2009年10月5日月曜日

吉田健一「東京の昔」(1979)~美しい現在~



 併しそれでかういふ朝帰りの車の中での寒さが冬の朝の気分を

助けたといふこともある。それは雀の鳴き声地面に降りてゐる霜と

同じでさうした外から締め出されていない車の中にも朝があつた。

従つてそれはそのまま熱い番茶だとか味噌汁だとかトーストだとか

に繋がつた。又これを延長すればおでんに焼き芋に火鉢に起つた

炭火があり、この寒さがあつて當時の洋館の温水暖房も爐に燃え

盛る薪の火もそれはそれなりに冬を感じさせた。(*1)


 味噌と醤油に関する数多くある記述の中から、どうもめそめそした部分ばかりを選んで情緒的な方向へと誘導しているのじゃないの───そう見る向きもあるやもしれません。確かにここに掲載するにあたって僕の内部で選別は為されています。


 実際、日々の献立や生活の実相をずらり並列して開陳していく、そんな文章や映像は多々あるわけです。それ等の中では味噌(または味噌汁)にしても醤油にしても、すっかりこまごまとした諸相に埋もれて精彩を欠いてしまう。味噌、醤油という文字を刻んでいるけれども、世の中の文章のおよそ半分かそれ以上はそういったものなのであって、それをいちいち書き並べていたらキリはありません。



 たとえば、上に掲げたのは吉田健一(よしだけんいち)さんの随筆から写したものです。知人の書いたものの中に吉田さんの名前を認め、あら、読んだことないぞと興味を覚えました。この週末に図書館に足を運んで、いずれも閉架に眠っていた六冊ばかりを引っ張り出して来てもらったのでしたが、ざっと読んだに過ぎないけれど、政治から酒席、妄念から生活の領域までの多種多彩な吉田さんの記憶の果実を陶製の重い大皿に盛り付けられたような印象がありますね。加えて別の新たな果実を次々と給仕によって脇から添えられていく感じがして、ちょっと膨満した気分で今はおります。


 少し特殊な吉田さんの文体ではありますが、どうですか、いずれも同等な扱いになっているでしょう。雀、霜、車、朝、寒気、番茶、トースト、焼き芋。列を連ねて、するすると走馬灯のように行き過ぎてしまう。


 同じく吉田さんの文章から二個所ほど写させてもらいましょう。


 朝の食事だけを取って見ても、日本式のならば、おこぜの味噌汁に

とろろ、豆腐を揚げたのに塩昆布、それから烏賊の黑作りを少しばかり

という風な献立が考えられるし、洋食ならば、パンをよく焼いてバタを

よく附けた上に半熟の卵を乗せ、これにベーコンをフライパンで焼いて

添える。ベーコンの焼ける匂いというのは強烈なもので、そこら中が

お蔭で芳しくなり、そうするとどうしても飲みものはコーヒーということ

になる。腹が減っている時は嗅覚も鋭敏になるから、このベーコンと

コーヒーの匂いが混じつたのは、それだけでも気を遠くさせるものがある。(*2)



 かういふものを二部屋に分けて作るのでは手間が掛ると思つて初めの

時にこつちがおしま婆さんを部屋に呼んだやうに覚えてゐる。それでゐて

さういふ時に大して話をするのでもなかつた。ただ二人の間に昆布を引いた

土鍋があつて中に豆腐と鱈が沈み、それを掬っては薬味を利かせた醤油を

付けて食べるだけでそれが湯気を立ててゐるのが旨かつたから話をする

必要もなかつた。(*1)


 こういった文章のなかの醤油や味噌をあげつらったところで、あまり作為や深いものは見出せそうにありません。だから僕はこういったするするの走馬灯は取り上げていないのです。今回は特別篇という訳です。こういうのも有る、ということですね。

 そうして、変でしょう、これは、何かこだわってますよね、という描写のみを抜き出していく。それは味噌や醤油を効果的な小道具として差配する気持ちが送り手にあるのかどうか、言わば作為のスイッチのオンオフに関する区分となります。


 もっとも彼ら小説家や監督といった送り手の思惑や意図にまでは、現段階で線引きはしていません。どのような光を舞台に照射するのか、深海や碧空に似た冷たい光なのか、それとも血や熱砂を想わす鉄錆色のものなのかを見定めたうえで、こっちの系統だけを上手く束ねていこうと取捨選択している訳ではない。此処“ミソ・ミソ”を読むひとが何かしらニヒリズムや孤高の昏い薫りを感じ取られることがあるのなら、その戸惑いは僕が意図し導いたものでないどころか、僕自身も同様にして不思議と驚きを感じている最中なのです。そのあえかな旋律の全貌がどんなものなのか、どこから洩れ出て来るのかを気になって探っているところなのです。




