
恐山は本来切実な場処であり、その本質は崩れていません。8時、9時ともなると訪れるひとも増えていき、観光地にお馴染みの乾いた喧騒に染まってしまうけれど、僕のような誤った旅程で訪れてみるとかえって生々しい観念の渦が露わになるような、実に胸に迫るものはあるのです。
菩提寺に納骨したり、神社にて祈願したり、ひとは逝ってしまった家族、愛する人の安息をさまざまな形で祈るわけですが、大概の場合にはそのアクションで目的はひとまず成就して気持ちは整理なるものでしょう。皆が亡者と生者の悔恨の思いを“静止”するべく努めています。
ところが恐山はシュウシュウと硫黄煙を吹き上げている“動き続ける地獄”であって、死者が今まさにここにいるかと思えば遺族の哀しみは増大し、なんとか救ってやりたいという想いが湧出して胸を掻きむしられてしまう。実際そこかしこに行年(ぎょうねん)一歳とか三歳とか、十歳、十九歳といった幼くして亡くなった方の名を刻んだ慰霊の石が置かれ、なかには色褪せた写真が添えられていたりするのを見詰めていると、家族係累の“必死”が感じられて涙を誘います。
死者を葬る場処でなく、死者と会話し救おうともがく聖地として立派に機能しており、こういう形骸化していない宗教の地がこの日本にまだ残っていたのだな、と感慨を深めた次第です。たいへん恐い思いは確かにしましたが、やはり行って正解だったと思います。
さて、恐山といえば寺山修司さんの「田園に死す」を思い出さずにはいられません。映画をご覧になられ、その強烈な映像を脳裏に刻んでいる人も多いでしょう。
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