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2009年9月21日月曜日

寺山はつ「寺山修司のいる光景─母の蛍」(1985)~辛くてのめない~



 こんな子なので、一人でおいておいても、あまり無茶はしないだろ

うと信じていましたが、やはり一抹の不安もありました。しかしとも

かく、私はなれない仕事にとりくんであくせく働きだしました。夜は

英語の独学をはじめたり忙しい毎日でした。修ちゃんはそんな私を少し

でも手伝いたいと思ったのでしょう。ときどき、夕方私が帰って来ると、

「母ちゃん、ご飯作っておいたよ」と得意そうにしています。
 
 辛くてのめない味噌汁や、ボロボロのご飯をちゃぶ台にならべて布巾

(ふきん)をかぶせてあるのです。そのたび私はいじらしくて胸がいたむ

思いでした。男の子にこんなことをさせるのが心苦しくて、耐えられな

かったのです。(*1)


 自分の大便のなかに黒々とした蝿を見出した少年は、顛末を記したエッセイ「排泄」が極端に戯画化された架空のものでなければ“十歳の夏”におりました。寺山さんは1935年生まれであるから昭和20年、1945年の出来事と推察されます。


 上に書き写したのは寺山さんのお母さまのはつさんが書いた随筆の一部です。寺山さんの出生から死までをとても丁寧に書き綴ったものであり、寺山さんの作品世界をひも解く際には未読では済まされないものとなっています。こころひかれる人は、是非いちどは手に取ってご覧なさい。作品を背景から透視するような按配で、おおいに唸らされること間違いなしです。


 お母さまの筆が正しければ、この時期には基地の図書館で勤務され始めていて、十歳の少年は独り母親の帰りを心細げに待つ日々に突入していたことになる。味噌汁の鍋の中なる濁流に一匹の蠅とぢこめて 餐 ──という歌の“濁流”とは、単に熱した鍋のなかを拡大して覗いた描写ではなくって、戦争によって破壊された家庭の残された家族がなりふり構わずに働き出し、消えかかりそうな生を明日に繋いで灯していった闘いの状況を指し示しているようです。


 もう少し掘り進めないと結論は出せませんが、もしかしたら寺山さんのそのような留守番の日々が、彼の作品から味噌を乖離させたのかもしれません。自ら味噌汁を日々こしらえる時期を重ねていた寺山さんは、多くの女流作家と同様に味噌汁をシンボリックなものと捉える仕組みを内側から消失させてしまったのではないか。


 総じて味噌、または味噌汁を“家庭、母親、日常”と連結させ、劇的に描いてみせるのは男性作家に多いように感じられます。その不自然さはどうも調理という領域から逃避したか、または隔離されたことを源泉としている、それは間違いないようです。


 寺山さんが母親、家庭に固執した作品を次々に書き進めながら、味噌汁がポジティヴ、ネガティヴ、いずれのカードとしても用いられなかった背景には(もちろん大便の中に蝿を見ちゃった、という記憶が自縄自縛した可能性もありますが、それに加えて)そのような少年時代の家事実情があったかもしれませんね。



 さてさて、恐山にまつわる僕の“暗中模索”もこれで一旦終了です。本当に夜が明けて良かったよ、あんな夜はもう二度と御免です。

 世は大型連休の真っ只中、みなさん元気にお過ごしでしょうか。僕は丸々ではありませんが仕事にちらほら捕らえられ、例年通りに宙ぶらりんに過しています。そのせいもありますが、カレンダーの赤い文字に関わらず仕事に邁進しているひと、気分を引き締め戦っているひとに対して強い親近感を抱きますね。

 鍋の中なる濁流は誰の身体とこころにもあります。負けずに頑張りましょう。なにクソ、と負けずにフンばっていきましょう。あ~あ、最低、せっかくの話を汚く締めちゃってさ、馬鹿じゃないの。



(*1)「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985 / 1991以降中公文庫 
改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と書名改訂 

2009年7月1日水曜日

関川夏央「ゲート前の外人バーにて」(1988)~恐ろしいもの~





わたしは友人に尋ねた。

たまにはフィリピンの女の子と付き合ったりするの。

しないさ、と彼は答えた。エイズ以来だれもしないんじゃない?