(*1):「東京の昔」 吉田健一 中央公論社 1979
(*2):「再び食べものに就て」 吉田健一 1957  「甘酸っぱい味」新潮社 1957 所載

2009年9月30日水曜日

遺された手~日常のこと~



  一時間ちょっとの余裕があったので、即身仏を安置するという寺院を目指しました。橋のたもとで地元のおばさんに会ったので窓を開けて道を尋ねてみると、昔はよく歩いて行ったものだよと笑いながらの返事です。なかなかどうして、ずいぶんと急な道を延々と登り切った果ての集落の外れに寺はあって、車で来たのはどう考えても正解でした。ここを往復していたのかと想像すると、土地の人たちの健脚には頭が下がります。

  さて、目当てのお堂には人の気配がまるでなく、予約なしの拝観は受け付けない旨を書いた張り紙が一枚入口に貼ってあるのでした。う~ん、残念。又の機会と早々に諦めて、来る途中に看板があった古刹に寄って帰ろうと思い立ちました。






  狭い石段を登る途中に緑色をしたマイクロバスが一台止まっているのが木立の向こうに見え、団体客の騒々しさを脳裏に描いて一気に興が冷めてしまったのでしたが、実は彼らは県の博物館の主催する学術ツアーの一行だったのです。予想外の展開になってきました。

  普段は堅く扉を閉めていて、巡礼の者とて格子戸越しに外から拝むしかない堂の内部なのですが、あたふた出入りする人の動きが盛んにあるのです。これを幸いと僕も御堂の内部に潜り込んでみました。






  電線とて来ていない辺鄙な山ふところにあって、堂の内部は昏くって、説明を行なう学芸員さんが持つ懐中電灯の光の輪があちらこちらと陽炎のように浮遊して怖い雰囲気を煽ります。相当ひりひりする感じの空間です。


 格子戸の向こうから僅かに射し込む柔らかい陽光に救われます。突然の闖入者に驚いたようにして小さな仏像がぽつりと白日に照らされている。素朴な彫り痕です。角の取れ切った丸みのある土着信仰を感じさせ、ほんの少しだけ心が和みました。



  奥のすっかり闇に包まれている辺りで、何やらどたどたとした動きが起こっています。なんと“秘仏”として一般公開されていない本尊を特別に見せてくれるのだそうで、これにはツアーの参加者たちも色めき立って当然でしょう。錆び付いた南京錠がなんとか開けられ、歪み始めて重たくなった戸を数名でよいしょよいしょと押しやる様子です。





  入れ替わり立ち替わりしての狭い空間で、奇妙などよめきが発せられています。お相伴にあずかって僕もおそるおそる拝観させてもらった訳でしたが、仏様は、窓のない四畳半ほどの場所に居られました。二メートル程も背丈があってそびえておいでなのですが、頭の先から足元までの全身が猛火に焼け爛れていて、顔といわず胸といわず大火傷を負ったようにでろでろごわごわに黒く炭化しているのです。これはもはや悪霊ではないか、祟られそうだ、怖い怖いとつぶやく声も囁き出て当然の、無残この上ない姿であったのです。















  学芸員の照らす光にぼうと浮かぶのは、シルエットからかろうじて判別なるに過ぎないのだけれど、両の手を腰元で合わせ結んだ“印”なのです。元は千手観音であったらしいこの仏の、かざし広げて庶民の苦痛をねぎらっただろう千の掌は、次々と炎が燃え登ってじゅうじゅうと焼失していき、最後の最後に、たった一つのこの“印”だけが残ったのでしょう。


 神像仏像は四肢、頭部の欠損によって力を増すことがあります。真黒き仏の、遺されたひと組の手のひらにこころを余程摑まれ、そこに気持ちを傾けてきた人がいたのでしょう。焼け落ちたかつての本堂の残骸の中から取り出されたこの真っ黒の怪物を、秘仏と称して信仰を繋ぎ留め、1200年という悠久の歳月をこの土地に刻んで来た名も無き信者たちの眼差しを感じました。




  喪うことで得るものがある、というのは言葉のアヤであって、やはり喪うことに伴う苦しさや哀しみはひとを容易に粉砕し尽くす破壊力を秘めています。だから、こんな昼行灯の僕であっても言葉を慎重に選んでしまうのだけれど、それにしても、と思わせる黒く奇怪な仏の、とても数奇な運命なのでした。





  帰りがけに外から格子の前に立ち戻れば、足元には生卵とカップ酒が置かれています。心ばかりのお供えなのでしょう。人間って、人の想いってとても不思議ですね。




  写真はここしばらく携帯で撮り貯めたものです。一度掲載して、その後、何となく気まずくなって消したものも含んでいます。

 せいぜい自転車しか通れない狭い吊り橋がありました。これの直ぐ脇50メートル離れたところには、鉄筋コンクリートの頑丈な橋が造られている最中です。無用の長物となり、壊されてしまうのは時間の問題です。ちょっと淋しいですね。



