新年会で知人がおいでおいでと手招きします。おみやげと称して取り出したのは、緑色の表紙の薄い冊子でした。ゴシック体で「日本醸造協会誌」と白抜きされている、いかにも硬い顔立ちの学術誌です。
なかに“被曝に対する防護策を求めて”と小題を掲げた文章があり、目が釘付けになってしまいました。実を言えば昨春以来あれこれと気に病んでいる僕の様子を見るに見かねた知人が、わざわざ付箋を貼って持ってきてくれたのです。専門用語がわんさか列を為しています。門外漢の僕にはちんぷんかんぷんの箇所が多いのだけど、なんとなく明るい話題であるのは直ぐに見て取れました。
すぐにでも書き写したいところですが、学術論文を長々と引用するというのは小説や漫画のそれとは性質が違います。自由勝手に幻影を構築するものとは違い、現実世界に真っ向から切り込んでいるだけに賞賛であれ揶揄であれ、その反響はどうしても熾烈(しれつ)になってしまう。ツィッターのような新しい仕組みとこれがもたらす騒動も日頃から見知っておりますから、どうしても慎重に考えなければなりません。
「引用」という行為自体が学術書の域で許されるものかどうか、それももちろんあるでしょう。段を踏んで一歩一歩進める理詰めの内容を、ほんの数行に端折って紹介するのはとても危険なことにも思えます。井戸端会議で気ままに応答するレベルではなく、よく咀嚼して消化しきってから行動に移すべきことって世の中にはたくさん在ります。この度の事故の一件はまさにそれでしょう。
はてさてどうしようか悩んだのですが、本日論文の表題を試しに検索にかけてみれば何のことはない、当の研究に関わった会社のホームページで堂々と紹介されているじゃないですか。関係する皆さんは公言することに一切頓着しておられない様子ですので、もう遠慮することなく、僕なりにこの初春に読み取った“ささやかな希望”を日記に書き残そうかと思います。
6.まとめ
ヒト個体において、遺伝子情報保持に関わる生理機能(SOS応答)があることを対放射線ストレス応答の研究から見出している。その応答機能における細胞レベルでのかぎとなるものはシャペロンであり、GRP78やHSP27がある。それらの分子シャペロン類の細胞内量を、培養ヒト細胞RSaを用い、ウェスタンブロッティング法で測定した。36種の味噌食品を蒸留水(MilliQ水)に溶解させ作製した味噌サンプル液を用い、細胞死を誘導させない濃度(細胞培養液量に対し2%以下)で、48時間以内の処理をしたRSa細胞より、タンパク試料を得て測定した。GRP78とHSP27のいずれかに細胞内量を増大化させるサンプル16種が見出された。次に、サンプル液処理RSa細胞で紫外線(UVC)により誘導される変異の頻度が低下することを、ウアバインの致死作用に対する耐性化(OuaR)を指標とする形質変異検出法とK-ras癌遺伝子におけるコドン12の塩基置換をドットブロットハイブリダイゼーション法により検出する遺伝子変異検出法で検証した。11種のサンプルで、変異発生を抑制することが示唆され、その内の6種では調査シャぺロンの量的増加が連動した。10種の麹菌株それぞれを米麹、麦麹、および大豆麹化した後、水溶液サンプルを調整し、味噌サンプルと同様の処理をし、RSa細胞におけるシャぺロン量の変動値を計測した。増大化させるもの6種を見出した。一方、味噌サンプル液により増加したGRP78の発現量をGRP78遺伝子のsiRNAにより低下させると、変異発生の抑制は見られなかった。従って、シャペロンなどの細胞内分子を介して、米麹、麦麹、あるいは大豆麹の成分によりヒト細胞における変異の発生を抑制するという機能が示唆された。(*1)
紫外線や放射線など、さまざまな悪影響を受けてしまった細胞は変異暴走や自滅の道を辿るか、それとも踏み止まって正常な活動を続けるか、二通りの道を歩むことになります。その分岐の要(かなめ)になっているのが“シャペロン”と呼ばれるものだそうです。このシャペロンというのは辞書を引くとどうやらフランス語のchaperonが語源らしく、元々は“社交界に初めて出る若い女性に付き添う、介添えの女性”を指します。これが細胞内に多く含まれるとダメージを受けた際でも修復の手が伸び、壊されずに再生していく場合がある。細胞を上手にエスコートして若々しい健常な顔かたちに導いていく、応援していく、そんな健気な役割をシャペロンは負っているらしい。
そのシャペロンの量を増加させる機能が味噌の基本となる麹(こうじ 糀とも書く)にはあると執筆者は捉えているのです。これは本当に興味深い話ですね。
世界大戦末期の新型爆弾投下にかかわる幾つかの伝聞に端を発し、有害な放射線に対してなにがしかの抵抗力を喚起する成分が味噌の中には宿っているのではないか、そう推察する声がずっとありました。呼応した研究者の皆さんの努力により小動物を用いた検証が重ねられ、消化器官の損傷をやわらげる効果が実際確認されてはいたのです。ただ、それをもってこの度のような劇甚な災害に当てはめて何か言えるかといえば、あまりにも特殊で初めての事であり、地域ごと千差万別の様相を呈してもいます。実験室内の動物を相手にした結論ではどうにもならなかったところがあります。
いたずらに過ぎていく時間に歯がゆさを覚え、靄(もや)のかかったような事態を何とかしたいと願った末に、(僕もそのひとりでしたが)そんな過去の論文をひも解いて紹介しようとするひとが幾人(いくたり)か現われました。その後のなりゆきを視ているとフードファディズム (food faddism)の烽火(のろし)じゃないか、あざとい宣伝ではないかと悪罵(あくば)される場面もなかにはあって、その度に面識のない間柄ながらなんとも気の毒に思い、また、膨大な数の読み手を相手にするウェブの難しさも感じた訳なのでした。
今回の発表の革新性は動物でなく、一歩踏み込んで“ヒト細胞RSa”を使っていることです。確かに各人の免疫力の段差や複合的な汚染の実態を考慮すれば、この発表の結果があまねく当てはまるとは言い難く、光明を確信するに至るほどの内容ではない。これで助かると信じろったって、到底無理な相談です。その意味では先の研究結果と変わらず、何の進展もないのかもしれない。
けれども「買うな、食べるな、飲むな」の大合唱のなかにあって、逆に“食すること”で闘えるかもしれない、もしかしたら救えるかもしれない──という話はめずらしく耳朶(じだ)に新鮮ではないでしょうか。それはあまりにも小さな一筋の逆波(さかなみ)かもしれませんが、ちょっと雄々しくもあり、小意気で愉快な風姿とも感ぜられて妙にほのぼのとしてしまう訳なのです。
いまは万事洋風の味つけが好まれ、僕の大事の思う人にしたってスパゲティだの何だのを料理してみたり、毎日のように食べがちです。そりゃ美味しい、僕だって大好きです。でもね、お願いだから時どきはお椀一杯の味噌汁をすすってもらいたい。心配げに遠目に見守っている“介添え”シャペロンを、三食に一度ぐらいは思い返してもきっと罰は当たらない。大事に思えばこそ「食べてもらいたい」、そんな風にこころを込めて祈っているところです。
