2009年6月11日木曜日

黒木和雄「竜馬暗殺」(1974)~醤油蔵に逃げ込むおんな~


〇 土蔵の中
      竜馬、苛々して、歩きまわっている。

竜 馬  わしゃこんな所に閉じこもってるなんて気が染んぜよ。

      体中がカビ臭くなってくるような気分だわ。

      (大きなくしゃみ)くそっ!殺したい奴は勝手に殺せ!

      慎太、お前はどうなんじゃ、わしを斬るのか、斬らないのか!

      めしなんて食うちょらんで真面目にやれ!(*1)



 坂本龍馬を題材とした物語は数限りなくあれど、出色はやはり「竜馬暗殺」。幕末の政争をよく知らない歴史音痴の僕ですが、それでもかなり引き込まれました。近江屋への引越しから惨死に至るまでの慌ただしい三日間を虚実織り交ぜて描く群像劇なのですが、悲願の大政奉還も心血を注いだ組閣人事もどこへやら、映画のなかではまるで見当たりません。刺客の影に怯えて土蔵の奥に潜み、外を出歩いても暗い路地や墓場、河原をあくせく逃げ惑うばかりです。竜馬役の原田芳雄の長い髪が妙に色っぽくて、ノンケながらも見惚れてしまいます。


 興味深いのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(1962-66)以降ずっと定着している“醤油蔵の無視”に組みしていないこと。閉塞感にあえぎ、蔵に生息する多種多様な微生物の匂いにすっかり滅入ってしまって声を荒げます。こんな龍馬は他に見当たりません。


 また、中岡慎太郎(石橋蓮司)と政論を闘わすうちに頭にかっと血が上り、ぎらり抜刀して対峙する緊迫した場面があります。大きな木樽を跨いで橋のように置かれた狭い“渡し板”で、じりじり間合いを詰めていく。これは血を見るしかないと誰もが思うわけですが、やがてなんとなく滑稽に思えてくる。

 国の将来を憂えての大激論を交わしたふたりが、さながら塀の上で鉢合わせしたオス猫同士のように睨み合う姿は脱力を誘います。彼らも内心馬鹿馬鹿しさを覚えたようで、長崎から飛脚が届いたという知らせが聞こえた途端、あっさりと刀を引っ込めてしまう。このように映画「竜馬暗殺」は醤油蔵で繰り広げられるあれこれを通じて、まとわり着く“弛緩”を透かし込もうとします。



 さらに意外な展開もあります。竜馬は土蔵の二階窓越しに外を伺っていて、隣家に住まうおんな(中川梨絵)と視線を交錯させます。彼女は新撰組に囲われた遊女であり、わずかの金銭のために春をひさいで暮らしています。乱暴な隊士のひとりを誤って殺してしまったことから慌てふためき、なんと彼女も醤油蔵に緊急避難してしまう。


 おんなは竜馬にふたりで逃げよう、一緒に暮らそうと迫ります。膨れあがる不安を払拭しようとして竜馬と中岡、そして遊女は酔い騒ぐのですが、ノンフィクションであれ小説であれ、女人禁制の場としてずっと描かれてきた“近江屋の醤油蔵”に成熟した「若草の萌えるがごとき臭い」をぷんぷんさせるおんなが闖入して乱痴気騒ぎを起こしたことは、相当に意図的な演出です。もちろん時代背景も当然あるでしょう。政治活動に女性が目立ってきたことのメタファーかもしれませんが、あの時、確かに“醤油蔵”は、ほんのりと恋慕に染まった。徒花で実を結びはしませんでしたが、咲いたことは咲いた。


 「弛緩、脱力、家庭」の象徴として“醤油蔵”が建っています。ここではどちらかと言えばマイナスイメージではありますが、無視されるよりはずっとマシです。決別して政事に猛進するべきかどうか、いや、本来守るべきはここでないか、人生の本質とはどちらなのか。醤油蔵から出ることに二重三重の意味付けが為されて、竜馬の内部で極めて記号的な衝突が発生する。結局、竜馬は脱出(逃避)を目論むのですが、刺客の襲撃により全てを絶たれてしまう。


 “逃亡者”の側面のみを拡大視していて史実からはかけ離れていますが、その分ひとりの人間の生への渇望や執着、自己欺瞞や諦念がまざまざと浮き彫りにされて胸を打ちます。人は何と闘うのか、何から逃げるのか、何を求めるのか、あれこれと自分に反射するものがあって考えさせられましたね。






 さて、現実に戻って──。クライスラーとセネラルモーターズの破綻、驚きました。門外漢でしかない僕にはどこか夢の中の出来事に感じられてしまいますが、自動車産業に従事する人は苦労の連続でしょう。


 ふと「2001年宇宙の旅」(*2)を思い出しました。ヨハン・シュトラウスの優雅なワルツに乗って漆黒の大宇宙を滑空するスペースシャトルの船体に、蒼く燦然と掲げられていたパンナムのマークが網膜に焼き付いています。1991年、そのパンアメリカン航空が突然に破綻したのでしたね。あの時も僕は狐につままれたようで、いつまでも実感が湧きませんでした。


 企業の命脈はひとの人生と同じで突然に始まり、そしていつか、今度は突然に事切れる。いかに足掻き、知恵やお金を投じても力尽きるときは尽きる。先日取り上げた近松門左衛門の「曽根崎心中」(1703)で主人公が勤めていた醤油屋が、現時点でも商いを継続しているとは聞いたことがありません。「竜馬暗殺」の舞台となった近江屋にしても藩の御用達として隆盛を誇った模様ですが、今でも業界のオピニオンリーダーとして活躍しているかと言えば、どうもそうではなさそう。


 醤油や味噌を生業とする企業は老舗が多いのですが、だからと言って彼らが安泰な訳では決してないし限界はあるのですね。長い目で見ればどうしようもなく巡って来る。開き直ってなに糞、コンチクショウと越えていくしかありません。


 「竜馬暗殺」のラストシーンは政事とは無縁の群衆で締め括られました。幕府が倒れて世界が転覆しても、ひとは粘り強く再生し日常を築いていく。僕たちのひとりひとりが彼らサバイバーの血を受け継ぐ末裔といまは信じて、悠々と深呼吸して過ごしたいものですねえ。なかなかムズカシイけどねえ。


(*1):アートシアター111号掲載シナリオより
(*2): 2001: A Space Odyssey 1968 監督スタンリー・キューブリック


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