  秋はいよいよ深まります。どうぞ温かくして、インフルエンザに十分に注意して、素敵な宝物をお探しください。

ではでは。
















2009年9月29日火曜日

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」(1933-34)~あのどろどろの~



 けだし料理の色あいは何処の国でも食器の色や壁の色と調和するように

工夫されているのであろうが、日本料理は明るい所で白ッちゃけた器で

食べては慥(たし)かに食欲が半減する。たとえばわれわれが毎朝たべる

赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したもので

あることが分る。私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、

いつもは何でもなくたべていたあのどろどろの赤土色をした汁が、覚束ない

蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実に深みの

ある、うまそうな色をしているのであった。その外醤油などにしても、上方

では刺身や漬物やおひたしには濃い口の「たまり」を使うが、あのねっとりと

したつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。また白味噌や、

豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺し身や、あゝいう白い肌のものも、

周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。(中略)かく考えて来ると、

われわれの料理が常に陰翳を基調とし、闇というものと切っても切れない

関係にあることを知るのである。(*1)


 こうして一部を書き写していると、中学に入りたての時分に戻ったみたいです。それに、あまりにも有名な作品を取り上げるのは照れ臭い感じがしますね。でも、仕方ありません、とりあえず押えておかないと。


 僕の短絡した斜め読みは、作意からはひどく外れているかもしれません。けれど、谷崎さんの筆が躍って見えたのは建具や家屋の構造に関する言及ではなくって、黒髪、素肌、装束といった女性美についてだったと感じます。妖艶なおんなの美粧を点描し、ねっとりとして分厚い暗闇のなかでずるずる連ねていく箇所は凄絶この上なく、床にどっと押し倒されそうな気分になります。おしろいの尖った匂いを幻嗅してしまい、ごほごほごほ、とむせ返ってしまいそう。「経済往来」なんて本に載ったわけだし、なんと言い繕おうが助平な男向けの読み物に違いありません。


 聖林映画にのめり込み、横浜の居留地に淫夢を追った谷崎さんは、そこに宿り息づいていた女性たちの涼しげな容貌や洗練された身のこなしから目が離せない。「頭の先から指の先まで、交じり気がなく冴え冴えと白い」素肌に息を呑み、日本人は体型においても「西洋婦人のそれに比べれば醜い」と捉え切っていた谷崎さんが、強いてその気持ちに蓋をし、日本の女性美をそびえ立つ塔と成すべく挑んだ、それが「陰翳礼讃」の実験的側面であるのでしょう。


 それには精神的な鎖国を行なうより他なく、結果的に家屋の奥たる「内側」に篭もることでしか闘えなかった。敵兵を避けて篭城するがごとき思考のなかで、内なる場処を支え励ますために味噌、醤油を登用して異文化を強引に際立たせていく、今日の小説にも連綿と引き継がれている戦術が垣間見れるのです。


 よくよく読んでご覧なさい。ここでの味噌、醤油は主役たる“おんな”に寄り添うまでに至らず、湯気や芳香が感情、恋情にそよいでいるようには読めません。どこか茫洋とした印象を留めるだけで終わってしまう。


 行数こそ確かにまとまっているのだけれど、谷崎さんは本気で傾倒していくわけでは全くなく、それどころか「いつもは何でもなくたべているもの」という見方を最後まで崩していません。「うまそうな色をしている」、けれど、「うまい」とは絶対に書かない。


 「あのどろどろの」、「あのねっとりとした」という形容詞も、そのような見方からすれば何やら意味ありげで哀れを催しますし、一種涙めいた諦観すら漂ってきそうです。味噌、醤油を書いているようで書いておらず、ひとりの男の動揺がその実はまざまざと書かれている、そんな展開に読み取れます。


 “日本文学”という舞台上での味噌、醤油の佇むべき“バミリ”が容赦なく印付けられているようで、興味深い一篇だと僕には思われてならないんです。



(*1): 「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎 1933-34  中公文庫にて入手可

2009年9月25日金曜日

西脇順三郎「禮記」(1967)~亡霊をなぐさめるのに~



また子供のあせの匂い

杉や小便や醤油や娘や

シダやコケの匂いがする

音と匂いが混合するところだ

ボードレールの亡霊をなぐさめるのに

ふさわしいエキゾティックの風景だ(*1)


 詩人西脇順三郎さんのことを知人より知らされたのは、夏の盛りでありました。と、書いてみて、あれ、“夏”はほんとうにあったのだろうかと奇妙な喪失感に襲われています。のっぺりした、摑みどころの乏しい夏でありました。僕の気のせいかな。


