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2012年2月28日火曜日

“Уха(ウハー)”


 “食べもの”を口に含んだ瞬間、こころの芯を燻(いぶ)され、思いがけず汗ばみ上ずって、やがて軟化させられた挙句に深い恋に落ちる、そんな設定のお話がたまにあります。


 それ等はどれもこれもが地味な顔立ちをしており、起伏に欠けて退屈至極の内容と思われがちなのだけど、実際は隅々まで細工がほどこされていることが多い。後からじわり“押し味”の効いてくる層の厚い作りになっている。


 日常の事象、そのひとつひとつに目が行き届き、裏打ちされた幽かな想いが寄り添います。これに気付く感度の良さ、視力や嗅覚をフルに活用しようとする意志といったものがドラマの登場人物に、また僕たち観る側にも求められてしまう。


 先日観たイタリアの映画はまさにそれでした。“Уха(ウハー)”という魚のスープが登場するのだけど、これが料理の域を越えた役目を担っていて凄かったなあ。(僕の惹かれる“味噌汁”の描写に通じるものがありました。)この“Уха(ウハー)”の起用にとどまらず、色んなもの、衣裳や美術、音楽までずいぶんと手が入っていて、充足感がとてもあった。冒頭は雪の降り積もった白い街の遠景で、こんな凍てつく季節に観るのもどうかと最初は思ったのだけど、結果的にはたくさんの事を考えさせられてなかなか良い時間になりました。



 今夜から明日にかけて雪の場所もあるそうですね。どうか気を付けて、怪我のないようにお過しください。温かくして風邪をひかれませんように。

(*1): Io sono l'amore  監督/脚本 ルカ・グアダニーノ 2009


2011年12月3日土曜日

"Lilacs"


 革命によって仕事を奪われ、生活圏を追われ、四十半ばにして新天地を求めざるを得なかった作曲家の半生を描いた映画を観たところです。思えば偉人たちに限ったことではなくって、僕たちの数世代上の誰しもが途方も無い長く苦しい旅の当事者です。ここ半世紀の安泰に慣れ過ぎてしまった僕たちではありますが、そろそろ先達の身の上を振り返り、各人が胸に抱く人生のスケールや航路の範囲を変えておいた方が良いのかもしれません

 そんなことを考えながら観終わったところです


 雨模様の週末です

 憂いごとを何もかも洗い落としてくれればいいのだけれど、かえって心配の種に化けていくようで落ち着きません。せめて風邪やインフルエンザを寄せ付けず、笑顔で乗り切っていきましょう。まずは目前の迫る物事を見据え、しっかり取り組んでいきましょうか。それしかないものね───

2011年10月31日月曜日

“ひとり観”



 前からも後ろからも真ん中あたりの列、中央寄りの席に座っています。国家元首か大富豪がプライベートの上映室にワイン片手に陣取った風でもあり、見た目には豪華な感じがしないではありません。夕方の回なのに、いや、夕方の回だからなのか分からないけれど、結局誰も入って来ないのです。百席ほどの館です。スクリーンを前に最初から最後までひとり切り、独占状態で映画を観ました。こんな経験はそうそうなく、生まれて此の方三度目ですね。


 三度というのが多いのか少ないのか、僕には判断がつきません。もっと田舎の映画館ではそんな光景が日常茶飯なのかもしれないし、存外都会だってよく起きる事かもしれない。大した話じゃないかもしれないけど、書き留めたくなる話もそうそう無いしね。まあ、とにかく久しぶりの“ひとり観”だったわけです。



 お客はひとりと考えて暖房費をケチったのではないのでしょうが、どうも肌寒くてたまらない。映画館という場処は適度に人の気配やざわめき、体温や吐息、咳き込んだり笑ったり、鼻すすったり、音や画面に驚いて傾いだり、そういう要素がないと妙に淋しく、ひどく寒々しいものですね。暖房が切られたせいじゃなく、“ひとり”ということが身にこたえるのです。奇妙な体験に胸躍らせていた前の時とは違って、あまり嬉しい気分じゃありません。
 

 途中遅れて入ってきた客が指定の席に座ろうとしてじたばたし、他の客の足を踏んでちょっとした騒ぎを起こしてみたり、隣りに座った観客のクスリと笑う気配を好ましく思ってみたり───。ささやかな事ですが、人間って面白いな、素敵だな、と感じます。つまりはひと恋しさを埋める効果も劇場には確かにあって、単に映画を眺めにいく処ではないのでしょう。でなければホームシアターなりベッドルームの液晶テレビに役目をとうに譲っているはずだもんねえ。



 ホットコーヒーにすれば良かった。脇の椅子からコートを取って首から胴まですっかり覆い、大きな茶色い照る照る坊主になりました。さらにその下で自分の身体をきゅっと抱きしめながら見ていました。


 映画はスペインの作品(*1)でした。いのちの炎のまさに消えかかろうとする男が主人公です。特殊な状況下で神経のひどく研ぎ澄まされていく最後の二ヶ月間を、残される家族の身の末や自分に関わるひとの自活の行方を自問自答しながら、懸命に、ぼろ布(きれ)みたいになりながらも生き抜いていく、そんな内省的な内容でした。


 日常の“食事”の光景がとても丁寧に取り上げられていたし、生きながらえることで訪れてしまう切なく胸をふさぐ場景も逃げず果敢に描かれている。僕の置かれた状況とリンクする(いや、不治の病と闘っている訳じゃないです)ところもあって、それはそれで悪くありませんでした。整頓し切れぬまま乱雑を極めてしまった胸の奥の部屋を、数名のボランティアの援けを借りながらことこと掃除していく、そんな風な“双方向の感覚”があって映画鑑賞自体は“充ちた時間”であったと思います。


