちゃいましたね、話を戻しましょう。八雲さんの物語にどうして醤油や味噌が見えないか、その正確な理由は結局分かりません。臭いとか不味いと疎(うと)んじる気配もない。でも、全集のなかから食事に関する記述(節子夫人の懐旧談も交じる)を抜き書きしてみると、八雲さんの筆のためらいがなんとなく分かるような気になります。もしかしたら八雲さんにとって食事は、乗り越えられぬ大きな壁であり、そっと意識から外したかったのかもしれません。
学校から帰ると直ぐに日本服に着換え、座布団に座って煙草を
吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。
何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りま
した。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤(いや)しんだ
ように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似を
しますか』という調子でした。(節子夫人のはなし *1)
決して一度も、西部日本の何処ででも、西郷に居た時ほど居心地が
よかったことは無い。薦められて行った宿屋には、客は友と自分と二人きり
であった。(中略)食物は驚くばかり上等で、珍しいほど変化に富んでおり、
欲しければセイヨウリョウリ(西洋の料理)を──フライにした馬鈴薯添
えてのビフテキ、ロースト・チキンその他を──注文してよいと言われた。
自分は旅行中は純日本式食事を守って手数を避けることに決めているから、
その申出を利用はしなかった。(中略)日本全国のうちで一番原始的な
土地へやって来たのだから、近代化するすべての勢力の範囲外はるか遠く
に自分を見出すことと想像していたのであった。だからフライにした馬鈴
薯添えてのビフテキを思い出させられたのは幻滅であった。(*2)
1891年6月 松江にて(中略) 私は私自身の弱点を白状するのは
非常に恥じ入ったことではありますが、しかし事実は申し上げなくては
なりません。実は私は十ケ月間というものは日本食ばかりを食べていて、
他にはいかなる食物も口に入れなかったので、つい肉食を腹一杯食べる
ように余儀なくされたのであります……たった二日間だけの肉食生活
ではありましたが……。そしてその結果病気にかかってしまいましたので、
日本食で養生することが出来なくなりました──鶏卵でいくら勢いをつけ
ても駄目なんです。私は牛肉、鳥肉、ソーセージ、フライにした固形物等を
驚くばかり貪食し、あまつさえビールを鯨飲しました──これというのも
私は一人の外国人の料理人を松江で僥倖(ぎょうこう)にも見出したから
であります。私は大いに赤面しております。しかしこれは私の罪でもなけ
れば日本人の罪でもありません。皆私の祖先の罪なのです──すなわち
北方人類の凶暴にして狼のごとき遺伝的本能とまたその傾向とに原因して
いるものであります。父およびその他の人達の罪悪なんです。(*3)
食物には好悪(こうお)はございませんでした。日本食では漬物でも、
刺身でも何でも頂きました。お菜から食べました、最後に御飯を一杯だけ
頂きました。洋食ではプラムプデインと大きなビフテキが好きでございま
した。(節子夫人のはなし *4)
1893年10月13日(中略)午前七時──朝飯。極めて軽い物──
玉子と焼きパン。ウイスキー小匙入れたレモナードと黒コーヒー。妻が
給仕する、私は妻にも少し食べさせようとする。しかし妻は少ししか
食べない──あとで一同の朝飯の時にも顔を出さねばならぬから。(*5)
二番目の旅行記と三番目の手紙などを読むと、身も心も日本に染まろうと願う余り、身体の要求を無理やりに八雲さんは抑圧していて、裂け目やひずみを来たしてしまった印象を受けます。また、こちらも旅行の記録ですが、八雲さんが日本の食の慣習に触れ、少なからぬ興味を示しているくだりがあります。
老主人が私を湯殿へ案内して、私を子供扱いに主人自ら強いて、私を
洗ってくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、ご馳走を
私のために調理した。私が二人前ほど食べた後でも、彼女は私に満足を
与えなかったということをひどく気にして、もっと沢山料理を作りかねた
