
岩手との県境を越え、八戸自動車道上にある福地(ふくち)パーキングエリアに滑り込んだのは土曜日12日の午前零時まであと少しの時間だった。ペダルを踏み込み過ぎて右足が重い。後部座席には寝室から持ち出した毛布がある。たぐり寄せて身体を包み仮眠を試みたのだけど、案の定とてもじゃないけれど眠れやしない。
いや、旅に長らく親しんだ人ならどうってことない話に違いない。地面を照射する水銀灯のぎらぎらしたまぶしさと、本州北端のぐっと冷えてきた寒気を凌ぐためにアイドリングを続けて居並ぶトラックや乗用車の、ぶるぶる、がうがうというエンジン音にやられてしまって、慣れぬ僕には熟睡は無理と早々に諦めた。
それでも一時間半ほどウトウトして気分は晴れたから、ここは思い切って先を急ごうと決めてベルトを硬く締め直す。夜中に目指していい場処ではないよ──という友人の助言を反芻しながらも、少し時間を惜しみ出してもいた。明日はちょっと大事な人と逢う約束があり、いや、それは何か色めくものでは決してなく、僕が懇意にしてもらっているひとと逢う訳なのだけど、弾む話を思い描けば時計の針がにわかに意識されて落ち着きを失った。
しかし、真夜中の北の町には行き交う車は見当たらず、墨汁にまみれたような真黒い道路を独りぽっちで走る淋しさは尋常のものではない。突如眼前に現われた近代的で巨きな工場のサーチライトに亡霊のように蒼白く佇むのに、慌てふためきカーナビゲーションの暗い画面に目を凝らせば、これが六ヶ所村の原子力燃料処理施設である。「真夜中への招待状」なんていう薄気味の悪い映画をふと思い出して、これはまずいタイミングに走り出したかと俄かに焦る気持ちが湧き起こる。
鉞(まさかり)のかたちを為した下北半島の、海に挟まれた細い柄(え)の部分をうねうねと北上し始めれば、街頭もない道端の藪に野兎がひゅうひゅう走り、黒い獣がぺたぺたとライトを横切る。あれは絶対に猫ではなかった。横たわる屍骸は歯をにゅうっと剥いたテンである。かえってこの時間ともなれば、ほんの時折すれ違う車も妖しげに見え、一体全体こんな時間にあの男女は何処に向っているのか、色香よりも何か禍々しさを覚えてしまって気色が悪い。もっとも、それは相手側も同様であったろうけれど。
手のひらに汗が滲んでハンドルを濡らし、タオルを探して拭きたいけれど、速度を落とすのもいよいよ怖い。そういえば大和町を越えた辺りで海から昇って来た半月の、巨大でオレンヂ色に染まったのも凶悪であって、その時は、“月”は僕には大切な女神だからと旅の出迎えを嬉しく想い、昔々の暖かな記憶に酔ってさえいた。けれど、その非日常の風景も思い返すだに不安は駆られて無理だらけの旅程をいまごろ恨んだりしている。
こういう時には大音量で音楽を掛けるに越したことはない。けれど、もう夜道に停まる勇気はなくなっていて、ハンドル片手にがさごそ助手席を探り、ツタヤの青いビニール袋のなかを必死で探る。家では気兼ねなく鳴らせないCDを思う存分に車内に響かせ走るのは独り旅の愉しさのひとつなのだけれど、今はもうすがり付くような気分である。
こうして天涯孤独の風にして夜中の闇夜に抱かれていると、なんとまぶしく安らいだ空間であったかとレンタルショップの白い空間を思い出す。どれを道連れにしようかと何枚か手に取り、これとこれは明日逢うひととの話の種になるはず、まだ聞いたことはなかったとカウンターに向ったときの嬉しさといったらなかった。それにこれも聞いておかないと。この歳になって馬鹿みたいだと笑ってしまう。これって中学か高校の教室で級友が貸し借りしていたアルバムじゃないか。僕は完全に周回遅れの“のろまなローラー”だな。あれ、バッハはこれだけか。残念、次回の旅の供にしよう。クラシックの棚は年々片隅に追いやられて見える。
いつの間にかハンドルがぶれて、危うく木立に突っ込みそうになった。息を整えてCDをかける。ところが、どれもこれもかえって恐怖を煽るばかりでどうしようもないのだった。中村八大の初期のジャズ演奏にしても録音の具合がいかにも昭和30年代であって、間延びした音がぼわんぼわんと反響してスティーブン・キングの恐怖小説のなかに捕り込まれた感じになる。慌てて女性歌手の声に替えてみれば、彼女が熱帯の街のホテルで気管支喘息で息絶えたことを思い出してしまい、その情景がありありと目に浮かぶようでぞっとして居たたまれない。