(*1):「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」Findings of Gene Protection by Japanese Miso and/or Koji based on Creation of Human Physiological Functions,SOS Response-to Search for Radio-protective Methods 鈴木信夫 姜霞 喜多和子 菅谷茂 日本醸造協会誌 2011年12月号 公益財団法人日本醸造協会・日本醸造学界 808-809頁
2012年1月7日土曜日
2011年12月30日金曜日
山本義正「父 山本五十六」(1969)~一口吸うものだ~

ある朝、食卓にのった沢庵(たくあん)があまりにおいしそうだった
ので、母が飯をよそってくれるのを待ちきれず、私はひょいと手を
のばして沢庵だけを食べたことがある。すると、私の向かいにすわって
いた父が、
「漬け物というのは、ご飯のおわりごろに食うものだ。」
と言った。そこで、私はあわてて飯をほおばろうとして、茶わんに
箸(はし)をつっこんだ。すると、
「飯を食うまえに、味噌汁を一口吸うものだ。」
とやられてしまった。
べつに、とくべつなしつけというのではなく、どこの家庭でもやって
いる食事のきまりを教えてくれたにすぎない。食べ物をがつがつ食べたり、
意地きたなくすることを、父はとくにきらっていたようだ。
「親から与えられた服をよろこんで着、親から与えられた食事をよろこんで
食べ、丈夫に大きく育てばいいんだ。」
と、父はよく言っていた。(*1)
立体駐車場から車を出すと、雪の勢いがもう半端でない降りかたになっている。冷え込みは更にはげしく、羽毛みたいに膨らんだ雪片が夜の街にけたたましく降り注いでいます。
十一時を回って人通りもなく、酔客を求めて流すタクシーの影だけが目立ちます。閑散とした道路なのですが、こんな天気に何かあってもつまらないので慎重に進んでいきました。やがて大きな交差点で、信号は青から黄色になったばかりでそのまま突っ切ることも出来たのだけど、ブレーキを踏んで待つことに決めました。
帰ったところで何があるでもない静か過ぎる夜です。時間だけはとりあえずあるから、ゆったりと楽しんでみたい気持ち。内面の微妙な変化も関わるのだけど、最近は車を飛ばさなくても平気の平左で、海原(うなばら)を漂うクラゲのようにのんびり走る方が心地良い。年末ですからね、疲れも身体の底に澱(おり)のように溜まっています。湯船につかるようにして空いた時間をゆらゆらと過ごす、そんな癖がついてしまいました。
右手にガラス張りのホテルの建物が見えています。雪のベールの向こうには暖かそうな灯(あ)かりに染まったラウンジがあって、落ち着いた大人の時間を演出している。見知った友人が腰かけてお茶などしてはいないかしらと探してみたりするうちに、車の直ぐ脇の、僕の目線とちょうど同じぐらいの高さに奇妙なものを見止めて仰天しました。手の親指ほどの太さと大きさの黒い物体が宙に浮いています。最初は何か分からなかったのですが、それは一匹の羽ばたく虫でした。
大きさから蝉(せみ)かと思ったのですが、空中に静止する蝉なんて聞いたこともありません。ましてやこんな季節です。ゴキブリでももちろんないし、なんだろう。まばたきして再度焦点を合わせてみればどうやら蛾(が)のようです。一匹の蛾が自分の身の丈ほどもある雪を縫うように、時に避け切れずに衝突して白く染まりながら果敢に飛んでいるのです。
年末の酷寒の時期に虫が飛ぶのもめずらしく、加えて雪の延延と落ちてくる中を飛ぶ無鉄砲さというか、怖いぐらいの真剣さ、懸命さに僕はこころ打たれてしまって、今こうしてその事を、たかが虫一匹のことなのだけど書き留めようとしています。
調べてみれば深い秋にわざわざ蛹(さなぎ)から羽化し、ほかの生き物の影の絶え果てて寒々しい雑木林を、一生に一度の愛の成就をめざして飛ぶものもいるらしい。雪=寒さ=過酷=死、と単純に連想して勝手に驚いている僕の了見が結局のところ狭過ぎる訳ですね。冬を好んで海を渡ってくる鳥だっているのだから、こんな白い季節に暮らす虫がいても不思議はない。
長く空中で停まってみせる芸当と生態(誕生から死)を重ね合わせて比べれば、どうやら僕に会ってくれたのは雀蛾(スズメガ)の一種の“星蜂雀(ホシホウジャク)”です。信号はそこで青に変わり、彼なのか彼女なのかは知らないけれど、その後どうなったのかは分からない。真夜中の十字路の雪礫(ゆきつぶて)のなかに、さながら黒い“星” となって飛び続けるちいさな生命(いのち)の健気さに圧倒され、後ろ髪をつよく引かれながらアクセルを踏みました。
“世界は生きよという暗号を送り続けている”
そんな言葉を先日耳にしました。胸に響きます。確かにサインらしきもの、声援のようなものが世界には満ちているように感じられます。僕にとってはこのホシホウジャクも、そうだったのかもしれませんね。
さて、話変わって上に引いたのは第二次世界大戦時の軍人山本五十六(やまもといそろく)さんの姿を、家族の目から辿り直した回想録の一節です。赤ん坊だった頃から学生の時分にかけて触れた父親の、物腰や言葉といった断片的な記憶をご長男の山本義正(やまもとよしまさ)さんが丹念に掘り起こして一冊に綴っています。巨大な戦艦や航空母艦を統括した公人ではなく、子供を愛でる私人山本五十六がつぶさに描かれていてとても興味深い内容でした。
もちろん国を代表する組織の頂点に立ち、外遊もすれば豪華な会食もこなす五十六さんでありますから、美食に舌鼓を打つことも数限りなくあったはずです。けれど、それはそれ、これはこれであって、あくまでも基礎にあったのは倹約の精神みたいですね。ささやかな食の続くこと、身の丈に見合った家を選び、そこに住まい続けられることをこころから願った。
若いころの海戦で砲弾の直撃に遭い、左手の指を二本瞬時に失い、足は赤ん坊の頭ほどもえぐり取られたという壮絶な怪我を負った五十六さんは、実に百六十日間という長期の入院生活を余儀なくされたのだそうです。幸せのハードル、生活の質を悪戯に高くしなかったのは、そんな苦闘を通じて体得した彼なりの人生哲学だったのでしょう。
漬け物や味噌汁の食べ方をきびしく指導してはいますが、暴君となって家族を抑圧するつもりはさらさらなく、この世界で堅守すべきものとは一体全体何かを我が子に、そして時代を越えて僕たち今を生きる者にそっと諭してくれている。ここでの味噌汁はだから家庭の象徴、食卓のなつかしい記憶の枠をこえて、もっと清々しい、もっと強く語りかけるものが封入されて見える。