外人バーだって日本人はほとんど行かないもの。
 
外人は怖いから、と彼自身も混血なのにそんなふうにいった。

ただし暴力沙汰という点では外人すなわち米兵はちっとも怖くないという。

彼らは日本人相手に絶対(と彼は強調した)トラブルを起こさない。なぜかと

いうと日本の刑務所を、とりわけ刑務所の食事を、さらにとりわけミソ汁を

恐怖しているからだそうだ。兵隊がミソ汁とタクワンを恐れること、

ドラキュラにとってのニンニクと十字架に匹敵する。 (*1)



沖縄中部東岸の町“金武(きん)”の探訪記です。閉じる店が後を絶ちません。かつて兵隊相手に勢いづいていた歓楽街は、“円”の価値が上昇するにともない零落の一途をたどっています。“斜陽、というよりもはや日没”と容赦なく表現するのは関川夏央(せきかわなつお)さん。今から二十年前、当時まだ三十八歳の若さでしたが、怖れ知らずの独特の言いまわしはこの頃から全開でしたね。


寄稿した雑誌の性格と具体的な数字を並べて為替変動を語っていることから、八十年代末に実際に足を運んだものでしょう。わずか5頁と半端の数行といった掌編に過ぎないのだけれど、温かく湿った大気を感じさせます。どこか浮き足立った男たちが闇を往来するのが目に浮かびます。国籍を越え、性差を越えて場を共有するひとの、さまざまな思惑が写し取られた簡潔な文章です。


繰り返しの日常に生きる僕には魅惑的な情景です。一本のビールで懸命に粘る米兵、それを追い出す店のママの叱声。南方から出稼ぎに来た娘は隣りに腰を下ろし、片言の日本語で話し掛けてきます。紫煙に眉をひそめる者は誰もいませんから、店内は甘い霧に包まれていたでしょう。壁の灯かりはむせんで揺れたでしょう。寄り添う影の輪郭はぼうっとにじんで映ったでしょう。


せっかくいい気分でいるのに、やおら“ミソ汁”が登場します。笑いをさらに誘おうと言葉を継いでいくから、ハードボイルドの世界はすっかり瓦解してしまう。“ドラキュラ”と“ニンニク”が先端のとがった杭に化けて止めを刺します。ペーソス溢れるチャップリン喜劇に夜の町は変貌してしまいます。


大いに笑って、ああ、面白かったと終わらせても良いのだけれど、それでいいのかな、と立ち止まってしまう。幾つかの焦点(ポイント)を擁した短文ではありますが、もう一度それをたどり直してみると網目にすくい取れるか取れないかの、小さな“違和感”が見つかります。


沖縄の復帰は1972年でしたから、それから十年以上の月日が経っている。ですが、人の移動は緩慢で劇的な変化は起こり得ない。友人との会話と思案の矛先は、どうしても人種や国に関わるものになってしまうのです。「オキナワとジャパンは別の国」「いっそ独立しちまえばよかったさ」──そのような流れのなかに“ミソ汁”は点描されていました。


留置所や刑務所の食事を懸念してブレーキを外せない“流れ者”の小心を浮き彫りにしていますから、あくまで文面上の主役は兵士=人間です。けれど、ちょっと珍しいのは“ミソ汁”が他国の者にとって“違和感”を抱かせる存在なのだと明示していることです。陰の主役となって“ミソ汁”は何事かを囁いています。


兵隊がミソ汁とタクワンを恐れるらしいぜ、ドラキュラのニンニクや十字架みたいだね、と笑い合った後、いきなり会話は“喧嘩の仕方”に移ってしまいます。「外人同士ではいまでもたまに立派なバイオレント・アクションが見られる。あいつらの喧嘩はすごいね、と彼はいう。」関川さんの反応がすっぽり抜け落ちています。読み流してしまわず、ちょっと想像してみましょう。兵隊がミソ汁を恐れる─(不思議だね、可笑しいね)ということでしょうか。それとも、兵隊がミソ汁を恐れる─(そりゃ当然だね)だったのでしょうか。


漬け物屋さんに難癖をつけているのではありませんが、こうして意図的に“タクワン”を並べ置く関川さんの筆の先には、ミソ汁を毛嫌いする異国の兵士に対して同情や憐憫が匂ってきます。臭いもの、不味いもの、野暮なもの、不衛生なものといったイメージの共有が透けて見えます。


ブルドッグと鉢合わせした猫のトムが目玉と舌をびょ~んと突き出し跳びすさるように、屈強な兵士が小さなミソ汁の椀を目にしておののき後ずさる。そんなコミカルな光景を脳裏に描き、さもありなん、うふふふと笑う僕たちの胸にも同様のミソ汁イメージが僅かなりとある。これは否定できないでしょう。