 西脇順三郎の詩の中に「悲愴なお醤油の香」という一節があった──という一文(*2)がウェブ上に直ぐに見つかってしまい、まあ、それは大変な“醤油”ではないかと心躍らせ、書店や図書館に足を運んで今に至ります。詩の世界が現在どのような様相を呈しているものか、完全に門外漢の僕にはまるで分からないのだけれども、西脇さんというひとは根強い人気があるものでしょうか、全集の何冊かは常に貸し出されていて、総てを閲覧し尽くせぬまま時間が経ってしまいました。


 おそらく僕の目が節穴なのだと思うのですが、現時点で「悲愴なお醤油の香」に出逢うことが出来ずにいます。映画との出会い、小説との出会い、音楽との出会い、そして、人と出会いというものは自然体であるべきでしょうから、その詩には近いうちにまみえるやもしれず、それともこのまま擦れ違うのかもしれず。


 ただ、悲愴感と醤油というのはどことなく触れ合うものがありますね。そのユニゾンが何に由来するのか、それは今後も探っていきたいところです。例えば、先日も取り上げた寺山修司さんのお母さまの回想録には、こんな悲しい醤油が描かれていました。


 私のほうはなかなかお給料のよい仕事がなく、お金は

どんどん必要になってくるので、夜も働くことにしました。

ほとんど寝るまもないような生活でした。

 そんなある日、昼の仕事を終えて、夜の仕事までのひと

ときを定食屋で友だちと夕食をとっていたときです。ふと、

気がつくと食堂の入口に修ちゃんがしょんぼりと立ってい

るのです。無塩醤油の瓶(びん)を大事そうにかかえて

います。可哀相で胸が痛かったのを今でも忘れられません。

 修ちゃんは病気を軽く考えて、学校も休まず、いつも通り

の生活をしていたのです。それでも塩分だけは気をつけて

いたのですが、だんだん体が苦しくなってきていたのでした。

 私はおこったり、あきれたりで、すぐ立川の河野病院へ

救急患者として頼んで連れて行きました。(*3)


 大学生活を開始したばかりの若い寺山さんが、大衆食堂から洩れ出る灯火に蒼白い顔を照らされて、うじうじと闇夜に佇立しています。胸には黒い醤油の瓶が一本。いかにも哀れです。大事そうに抱えていたのがカバンやコーラであったら、僕たちはこんなにも憐憫を覚えはしないのではないか。感傷を煽るカードとして味噌ほどには使われることはないのですが、激しい動揺と哀れを誘う、そんな不意討ちめいたことが醤油の登場には稀に起こります。


 さて、西脇さんの詩に戻りましょう。本来詩には解釈は不要のようですし、いずれも長文の一部だけを抜粋したに過ぎません。ここだけをもって何かを言及するには明らかに無理がありますから、さらりと書き写して終わりにします。いや、正直言えば、よく分からないの(笑)。醤油の登場する三篇と味噌の登場する三篇です、あれれれ、やはり趣きが少し違っていませんか、温度差がありませんか。

九二

あの頃の秋の日

恋人と結婚するために還俗した

ジエジュエトの坊さんから

ラテン語を習っていた

ダンテの「王国論」をふところに入れ

三軒茶屋の方へ歩いた

あの醤油臭いうどん

こはれて紙をはりつけたガラス瓶

その中に入れて売ってゐるバット

コスモスの花が咲く

安ぶしんの貸家(*4)





つまらないものだけが

永遠のイメジとして残る

それはローソクを買いに出たのだ

昔のように茄子ときうりとみようがを

きざんで醤油をかけて

白シャツをきてたべてみたい

この太陽のひらめき

赤土の憂愁

ぼろぼろにかわいた崖のくずれ(*5)





神々の祭りほど子供をよろこばせる

ものは他になかった祭りは喜びだ

でも「祭」ということは古代人の

言葉では神に「いけにへ」を捧げると

いう意味だったがそれはもうない

あの古代人が「いけにへ」を焼く

その煙りとあぶらと血のにおいは

まだ人間の嗅覚の中に残つている

醤油をつけて焼くウナギにもオーエー(*6)





ミソとネギの中を深くのぞくと

自分の中にある原始人が見える

原罪のラジユームにぶつかる

永遠だけが善でもなく悪でもない

永遠でない存在はすべて悪か善だ

悪と善が互に相殺されてゼロモラルと

なるところは悪もなく善もない(*7)





(ああ肉体はさびしいでも私は

すべての本を読んだよ)

でもわれわれは霧の中で

羊の肉に味噌をつけて

鉄の上で焼いて

山の神々へ捧げ(とくにアルテミス)