ことを大いに詫びた。
彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚があり
ません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、
漁師が漁に出かけますので、両親とも生きている人は、魚を食べてもよろ
しいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と
言った。(*6)
東洋の信仰には“食を控えること”で精神的な高みを目指したり、霊的な交信を願う根強い流れ(*7)があって、断食修行や即身成仏がその究極のものとしてあります。日本という国に魅了され、その文化をとことん愛し貫いた男が和食のみで健常な心身を保つことがならず、西洋料理を定期的に摂取せねばならなかったことは恥辱とまでは言いませんが、硬いしこりを彼の精神中に育てたように思われます。(*8)
午前三時半── 一睡もできなかった──夜更けて山から下りてきた
連中や、参詣のため到着した者共で夜中のどさくさ──下女を呼ぶ手の
音が絶えない──隣室は飲めや歌えの大騒ぎ、折々どっと哄笑(こうしょう)
が起こる……朝食は汁と魚と御飯。(*9)
小泉八雲さんの全集でようやく見つかったのは、味噌汁でもなければお吸い物でもない、ただの“汁”でした。前夜の不眠にいらだつ気持ちもあったでしょうが、なんとも淋しく直截な表現です。汁、たしかにスープなんだけど、こんな書き方は珍しいですよね。
日本を舞台に選び、日本人の生活を描けば、自ずと味噌汁や醤油が現われて腋をかためるというのでなく、書き手のこころの有りよう次第で違ってくる。劇中それらが闊歩すると僕たちは“自然なこと、普通の場景”と受け止めますが、書き手によっては底なしの作意をこめて描くことだってある訳です。また、意識すればこそ、想いが強ければこそ書けないことって人間にはあるものです。八雲さんの見えない味噌汁はその証しとなっている。味噌汁の記述は結局なかったけれど、番外編ということで書き残しておきます。
八雲さんの物語には“転生譚”が多い。今度どこか別の世で八雲さんと逢えたら、と思います。僕たちがこれからどう生きるべきかの助言も欲しいし、味噌汁や醤油に対する感想もそっと耳打ちしてもらいたいですね。
今年の夏に冷房を我慢したせいもあるのでしょうか、ここ半月の気候に僕の身体はついていけません。体温調整が利かず、いくら重ね着しても寒くて寒くて仕方ない。
そちらはどうですか。寒くしていませんか。
どうか元気に、気持ちも身体もあたたかく、
あたらしい季節の幕を開けてください。
(*1):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 308頁
(*2): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第23章 伯耆(ほうき)から壱岐(おき)へ」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 第3巻 740-741頁
(*3):「チェムバリンに」 小泉八雲 金子健二訳 第9巻(書簡集) 523-524頁
(*4):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 333頁
(*5):「ベーシル・ホール・チェムバリンに」 小泉八雲 大谷正信訳 第10巻(書簡集) 358頁
(*6): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第6章 盆踊」 小泉八雲 1894 第3巻 171頁
(*7):これは上村一夫さんの作品にも顕著でしたね
(*8):三月以前は口にする必要も何もなかった横文字の物質をひっそりと赤身や脂に紛れ込ませた牛肉を“驚くばかり貪食”している僕たちの今を、いったい彼ならどのように見てどのように感じるものか。『現代の便利な物』である汽車を嫌い、電話を家に引くのを断乎として許さなかった男の目に、ふたたび光を増した夜の街がどのように映るものか。100年前に独り煩悶していたこの心根(こころね)の誠実過ぎる男に対して、僕は申し訳ない気持ち、恥ずかしい気持ちでいます。