すでに観たひとの話によれば、現在公開中の映画(*2)のそこかしこにこの本に書かれたエピソードが顔を覗かしていて、上の味噌汁を囲んでの食卓の情景もちゃんと描かれているそうです。三月の出来事や現在の世相を二重写しにするかのような意図的な、挑むような演出が随所に感じ取れて割合に考えさせられる内容とのこと。足を運ぶだけの価値があるかもしれませんね。スクリーンの奥にどんな味噌汁が置かれてあるのか、僕も時間を見つけて訪ねようと考えています。
いよいよ年の境界を跨ぎます。
ともに暗号を探して、それを励みとしながら新しい日々を越えていきましょう。
この世界で堅守すべきものとは一体全体何かをずっと考えながら、
懸命に力あるかぎり、羽ばたいていきましょう。
善い年をお迎えください───
(*1):「父 山本五十六」 山本義正 手元にあるのは朝日文庫2011年版 引用はその163-164頁 あとがきによれば旧版は1969年に光文社より上梓されたとあるので、表題の西暦はこれに則った
(*2):「聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」 監督 成島出 2011
2011年12月24日土曜日
リシャール・コラス「息子の帰還 Le Retour」(2007)~灰色の綿のような~

父の前に置かれた味噌汁の表面は、灰色の綿のようなもので
覆われていた。母が手に持つ漬け物には黴(かび)がまだらに
生えていた。男は身を凍らせたまま、後ろ手に、一気に扉を閉めた、
思ったよりも勢いよく。扉は鈍い音を立てて縁枠にぶつかり、
空気の渦が生じた。(*1)
そそくさと衣服をまとい、手短に髭(ひげ)をあたって家を出る。五時過ぎたばかりでまだまだ空は暗いのだけど、前夜から降り積もった雪は踝(くるぶし)の高さを優に越えており、その時間であれば本来なら墨を流し込んだような車道が白々と発光している。いよいよ来やがったな、つらい季節だなと嘆息すると同時に、妙に浮き立つものが湧いてくる。踏みしめれば靴裏に真綿の固まりをつぶすような、ぐぐぐ、と跳ね返ってくる感触がある。普段は無自覚の土踏まずがじんわり押し返されるのが新鮮で、きゅうきゅと鳴いて応える音も楽しい。
行き交う車も人の姿もなく、また、音もない。わずかに光の粒子を含んだ暁闇(ぎょうあん)をだいだい色の“みそかの月”が細く円弧に切り裂いている。新雪に怯えたか、それとも興奮したか、若い一匹の黒猫が真白い道を跳ねながら横切っていく。
綿毛のような雪片の大量に舞い落ちてきて、この汚された大地を染めていく。まるで夢にまぎれたか昏睡に陥ったかのような非現実じみた風景で、しばし呆然となって眺めていた。考えてみればこの雪だって何を含むか知れたものじゃないのだけれど、それでもこうして廻り来た日本の冬はやはり凄絶で美しいものとしみじみ思う。
悪くだけ考えることも出来ず、良いことだけを思うこともならず、行きつ戻りつの思案が沈鬱で仕方ない。ぱっと何かに没入して、数時間でも数分でもいいから全てを忘れて身軽になりたい。思う存分、何泊も夜を重ねながら見知らぬ街を歩けたらさぞ嬉しかろ楽しかろ、鬱陶しい気分もすっかり失せて、生命(いのち)の不思議とよろこびがきっと実感されるように想う。許されるのであれば、どこかにそろそろ出かけてみたい、旅したいと願う気持ちがこのところ募る一方だ。
知らない土地を訪れるだけでなく、見知った場処にいつもとは違った時刻に立つことだって一種の旅なのかもしれない。実際、こんな風景だって目に飛び込むのだし、なんちゃって、うそうそ、そりゃ負け惜しみ。本当の旅は違う。
背表紙が目に飛び込んだ瞬間に捕縛されてしまったのは、だから仕方のないことだ。リシャール・コラスRichard Collasseさんの新刊書は「旅人は死なない」といい、そのタイトルの示唆する通り、旅愁や郷愁が全編をくまなく覆っている。
「SAYA 沙耶」(*2)が店頭に並んでからまだそんなに経っていない。随分とまたハイペースではないか、とまず首をかしげてしまったのが本当のところ。騒然とするこんな世相の只中でもあり、コラスさんは大きな組織の経営者でもあるから舵取りに気を揉むことだらけに違いない。指示待ちの案件も山積しているはず。よく筆が進むものだ、と感心しながら手に取り眺めました。
巻末の初出一覧を見て納得したのは、この本はかつて雑誌に掲載された短編を一冊にまとめたものであって、一部書き下ろしもあるにはあるけれど、基本的に震災前の作品ばかりなのです。いちばん古いもので2007年の春といいますから、五年近くも前に執筆されているものを含んでいる。
正直にいえば僕はあの事故が国の諸相と人のこころを一変させるのではないかと不安視しているし、その窯変なり衝撃は実は“これから”本格的に押し寄せるものと思ってもいます。動揺を抑え、勇気を奮い起こさせ、闘志を育む上で小説なり物語の真価が試され、また、頼りにされていくものと信じるのだけど、そんな拝むような、祈るような気持ちをずっと胸中に抱えているためなのでしょう、“三月以降に書かれたもの”をどうしても探しては貪っていく傾向がどんどん強まっている。
その点この本に収まっているのは“昔の物語”ばかりになるから、僕の望むような回答はたぶん見出せないものと諦めながら頁を繰ったのでした。けれど、不思議と苛立ちは起こらず、むしろ“今の物語”として頷き、勇気づけられながらの時間となったのは有り難かったですね。
最初に引いたのは所載されている一編「息子の帰還」の終幕近い描写です。寒村を飛び出した若者が町の洋装店に雇われ、そこで必死に働くうちに客のひとりである娘に恋をします。残念ながらそれは一方的なものに終わり、傷心した男は久方ぶりに帰郷するのでした。変わらぬ村の風景と生家の様子にほっとする男でしたが、扉を開いて覗いた土間の奥には一見変わらぬ様子で座っている老いた両親の姿があり、よくよく見ればその手に持たれた味噌汁の椀には異様なものが浮いているのでした。元気そうに見えた両親ですが、実は──という話です。
八雲か鏡花か、といった感じでコラスさんには珍しい幻想譚なのですが、誰しもが懐(ふところ)に抱く生れ故郷や親族に寄せる“両面感情”が透かし込まれており、とても面白く読みました。先人たちの知恵を集束して保存性を高めた味噌や漬け物が、息子の帰宅を待ちきれずに変質している。単純に食べものが腐るのでなく、“故郷”や“母親”とイメージを結線する味噌汁なんかがあえて選ばれ、ぶわぶわのものが増えてむごたらしく破壊されていくあたりが斬新というか容赦ないというか、精神的でとても興味深い描写になっています。
この一篇を含む十九の物語が本には収まっているのだけど、いずれも庶民目線(と言うより作者目線)の物語で、悲劇に終わるものも含めて描かれているのは生きることに関わるハードルの出現と跳躍、または落下であって、読者それぞれが担っている日常と連結しやすい。