 けれどねえ、ひとりで、連れがいないという意味でなく、本当に“ひとり”で映画館で映画観てるって、人間の生活としてどうなんだろう。身に沁みて考えさせられる時間になりましたね。


 夜風に身をすくませながら車に乗り込み、FMから流れるクラシックを大音量にします。さびしさを紛らわせたい一心です。今番組表で調べてみたら、どうやらラフマニノフのピアノ協奏曲。映画を反芻し、あれこれ想いながら走りました。



 秋はいよいよ深まります。

 どうか早め早めに一枚羽織り、指先、足先まで温かくして過ごしてください。

 生命(いのち)の炎を意識しながら、大事に大事に歩みを続けてください。


 すばらしい錦秋を、すばらしい四季の移ろいを──


(*1): BIUTIFUL 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2010

2011年10月23日日曜日

You are what you eat



 先日、何年かぶりにある映画(*1)を観直しました。

 仕事に行き詰まった初老の作曲家が主人公。溺愛する娘を喪い、そのあげく妻との仲もこじれてしまったのか、単身海辺の避暑地にやって来ます。持病である壊れかけの心臓を療養するのが目的ですが、精神的に追いつめられての雲隠れ、逃避行なのは誰の目にも明らかです。そこで出逢った眉目秀麗な少年タッジョに目を奪われ、平衡を失っていた男の魂はさらに深く傾いで転覆寸前となるのでした。


 物語の背景にあるのは“疫病”の蔓延です。“死”を強く意識させて男の内面や美意識を彫り込んでいく。

 登場人物を追い込み、魂の振幅を後押しするのは作劇上の技法としては常套手段であって、悪魔や犯罪者の群れなんかが背景を彩ります。けれど、この映画のあまりの生々しさ、現実世界と共振するさまに意表を突かれ愕然としてしまいました。原作をひもといてみれば、男は喉の渇きを潤すために腐れかけの苺を(十分に疾病のリスクを承知していながら)口にしており、それが原因で罹患して終幕意識を失います。情報の隠蔽と規制、出版物の購入差し止めなどが描かれてもいます。ロマンティークな気分は遠のいてしまい、黙示録の光景、恐るべき啓示として目に映ってなりませんでした。

 また、昨日には一通のお手紙をいただきました。まさに渦中のなかの渦中に住まうひとからで、そこには「この度の原爆事故の一刻も早い収束を祈っています」と書かれていました。“原発”ではなく“原爆”と綴られている。間違いには違いないが、実感として当たっている、正しいと僕は感じています。


 津波に襲われ破壊し尽くされた沿岸部にたたずんだとき、僕の意識は大戦の惨禍と無理なく直結しました。手紙の女性が原発と原爆を連結して筆を走らせてしまったのは、恐らく自然すぎるほど自然な思考の流れが彼女の脳裡にあったためです。もっともな事態です。

 
 本能や直感を冷笑し、冷静さ、科学的根拠の名のもと言われるまま(というより“言われないまま”というのが実態に即しているように思えますが)行動するだけで本当に大丈夫なのか。僕のなかでは盛んに波立つものがあって、落ちつかぬ日々を過ごしています。


 なるほど放射線障害とイタリアの古都を襲った疫病は違います。また、発電所事故と広島、長崎を襲った原子爆弾の炸裂とは無関係です。けれど、私たちは何かしらの地図を頼りに、自分たちなりに道を見定めながら歩いていくべきだと感じます。ロシアの事故、目を覆う戦禍、しのび寄る疫病といった先人の背負った“現実”をそっと懐中に忍ばせて、自分たちなりの歩みを続けなければいけない。



 You are what you eat ──そんな言い回しを以前教わりました。


 これからの僕たち、そして、僕たちの次の世代にとってこの言葉の放つ意味は何層にも膨らんでいくでしょう。食べることに限らず、読むこと、見ること、学ぶことといったあらゆる“摂取”行為が次の一手を大きく左右していく。


 弛緩してばかりはいられない。笑ってばかりの時代は過ぎたように思えます。ふくらはぎか足裏か、どこかには緊張を引きずりながらしっかり歩んでいきたい、そう思っています。

(*1):Morte a Venezia / Death in Venice 監督ルキーノ・ヴィスコンティ 1971

2011年2月1日火曜日

“醸造家の運”



あるとき、ある人が、

「フランス人にとってのワインは、日本人の味噌汁のようなものだそうですね」

と、私に言った。

 チーズ(フロマージュ)は、漬物に相当するとかねて考えていたので、

その言葉を聞いて、「なるほど」とおもった。(*1)


欧米の“ワイン”に拮抗し得るものが仮に日本にあるとすれば、それは“味噌汁”ではなかろうか。そう書いていたのは吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)さんでした。


なかなか嬉しい発想。けれどあらためて読んでみると途中から靄(もや)がかかったような面持ちになっていき、結論は持ち越されて実にあじきない。カウンターで軽妙な会話が始まったと耳を澄ませていると、あれよあれよと言う間に呂律が回らなくなっていく、そんな感じ。


しかし、それを解説しようとすると、難しいことになってきて

十分に説得力をもたらすことができない。(中略)パリへ行ったとき、

その都市で六年暮らしてフランスの女性と結婚した日本人青年に

質問してみたが、十分納得できる答は返ってこなかった。(*1)