(*9): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「富士山」 小泉八雲 1898 落合貞三郎訳 第5巻 281頁
最上段の写真は今やっている展示会のポスターです。行きたいなあ。
2011年11月10日木曜日
“二三の料理を”

イタリアの伝記映画を観終えると、正午をちょっと回った辺りです。まだお腹も空いていませんから、その足で真っ直ぐ図書館に行きました。
パソコンで蔵書検索をかけ、小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの全集(*1)を出してもらいました。別巻一冊を加えると全部で18冊、かなりの分量です。80年以上前の本ですから革の背表紙部分に崩壊が始まっている。クッキーが割れて粉々になるような具合です。手が汚れるので気を付けてください、重いのでどうぞこのまま、と親切な館員の方から言われ、整理作業用のワゴンに載せたまま館内をきゅるきゅる押して歩きます。なんか普通でなくって、少しだけ得意な気分。
フロアには割合にひとの影があります。けれど、こちらの気のし過ぎかもしれないのですが、糸のほつれた感じというか、やや剣呑な空気が漂っている。館員から何事か注意された男性が辺りはばからずに大声で意見してみたり、長く沈んだ溜め息を繰り返すひと、呼吸器系の発作かと心配になるひどい咳き込みを重ねる人などが耳に障り、気持ちを泡立てます。あれだけの天災と混乱を経たのです、誰の身にも疲労なり心配は蓄積なっているのだと思います。
窓際のソファに腰を下ろして外を見やれば、灰色の空に雲が蛇のようにぐわりと逆巻き、たなびいている。以前観た「怪談」という映画(*2)を思い出します。八雲さん原作のあの「怪談」です。あれには物凄い空が描かれていましたね。
いよいよ小雨がぱらつき出しました。誰でもそうなのかもしれないけれど、僕は“幽霊”の夢をときどき見てしまい、わっと叫んで跳ね起きることがあります。長い髪のおんなだったり、見知らぬ中年男だったり日によって違うけれど、部屋に無表情でするすると入って来たり、寝ている僕にがばりとのしかかってくる。こんな年齢になっても恐怖映画が苦手で逃げ回っているのは、どこかで超自然のことを信じているせいかもしれません。
けれど、「怪談」に代表される八雲さんの世界は別物です。多くが悲恋を土台にしているので全篇がうつくしい旋律に彩られ、経験値の少ない唐変木の僕にも熱く迫って来るもの、強く揺さぶるところがある。甘っちょろいと思われそうだけど、奇蹟とか運命とか、魂のことってやはりこの世に有るように思えて八雲さんの書くものがどれもこれも本当と感じられる。
こうして全集をひもとき書簡集も含めて読み進めていくと、さらに彼の人柄や性格も手のひらにしっくり伝わるような感じでこころ強いというか、どこか励まされるような気持ちになりました。あくまで現実とは違う次元であって、生きた友人同士が膝を寄せ合い談笑する嬉しさ、愉しさには遠く及ばないにしても、人間の“核”(と書くと今は胸騒ぎするところがあるのだけど、でも“芯”とか“核”という強い響きとイメージにすがり付きたい時もあります──)に触れ合うような悪くない時間になりました。
わざわざ足を運んで八雲さんの道程を探った理由は、もちろん“味噌”や“醤油”の記述の有無、表現なり反応に対する好奇心に外なりません。結論から言えば(僕の目がふし穴でなければですが)八雲さんの視界に味噌や醤油はまるで無いんですね。落胆を通り越して不思議であり、とても興味深く思えました。婦人の懐旧談で漬け物(奈良漬)なんかが不意にクローズアップされたりはしますが、味噌と醤油はまるでこの世に存在しないかのようです。
明治23年(1890)、四十歳のときに横浜に上陸して以来、十四年間に渡って日本に居住してやがて心臓を患い、愛妻節子さんの側で眠るように亡くなってしまう八雲さんでしたが、驚嘆させられるのは執拗で飽くことなき日本文化への探求、その凄まじさ、その厚み、堆積です。
───蝉(せみ)、蜻蛉(とんぼ)、蝶といった小さきものと文人との関わりかた、仏具のかたちとそこに込められた意味、日用食器の装飾と由来、儀式、言葉、神話、日本人の骨格、瞳なり髪といった部分の特性、売り子の声、子供の遊び唄、それに派生し絡まっていく宗教観と死生観、聖書との交差、呼び覚まされた記憶から爆発的に連なっていく欧州文化に対する意識改革、視野の拡大──八雲さんの旺盛な好奇心は全方位に駆け巡り、まぶしく連射され続けます。