コラスさんの贈り出す物語に磁性じみたものを以前からは僕は感じていて、それはどうしてなのか考えてみると、結局のところ編み出された物語が作者の内実に寄り添っていて、どんなに突飛な舞台設定を組もうと、どんなにディテールを尽くして異国を装っても、最終的に人間の内側までがそんな“絵空事”に陥っていないのが大きい。ときに視座は若い現代女性の内部に置かれたりもするけれど、台詞や行間ににじむものは総じて1953年生れの男のものであって、読み手である僕として投影しやすいものとなっている。
半生を費やして蓄積なった慚悔(ざんかい)、諦観、自戒といったものが頁の片隅に金属製の栞(しおり)のような面持ちでそっと挿されてあって、それが時折閃光をともなって目に飛び込みます。人生の不遡及性、途轍もなく残酷な面なんかと、その逆にひとりひとりに託された唯一無二で比類なきもの、奇蹟のような多様性とが再確認させられる。そんな内省的で穏やかな時間になっていく。
気を許し合える年長の友とこころ静かに会食している。悩みを打ち明け、過去の失敗談や苦労談が返されるなか、落ち着いた時間と酒杯が重なっていく、そんな風の暖かいものが読書中ずっと網膜の裏側に宿っているのです。
今回の一冊は震災のなかった頃の物語ではあるから、そこに今後の指針は示されてはしないけれど、読了してみれば、作者と僕たちそれぞれの背中に遥かなる航跡が白く尾を引き水平線の彼方まで続いているのが視認される。その長さと確かさが何よりも心強い。こんな自分でもまだまだ捨てたものじゃない、これからも航海は続くのだという気持ちが固まってくる。(頷くにせよ、首を振るにせよ)認めていかざるを得ない実人生を想い、腹がどしんと据わるところがあるのです。
(懸念や恐怖に打ち克つ術を“離日”という形で鮮烈に示されるということがなければ)コラスさんの次の執筆はいよいよ鎮魂なり覚悟なり、戦いなりを主軸に据えたものとなるでしょう。日本に残り、そこで暮らして舵取りをするとはそういう烈しいものにどうしてもなっていく。僕は単なる好奇心や時間つぶしではなく、今からもう心待ちにしています。彼の背景にある文化や彼自身の魂を介して、どのような言葉がこの国と読者に寄せられるのか、じっくりと耳を傾け考えたいと願っています。
聖夜ですね。特別な一年でもありましたから、出歩かずに家のなかで家族や恋人と過ごすひとが多いと聞きました。いつもと違って蝋燭の炎も原色の飾り付けも目に沁みて、格別な夜になるでしょうね。
良き夜を、こころ休まる夜を──
(*1):「息子の帰還 Le Retour」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 「旅人は死なない LES VOYAGEURS NE MEURENT JAMAIS」2011集英社 所載 66頁 初出は「SPURLUXE」2007年冬号
(*2):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社
2011年12月3日土曜日
"Lilacs"

革命によって仕事を奪われ、生活圏を追われ、四十半ばにして新天地を求めざるを得なかった作曲家の半生を描いた映画を観たところです。思えば偉人たちに限ったことではなくって、僕たちの数世代上の誰しもが途方も無い長く苦しい旅の当事者です。ここ半世紀の安泰に慣れ過ぎてしまった僕たちではありますが、そろそろ先達の身の上を振り返り、各人が胸に抱く人生のスケールや航路の範囲を変えておいた方が良いのかもしれません
そんなことを考えながら観終わったところです
雨模様の週末です
憂いごとを何もかも洗い落としてくれればいいのだけれど、かえって心配の種に化けていくようで落ち着きません。せめて風邪やインフルエンザを寄せ付けず、笑顔で乗り切っていきましょう。まずは目前の迫る物事を見据え、しっかり取り組んでいきましょうか。それしかないものね───
2011年11月18日金曜日
“反抗するその力よりも”

脚本家の山田太一(やまだたいち)さんが八雲八雲(こいずみやくも)さんのことを書いた「日本の面影」も合わせて読んでいる最中だけれど、予想通り味噌と醤油に関する特段の記述はないですね。古い全集をひもときながら想いをめぐらした気ままな散歩も、そろそろお終いみたいです。
食べもの”について触れたものではないのですが、最後に備忘録をかねて書き写しておきたい箇所があります。“結局この文章に出会うために読み進めてきたのではなかったかと思わせる、とても刺激を含んだ内容です。文頭に“東京、1904年8月1日”とありますから八雲さん晩年の一篇ですね。当時の日本はロシアとの戦争の只中にありました。前年の明治36年の12月21日にロシアの満州侵略に対し抗議を提出し、同28日には連合艦隊が編制されている。年明けて2月10日に開戦、たちまち海も山も砲火に砕け、戦死者の山を築いていく。
そのような暗澹たる世相にあって、東京という街が、そこに住まう人がまるで何事もないように動き、微笑み、ざわめく様子に八雲さんはひどく驚いているのです。理解しようと努め、どうにかこうにか思案を取りまとめていくのですが、読んでいると随所に不協和音が感じられる。困難なテーマに立ち向かっている証拠です。百年以上も前の考察ながら、あの三月の震災後に生きる僕たち“現代の日本人”を考える上で有益な言葉を多く含んでいるように思えます。
東京、1904年8月1日(中略)
日本にとっては、恐らくは、その国民的生命の無上の危機である。(中略)経験に乏しい人の観察には、日本人はいつもと異なったことは、何ひとつしておらぬように見えるであろう。(中略)心配あるいは意気沮喪(そそう)の情態を示すものとては実際にまったく何ひとつ無いのである。それどころか、国民一般の自信が喜ばしげな調子を見、また幾度の捷報(しょうほう)に接しても、国民の自負心が感心なほど制御されているのを見て誰しも驚く。西からの海流が、日本人の死体をその海岸に撒き散らしたことがある。鉄条網の防備のある陣地を襲撃して幾連隊の兵士が絶滅したことがある。幾艘の戦闘艦が沈没したことがある。だが、いかな瞬間においても、国民的興奮は微塵だもこれまで見ない。人々はまさしく戦前通りに、その日日の職業に従事している。物事の楽しそうな様子は、正しく戦前と同じである。芝居や花の展覧は戦前に劣らず、贔屓(ひいき)を有っている。市外の生活は何の影響もこうむらず、ほかの年の夏同様に、花は咲き、蝶は舞っているが、外見では、東京の生活はそれと同様に、ほとんど戦争の事件の影響をこうむっていない。(中略)この戦争の話はすべて悪夢だと思い込むことが出来るくらいである。(*1)