精神世界に占める位置や役割を例証していくことは難儀な話です。そもそも魂なんてものは主観に踊らされて違って見えるのは当然だし、特に相手が“ワイン”ともなれば背景にあるものが大き過ぎて知識も時間も到底追いつかない。決着は一生かけても付かない。吉行さんが途中からもにゃもにゃとはぐらかすのも仕方ないのです。


僕とて同じ。味噌なり醤油なりの淡い残り香をそっと後追いするに留めて、努めてのんびりした気持ちで歩みたいと考えています。


もっともこんな弱気は先日観た映画(*2)のせいもあるのです。直訳すれば「ワイン醸造家の運」という原題のニュージーランドとフランス合作による小品だったのだけど、ワインをめぐる文化の深々とした淵を垣間見た思いです。


ナポレオン帝政の頃のフランスが舞台です。貧しい小作農の家に生まれた主人公が熱意と才覚から老地主に見込まれ、ワイン造りの頭領に抜擢されます。葡萄の品種を選び、土を改良し、製法にも独自の工夫を凝らしていくうちに香味は徐々に深まって首都でも名の知られた存在になっていくのでした。もちろん苦労も生半可なものではありません。台風や寒波が容赦なく襲い、家族や仲間を次々に病魔が襲います。葡萄畑にも病害虫が忍び寄りして、主人公と彼を取り巻く人たちは幾度となく奈落の底に突き落とされていくのでした。


それだけでは通常の劇の展開に過ぎません。しかし、途中からこりゃ変だぞと気付くのです。未開の荒野で奮闘する(ありがちな)大河ドラマのつもりで眺めに行ったのでしたが、いやいやどうして気安い映画じゃありません。認識を新たにしてシートに座り直しましたね。


後半部分では醸造家のてっきり想像、こころの友と思っていた“天使”が実体化し、あろうことか両の翼をむしり取って領主、農民たちと共に畑作に精を出し始めるのです。驚いたなあ。この物語が歴史をなぞる絵巻物でも紅涙しぼる目的の苦労譚でもなく、生きて現世に惑う者へ指針を示そうとする心理劇だったとようやく分かってきました。


その事をより端的に表すのが一瞬だけ目を射抜く本の存在です。調べてみればウイリアム・ブレイクの詩篇なのです。(*3) これまで何がしかの答えを暗中模索する風だった物語は、ブレイク出現を機に雰囲気を一変します。混迷と煩悶を在るがままに甘受していく覚悟を決め、諦観の重たい想いを湛えながら美しい幕引きへと奔り出すのでした。


生きる限りにおいて情念の肥大し、爆発的な瞬間の訪れるのは自然なことと潔く肯定して見せる。その上で、酒造場内の混乱や衝突といった清濁入り乱れる背景すべてを含めての“もの造り”と、其処で産み出されていく“雑味のあるワイン”に心からの賛辞を惜しまない。貼り付く聖なるレッテルを一気呵成に引き剥がして、 人もワインもときに迷っていいのだ、狂っていいのだと断じている。



ワインひとつでここまで風呂敷を広げていく作り手にも驚くけど、人と葡萄酒の間で延々と続く交歓の様子が羨ましい。血となり肉となり、とろとろに溶け合っているようで、我らが味噌汁とは幅も奥行きもけた違いという感じがするのです。


こんなゾクゾクする、そして慰撫される映画をデートの一環で観ている欧米諸国の日常って、つくづく大人のものなんだと思います。それこそ“熟成なった”文化を覗いた気分。僕たちの何十年も先を歩いている余裕が感じ取れる。


この列島に住まう者としては、とりあえず足許をせっせと掘り進めるしかないですね。掘り進んだ先の先、いつかブルゴーニュの大地まで突き抜けたときには吉行さんの言葉を僭越ながら接いで“味噌汁”と“ワイン”の共通点でも話そうかと思います。


予告編を貼っておきましょう。ちょっと眠くなる箇所もあるけれど、良い時間でしたよ。



皆さんのところのお天気はどうですか。

こちらは蒼い空がとってもとっても胸に沁みる感じです。
少しずつ春に向かっている感じがします。

寒風に負けず、口角あげてお過ごしください。





(*1):「葡萄酒とみそ汁」 吉行淳之介 1975 初出「ザ・ワイン」(読売新聞社) 単行本「石膏色と赤」(講談社 1976)、「吉行淳之介全集 第13巻」(新潮社 1998)他所載
(*2): The Vinters Luck 監督ニキ・カーロ 2009
(*3): The Marriage of Heaven and Hell  William Blake 1793 
以下のページで読むことが出来ます。(挿画はなし)劇中、朗々と声高に自己主張するのではなかったけれど、本の中身に目を通してみれば物語の主題に重なっているのが解かります。 http://www.longtail.co.jp/mhh/

2010年9月12日日曜日

晩夏

 若くして逝った家族を供養するものとして、僕の住まう地方には神社へ“絵馬”を奉納する慣習があります。


 いや、慣習と呼べるほど根付いてはいないのだけど、そういった切実なこころを受け止める装置と成っている社(やしろ)が幾つか点在している。昨日訪れたところはその代表格のような場処でした。車一台がやっと通れる細い道を辿った先の、山ふところに抱かれて小さな堂が佇んでいます。


 黄泉の世界で佳き人とめぐり逢って祝言をあげ、子宝にも恵まれることを遺された家族が祈ります。そのイメージを板絵にしたり紙に描いて寺社の天井や壁に掲げていく。ひとつひとつを眺めていくと、此岸(しがん)と彼岸という境界を越えたささやかな日常や苦闘が透けて見える。共棲した短かった時間、こころの往来が伝わってくるようです。厳かでありながら微笑ましい空間が在ります。


