「いまなにをしてた」とふかえりは天吾の質問を無視して尋ねた。
「夕ご飯を作ってた」
「どんなもの」
「一人だから、たいしたものは作らない。かますの干物を焼いて、
大根おろしをする。ねぎとアサリの味噌汁を作って、豆腐と一緒に
食べる。きゅうりとわかめの酢の物を作る。あとはご飯と白菜の
漬け物。それだけだよ」
「おいしそう」(*1)
さて、BGM代わりにバッハをかけましょう。マイケルはかけません。いいの、それは誰か別のたくさんの人がしてくれます。「1Q84」の主人公の天吾が「天上の音楽」と讃える「平均律クラヴィーア曲集」からBMV891。
土曜日の昼前にベランダでBOOK1を読み始めて、BOOK2を読了したのは日曜日の明け方になってしまいました。半年という長い時間軸が「1Q84」を貫いています。天吾、青豆(あおまめ)という名前の男女ふたりが、交互に章を分かち合っていく。時おり記憶が二十年前へとさかのぼったりもするから、ボリュームはぐんと膨らんで当然ですね。
まとまった頁数の結果、食事の光景が何度も何度も繰り返されていく。Post-itを貼り付けてから数え直してみると、少なくともBOOK1で6箇所、BOOK2では9箇所、ものを食べる描写があります。そんな訳でほんとうに珍しいことに“醤油”や“味噌”があちらこちらに見受けられるんですね。 “味噌汁”が登場する部分を並べてみましょう。上の天吾に続いての、青豆(あおまめ)による日常の食事です。
「ねえ、今ちょっと炒め物をしているんだ」と青豆は言った。「手がはなせないの。
あと三十分くらいしてから、もう一度電話をかけなおしてもらえるかな」
「いいよ、あと三十分してからまた電話するね」
青豆は電話を切り、炒め物を作り終えた。それからもやしの味噌汁をつくり、玄米と
一緒に食べた。缶ビールを半分だけ飲み、残りは流しに捨てた。食器を洗い、ソファに
座って一息ついたところで、またあゆみから電話がかかってきた。(*2)
次は再び天吾です。
天吾は米を洗い、炊飯器のスイッチを入れ、炊きあがるまでのあいだに
わかめとネギの味噌汁を作り、鯵の干物を焼き、豆腐を冷蔵庫から出し、
ショウガを薬味にした。大根をおろした。残っていた野菜の煮物を鍋で
温めなおした。かぶの漬け物と、梅干しを添えた。大柄な天吾が動き回ると、
小さな狭い台所は余計に狭く小さく見えた。しかし天吾自身はとくに不便を
感じなかった。そこにあるもので間に合わせるという生活に、長いあいだ慣れていた。
「こういう簡単なものしか作れなくて悪いけど」と天吾は言った。(*3)
そして最後も天吾。
天吾は『マザーズ・リトル・ヘルパー』や『レディ・ジェーン』を聴きながら、
ハムときのことブラウン・ライスを使ってピラフを作り、豆腐とわかめの味噌汁を
作った。カリフラワーを茹で、作り置きのカレー・ソースをかけた。いんげんと
タマネギの野菜サラダを作った。料理を作ることは天吾には苦痛ではない。彼は
料理を作りながら考えることを習慣にしていた。(*4)
上から“ねぎとアサリの味噌汁”、“もやしの味噌汁”、“わかめとネギの味噌汁”、“豆腐とわかめの味噌汁”です。単なる味噌汁ではなく、具が毎回きちんと違っていることに注目したいですね。村上さんのこだわりが透けて見えます。また、幾ら長尺の作品だからといって四度も味噌汁が調理されるというのは、これは不思議を越えて何だろうと唸ってしまいます。二巻にするための単なる行稼ぎではないですよね。喫茶店でのカレーライス、休憩エリアでのクリームパンといったものは至極あっさりした描写で済まされているのに、アパートやマンションでの自炊の描写となるとえらく執拗な印象を残します。
もちろん「1Q84」には様々な切り口があります。誇張された脇役の容姿、波のように寄せては返す性欲、突如断絶してしまう逢瀬、さらにはアクション映画顔負けの小道具など盛り沢山です。感想といったものを数行にまとめてしまうのは土台無理を感じます。また、受け手の人生観、哲学、体験、記憶によってまるで違った作品になるでしょう。
ですから、これは僕個人がこの2009年の初夏に感じ取ったものでしかないし、例によって酷い思い込みなのかもしれませんが、このような孤高を保った日常の自炊風景をもって訴えるもの、問い掛けるものが在るように感じます。“無意識のうちに、まるで飛行機の操縦モードを「自動」に切り替えたみたいに、ほとんど考えもしない”(*5)毎日の料理。その一方で“作りながら考えることを習慣にして”もいる。調理という作業ひとつをとっても捉え方がすっかり分裂し、まとまりを欠いてしまっている。とても安定して見えて、とても不安定。自分が何なのか分かった気持ちでいるけれど、まるで分かっていない。そんな僕たちの“長いあいだ慣れて不便を感じない生活”がとても丁寧に、静かに提示されています。
一見奇天烈で無鉄砲に見える漫画を託されたように見えますが、単なる絵空ではどうやらない。何気なく過ごしている日常が描きたかった。しつこく繰り返される調理の光景は、そして丁寧な味噌汁の描写は「1Q84」の構成上欠くべからざるものだった。 作者が意識したかどうか分らないけれど、“内”を強調する記号として“味噌汁”は大いに機能して見えます。
しかし、天悟であれ青豆であれ、自炊作業や味噌汁に一切の苛立ちや疑問、その逆の陶酔といった昂ぶる感情が派生して来ません。物語が境界を発見し、ようやく一歩を越えたばかりで未成熟である証しでしょう。その辺りが個人的には物足りなく感じはしました。文体に気持ちよく酔い、展開にすっかり夢中にはなりましたが、幾らか僕は齢を取り過ぎた読者だったかもしれませんね。越えること、越えられないこと、その間に潜む段差や亀裂のことを相応に学んでしまったせいでしょう。
“醤油”の方は料理で一箇所、そして赤ワインとペアになって台詞のなかに登場するので計二度認められますが、味噌汁の執拗さと比べると影が薄い。ここで台詞を含む前後を引用してもいいけれど、いささかエロティックに過ぎるので割愛します。へっ、ナニ気取ってやがる、ほんとうは一番そこを書き写したかったくせに。うふふ、そうなの。なかなか趣きのある場面なんだよ。いい感じの“醤油”なんだよ、悪者あつかいだけどさ。(*6)
最後に「華麗なる賭け」(*7)の予告編を貼っておこう。やはり劇中で触れられていますね。青豆のイメージはこれなのか。フェイ・ダナウェイが最高です、当時まだ27歳ですよ。
乾いた感じは「1Q84」と重なって見えます。村上さんの思い描く世界はこんな風だったんだね。「ノルウェイの森」が映画化進行中ですが、湿度に気を付けて仕上げてもらいたいですね。
(*1): BOOK1 第6章 139頁
(*2): BOOK1 第15章 332頁
(*3): BOOK2 第12章 261頁
(*4): BOOK2 第18章 381頁
(*5): BOOK2 第4章 95頁
(*6): BOOK1 第14章 312頁
(*7): Thomas Crown Affair 1968 監督ノーマン・ジェイスン
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