“捷報(しょうほう)とは戦闘に勝ったことを知らせる報道のことで、そういった報せに関してすら大騒ぎしない様子に八雲さんは首を傾げている。誰からも号令をかけられていないのに、まるで「悪い夢」のよう、「無いこと」のように誰もかれもが振る舞っている。なぜここまで統制されていくのか、不思議を感じている訳です。八雲さんは十四年間の暮らしで習得した知識を総動員して、この謎を解こうと躍起です。
古昔(こせき)、この国民は、その情緒を隠すばかりでなく、精神的苦痛のいか圧迫の下にあっても、楽しそうな声で物を言い、愉快そうな顔を人に見せるように訓練されたのであった。そして彼らは今日もその教訓を守っている。陛下のため、祖国のために死ぬる者どもを亡くした個人的悲哀を現すのは、今なお、恥辱と考えられているのである。(*2)
一般公衆は、あたかも人気のある芝居の舞台面を見るように、戦争の事件を観ているように思える。興奮はせずして興味を感じている。そして、彼らの異常な自制心は「遊戯衝動」の種々な表現に特に示されている。(*3)
日本の武家社会には士農工商といった厳格な身分制度や教育機会の不平等、それから男尊女卑や家長制度などが縦横に張りめぐらされていて、人間の思考はさながら蜘蛛の巣に捕まった羽虫のようなもの。前進も後退もままならない。感情を表に出すことを恥と捉える風潮も重なって、完全に手足をもがれた格好になったのだと八雲さんは(それを悪いこと、遅れたことと単純には否定はしていないのですが)推察するわけです。心の奥に渦巻く軋轢は吹き抜ける穴を探して“娯楽”の形にやがて変幻していき、お芝居や子供の遊び、歌や衣装といったもので花開いていく。深刻な討論や表現が回避され、華やいで笑いが寄り添う分野で“無上の危機”が盛んに玩(もてあそ)ばれる。八雲さんはそれを日本の国に巣食う独特の「遊戯衝動」によるものと捉えている。
刻下の世界震盪(しんとう)的なる事件のうちにあって、歌舞を見て感ずると同一様な楽しみを感じ得る、その不思議な度量を見ると──誰しもこう訊(たず)ねたくなる。『国民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであろう』と。……思うに、それは事情如何(いかん)によることであろう。クロパトキンが日本に侵入するという。その軽率な威嚇を実行し得るなら、日本国民は恐らく擧(こぞ)って起つであろう。然しそうでない、どんな大不幸を知っても雄雄しく耐え忍ぶであろう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異変の頻繁な国であった。一瞬時にして幾多の都市を破壊する地震があり、海岸地方の人口ことごとくを一掃し去る長さ二百里の海嘯(かいしょう)があり、立派に耕作された田畑の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋没する噴火があった。こんな災害がこの人種を鍛錬(たんれん)して甘従(かんじゅう)と忍耐とを養い来たっている。そしてまた戦争のあらゆる不幸を勇ましく耐え忍ぶ訓練もまた十分に為し来たっている。これまで日本と最も近く接触し来たっている外国国民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻撃を耐え忍ぶその力は、攻撃に反抗するその力よりもあるいは遥かに勝っているかも知れぬ。(*4)
“クロパトキン”とはロシア満州軍総司令官アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンのことです。“海嘯(かいしょう)”とは、ここでは大津波のことを指しています。日本人の寡黙、微笑み、どんな不条理な事態に面しても憤然とすることなく決して拳(こぶし)を振り回さない“おとなしさ”は、天変地異に幾度も襲われ、そのたびに耐え忍び、生き延びてきた歴史の産物ではないか──そのように八雲さんは考えるのです。
八雲さんが言う“頻繁な異変”とはどんなものか。来日してから亡くなるまでの期間、どのような災害が我が国を襲ったかをここで振り返ってみましょうか。(*5)
【1890年(明治23)】~八雲来日の年~
2月27日 浅草の大火(約1500戸焼失)
9月5日 大阪の大火(約1800戸焼失)
【1891年(明治24)】
12月30日 鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
【1892年(明治25)】
4月10日 東京神田の大火(約4000戸焼失)
【1893年(明治26)】
3月29日 伊勢松坂町の大火(約1000戸焼失)
【1894年(明治27)】
1月24日 鹿児島市大火(503戸焼失)
5月27日 山形市の大火(1200戸焼失)
6月17日 横浜市の大火(約1000戸焼失)
【1895年(明治28)】
6月2日 越後新発田の大火(約2000戸焼失)
【1896年(明治29)】
4月13日 越前勝山町の大火(1200戸焼失)
6月15日 三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月7日 富山県下の大水害(流失3000戸)
8月26日 函館の大火(約2220戸焼失)
【1897年(明治30)】
4月22日 八王子の大火(約3100戸焼失)
【1898年(明治31)】
6月5日 直江津の大火(約1600戸焼失)
【1899年(明治32)】
8月12日 富山市の大火(約5000戸焼失)
8月12日 横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)
9月15日 函館の大火(約2000戸焼失)
【1900年(明治33)】
4月19日 福井の大火(約1700戸焼失)
【1902年(明治35)】
3月30日 福井市で大火(約3000戸が焼失)
8月7日 鳥島が大爆発、島にいた125人全員が死亡
9月28日 関東・東北地方に大暴風雨(足尾銅山の山崩れで死者34人、不明170人)
【1904年(明治37)】~八雲急逝の年~
5月8日 小樽の大火(2481戸焼失)
これは酷い。なるほど毎年のように大きな火事があり、その度に何千もの家屋が焼け落ちています。今回の被害を語る際に話題によく上る三陸地方の大津波も、八雲さんはすごく身近に感じていたんですね。ここまで大きな災害がくり返されると、八雲さんの言わんとすることも当たっているような気になって来ます。喜んでいるのじゃありませんよ、逆に困惑している、心配になってくる。
ウェブを介して情報を収集する手癖の付いてしまった人には、はっきりとした触感となって感じられる話なのですが、海外の視線はまさに八雲さんが書いたこの“不思議な度量”に今なお注がれていていて、むしろ勢いは強まっている。一挙手一投足を睨(ね)め付けるかの如しです。“反抗するその力よりも遥かに勝っている”日本人の“耐え忍ぶその力”に対して唖然とし、いや、そろそろ愕然とする域に踏み込んで見えます。