目的地はカルデラ湖を中心とした外輪山の内懐にあり、尾根をひとつ越えれば、後は谷底に墜ちてゆくように傾斜はいつまでも尽きることはない。地獄の底に落ちていくようだ──と友人は形容していたが、これは嘘ではなかった。どんどん墜ちていく、どこまでも墜ちていく。車道を囲む杉林の足元は鬱蒼と茂る笹薮で何が潜んでいても不思議はなく、ぐねぐねと蛇ののたうつが如き細い坂道の角々には巡礼者の墓なのか、それとも交通事故死者の慰霊碑でもあるのか、不意にヘッドライトに浮かび上がる地蔵の群に心底悲鳴をあげたくなる。おまけに給油メーターの警告灯がふわふわとオレンジ色に灯ってしまい、心細さは頂点となった。
無理にでも気勢を上げねば小便でもちびりそうであるから、拝むようにしてCDを替えたのだけれど、そんな頼みの綱のブリティッシュ・ロックを大音量で掛けていけば、あろうことか、おぎゃあ、おぎゃあと赤ん坊の泣き声が挿入されている!ぎゃあ、勘弁してくれ、と別なやつを突っ込むと、今度は、う、おおおーん、と犬の鳴き声がする!何だこれは!遂にはひょえ~ひょえ~とアホウドリが叫び、カラスまでがゲェゲェゲェと群れ鳴くじゃないの。助けてくれよ、おい、こっちは夜中の三時で、ガス欠寸前なんだ。
いや、旅に長らく親しんだ人ならどうってことない話に違いない。地面を照射する水銀灯のぎらぎらしたまぶしさと、本州北端のぐっと冷えてきた寒気を凌ぐためにアイドリングを続けて居並ぶトラックや乗用車の、ぶるぶる、がうがうというエンジン音にやられてしまって、慣れぬ僕には熟睡は無理と早々に諦めた。
それでも一時間半ほどウトウトして気分は晴れたから、ここは思い切って先を急ごうと決めてベルトを硬く締め直す。夜中に目指していい場処ではないよ──という友人の助言を反芻しながらも、少し時間を惜しみ出してもいた。明日はちょっと大事な人と逢う約束があり、いや、それは何か色めくものでは決してなく、僕が懇意にしてもらっているひとと逢う訳なのだけど、弾む話を思い描けば時計の針がにわかに意識されて落ち着きを失った。
しかし、真夜中の北の町には行き交う車は見当たらず、墨汁にまみれたような真黒い道路を独りぽっちで走る淋しさは尋常のものではない。突如眼前に現われた近代的で巨きな工場のサーチライトに亡霊のように蒼白く佇むのに、慌てふためきカーナビゲーションの暗い画面に目を凝らせば、これが六ヶ所村の原子力燃料処理施設である。「真夜中への招待状」なんていう薄気味の悪い映画をふと思い出して、これはまずいタイミングに走り出したかと俄かに焦る気持ちが湧き起こる。
鉞(まさかり)のかたちを為した下北半島の、海に挟まれた細い柄(え)の部分をうねうねと北上し始めれば、街頭もない道端の藪に野兎がひゅうひゅう走り、黒い獣がぺたぺたとライトを横切る。あれは絶対に猫ではなかった。横たわる屍骸は歯をにゅうっと剥いたテンである。かえってこの時間ともなれば、ほんの時折すれ違う車も妖しげに見え、一体全体こんな時間にあの男女は何処に向っているのか、色香よりも何か禍々しさを覚えてしまって気色が悪い。もっとも、それは相手側も同様であったろうけれど。
手のひらに汗が滲んでハンドルを濡らし、タオルを探して拭きたいけれど、速度を落とすのもいよいよ怖い。そういえば大和町を越えた辺りで海から昇って来た半月の、巨大でオレンヂ色に染まったのも凶悪であって、その時は、“月”は僕には大切な女神だからと旅の出迎えを嬉しく想い、昔々の暖かな記憶に酔ってさえいた。けれど、その非日常の風景も思い返すだに不安は駆られて無理だらけの旅程をいまごろ恨んだりしている。
こういう時には大音量で音楽を掛けるに越したことはない。けれど、もう夜道に停まる勇気はなくなっていて、ハンドル片手にがさごそ助手席を探り、ツタヤの青いビニール袋のなかを必死で探る。家では気兼ねなく鳴らせないCDを思う存分に車内に響かせ走るのは独り旅の愉しさのひとつなのだけれど、今はもうすがり付くような気分である。