境界に位置する町“金武”の、さらに混沌とした緩衝地帯である場末のバーを舞台にして語られるミソ汁は、境界のこちら側=“内側”にある特別なものとして強調、記号化されて、いかにも象徴的に取り上げられている。加えて明らかに“負”の意味も担わされています。


ここでの“内側”は“国境の手前”ということに等しいですから、ミソ汁が担う違和感は“日本人”にそのままスライドしそうです。臭い者、野暮な者、不衛生な者といったセルフイメージを喚起することになります。 いや、ちょっと暴想が過ぎましたね。ここまで自虐的にならなくてもいいでしょう。


恋愛の「れ」の字もないのですが、ねじれた自意識が露呈する深層的な内容で、ちょっと惹かれる「味噌エッセイ」なのでした。 時流や微細なことにこだわる関川さんらしい、味のある文章でしたね。


さてさて、いよいよ大雨の季節。渦巻く灰色の雲も、夜半押し来る重い雨脚も、ぴりぴり総毛立つ雷光も、どれもが情緒を宿して嫌いではない、いや、好きです。でも、うっかりするとカビが生えるし食中毒も招きやすい。どうぞ食品の管理は怠りなく。

味噌はこんな高温多湿の風土に冷蔵庫もない昔から根付いたもの。カビなどモノともしません。頼もしいばかりで、決して不衛生でもない。自信を持って、安心してどんどんいただきましょう。“臭い”とも思わないしね。刑務所にいつ入っても僕は平気です。

(*1):「道新Today」(北海道新聞社)1988年8月号初出 「森に降る雨」(双葉社)所載




2009年6月23日火曜日

向田邦子「アマゾン」(1981)~ゆずらずまじらず~


(*1)

アマゾン河は濃いおみおつけ色である。仙台味噌の色である。

そこへ、八丁味噌のリオ・ネグロとよばれる黒い川が流れ込む。

人はアモーレ(愛)があれば、一夜で混血するが、ふたつの河は、

たがいにゆずらずまじらず、数十キロにわたって、河の中央に

二色の帯をつくってせめぎ合う。結局は、仙台味噌のアマゾン河に

合流するわけだが、ボートで二色の流れのまん中に身を置くと、

自然の不思議に息をのむ。

折から夕焼け。血を流したような陽がゆっくりとジャングルの向うに

落ち、抜けるほどの青い空が薄墨に染まっていく。これを見るだけでも、

日本から二十時間の空の旅は惜しくない。(*2)


台湾で飛行機事故に遭い向田邦子さんが亡くなったのは1981年の八月だから、既に27年が経ってしまっている。あれから27年、信じられない。

追いかけた作家のひとりでした。講演を収録したテープを買い求めて“声”を繰り返し聞いたりもしたけれど、今にして振り向けば、淡い恋こころを僕は抱えていたみたいです。向田さんは遙かに年長の当時四十代後半ということもあり、また僕は、田舎に住む単なるガキでしかなく、クラスで一、二を争うオクテでもありましたから“恋”とか“愛”とかいう語句はついぞ意識することはなくって、あくまで劇作家として敬愛、畏怖するばかりでした。けれど、そう自分では思いつつ来たけれど、やっぱりあれは恋。NHKの「阿修羅のごとく」(*3)が代表作として印象深いけれど、彼女自身が何より素敵なドラマで目が離せなかった。





落ち着いた物腰には随分と惹かれるものがあって、週刊朝日のグラビアに載った愛猫を膝に抱き床に座った白黒の写真などは、製本用のステープルを外してそっと抜き取り、左右の頁を丹念に狂いなく糊付けしてから額に入れて飾っていました。あれはどこに仕舞ったものだろう、こちらに投げられた穏やかな微笑みをとても懐かしく思い返します。

俳優や番組制作者、編集者が披露するエピソードのひとつひとつが洒落ていた。例えばこれは有名な話だけれど、彼女が先客になっているカウンターバーでのこと。扉を開けて見知った男が入ってくる。自慢気に真新しいコートをまとっている。それ貸してみなさいよ、と男が脱いだものに手を伸ばして受け取ると、たちまち乱暴に畳んで自分の尻の下にぎゅっと敷いてしまう。唖然として見守るなか、ばらっと広げ、ほら、これで良くなったでしょ、と皺の左右に踊るのをさらりと返して寄越す、そんな内容でした。

衣服に限らない話です。主役である貴方が引き立つようなものを身に付けなさい、本末転倒の滑稽なものを付けなさんな、という平常心に満ちた揺るぎない美学が伺えます。うむむ、絶対に惚れちゃいますね、そんなことされた日にゃ。