アンドー法王はマジック踊りをし

イケニエの祭祀を完了しアポロンの神へ

報告するやさしみを

悪魔に味方する人々に示した(*8)





記憶の喪失ほど

永遠という名の夏祭りにたべる

ナスのみそ汁とそれから

タデのテンプラとユバと

シイタケを極度に思わせる

ものはないと深く考えるのだ(*9)


 醤油をつけて焼くウナギにもオーエー、のオーエーって何だ、ちんぷんかんぷんだオーエー、でも、確かに夏の詩人って感じオーエー


(*1):「禮記」 西脇順三郎 筑摩書房 1967/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*2):http://www7b.biglobe.ne.jp/~utuwasaijiki/01-spring/sp-04/sp-0402.html
(*3):「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985/1991以降中公文庫 改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と改訂 
(*4):「旅人かえらず」 西脇順三郎 東京出版 1947/「定本 西脇順三郎全集Ⅰ」筑摩書房 1993所載
(*5):「豊穣の女神」より「九月」 西脇順三郎 思潮社 1962/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*6):「壤歌」 西脇順三郎 筑摩書房 1969/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*7):「えてるにたす」 西脇順三郎 昭森社 1962/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*8):「禮記」 西脇順三郎 筑摩書房 1967/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載
(*9):「壤歌」 西脇順三郎 筑摩書房 1969/「定本 西脇順三郎全集Ⅱ」筑摩書房 1994所載

2009年9月22日火曜日

森卓也「パゾリーニのキングコング」(1977)~甘かった~


 最近発見された「ソドムの市」の盗難ネガの中に、キングコング風の

巨猿のシーンが大量に発見された。(中略)それがパゾリーニのフィルムで

ある何よりの証拠として、コングの巨大なるUNKOにスカトロジストが蟻の

ごとく集まってむさぼるシーンが含まれており、そのUNKOが、どのように

して作られたかが議論を呼んでいる。一説によれば、それは、はるばる日本

から取り寄よせた岡崎の八丁味噌であり、それをむさぼるのは、全イタリア

赤出し愛好会同盟の面々であるとか。なお、このフィルムは、近く作られる

パゾリーニ追悼のドキュメント・フィルムに収録される予定。(*1)


 そんなことはもちろん有り得ません。けれど、読んだ僕はこれを半分信じたのでした。当時まだ幼かく映画の知識もほとんどありませんでしたから、冗談と現実の境界が思うように線引き出来ませんでした。ダンプカーほどもある茶色のもわもわした山が、日本とは違う透明感のある陽射しに照らし出されています。そこに群がり茶に染まっていく裸の男女。首を傾げつつも真剣にその場景を夢想して酔い痴れたものです。


 長じて後にパゾリーニの映画(*2)は観たわけですが、それまでに畏怖の念が内側で膨らんでいたせいかちょっと拍子抜けするような気分で、かえって“作り物”の可笑しさを堪能することが出来ました。僕の場合、そういう遅刻映画って案外に多いのです。最近ではホラー映画の金字塔なんて評される古い作品を固唾を呑んで観ましたが、一生懸命に作り演じている現場の苦労が透けて見え、なんか微笑ましい限りでしたね。


 ウェブでの記述に従えば、どうやらチョコレートとオレンジマーマレイドを溶かし固めて作られたらしい映画のなかの偽ものは、今見れば笑ってしまうような仕上がりです。唇を歪めて困り顔の若い男優の演技も情けなくって、アハハと大口開けて笑えてしまう訳なのですが、直接youtubeのアドレスを貼り付けるのは遠慮しておきます。その代わりに映画の冒頭の清らかな音楽を流しましょうか。




 あまり触れたくはなかったのですが、やはり日本人の味噌を廻る思考を捉える上で避けては通れない言葉があります。“くそみそ【糞味噌】”です。検索すれば、1、《糞も味噌も一緒にする意》価値のあるものとないものとの区別ができないさま。「秀作と駄作とを―に扱う」。2、相手をひどくけなすさま。ぼろくそ。「―にこきおろす」(*3)──とありますが、上に引いた空想映画の一場景にはこの“くそみそ”が関わっています。


 似たような言葉があります。“金持のクソは味噌になる”というものです。その説明を書き写せば、“金持のクソは味噌になる”「金持は一見、無用と思われるものであっても、有用なものに変えて、ますます豊かになっていく」。その逆が「貧乏人の味噌はクソになる」。(*4)


 けれど、ここには“金持”というイメージが輝く勲章のように付随していますから、味噌と糞とには大きな隔たりを感じますよね。両者の間ではメタモルフォーゼが完全に為されていて中途半端はありません。貴重で有益なものと忌避すべき無益なものとのコントラストが鮮やかです。けれど、“くそみそ”となると双方を遮っている薄い皮膜は破れる寸前となり、聖俗の色彩の段差は目立たなくなります。