こうして天涯孤独の風にして夜中の闇夜に抱かれていると、なんとまぶしく安らいだ空間であったかとレンタルショップの白い空間を思い出す。どれを道連れにしようかと何枚か手に取り、これとこれは明日逢うひととの話の種になるはず、まだ聞いたことはなかったとカウンターに向ったときの嬉しさといったらなかった。それにこれも聞いておかないと。この歳になって馬鹿みたいだと笑ってしまう。これって中学か高校の教室で級友が貸し借りしていたアルバムじゃないか。僕は完全に周回遅れの“のろまなローラー”だな。あれ、バッハはこれだけか。残念、次回の旅の供にしよう。クラシックの棚は年々片隅に追いやられて見える。
いつの間にかハンドルがぶれて、危うく木立に突っ込みそうになった。息を整えてCDをかける。ところが、どれもこれもかえって恐怖を煽るばかりでどうしようもないのだった。中村八大の初期のジャズ演奏にしても録音の具合がいかにも昭和30年代であって、間延びした音がぼわんぼわんと反響してスティーブン・キングの恐怖小説のなかに捕り込まれた感じになる。慌てて女性歌手の声に替えてみれば、彼女が熱帯の街のホテルで気管支喘息で息絶えたことを思い出してしまい、その情景がありありと目に浮かぶようでぞっとして居たたまれない。
目的地はカルデラ湖を中心とした外輪山の内懐にあり、尾根をひとつ越えれば、後は谷底に墜ちてゆくように傾斜はいつまでも尽きることはない。地獄の底に落ちていくようだ──と友人は形容していたが、これは嘘ではなかった。どんどん墜ちていく、どこまでも墜ちていく。車道を囲む杉林の足元は鬱蒼と茂る笹薮で何が潜んでいても不思議はなく、ぐねぐねと蛇ののたうつが如き細い坂道の角々には巡礼者の墓なのか、それとも交通事故死者の慰霊碑でもあるのか、不意にヘッドライトに浮かび上がる地蔵の群に心底悲鳴をあげたくなる。おまけに給油メーターの警告灯がふわふわとオレンジ色に灯ってしまい、心細さは頂点となった。
無理にでも気勢を上げねば小便でもちびりそうであるから、拝むようにしてCDを替えたのだけれど、そんな頼みの綱のブリティッシュ・ロックを大音量で掛けていけば、あろうことか、おぎゃあ、おぎゃあと赤ん坊の泣き声が挿入されている!ぎゃあ、勘弁してくれ、と別なやつを突っ込むと、今度は、う、おおおーん、と犬の鳴き声がする!何だこれは!遂にはひょえ~ひょえ~とアホウドリが叫び、カラスまでがゲェゲェゲェと群れ鳴くじゃないの。助けてくれよ、おい、こっちは夜中の三時で、ガス欠寸前なんだ。
やれることは限られました。最後のCDは映画のサントラ集だったのだけど、「いそしぎ」の流れるなかで僕は念仏をつぶやき続けたのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。どうか助けてやってください。
申し訳にですが、爆笑してしまいました。
返信削除恐山のもつ毒気にやられたというところでしょうか、たしかに夜明けの直前は時間が悪すぎましたね。
再訪なさる時は、バッハのCDを大量に用意していくことをオススメします!
笑い事じゃない!──嘘です、笑っていただき感謝いたします。
返信削除二度とご免ですが、あれが正解だったかもしれません(笑)。
恐山と下北半島の宗教に関しての本を読むと、何て言い表すか
失念してしまいましたが、なんでも午前零時に山の社に詣でる
習慣があったとか。
霊的なものと触れ合うにはそういった時間を選ぶ必要もある、
ということでしょう。現世で逢いたいひとはたくさんいますが、
幸いにして大事なひとを僕はまだ看取った経験がありません。
そういった大事だった人と、何としても会いたいと願う心が
あれば、あのような時間も尊いものとなって感じたことでしょうね。あぶら汗をタラタラ流した僕は、結局のところは苦労
知らずの半人前ということかもしれませんね。
イタコさんは限られた時にしかいません。モンローやバッハを
呼ばれたい時は、よくカレンダーを確認してから足を運んで
みてください。コメント、ありがとうございましたw