さて、向田さんは「残った醤油」という小文において、叱言(こごと)を聞かされ続けた父親を追慕するにあたり“醤油”に焦点を絞って語っています。ご飯のおかずは刺し身です。コワイ父親を前にして緊張のあまり、醤油注ぎから小皿に垂らす量が思わず多くなってしまった。それを見咎めた父親が少女時代の向田さんを早速叱りつけ、母親が間に入ってなだめます。


豊かではなかったが、暮しに事欠く貧しさではなかった。

昔の人は物を大切にしたのであろう。

今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てるとき、

胸の奥で少し痛むものがある。(*4)


「刻む音」と題されたものでは、今度は母親を懐旧しています。“音”とは朝食の支度にかかわる包丁の響きです。こちらは“味噌”が選ばれています。


顔を洗っていると、かつお節の匂いがした。

おみおつけのだしを取っているのである。

少したって、プーンと味噌の香りが流れてきた。

このごろの朝の匂いといえば、コーヒー、ベーコン、トーストだが、

私に一番なつかしいのは、あの音とあの匂いなのである。(*5)


こんな文章もあります。


朝起きると、まず歯磨き粉の匂い、新聞のインクの香り──

その次がパンを焼き、或は味噌汁をたてる香ばしい匂い。

思えば、朝起きるから日がな一日、私たちの生活は嗅覚とつながっています。(*6)



書かれた時期に隔たりはありますが、そこに流れる思念にいささかも段差はありません。住まいの中に息づく食事の光景への全面的な肯定が伺えます。醤油や味噌に対しての反撥が感じられず、実にのびのびとして爽やかな眼差しが照射されています。

最初に紹介した「アマゾン」は彼女の死後も南米大陸の紀行文に添えられたりして、時おり目の前に立ち現れたのでしたが、その度に感嘆し唸らざるを得ませんでした。味噌はこれまでの日記に書き連ねたように古き因習めいたもの、もはや存在し得ない遠い記憶のようなもの、といった“負”の扱いを受けることが多く、家庭や住宅、居間や台所の引力に捕らわれ、そこから離脱して描かれることは稀です。

向田邦子さんは地球の反対側のアマゾンまで味噌を連れ出しています。さらに“アモーレ(愛)”や“一夜で混血する”といった連射を行なって、味噌の大河をより濃厚で比重のある官能的なものへと高めています。

ここでもあい変わらず全肯定が為されています。どうしてここまでニュートラル、いや、むしろ肩入れするようにして味噌を捉えられるのか、かえって不思議を覚えてしまいますが、それは向田さんの描く住宅、家族の有り様と通底していそうです。


「阿修羅のごとく」を例に引けば、家族のなかに当初から恋情をめぐり諍いがあります。引き出しの奥には春画が隠されてもいます。それらが暴かれても拒絶されることはなく、混乱は混乱のままに穏やかに収束へ向かっていく。恋も性も自然体で受け止められていて、父親や母親も神格化もされず、聖人君子の夫も、お人形めいた貞淑な妻もおらず、それこそ“たがいにゆずらずまじらず、せめぎ合う”ようにして流れていきます。

近年になって向田さん御本人の秘められた恋がおずおずと紹介され始めていますが、彼女は結婚と家庭という道筋をとらずに作家人生を終えています。実生活上、内と外という分断された世界観が醸成ならず、それゆえに象徴的な負の味噌汁を産み落とさずに済んだのではないでしょうか。世界が分断されなかったからこそ、アマゾンの大河までも同一の視点、価値観で染め上げることが可能だったのではないでしょうか。

より綿密な掘り下げは数多の熱心な向田ファンに任せますが、極めて特殊な味噌の描写が為されている、それは確かなことなのです。


(*1):Amazon River Cruise on the Seven Seas Mariner Cruising on the World's Largest River From Linda Garrison , About.com
http://cruises.about.com/od/southamericacruises/ig/Amazon-River/amazon075.htm
(*2):「ミセス」 1981 10月号初出 「夜中の薔薇」(講談社文庫)所載
(*3):「阿修羅のごとく」1979-80年 監督 和田勉ほか
(*4)(*5):新潟日報 1979 9月初出「夜中の薔薇」(講談社文庫)所載
(*6):「映画ストーリー」(雄鶏社)1959 7月号編集後記 「向田邦子 映画の手帖」(徳間書店)所載