 パゾリーニの映画であれ、それの土台となったサドの小説であれ、何ゆえに僕たち大衆はひそやかな鑑賞や読書を続けるのか。そして、日本の評論家が「ソドムの市」に己の妄想を重ねるときに呼び寄せた“くそみそ”にはどんな意味があるのか。

 僕たちの思念の底流にはタブーを突き抜けたいという衝動がやはりあって、パゾリーニの映画で為し得たパフォーマンスに羨望を投げ掛けている。“くそみそ”を茶化して押し付けた背景には幾らかスカトロジーへの興味や憧憬を見止めてしまうのです。味噌がありふれた食物となって地位を落とし、反面好奇心が糞を引き上げていくことで“くそみそ”の混沌とした面持ちは強化されている。そうして見果てぬ夢を追っているように見えます。味噌にとっては穏やかならぬ事態なのですが、けれど一方ではこんなにも精神的な食物はそうそう無いという思いを抱きます。


 このように書いて来ると、僕が完全に常軌を逸した狂人と思われるかもしれませんが、さすがにその手のものを口にする勇気はありません。これは断言しておきます。


 日本の話ではありませんが、こんな故事もあります。“父のクソをなめて病状を知る”「健康を害したときは便に変調をきたすが、一四世紀ごろの中国の人たちは、すでにこのことに気づいていた。南斉のユキンロウは、(これは人名かと思われますが)、県令に出世したが、ある日、急に胸さわぎがして汗が流れだした。父の身に異状があったと感じて辞職。家に帰ると父は、はたして病床に伏していた。病因を発見できない医者が「糞をなめて苦ければ心配ない」といったため、さっそく彼は父の糞を口にした。甘かった。回復の見こみがないと知り、自分が身代わりになりたいと祈ったが、ついに父は世を去った。」(*4)


 このように親孝行の手本としてあるくらいですから、決して恥ずべきことではないのです。ならオマエがやってみろ、と言われても出来ませんけどね。僕の父はまだ健在ですが、臨終間際になっても絶対にやらないでしょう。愛する人の場合はどうかって、熱病で苦しんで瀕死の状態だったら、おまえは確かめないのかい。迷うところです(コラッ!)。でもでも、う~む、止めておいた方が無難でしょう。それをやったら病人に愛想を尽かされて面会禁止の破目に陥ることでしょう。キスだって二度とさせてくれないでしょう。それは嫌ですからね。


 でも、どうやら苦かったり、甘かったりするらしい。どうも味噌とは味が違うようですが、体験を経ない限り謎は解けぬままです。結局のところ、僕たちは生がとことん尽きるまで映画や小説に翻弄され続け、“くそみそ”に想いを寄せて暮らしていくのでしょう。何につけ謎があるうちが花。味噌は答えの出ない謎に寄り添い、日本人の胸にあり続けるのでしょう。


(*1):「季刊映画宝庫 新年・創刊号 われらキング・コングを愛す」 芳賀書店 1977
   「〈珍作情報〉これが本命「キングコング」だ」 森卓也
(*2):Salò o le 120 giornate di Sodoma  監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ 1975
(*3):yahoo!辞書
(*4):「こいつらが日本語をダメにした」赤瀬川原平、ねじめ正一、南伸坊 東京書籍 1992
   説明文は主婦と生活社「ことば・ことわざ大全集」から、とあります。

2009年9月21日月曜日

寺山はつ「寺山修司のいる光景─母の蛍」(1985)~辛くてのめない~



 こんな子なので、一人でおいておいても、あまり無茶はしないだろ

うと信じていましたが、やはり一抹の不安もありました。しかしとも

かく、私はなれない仕事にとりくんであくせく働きだしました。夜は

英語の独学をはじめたり忙しい毎日でした。修ちゃんはそんな私を少し

でも手伝いたいと思ったのでしょう。ときどき、夕方私が帰って来ると、

「母ちゃん、ご飯作っておいたよ」と得意そうにしています。
 
 辛くてのめない味噌汁や、ボロボロのご飯をちゃぶ台にならべて布巾

(ふきん)をかぶせてあるのです。そのたび私はいじらしくて胸がいたむ

思いでした。男の子にこんなことをさせるのが心苦しくて、耐えられな

かったのです。(*1)


 自分の大便のなかに黒々とした蝿を見出した少年は、顛末を記したエッセイ「排泄」が極端に戯画化された架空のものでなければ“十歳の夏”におりました。寺山さんは1935年生まれであるから昭和20年、1945年の出来事と推察されます。