 お社を独り守っている老婦人にご挨拶し、小雨を避けた軒下にて少しの間だけですが立ち話をさせてもらいました。濡れて濃くなった緑の中に、水子供養の地蔵が巻いた赤い前掛けだけが鮮やかに目を射るように浮かんでいます。穏やかな夕刻で嬉しい時間になりました。

 
 寺院であるならば“坊守(ぼうもり)”にあたる方なわけですが、正式には何とお呼びするか分かりません。気さくでおられながらも長い歳月をひとつの事に奉じてこられただけあって、凛とした気配を秘めておられる。どういう訳でこうなったか分からないが、与えられた宿命(さだめ)なのであろう。ここに来て数年で夫を亡くし、ずっと独りでこうしてここを守っている。こんな事は“おんな”であったら出来はしない、気違いか何かでなければ続けられないよ──。


 お堂よりも遙かに高く育って花を幾らかまだ残す百日紅(さるすべり)、正式な名前は知らぬまま自分なりに“昇り露草”と名付けて丹念に植え替え一群と為して今は紫色に広く美しく染まった花壇を話題とし、また、雪の季節の苦労などを尋ねてみたり──。雨の匂いを肺腑に充たしながら静かに過ごしました。ああ、あまり自分のことを話し過ぎてしまいましたね、と微笑む婦人の、けれどまばたきせずに僕を見つめる瞳にも日常のささやかさと苦闘が宿っているように見えて、僕なりに強く反響するものがありました。



 謝して敷石を踏みながら参道をゆっくりと戻りました。紫陽花の葉や苔土の上を僕の大きな影に驚き避けてぴょんぴょん跳ねていく小さな小さな雨蛙たちを見ながら、婦人の言葉を反芻しました。ほんの少しの勇気をもらったように感じました。



 下に並べたのは最近観た映画です。備忘録を兼ねて貼ってみました。

 季節は夏から秋へ── これを読む誰もがお元気で、素敵な時間を重ねられますように。

 ささやかな日常を共に越えていきましょう。












Il papà di Giovanna
Molière
Bright Star
BROTHERS
Synecdoche,New York

2010年6月26日土曜日

「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970)~“MEN"~

 先程までの青天が嘘のようです。灰色の雲に覆われた空からはジェット旅客機の轟々と言うエンジン音が落ちてくるばかり。あんなに元気だった陽射しは遙か高層にお預けとなりました。間もなく雨がぽつぽつ落ちてもきましょう。今夜は南の空に部分月食が見れるというので楽しみだったのだけど、難しいみたいだなあ。ちょっと残念──。


 それでも朝からお昼を挟んでの小一時間には庭のテラスにレジャーシートを敷き、読みかけの本ニ冊と届いたばかりの本一冊を手元に置いてごろり寝転び日光浴。田舎暮らしをいいことに下着一枚の姿となって、光と風を素肌に受け止められたのは嬉しいことでした。いい休日です。


 強い日差しに目が眩んでそうそう頁を繰れない訳なのだけど、それでも充足感は格別。「匂いの人類学 What the Nose Knows」エイヴリー・ギルバート(ランダムハウス)、「共感の時代へ The Age of Empathy」フランス・ドゥ・ヴァール(紀伊国屋書店)、「ヤノマミ」国分拓(NHK出版)だったのだけど、幾らか採掘箇所は重なっていますね。こういうのが好きなんだよなあ。人間って何か、男とおんなって何か、感情とは何か、生きるってどういうこと───


 海外の書き手によるこの手の本を読んで感心するのは、僕たち市井の者たちの興味をうまく惹き付け、飽きが来ないようにする話術の巧みさですね。ほんとうに頭の良い人たちなんでしょうけど、例に引く小説や映画の傾向が実に広くて、時に低俗で関心します。ときどきアクセルを切り替えて、僕たちの目を醒ましてくれるのね。「初体験 / リッジモンド・ハイ Fast Times at Ridgemont High」(1982)なんてタイトルがさらり飛び出して来るのだから、とても不思議というか快感だなあ。


 先日読み終えた「孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか Loneliness: Human Nature and the Need for Social Connection」ジョン・T・カシスポ、ウィリアム・パトリック共著(河出書房新社)では1970年の映画(*1)が取り上げられていました。興味を覚えてレンタルショップから借りてきて、昨夜遅く観たところです。こうして知識の連鎖していくことが心地良く、止められないんだなあ。



 この「ファイブ・イージー・ピーセス」って映画は男って奴はどうしようもない、というこの当時に沢山創られたフィルムの一本で、今の時代でも通用すると言うか、まあ、例によって身につまされる場面の連続でしたね。(考えてみたら、そんなのばかり此処で取り上げてますね。う~ん、自虐的──)美しい情感溢れるカットやシーンも多くて、あれこれ考えさせられるものが多かったですね。Youtubeに劇中でのピアノ演奏のシーンがありましたから、メモ代わりに張っておこう。とても見事な撮影だし、こころの奥に触ってくるものがあります。



 そんな休日を僕は過ごしています。


 皆さんはどうですか。真夏日が続いて鬱陶しい気候ですけれど、元気に愉しく、口角をきゅっと上げてどうかお過ごしください。


(*1): Five Easy Pieces  監督・製作・脚本:ボブ・ラフェルソン 1970

2010年4月25日日曜日

「愛の狩人」(1971)~二十年という歳月~


 劇画家の上村一夫(かみむらかずお)さんの生誕70周年を記念して、列島を巡回するかたちにてブックフェアが始まったようです。(*1) 身近に住まう七十代の人たちと、著作を通じて日々体感する上村作品の若々しさが反発して妙な具合です。没後25年と言った方がしっくり来るものがありますね。売り場には原画をコピーしたものも展示されるようなので、近くに来たら足を運んでみようと思います。