僕たちの身体に染み入ってしまった忍従の力が、かえって“国民的生命の無上の危機”へと僕たちを追いやっていないか、真剣に考える必要がありそうです。現代のクロパトキンの侵入は軽率な威嚇程度では済まない。“甘従(かんじゅう)と忍耐”では抗しきれない相手のように思えます。
八雲さんの遺した言葉を日本人礼讃と捉え、美しい態度、素晴らしい姿じゃないか、さあ頑張ろう、いっしょに耐えていこう──そのようにまとめるのが普通かもしれないけれど、僕にはどうしてもそうは思えないんですね。きっと八雲さんも望まないように思えます。
(*1): The Romance of the Milky Way and other studies and stories(天の河縁起そのほか)「日本からの手紙」 小泉八雲 1905 大谷正信訳 全集第7巻 485-487頁
(*2):同487-488頁
(*3):同488頁
(*4):同506-507頁
(*5): http://meiji.sakanouenokumo.jp/
2011年11月17日木曜日
“無味に思える”

蛙(かえる)の冷たい、しっとりと湿った、緊(は)りの無い天性
に関して斯(か)く詩人が無言でいるのを怪しんでいる間に、突然
自分の胸に浮かんだことは、自分が読んだ他の幾千という日本の詩歌
に、触覚に関して詠(よ)んだものが全く無いという事であった。
色、音、匂いの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表わされている。
が、味感は滅多に述べて無い、そして触感は絶対に無視されている。
この無言もしくは冷淡の理由は、これをこの人種の特殊な気質または
心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うてみた。が、まだ自分はその
疑問を決定することが出来ずにいる。この人種は、西洋人の舌には
無味に思える食物で幾代も生活し来たっていることを憶(おも)い
起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或いは愛情のほかの肉体的
表明とかいう動作を為せる衝動は、極東人の性質が実際全く知らずに
いるものということを憶い起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なもの
にせよ、とにかく味感と触感とは、その発達が日本人は我々よりも
遅れているという説を抱きたくなる。(*1)
小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんが書かれた文章です。八雲さんは身も心も日本に投じ、この地で独自に発達を遂げた文化や思想を貪欲に吸収していきました。微に入り細を穿って書き留められた光景は、伝説やおとぎ話も含めて美しく、機微を含んでずいぶんと胸の奥深くまで沁みわたるのだけど、なぜか“食べもの”だけが蚊帳の外に置かれて見える。一体全体それはどうしてなんだろう、と先日来くずくずと考え続けて来た訳です。
先におこなった抜き書きからは八雲さんが日本の食事に物足りなさをどうやら感じ、それを悔しく思っていた様子が読み取れたのでしたが、上の文章を読むと嫌悪とまでは言いませんが、和食に対してかなり辛辣でどんと突き放している雰囲気があります。出版された時期から察するに、来日して七年か八年が経過していた頃でしょう。十分に風土に慣れ親しみ、四季を通じて多彩に変化していく日本の食料事情も飲み込めた時期です。そんな日本通の八雲さんから“西洋人の舌には無味に思える”と僕たちの食生活を評されてしまうと、いささかショックです。
隣国である大韓民国が小学校の給食にキムチを添えることを義務付けたりした理由がそうなのだ、と教わりましたが、味覚というものは幼年期に完全に組み立てられ、その時期に刷り込まれないと生涯にわたって“美味しい”とは感じ取れなくなるものらしいのです。人間の味覚、嗅覚の仕組みというのは実に不思議です。家庭の事情や根っからの異邦人という生来の体質から、地球のあちらこちらを転々として過ごしてきた八雲さんにとって、その四十年間に刷り込まれた食文化の情報量はさぞ激烈で膨大なものだったでしょう。そんな彼にとって日本での食事(醤油、味噌も含めて)は、正直言って味気ないものだったに違いありません。これが案外真相なんでしょうね。
そろそろ八雲さんをめぐる“食べもの”の話はやめにしましょう。いえ、何も和食をぞんざいに言われて気分を害した訳ではなくって、八雲さんの視点の面白さをもっと書き留めたくなっただけです。上の文章にある“触感”の話などきわめて面白いですよね。百年前の記述なのだけど、時代を超越した日本人論になって胸に迫ります。
海外での生活経験が豊富な友人から“握手”の話を聞かされたことがあります。出逢いや別れに際して交わされるあれですが、日常の何気ない儀礼に過ぎないと思われることなれど、そこで取り交わされる感情の綾は相当なものらしい。正のものもあれば負のものもありますが、実に多彩で大量のものが“触れ合い”を介して瞬時に行き来し、互い互いに汲み取っていく。文中にある“肉体的表明”という語句は古めかしい感じを与えるけれど、閃光にも似たまばゆい面持ちの、昂揚を誘う時間を築いている。
好感や信頼、融和、解放、休意、深慮、はたまた求心なり恋慕──実際のところはそんな単語をずらずらと述べていたわけではありませんが、数秒間に過ぎなかった一度の握手について、手のひらに宿る体温の印象やそこから派生する揺らぎや安息、土台に眠る気質や知性の奥行き、互いの状況と将来の展望といったことについて嬉々として語ってやまない友人を見ていると、「触感」は日本人の完全に出遅れてしまった分野だと素直に認めない訳にはいかない。対人間の交感や情報のやり取りを、ほんとうに真摯に積極的に捉えている印象を受けました。こりゃ敵わない、これが海外の基準だとすれば日本人の日常など“無味”で“遅れている”、空洞化していると揶揄されても仕方ないかな、と思います。
いつか上に書いたようなあざやかな、めくるめく明るさに充ちた“握手”が僕にも出来たらいいな。それにはもっともっと修練が必要だな──そんなことを夢想しているところなのです。
(*1): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「蛙」 小泉八雲 1898 大谷正信訳 第5巻 419-421頁 引用箇所には続きがあって、八雲さんは日本人の指先の器用なことを褒めたたえ、超絶技巧の工芸品を例に引いて後段を締め括っています。鈍感というのではなく、方向が違うのだと言いたいのでしょう。叱られないよう、そちらも合わせて書き写しておきましょう。(でも、日本食の味気なさについて補完する言葉は、最後の最後までないんですよ!)