 上に書き写したのは寺山さんのお母さまのはつさんが書いた随筆の一部です。寺山さんの出生から死までをとても丁寧に書き綴ったものであり、寺山さんの作品世界をひも解く際には未読では済まされないものとなっています。こころひかれる人は、是非いちどは手に取ってご覧なさい。作品を背景から透視するような按配で、おおいに唸らされること間違いなしです。


 お母さまの筆が正しければ、この時期には基地の図書館で勤務され始めていて、十歳の少年は独り母親の帰りを心細げに待つ日々に突入していたことになる。味噌汁の鍋の中なる濁流に一匹の蠅とぢこめて 餐 ──という歌の“濁流”とは、単に熱した鍋のなかを拡大して覗いた描写ではなくって、戦争によって破壊された家庭の残された家族がなりふり構わずに働き出し、消えかかりそうな生を明日に繋いで灯していった闘いの状況を指し示しているようです。


 もう少し掘り進めないと結論は出せませんが、もしかしたら寺山さんのそのような留守番の日々が、彼の作品から味噌を乖離させたのかもしれません。自ら味噌汁を日々こしらえる時期を重ねていた寺山さんは、多くの女流作家と同様に味噌汁をシンボリックなものと捉える仕組みを内側から消失させてしまったのではないか。


 総じて味噌、または味噌汁を“家庭、母親、日常”と連結させ、劇的に描いてみせるのは男性作家に多いように感じられます。その不自然さはどうも調理という領域から逃避したか、または隔離されたことを源泉としている、それは間違いないようです。


 寺山さんが母親、家庭に固執した作品を次々に書き進めながら、味噌汁がポジティヴ、ネガティヴ、いずれのカードとしても用いられなかった背景には(もちろん大便の中に蝿を見ちゃった、という記憶が自縄自縛した可能性もありますが、それに加えて)そのような少年時代の家事実情があったかもしれませんね。



 さてさて、恐山にまつわる僕の“暗中模索”もこれで一旦終了です。本当に夜が明けて良かったよ、あんな夜はもう二度と御免です。

 世は大型連休の真っ只中、みなさん元気にお過ごしでしょうか。僕は丸々ではありませんが仕事にちらほら捕らえられ、例年通りに宙ぶらりんに過しています。そのせいもありますが、カレンダーの赤い文字に関わらず仕事に邁進しているひと、気分を引き締め戦っているひとに対して強い親近感を抱きますね。

 鍋の中なる濁流は誰の身体とこころにもあります。負けずに頑張りましょう。なにクソ、と負けずにフンばっていきましょう。あ~あ、最低、せっかくの話を汚く締めちゃってさ、馬鹿じゃないの。



(*1)「母の蛍」寺山はつ 新書館 1985 / 1991以降中公文庫 
改版にあたり「寺山修司のいる光景─母の蛍」と書名改訂 

寺山修司「田園に死す」(1965)~鍋の中なる濁流~ 

味噌汁の鍋の中なる濁流に一匹の蠅とぢこめて 餐 (*1)


 恐山は本来切実な場処であり、その本質は崩れていません。8時、9時ともなると訪れるひとも増えていき、観光地にお馴染みの乾いた喧騒に染まってしまうけれど、僕のような誤った旅程で訪れてみるとかえって生々しい観念の渦が露わになるような、実に胸に迫るものはあるのです。


 菩提寺に納骨したり、神社にて祈願したり、ひとは逝ってしまった家族、愛する人の安息をさまざまな形で祈るわけですが、大概の場合にはそのアクションで目的はひとまず成就して気持ちは整理なるものでしょう。皆が亡者と生者の悔恨の思いを“静止”するべく努めています。


 ところが恐山はシュウシュウと硫黄煙を吹き上げている“動き続ける地獄”であって、死者が今まさにここにいるかと思えば遺族の哀しみは増大し、なんとか救ってやりたいという想いが湧出して胸を掻きむしられてしまう。実際そこかしこに行年(ぎょうねん)一歳とか三歳とか、十歳、十九歳といった幼くして亡くなった方の名を刻んだ慰霊の石が置かれ、なかには色褪せた写真が添えられていたりするのを見詰めていると、家族係累の“必死”が感じられて涙を誘います。


 死者を葬る場処でなく、死者と会話し救おうともがく聖地として立派に機能しており、こういう形骸化していない宗教の地がこの日本にまだ残っていたのだな、と感慨を深めた次第です。たいへん恐い思いは確かにしましたが、やはり行って正解だったと思います。


 さて、恐山といえば寺山修司さんの「田園に死す」を思い出さずにはいられません。映画をご覧になられ、その強烈な映像を脳裏に刻んでいる人も多いでしょう。




 上記の短歌は映画のなかでは取り上げられてはおりませんが、歌集「田園に死す」のなかに収められたものです。味噌汁に迷い込んだ蝿を呑んでしまう、黒い笑いを誘うその行為や背景に郷里や幼年期の実体験を遠目に見る詩人の複雑な想いが透けています。