込み入った内容のはずなのに、愛着と憐憫が泉のように溢れてたゆたい、至極おだやかな面持ちの文面になっている。硬軟交互に綾織られた言葉を目で追うと、とても知的で趣味もいい友人とおしゃべりしているような気分です。
博覧強記の八雲さんが全身全霊をあげて漁にかかった日本で、その網に不思議と“醤油、味噌”が入ってこない、というより、“食べもの”への執着がすべからく薄い。たとえば「舞妓(まいこ)」と題された随想には悲しい因果話が挿入なっています。旅人が山峡で道に迷い、偶然見つけた家に一晩だけ厄介になる。主(あるじ)は妙齢のうつくしい女性であって、その容姿と立ち居振る舞いが高貴な血筋を連想させ、男のこころを虜にしていく。腹を空かせた男におんなは出来る限りのもてなしをするんですね。
飢えていた旅人は、この勧めを非常によろこんだ。若い女は小さな火を
焚いて、黙ったまま、二三の料理を調(ととの)えた──菜の葉を煮たもの、
油揚、干瓢、それに一杯の粗飯──それから、その食物の性質について、
詫びながら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を言わ
なかったので、その打解けぬ様子は彼を困惑させた。彼が試みた二三の質問
に対し、彼女は単に頷いたり、あるいは僅かに一語の返答をするに止まる
ので、彼は間もなく談話を控えてしまった。(*3)
同様の場面が泉鏡花(いずみきょうか)さんの作品(*4)にもありました。ほぼ同時代の作品なのに、鏡花さんのものと比べると八雲さんの筆が“食べもの”に関してびっくりするぐらいぞんざいなのが分かります。“飢え”を抱えた人間と真正面から向き合うものになっていない。斜(はす)に構えた調子が独特です。
旅行記の一節にはこんなくだりがあります。これなんかも世界を構成するほかの要素から“食べもの”だけが剥離しているというか、どうも上手く噛み合っていないように感じられる。
その宿屋は私に取っては極楽、そこの女中達は天人のように思われた。
それは私があらゆる『現代の便利な物』のある欧州式のホテルで安楽を
もとめようと試みた一つの開港場から丁度逃げ出したところであったから
である。それ故もう一度浴衣(ゆかた)を着て、冷(すず)しい畳の上に
楽々と座って、よい声の若い女達にかしづかれて、綺麗な物に取りまかれ
て居るのは、十九世紀のすべての悲しみの償いのようであった。筍や蓮根
が朝飯に出て、極楽のかたみに団扇(うちわ)を贈られた。(*5)
天女に給仕される無上の想いに酔いながら、八雲さんは極楽での食事を書き飛ばしています、まるで怖れるように、まるで逃げるように──。とても奇妙な後味を残します。
(*1):小泉八雲全集 第一書房 1926-1927 次回も含め引用はすべて当全集より 当用漢字に直したり旧仮名遣いを変更したり手を入れてある
(*2):「怪談」 監督 小林正樹 1964 予告編を下に貼っておきましょう
(*3): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第22章 舞妓について」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 全集第3巻 680-681頁
(*4):「高野聖」 泉鏡花 1900
「さて、それから御飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香の物、
生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、
塩漬の名も知らぬ茸の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころ
ではござらぬ。
品物は侘しいが、なかなかの御手料理、飢えてはいるし、
冥加(みょうが)至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に
肱(ひじ)をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。」
