2009年6月17日水曜日

「ゼラチンシルバーLOVE」(2009)~塩すらも余分なもの~



雲が厚みと密度を増してきましたね。夕暮れに「ゼラチンシルバーLOVE」(*1)を観に行きましたが、途中フロントガラス越しに見える夕陽を背後にしての浮き雲の陰翳、コントラストが絵画のようで絶妙でした。うっとりと眺めながら、季節の移ろいの早さを感じました。最近は月と雲も良い具合です。


観客は僕を入れて五名だけでしたが、奥さんに付き合って来たらしい年輩の男性客が早々にイビキをかき始めた、と言えばどんな手触りの作品か分かるでしょう。否定的に書いているのでは決してなく、文法が一般の娯楽作と違っているせいです。こういった自由奔放な作風は嫌いではありません、むしろ僕は好きかもしれない。

ただ、その少し前に見たばかりの映像がちらちら頭をよぎってしまって困りました。頚椎を傷めてマットに沈み、大勢の観客から名前をコールされ続ける三沢光晴さんの様子です。ひとの一生など予測不能のことばかりだと、本当にそう思い知らされます。肉付き、容貌、衣服といった外観からは推し量れない運命の川がやっぱり僕たちの周りをとうとうと流れていて、時おり波しぶきを上げては足元をさらっていくみたい。(当人が誰よりもいちばん驚いたでしょうね。ご冥福をお祈り申し上げます。)


映画や小説は給食の献立のように人の死を膳に盛り込み、僕たちも当然のように愉しんで見てしまうけれど、今回の三沢選手みたいな“不意打ち”が本物ですよね。大概望み通りにはいかない。「ゼラチン」はそういった意味からも非現実的で自由気ままでしたね。恋する女(宮沢りえ)の秘密を知ってしまった男(永瀬正敏)が彼女を助けるために自分の死を手招きしてしまう、死を予測し受け入れる、そんな甘い結末でした。

もとより非現実的であるのを躊躇わず、オーバーな演技や奇抜な小道具を徹底して愉しもうという“たくらみ”が一から十まで占めている映画ですから、甘い結末も何でもアリの次元。宮沢りえのウィッグやコケティッシュな服、彼女の瞳の虹彩や唇、写真やフィルムの燃える様子、街路を彩る看板などなどから発せられる光と影を執拗にカメラは捉えていきます。ドラマ然とした男たちの死は、もしかしたらどうでも良かったのかもしれません。





これは写真展なんですね。そう思えば納得がいくし素晴らしかった。いや、皮肉じゃなくって本当に。演出家(写真家)の意を酌んだ観客にとっては、五感を鷲づかみにされる時間にはなります。


さて、例によって僕の視線は食べものに注がれます。「ゼラチン」では、宮沢りえが“ゆで卵”を食べます。ことこと小鍋で茹でては食べ、また翌日、同じ時間に茹でては食べます。彼女の大写しになった唇と舌に揉まれ砕かれ、何個も何個もぐっちゅり圧し潰されては呑み込まれる。

ソフトクリームもべろべろ舐め溶かされていきますが、それはオマケみたいなものです。兎にも角にもゆで卵。塩も使わずに食べまくる。僕みたいな年齢のひとはポール・ニューマンの映画(*2)を思い出すでしょうね。一方の永瀬正敏はスパゲッティを茹で、トーストにバターを几帳面に塗ったりしておりますがこちらも真っ当な食事の光景とは到底言い難くって、どこまでも観念的。

物語を削ぎ落とした写真展みたいな内容では確かにあるけれど、一応は“恋愛”を描いていることに絡んでくる。ゆで卵で宮沢りえと永瀬は繋がっていくのですが、多種多様な食べものから発するノイズを根こそぎ排して、ゆで卵のみを際立たせていく仕組みです。

“恋愛”と食事描写の量は映画や小説においては、反比例です。これは不思議だけれど実際その通りで、もしも取り上げられても収斂されて、ぎゅうと凝縮なっていく。「タンポポ」(*3)での役所広司と黒田福美なんかは別格です。飢餓感を“食”と“色”で同時に満たそうと彼らは試行して見事なのですが、大方の恋愛劇では激しい選り好みが食物に対して生じるのが普通。フルコースを背景にして満腹感が溢れる恋情は、なかなか描かれることはありませんね。(現実は違うけど。楽しく食べるよね、普通はさ)





考えてみれば当たり前ですよね。眩暈を起こすほどの空腹感を圧し殺してまでは恋愛映画なんか観ないのだし、本当に食うにも困るような切羽詰まった状態では、さすがに恋慕の情も起動しない。空腹と恋愛は現実でも空想でも本来寄り添わないから、恋愛劇では自ずと食べものは消えていくのでしょう。邪魔な存在なんですね。そして、選ばれた食べものは、至極象徴的なものとなっていきます。

谷崎潤一郎の「春琴抄」(*4)にも関連しそうな箇所があります。八歳で視力を失いながらも天賦の才能を授けられ三味線弾きで世間をあっと言わせた春琴と、彼女に身もこころも殉じていく佐助の物語です。才能に加えて圧倒的な美貌をも具えた春琴ですが、彼女は人前では絶対に食事をしません。食が細いというのではなく「当時の婦人としては驚くべき美食家であり」、「飯は軽く二杯たべおかずも一と箸ずついろいろの皿に手をつけるので品数が多くなり給仕に手数のかかることは大抵ではなかった」。けれど、「客に招かれた時なぞはほんの形式に箸を取るのみであったから至ってお上品のように思われた」。

そのようにして佐助以外の男の前で“食”の選り好みをした結果、「別嬪(ぺっぴん)の女師匠の顔を見たがる手合」だらけとなり、春琴の現われる先には男どもの視線が次々に揺らめき渦巻いていく。食べものが排された場処に色目が錯綜し、欲望が膨張するのですね。恋情と食べ物が共存しにくい文化的側面がここにも透けて見えます。

ぼんやりとした半熟のゆで卵を、延々と無心に食することは狙い目、計算でありました。ちょっと法則に囚われた気味はありますが、気分として分からないでもないです。

けれど、ときには塩を振っても良かったと思うし、お醤油だって使って欲しかったなあ。小皿に注いだ醤油にちょっと先っぽの方を濡らして、ひと筋の褐色の滴を垂らした卵をそっと唇に運んでも、かえってそれはそれで十分にエロティックで永瀬正敏と僕たちの芯を熱くしたようにも思えたのですが、えっ、やっぱり醤油じゃダメですか、気分が出ません?うむむ……やはり醤油は、恋愛向きじゃないのかなあ。


(*1): 「ゼラチンシルバーLOVE」2009年 監督 繰上和美
(*2): 「暴力脱獄」COOL HAND LUKE  1967 監督 スチュアート・ローゼンバーグ
(*3):「タンポポ」1985年 監督 伊丹十三
(*4): 谷崎潤一郎「春琴抄」1933年

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