 この歌がどのような出来事から発したものであるのか、寺山さんは次のようなエッセイで打ち明けています。十歳の頃に小学校の便所で用を足したところ、便器に残るおのれのモノの中に黒い蝿の死骸を見止めてしまったことに端を発し、ドタバタした騒動が勃発する。


 それから、手拭いを暗い土間に敷いてそれを跨いで、

異物のまじった大便を排泄しようとしていると、心配

して起き出してきた母が、私が寝ぼけているのだと

思って、むりやりに私を便所に連れこんでしまった。
 
 私は、便所の中で、「蠅の話」をしてじぶんの体の

中味を知りたいのだ、と言った。すると母は「蠅は

味噌汁にでも溺れていたのを、まちがって飲んだのだ」

と言った。
 
 異物は、いつでも外界から「入ってくる」ものだと

いうのである。それは不法な侵入なのであり、体の中で

育って「出てゆく」のではない、と言った。後年になって

から、異物は「入ってくる」のか「出てゆく」のかについて

の母と私の認識の差は、男と女の違いから来るものだと

いうことを──フロイトの「夢診断」によって知らされたが、

その夜はとうとう、私の負けで大便を搾取することができぬ

まま寝ることになってしまった。(*2)

 大便と蝿の話がいつの間にか男女の性差へと脱線し、幾らか言葉じりには母親への入り乱れた思いが光って見えなくもありません。行軍先で亡くなった父親に代わり、母親が彼女自身と幼い寺山さんを食わせていかねばならない。当時三十を越えたばかりの母親は米軍基地で昼夜を問わずに働く日々に突入し、多感な年齢であった寺山さんに大きな影響を及ぼします。錯綜していく想いが創作活動へと直結し華開かせていくのは承知の通りでありますが、そういった作家論については寺山研究家の膨大な書籍を読み解いてもらうとして、問題はこの異物混入の様相です。


 味噌の製造過程で飛来した蝿がはたして原形を止めていくかどうか。さらには、味噌汁として作られた中に混入した生々しいものが約八時間の消化活動を経て後、ひと目で蝿と視認し得る形状を呈するや否や。原形をそのままにとどめた小海老の佃煮や、物珍しさや勇気試しも手伝って食する田舎料理のイナゴの煮付けなどを食べても、用を足した後におもむろに下を見定めて悲鳴を上げたことはありません。どこかに無理のある話です。いったい寺山少年は何をどのような感じで見たのだろう。消化の良くない昆布や繊維質の根幹類、豆の皮などを誤認したのじゃあるまいか。たとえばヒジキや昆布などには僕も時折驚かされたりします。



 もはやその事実関係は誰も確認出来はしないのですが、このような事件の中途半端な決着が寺山の胸中に落とした影はどのようなものであったものか、それを少しばかり思わない訳にはいかないのです。例えば寺山さんにはこんな文章もあります。


 
ただ食べるだけなら、「あんた」と二人で近くの食堂へ行けばいいし、

「あんた」のものを洗うのが面倒くさかったら、洗濯屋へもっていけ

ばいいのです。家事の代行は、だれにでもできるのであり、マイホーム

のテレビを見ながら、二人でミソ汁をすすりあうことに幻想をもっている

のでなかったら、こうした家の中での仕事を家の外へ持ち出してしまった

方がいいのではないか、と思われます。(*3)



 
寺山さんだけの宿痾とは言い切れない、それこそ多くの日本在住の創作者を混迷させる手枷な訳ですが、“家庭”や“家”を代弁させられる破目にミソは陥っています。ですが、何と言うか、かなりドライな印象をこの文章には抱きます。ここでの“ミソ汁”は随分と見下されてしまっていて、そこに精神世界を担わせる役割さえ振り当てられてはいません。母親という存在、母と子という関係、内側と外側といった諸相に固着した作家がその作品において“ミソ汁”を象徴的に扱った形跡がないのは、存外この大便事件がトラウマとして彼を縛ってしまったのではないか、と僕はこっそり思っているところなのです。


(*1)【×餐】 [音]サン《「ざん」とも》飲み食いする。食事。ごちそう。「午餐・正餐・粗餐・晩餐」http://kotobank.jp/word/%E9%A4%90
「田園に死す」より「子守唄」 寺山修司 白玉書房刊 1965 
「寺山修司青春歌集 角川文庫所載
(*2)「誰か故郷を想わざる」第1章より「排泄」 寺山修司 角川書店 1973 
(*3)「さかさま恋愛講座 青女論」寺山修司 角川書店 1981