
〇堀川醤油工場
大カマドの前で、火加減を見ている吾朗……汗をかき、Tシャツ姿である。
和子、入ってきて、
和子「こんにちは」
吾朗「よっ……」
和子「(辺りを見回し)あったかいのね」
吾朗「ああ……暑いくらいだよ」
和子「(クンクン鼻を鳴らして)わたし、この匂い、好きよ、お醤油の匂いって……
なんだか優しくって……」
吾朗「(見て)……そういう気楽なことは醤油屋のセガレの前で言ってほしくないね。
……なにしろ、こっちは年中なんだから。ちょっと危ないよ」
和子「ごめんなさい……」
吾朗「もう大丈夫?気分悪いの、治ったの?」
和子「うん」
吾朗、醤油樽を持ち上げ、ビンに醤油を注ぐ。真剣な表情。太くたくましい腕。
和子「吾朗ちゃん、わたしね……」
吾朗「(顔を上げず)わりい。黙っててくんないか。
……こぼしちゃうといけないから……」
和子「ごめんなさい(とションボリ)」(*1)
お醤油の匂いは大いに食欲をそそります。ですが、例えば仕事の会食でもデートでもよいのだけれど、刺身か寿司のために醤油が注がれた小皿がテーブルにあり、どちらかの酔った指先が悪戯してそれをひっくり返したとします。女性の足元に小皿が跳ねつつ、醤油の飛沫がストッキングを点々と染めていく。これも愛嬌、なかなかエロティックで風流ではないかとそのまま捨て置いて歓談に戻れるものかどうか。まず普通のひとには無理です。血相を変えてタオルで拭き清め、周囲の者も口々に大丈夫かと尋ねるでしょう。
染みになっては大変、乾くと落ちにくいのよ、と慌てふためく訳ですが、濃厚な臭いもそこに関わっているように思われます。安物のストッキングならトイレのゴミ箱にあっさり捨てられてしまうでしょう。お醤油は食べものとして悦ばれながら、かように衣服や素肌との接触を敬遠されてしまう。愛され方がいささかイビツなところがあります。身体にまとわりつくお醤油の匂いを人はどのように捉えているのか。そのこころの動きはどこから来ているのか。普段は深く考えてみたことはありませんが、ちょっと不思議なものがありますね。
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