 上村さんは作品集をたくさん遺していますが、文字ばかりの評論やエッセイといったものが本の体裁にまとまったものはほとんでなくって、わずかに広論社より昭和48年(1973)に上梓された「同棲時代と僕」があるだけです。オークションなどを通じて週刊誌や月刊誌に掲載された特集記事や寄稿されたものを探してみても、何となくはぐらかされている感じの文言が並んでいるばかり。そんなこともあって、あまり作品論、作家論を喚起しないで今に至っているところがありますね。まあ、そんな黙して語らずのミステリアスなところが魅力のひとつでもあるのだけれど──。

 さて、「同棲時代と僕」の中で上村さんは「同棲時代」の誕生秘話をちょっとだけ吐露していて、「ある日の銀座でなにげなく映画館に入っ」て観た「愛の狩人」(*2)に「深く感銘を受け、これを基本線にして漫画を書いてみようと思った」と書いています。「同棲時代の原因」と明確に告げられたこの映画を僕はずっと未見でいたのですが、本日ようやく観ることが出来ました。


 あらすじやスタッフ、キャストの詳細は検索して読んでもらえば良いので書き並べませんが、僕たち男にとっては後味のすこぶる悪い、質(たち)の悪いと評しても過言ではない映画です。口惜しいかな的を得たものとなっている。

 話を端折りに端折って書けば、大学時代にルームメイトになったジャック・ニコルソンとアート・ガーファンクルが二十年の歳月を経て気が付いたことは何か、ということがねちっこく描かれているのですが、こちらは二十年、「同棲時代」は数年の歳月です。上村作品に時おり感じ取れる“老成”は、中年の男女の長い歳月を若い肉体に無理矢理に移植しているせいかもしれませんね。

 上村一夫さんの「同棲時代」の核心に揺るぎなく在る作品にして、また、「同棲時代」以降の上村作品に木霊(こだま)するものとして、上村ファンを自認する人は一度は観ておいて悪くないように思いますね。ああ、なるほど、と頷かされる場面が幾つか見つかりますよ。


 それにしてミモフタモナイ……。いささか気が滅入りましたので、散歩に出かけようかと思います。陽が傾いて街路はだいだい色に染まって静かです。夕焼けと春の花の取り合わせを愉しみながら、ぐるりと小さなこの街を歩いてみようかと思います。





(*1):http://www.kamimurakazuo.com/news/post_30.html
(*2): Carnal Knowledge 1971 ひゃあ、なんて原題! 監督マイク・ニコルズ

2009年12月2日水曜日

殺し屋よりもひどい~日常のこと~



  仕事に忙殺されて、ここしばらくは過ごしています。


  ようやくにして身近にインフルエンザが現われて、公私共に気ぜわしい師走となりました。

  鏡や窓に対峙する度に、白い口ばしを付けた自分の姿にぞっとさせられています。鳥のような、河童のような、そうでなくとも表情の乏しい僕は人間味をすっかり失ってしまったかのようで、やたらと寒々しく、薄気味悪いったらないのです。でもまあ、とりあえず生きております。


  十人ほどの男女で構成された群像劇(*1)を先日観ました。その後、古書店から買い求めていた昔の本(*2)の、その作品を取り上げた頁を探し読みながら、胸のなかで静かに醗酵させているような感じです。



  「そのままの位置にとどまり、いくらかの知性と、たぶんに植物的な性格を持ち、小さな苦患の世界で、むなしい期待をかけずに生きながらえていく」(*3)──そのように批評家にひと括りにされ、揶揄されている劇中の無責任な取り巻き連中と自分自身を重ね見て、かなりキツイ一発を顎に喰らった気分になりました。


「わたしから見れば、あなたは人殺しよ、人殺しよ、聞いてる?あなたはその口車で破廉恥(シニスム)な心で、人を殺したのよ……」

「怪物だわ!殺し屋よりもひどいわ!」

  ブラウン管越しのおんなの嘆きが、ぐわんぐわん反響して胸の奥を行ったり来たりしています。



  そんな月の初めです。

  これから年末にかけて、誰もが無我夢中の時期になりますね。
  ろくでもない口車は小屋に仕舞い、とりあえず鍵を抜いておきましょうか。


  ドライブはいい加減慎まないと。



  今日を懸命に生き、明日に生命を繋ぎながら、旧き年と新しい年に架かる橋を渡っていきましょう。

  睡眠はしっかり取って、この世にたったひとつの身体を慈しみ、きっと守ってくださいね。

(*1): LE AMICHE 監督ミケランジェロ・アントニオーニ 1955
(*2): 「現代のシネマ2 アントニオーニ」 ピエール・ルプロオン著 三一書房 1969
(*3): 「行動と内心の映画」 ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ

2009年10月15日木曜日

「厨房で逢いましょう」(2006)~恋文としてのレシピ~ 



 食と恋愛を連結させて描いたドイツの劇映画(*1)がありました。容貌に恵まれない孤高の天才シェフと障害のある子供を持った既婚女性とが出会い、料理を通じて魂を重ねていく現代のおとぎ話です。それでも妙なリアリティを薫り放って、こういう世界も何処かには実際あるのだろうなと思わせる力がありました。


 食への執着は色事や恋愛と同じく人を恍惚と充足感に導きますが、その快楽の虜になった者を右に左に翻弄し稀に破壊することさえあって、この点でも一致するものがあります。摂食障害、内臓疾患、浪費、孤食と狂宴、そんな食にまつわる様々な表情はほんの少しずつ違うけれど、渦巻き燃え上がる恋情の裏に潜んでいる暗い影の部分にそっくりです。