──日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊な方向に発達している触覚の、ほとんど比較にならぬほど精緻なことを確証している。この現象の生理学的意義は何であろうとも、その道徳的意義は極めて重要である。自分が判断し得ただけのところでは、日本の詩歌は、我々が美的と呼んでいる高等な感性に微妙極まる訴えを為しながら、劣等な感性は普通これを無視しているのである。この事実は、他の事は何ひとつ表示しておらぬにしても、“自然”に対する最も健全な最も幸福な態度を表示しているのである。(中略)日本人だけが百足虫(むかで)の形態を美術的に使用し来たっているという事実は意義のないことであろうか。……模様のある革の上をば炎の小波のごとく 走っている金の百足虫(むかで)!が附いている京都製の自分の煙草入れを読者諸君に見せたいものである。
2011年11月11日金曜日
“朝食は汁と魚と”

朽ちかけた背表紙に手のひらを茶色くし、舞い散る粉でソファを汚しながら古い全集を読み進めるうちに、一枚の“忘れ物”を見つけました。図書館の本には思いがけないフロクが付いていることがあります。
四つ折りにされたわら半紙(今ではなかなかお目にかからない)が頁と頁の間に挟まっています。「生活設計表」と上に書かれてある。おとなの字です。謄写板によるものか、黒いインクがところどころ霞んだり滲んだりしながら几帳面にびっちりと罫線が引かれており、横軸には等間隔で左から右に6,7、8──と数字が刻んであります。硬い鉛筆で書かれた幼さの残る文字が行間で踊り、「起る」だの「飯」、「学校」だのと読めます。時どき「○○○公園にいった」とか「子どもの日で外出」とあります。どうやら小学校高学年か中学生による一行形式の日記のようです。生活習慣を意識付けるための宿題だったのでしょう。
「テレビ」は夜に限って1時間ほど観ています。就寝はほぼ毎日一定で9時です。昨今の傾向からすれば随分と早い時間です。紙そのものから染み出た油か何かが本の頁を真四角に染めており、両者が長い歳月ぴたりと寄り添っていたことが察せられる。ワードプロセッサーもなかった時期のものです、かれこれ四十年ほども遡った頃の日記でしょうか。“2年5組№13”と書かれた下に名前が読めます。落とし主は男の子ですね。彼がこの全集が明るい場所に並んでいた頃の最後の読者だったのかもしれません。
百年前に亡くなった小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの八十年前に出された全集に、四十年前の日記が挟まって眠っている。歳月を跨いで先人との会話が再開されていく、溝がさっと埋まって交感がさんざめく感じが嬉しいし、愉快です。
僕がこうして書き綴っているブログという名の吐息や囁きも、いつしか“落し物”となって忘れ去られ、40年後なり100年後に偶然に読まれるものだろうか。そのとき、子孫たちはどんなまなざしを向けてくれるものだろうか。そんな夢想もしてしまうのでした。
28.8年とか30年とか、はたまた2万4千年という年数を眉根ひそませ考えることを僕たちは今、(はた迷惑な話で怒りも湧きます)強いられています。ですから、未来を想うことはどうしても複雑な心境になります。もしかしたら怨嗟に満ちた目線でこの文章だって読まれるのかもしれない。どうして逃げなかったの、どうして手荷物ひとつで旅立たなかったの、そもそも何であんな未完成な機械に頼ってしまったの────。図書館の忘れ物のように気持ちをなごませる、微笑ましさと懐かしさを感じさせるもので在って欲しい、そんな穏やかな将来であって欲しいと願わずにはいられない。
脇道にそれちゃいましたね、話を戻しましょう。八雲さんの物語にどうして醤油や味噌が見えないか、その正確な理由は結局分かりません。臭いとか不味いと疎(うと)んじる気配もない。でも、全集のなかから食事に関する記述(節子夫人の懐旧談も交じる)を抜き書きしてみると、八雲さんの筆のためらいがなんとなく分かるような気になります。もしかしたら八雲さんにとって食事は、乗り越えられぬ大きな壁であり、そっと意識から外したかったのかもしれません。
学校から帰ると直ぐに日本服に着換え、座布団に座って煙草を
吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。
何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りま
した。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤(いや)しんだ
ように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似を
しますか』という調子でした。(節子夫人のはなし *1)
決して一度も、西部日本の何処ででも、西郷に居た時ほど居心地が
よかったことは無い。薦められて行った宿屋には、客は友と自分と二人きり
であった。(中略)食物は驚くばかり上等で、珍しいほど変化に富んでおり、
欲しければセイヨウリョウリ(西洋の料理)を──フライにした馬鈴薯添
えてのビフテキ、ロースト・チキンその他を──注文してよいと言われた。
自分は旅行中は純日本式食事を守って手数を避けることに決めているから、
その申出を利用はしなかった。(中略)日本全国のうちで一番原始的な
土地へやって来たのだから、近代化するすべての勢力の範囲外はるか遠く
に自分を見出すことと想像していたのであった。だからフライにした馬鈴
薯添えてのビフテキを思い出させられたのは幻滅であった。(*2)
1891年6月 松江にて(中略) 私は私自身の弱点を白状するのは
非常に恥じ入ったことではありますが、しかし事実は申し上げなくては
なりません。実は私は十ケ月間というものは日本食ばかりを食べていて、
他にはいかなる食物も口に入れなかったので、つい肉食を腹一杯食べる
ように余儀なくされたのであります……たった二日間だけの肉食生活
ではありましたが……。そしてその結果病気にかかってしまいましたので、
日本食で養生することが出来なくなりました──鶏卵でいくら勢いをつけ
ても駄目なんです。私は牛肉、鳥肉、ソーセージ、フライにした固形物等を
驚くばかり貪食し、あまつさえビールを鯨飲しました──これというのも