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/12/1900.html
(*5): Out of the East: Reveries and Studies in New Japan(東の国から)「夏の日の夢」 小泉八雲 1895 田部隆次訳 全集第4巻 15頁
2011年10月31日月曜日
“ひとり観”

前からも後ろからも真ん中あたりの列、中央寄りの席に座っています。国家元首か大富豪がプライベートの上映室にワイン片手に陣取った風でもあり、見た目には豪華な感じがしないではありません。夕方の回なのに、いや、夕方の回だからなのか分からないけれど、結局誰も入って来ないのです。百席ほどの館です。スクリーンを前に最初から最後までひとり切り、独占状態で映画を観ました。こんな経験はそうそうなく、生まれて此の方三度目ですね。
三度というのが多いのか少ないのか、僕には判断がつきません。もっと田舎の映画館ではそんな光景が日常茶飯なのかもしれないし、存外都会だってよく起きる事かもしれない。大した話じゃないかもしれないけど、書き留めたくなる話もそうそう無いしね。まあ、とにかく久しぶりの“ひとり観”だったわけです。
お客はひとりと考えて暖房費をケチったのではないのでしょうが、どうも肌寒くてたまらない。映画館という場処は適度に人の気配やざわめき、体温や吐息、咳き込んだり笑ったり、鼻すすったり、音や画面に驚いて傾いだり、そういう要素がないと妙に淋しく、ひどく寒々しいものですね。暖房が切られたせいじゃなく、“ひとり”ということが身にこたえるのです。奇妙な体験に胸躍らせていた前の時とは違って、あまり嬉しい気分じゃありません。
途中遅れて入ってきた客が指定の席に座ろうとしてじたばたし、他の客の足を踏んでちょっとした騒ぎを起こしてみたり、隣りに座った観客のクスリと笑う気配を好ましく思ってみたり───。ささやかな事ですが、人間って面白いな、素敵だな、と感じます。つまりはひと恋しさを埋める効果も劇場には確かにあって、単に映画を眺めにいく処ではないのでしょう。でなければホームシアターなりベッドルームの液晶テレビに役目をとうに譲っているはずだもんねえ。
ホットコーヒーにすれば良かった。脇の椅子からコートを取って首から胴まですっかり覆い、大きな茶色い照る照る坊主になりました。さらにその下で自分の身体をきゅっと抱きしめながら見ていました。
映画はスペインの作品(*1)でした。いのちの炎のまさに消えかかろうとする男が主人公です。特殊な状況下で神経のひどく研ぎ澄まされていく最後の二ヶ月間を、残される家族の身の末や自分に関わるひとの自活の行方を自問自答しながら、懸命に、ぼろ布(きれ)みたいになりながらも生き抜いていく、そんな内省的な内容でした。
日常の“食事”の光景がとても丁寧に取り上げられていたし、生きながらえることで訪れてしまう切なく胸をふさぐ場景も逃げず果敢に描かれている。僕の置かれた状況とリンクする(いや、不治の病と闘っている訳じゃないです)ところもあって、それはそれで悪くありませんでした。整頓し切れぬまま乱雑を極めてしまった胸の奥の部屋を、数名のボランティアの援けを借りながらことこと掃除していく、そんな風な“双方向の感覚”があって映画鑑賞自体は“充ちた時間”であったと思います。
けれどねえ、ひとりで、連れがいないという意味でなく、本当に“ひとり”で映画館で映画観てるって、人間の生活としてどうなんだろう。身に沁みて考えさせられる時間になりましたね。
夜風に身をすくませながら車に乗り込み、FMから流れるクラシックを大音量にします。さびしさを紛らわせたい一心です。今番組表で調べてみたら、どうやらラフマニノフのピアノ協奏曲。映画を反芻し、あれこれ想いながら走りました。
秋はいよいよ深まります。
どうか早め早めに一枚羽織り、指先、足先まで温かくして過ごしてください。
生命(いのち)の炎を意識しながら、大事に大事に歩みを続けてください。
すばらしい錦秋を、すばらしい四季の移ろいを──
(*1): BIUTIFUL 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2010
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