 いつぞや読んだ生理学の本によれば人間の口蓋、舌をろろと巻いた先端が触れる上あごのツルツルぬるぬるした辺りの組織は、性愛に関わるデリケートな身体部分と極めて似た構造になっているとのことです。なにか物が触れた際に脳に送り込まれる信号も、それが素でパッと花開く快感も似たものだそうですからとても不思議な話です。休日ともなると唇がなにか淋しくなって、ついつい間食してしまう癖が僕にはありますけれど、そんなよろめきの理由が上下に位置こそ隔てられていますが、共通する細胞の仕組みからもちょっと窺えるわけです。


 神様の仕事は実に巧妙で抜かりがない。生命活動を維持し繁殖に導くためにとても上手にエスコートしていきます。食と恋とはだから双子の天使であって、常に僕たちの周りを羽ばたいているのですね。もしかしたら地球から遠く離れた異性人からすれば、僕たちの食べる行為も愛し合う行為も同じものに見えているかもしれません。
  

 ふたつの欲望は雌雄異花同株の仲であり、また、二股に分かれ蛇行していく川のようなものなのでしょう。上に掲げた映画で起きた至福の時間のように結実したり再び交差し合流することも、だから当然現実世界に有り得るのでしょう。



 だったら、僕がこのミソ・ミソで意識的に回避してきた文章、つまり純粋なる料理の献立として書かれたものやレシピのようなものにだって、そこに官能を強く嗅ぎ取るひとはいるかもしれません。理屈ではそうなりますよね。

 ──ダシ汁少々(椎茸が浸るくらい)砂糖小匙1、醤油小匙1。味噌を合わせて味醂と砂糖を入れてダシ少しを入れて溶いておく。一人用土鍋にダシ400ccを入れて合わせた味噌を入れる。鶏肉を加えて煮込む。火が通ったら生うどん140gをそのまま入れる。中火で6分から7分程度煮込む。煮えてきたら他の具材を載せて玉子を割りいれて蓋をする。1分ほどそのまま火にかけて蓋をとり供する。食べるところまで蓋をして持っていけばグツグツに煮えた状態で届けることができる。熱いので取り皿とれんげを添えると良い。具材は他に蒲鉾やわかめや各種きのこ類も合う。また豚のばら肉なども美味しい(* 2)

 ──というような文字の羅列にさえ、中世の恋人たちの燃え立つ想いや慟哭を秘めた恋文に似た劇的なものを見取るひとがいても可笑しくはない。鈍感な僕には感知できないだけであって、「キューピー3分クッキング」や「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」にねっとりと濡れた瞳を向けるひとがいるのかもしれない。



 そうして見るのならば、僕がここミソ・ミソでやっている事はいかにも片手落ちの断章取義となりますね。日常の陰に埋もれて見える味噌や醤油。何とはなしに彼らの境遇を捨て置くには忍びなくて、舞台袖から無理に手を引き壇の中央に導こうとする訳なのだけれど、それは余計なお節介、身勝手な横恋慕なのかもしれません。


 実際のところ味噌たち醤油たちは、日夜身を熱く焦がしながら暮らしています。指先に付けばその指を甘く柔らかな唇へと難なく誘いこみ、存分に舌にて吸われ舐められてもいく。僕たちよりもずっと充足している毎日じゃあないか、僕なんかより余程世界をひとを歓ばせ、彼ら自身だってその短き一生をあけすけに、悠々と愉しんでいるじゃあないか。




 おいおいおい、馬鹿だなあ、味噌、醤油に本気で嫉妬してどうするんだよ、

 しょうがないなあ。


(*1): EDEN  監督ミヒャエル・ホーフマン 2006
独語HP http://eden.pandorafilm.de/index.php
(*2):味噌煮込みうどんの作り方 引用先は下記の頁 http://allabout.co.jp/gourmet/udon/closeup/CU20070419A/

2009年6月21日日曜日

「持参金のない娘」(1984)~浮世離れしたジャム~


ふわっと照明が点り、エンドロールを映し終えたスクリーンが浮かび上がる。瞳に残影がありありと宿って感情の昂ぶりが取れない。そんなほろ酔い気分のときに、大学で教鞭をとる専門家が解説をしてくれる洒落た映画観賞会があります。地元の劇場での月に一度の夜会です。バーテンダーに由来や製法を教えてもらい、香りと味がさらに豊饒さを増すカクテル、そんな感じでしょうか。


フェリーニなどもまな板に乗りますが、大概はロシアの映画です。陰影に富み、湿度もずっと高い。いくらか枯れ草の匂いも混じって感じられる作風もしっとり肌に馴染んで嬉しいですが、上映後の解説の時間が刺激的でそれに惹かれて足を運んでいます。


観客の数は三十から五十といったところで、落ち着いた風情の年輩女性が席を多く占めます。御下げ髪の若かりし頃はトルストイとかチェーホフに憧れたのかしら、さぞ可愛かったのだろうな、なんて妄想したりして…。政治的な固い話は抜きにした文学作品が主ですから常に柔らかい空気に包まれ、なかなか良い会合だと僕は感じています。今後も続いていってもらいたいな。


先日の作品は「持参金のない娘」(*1)。没落した貴族の娘ラリーサが主人公。器量の良さと才気によって地元の男たち(資産家、商人、企業家、公務員、はては詐欺師)の視線を集めるのですが、彼らの間で繰り広げられる権力闘争と自己本位な欲望にはげしく翻弄され生命を落とすという悲劇です。