私は一人の外国人の料理人を松江で僥倖(ぎょうこう)にも見出したから
であります。私は大いに赤面しております。しかしこれは私の罪でもなけ
れば日本人の罪でもありません。皆私の祖先の罪なのです──すなわち
北方人類の凶暴にして狼のごとき遺伝的本能とまたその傾向とに原因して
いるものであります。父およびその他の人達の罪悪なんです。(*3)
食物には好悪(こうお)はございませんでした。日本食では漬物でも、
刺身でも何でも頂きました。お菜から食べました、最後に御飯を一杯だけ
頂きました。洋食ではプラムプデインと大きなビフテキが好きでございま
した。(節子夫人のはなし *4)
1893年10月13日(中略)午前七時──朝飯。極めて軽い物──
玉子と焼きパン。ウイスキー小匙入れたレモナードと黒コーヒー。妻が
給仕する、私は妻にも少し食べさせようとする。しかし妻は少ししか
食べない──あとで一同の朝飯の時にも顔を出さねばならぬから。(*5)
二番目の旅行記と三番目の手紙などを読むと、身も心も日本に染まろうと願う余り、身体の要求を無理やりに八雲さんは抑圧していて、裂け目やひずみを来たしてしまった印象を受けます。また、こちらも旅行の記録ですが、八雲さんが日本の食の慣習に触れ、少なからぬ興味を示しているくだりがあります。
老主人が私を湯殿へ案内して、私を子供扱いに主人自ら強いて、私を
洗ってくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、ご馳走を
私のために調理した。私が二人前ほど食べた後でも、彼女は私に満足を
与えなかったということをひどく気にして、もっと沢山料理を作りかねた
ことを大いに詫びた。
彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚があり
ません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、
漁師が漁に出かけますので、両親とも生きている人は、魚を食べてもよろ
しいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と
言った。(*6)
東洋の信仰には“食を控えること”で精神的な高みを目指したり、霊的な交信を願う根強い流れ(*7)があって、断食修行や即身成仏がその究極のものとしてあります。日本という国に魅了され、その文化をとことん愛し貫いた男が和食のみで健常な心身を保つことがならず、西洋料理を定期的に摂取せねばならなかったことは恥辱とまでは言いませんが、硬いしこりを彼の精神中に育てたように思われます。(*8)
午前三時半── 一睡もできなかった──夜更けて山から下りてきた
連中や、参詣のため到着した者共で夜中のどさくさ──下女を呼ぶ手の
音が絶えない──隣室は飲めや歌えの大騒ぎ、折々どっと哄笑(こうしょう)
が起こる……朝食は汁と魚と御飯。(*9)
小泉八雲さんの全集でようやく見つかったのは、味噌汁でもなければお吸い物でもない、ただの“汁”でした。前夜の不眠にいらだつ気持ちもあったでしょうが、なんとも淋しく直截な表現です。汁、たしかにスープなんだけど、こんな書き方は珍しいですよね。
日本を舞台に選び、日本人の生活を描けば、自ずと味噌汁や醤油が現われて腋をかためるというのでなく、書き手のこころの有りよう次第で違ってくる。劇中それらが闊歩すると僕たちは“自然なこと、普通の場景”と受け止めますが、書き手によっては底なしの作意をこめて描くことだってある訳です。また、意識すればこそ、想いが強ければこそ書けないことって人間にはあるものです。八雲さんの見えない味噌汁はその証しとなっている。味噌汁の記述は結局なかったけれど、番外編ということで書き残しておきます。
八雲さんの物語には“転生譚”が多い。今度どこか別の世で八雲さんと逢えたら、と思います。僕たちがこれからどう生きるべきかの助言も欲しいし、味噌汁や醤油に対する感想もそっと耳打ちしてもらいたいですね。
今年の夏に冷房を我慢したせいもあるのでしょうか、ここ半月の気候に僕の身体はついていけません。体温調整が利かず、いくら重ね着しても寒くて寒くて仕方ない。
そちらはどうですか。寒くしていませんか。
どうか元気に、気持ちも身体もあたたかく、
あたらしい季節の幕を開けてください。
(*1):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 308頁
(*2): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第23章 伯耆(ほうき)から壱岐(おき)へ」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 第3巻 740-741頁
(*3):「チェムバリンに」 小泉八雲 金子健二訳 第9巻(書簡集) 523-524頁
(*4):「思い出の記」 小泉節子 別冊「小泉八雲」田部隆次 所載 333頁
(*5):「ベーシル・ホール・チェムバリンに」 小泉八雲 大谷正信訳 第10巻(書簡集) 358頁
(*6): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第6章 盆踊」 小泉八雲 1894 第3巻 171頁
(*7):これは上村一夫さんの作品にも顕著でしたね
(*8):三月以前は口にする必要も何もなかった横文字の物質をひっそりと赤身や脂に紛れ込ませた牛肉を“驚くばかり貪食”している僕たちの今を、いったい彼ならどのように見てどのように感じるものか。『現代の便利な物』である汽車を嫌い、電話を家に引くのを断乎として許さなかった男の目に、ふたたび光を増した夜の街がどのように映るものか。100年前に独り煩悶していたこの心根(こころね)の誠実過ぎる男に対して、僕は申し訳ない気持ち、恥ずかしい気持ちでいます。
(*9): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「富士山」 小泉八雲 1898 落合貞三郎訳 第5巻 281頁
最上段の写真は今やっている展示会のポスターです。行きたいなあ。
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