検索をかけていくと、Youtubeにファンがアップしていますね。あらら、冒頭から終幕まで観ることが出来てしまう。便利というか困ったというか、不思議な時代になったものです。予告篇代わりに貼っておきましょう。あえてラストの部分を!どうして彼女はこのような目に遭ったのか、どんな男女のこころ模様が描かれてきたものか。紹介するこの結末を観て興がすっかり削がれるということはないと信じます。観るひとは観る、そういう類いの映画ですね。


ラリーサを追い詰め死に追いやる男たちの誰もが、どうしようない最低の輩です。しかし、カットや台詞の積み上げによって各々の出自、責務、宿命が浮き彫りになり、それらにがんじがらめとなっている様が丁寧に活写されてもいます。おんなへの執心は純真そのものと読めるところもあり、かえって始末が悪いです。ラリーサの胸にも僕たちの胸にも憎み切れない中途半端な想いが残されて、何ともやるせない終幕ですね。

男たちと今わの際のおんなとが、大きなガラス窓越しに交錯させる最期の視線が凄まじい。恋慕の念が凝縮なった素晴らしい情景です。僕の内部にこれまで堆積なってきた様々な映像記憶が重なって明滅します、言葉を失います。





さて、上映後のN准教授の話ですが、当時のロシアの社会情勢をひも解きながらの解説はいつもながら見事で分りやすく何度も何度も頷かされました。こと感心したのは登場人物の名前に込められた“象徴性”です。その辺りまで突き詰めて解読するのは、さすがですね! ラリーサが愛していた貴族で船主のパラートフ(ニキータ・ミハルコフ!本当に悪い男を演じさせたら最高ですね!)の名前は、「犬や狼が獲物を追って走る」という意味合いがあるそうです。“遊猟”とか“玩弄”といった感じになるのかな。そういった響きを備えた男だとすれば、観方も当然違って複雑さが増していく。うーむ。

ラリーサを執拗に追い回す狭量で風采の上がらぬ官吏で、最後は嫉妬に狂って銃を向けてしまうカランディシェフは「鉛筆」とほぼ同じ響きだといいます。名が体を明確に表わして、運命や未来を暗示していく。物語の生い立ちが戯曲であることにも由来するようですが、極めて記号的な使命を担って人物が闊歩しています。


そのような目線を与えられて再度物語を振り返るならば、“食”に関してもまた象徴的に配置され、劇空間を支えて見えます。ラリーサは自宅で行なわれたパーティで、(猟犬)パラートフと親密になります。

台所に“ジャム”を取りに行かされ、そこで男と鉢合わせしたラリーサはとても緊張し、笑顔がひきつれてしまう。慌てふためいて頓珍漢なジャムの味見を男に勧めます。男は滑稽だと思いながらも、その世間ずれした幼いリアクションを静かに受け止める。

ガラスのボウルからスプーンですくわれた真っ赤なジャムのひと匙が男の口に消えていく。ラリーサの左手の甲にほんの少しジャムの付着が認められ、男はその手にそっと口づけし舐め取ります。


口をそろえて男たちから美貌を褒め称えられると共に、男のエゴや弱さをまるで推し量ることが出来ずに歌や踊りに夢中になっている純朴さを“浮世離れしている”と陰で揶揄される娘。無垢な子供らしさの象徴として真っ赤な“ジャム”が忽然と現われており、その登用の見事さ、美しさ、色っぽさ、哀しさに息を呑みました。


(*1):Жестокий Романс 1984 監督エリダル・リャザーノフ

2009年6月13日土曜日

「シェルブールの雨傘」(1964)~俺の香水~


デジタルリマスターされた「シェルブールの雨傘」(*1)と「ロシュフォールの恋人たち」(*2)を観て来ました。その不器用なところが気性に合うのか、60年代から70年代後半までの恋愛映画は僕のお気に入りです。

もっとも「ロシュフォール」の方は、年若い男女(カーニバルを彩るイベント屋)が群舞するオープニングシーンで冷や汗をかいてしまったのでした。はちきれんばかりの若さを競うような感じで、僕みたいな年がいった男がここにいるのが場違いの気が……。けれど、あにはからんや物語を追うに従い、スクリーンの中に分身が続々と現われました。あれこれ思案を廻らす有意義な時間になりました。好い映画でしたよ。

さて、「シェルブール」です。自動車整備工のギイと傘屋の娘であるジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)が恋に落ちます。若者の出兵を境にしてふたりの間の音信がぎこちなくなり、やがて途絶えて破綻する話です。

7月にはDVDも発売されますね。レンタルもなるのかな。未見の方はどうぞご覧ください。Youtubeから予告編代わりにちょっと触りだけ貼っておきましょう。リストアされて鮮やかに蘇った画面は、これよりさらに優雅で素敵です。




粋な会話がありました。工場帰りのギイに身体をすり寄せてドヌーヴが囁きます。「ギイ、なんかへんな匂いがするわ、あなたから」「ああ、これはガソリンの匂いだよ。俺の香水さ」

モータリゼーションの波の最中にあったとはいえ、なんとも洒落た応答です。軽く微笑み、さらに身を寄せるおんなも見事です。こんな会話が他の仕事で成り立つかどうか、あれこれ想像して遊んでしまいました。ペンキの匂い、林檎の匂い、紙幣の匂い……。

「ギイ、なんかへんな匂いがするわ、あなたから」
「ああ、これは醤油の匂いだよ。俺の香水さ」

「ギイ、なんかへんな匂いがするわ、あなたから」
「ああ、これは味噌の匂いだよ。俺のローションさ」

これはどうだろう、成立するものでしょうか。女性は軽く微笑み、さらに身を寄せてくれるものでしょうか。うむむ、そんな展開はありえませんね。けれど、考えてみれば、ちょっと不思議です。ナゼなんでしょうね。ガソリンと醤油、ガソリンと味噌……。うむむむう。

(*1): Les Parapluies de Cherbourg 1964 監督ジャック・ドゥミ
(*2):Les Demoiselles de Rochefort 1967 監督ジャック・ドゥミ



2009年5月20日水曜日

はじめまして~「ラ・ボエーム」(2008)~


はじめまして

なんて大それたタイトル!“みそ神話としょうゆ学会”!
馬鹿じゃないかしらん、新手のカルトかよ、それとも変質者かしら、
余程アブナイ人なんじゃないかしらん──


中味はありふれた個人的な日記です。
それにしても何故“お味噌、お醤油”というキーワードにこだわるか、と言えば、
ずうっとこういう場所が欲しかったとしか答えようがありません。





少し前に“お風呂”について書かれた本を読みました。
人間がどのようにして入浴という習慣を作り上げていったか、
微に入り細に入りして掘り下げた労作です。
(この手の尾籠(びろう)な内容の本は大好きです!)
その中に“匂い”について触れているところがあります。


ちょうど今、新型インフルエンザが日本にも上陸し暴れ出していますね。
(近くにお住まいの方はさぞ心配かと思います。がんばってくださいね。)


ニュースの話題はそればかりですが、この下品な本の主な舞台となっている
昔々のヨーロッパには情報もまるでなく、医療機関も満足にありませんでした。
マスクもなければ、タミフルもありませんから、人から人への感染は
魂をさらいに来る悪魔か死神のように恐れられていました。


感染経路は“皮膚の毛穴”だという医学者(!)の見解が広く伝わったこともあって、
病人と同じ水で身体を洗ったりするのは自暴自棄の愚かしい行ないだと
思われていました!
お風呂に入ると死んでしまう!
フランス革命前後の頃は、誰も彼もが身体を十分に清めず過ごし、
国王ですら生涯で三度しか入浴しなかったらしいです。月に三度じゃないですよ!
生まれてから死ぬまで三回だけ!王様がですよ!
そんな訳であらゆる人が相当強烈な体臭をぷんぷんと漂わせていたらしいのです。


常識って何だろう、清潔って何だろう──頭の中にあった既成概念が
ひっくり返る爽快感があって楽しかったですよ。


さて、匂いについてです。
彼らは立派に生活し!恋だってするし!子どもをちゃんと作り育てていく!
あなたの臭いは素敵だ、なんて恐ろしいラヴレターを送ったりもします!
“匂い”というのはまさに“空気みたいなもの”となって、
誰も強く意識することはなくなってしまうのですね。


“食べもの”だって同じです。
あまりに日常にありふれてしまうと意識して見れなくなる。
その筆頭が日本では“味噌(みそ)”や“醤油(しょうゆ)”でしょう! 
ほとんどの人が振り向かない存在です。


でも、本当に味噌や醤油は取り上げるに価しないものかしら。
恋愛ドラマを支えたり、シリアスな群像劇を
盛り上げたりしたことはないのでしょうか。




みなさんは「ラ・ボエームLa Bohème」というプッチーニのオペラを映画化した
最近の作品をご覧になったでしょうか。
昨夜仕事を終えてから観てきました。
平日の七時前の回でしたが、お客さんは年輩のひとを中心に
二十名ぐらいいたでしょうか。まあまあの入りです。
パリの街で成功を夢見て過ごす絵描き、詩人、音楽家たちの物語です。


刺繍を生業とする純情な娘ミミと詩人が烈しい恋に落ちていきます。
その顛末をとても丁寧にカメラは追っています。
貧困に抗い切れずに波のように押し寄せる不幸。
哀しい結末にはあれこれと深く考えさせるものがあり、
年甲斐もなく涙など落としてしまいました。



開幕はクリスマスの夜。街は喧騒に満ちています。
貧しき芸術家グループとミミが訪れる居酒屋では
見事に盛り付けられた料理が次々と運ばれ、
ワインの杯が高々とかかげられ飲み干されます。
花の都に生きることの嬉しさと充実感が溢れんばかりです。


一方、日頃の彼らの切迫した家計事情も描かれています。
ほんの数切れの丸干しのイワシか何かに四人の男が群がり、
素手で肉を引き千切ってはむさぼって、
生命をかろうじて明日へ橋渡ししていきます。


この丸干しの魚こそ、お味噌やお醤油と同じ役回りだと思いました。
ワインや歓声に覆われた華々しい表舞台ではなく、
薄暗い自宅の裏側に居ればこそ、
本当の人生があぶり出されていく貴重な瞬間に立ち会うことが出来る。
「生きるということ」を露わにする大事な“鍵”だと思うのです。


「ラ・ボエームLa Bohème」の干し魚は
ボヘミアンたちの愛と別れを凝視していました。
ならば、お醤油とお味噌は私たち日本人の何を見つめてきたのでしょう。
そこにいかなるドラマが有ったものでしょう。

少しずつ少しずつ探しては書き止めてみたいと思っています。
出来るだけ楽しみながら、笑いながら続けていくつもりですから、
もしもお時間が許せば読んでいただきたいです。

そして、あなたがどこかで目にされて、世に知られていない
味噌と醤油の活躍があれば、そっと耳打ちしていただきたいです。
ここ“ミソ・ミソ、ソソソ”で、色んな方に出逢え、
情報交換がたくさん出来たら嬉しいな、と思っています。