2009年6月25日木曜日
桐野夏生「IN(イン)」(2009)~そんなこと~
だって、あたしは朝から晩まで家事と育児ばかり。夜明けに起きて、
ストーブ点けて部屋を暖めて、お湯を沸かし、薪でご飯を炊いて、
味噌汁作って、七輪熾(おこ)して干物を焼いて、子供を起こして、
顔を洗って着替えさせて、ご飯を食べさせて、食器を洗って、
部屋を掃除して、洗濯板でおしめを洗って干して、表に出て掃き掃除。
それから、子供を連れてお使いよ。牛乳屋に行って牛乳買って、パン買って、
うどん玉買って、お野菜買って、今度は昼ご飯の用意、それが終われば
夕飯の準備。それが延々と続くのよ。だけど、あの人だけは、そんなことを
ひとつも手伝わないで、女の人たちと合評会ばかり。
巷を賑わせる小説二篇について、感じたままを書こうと思います。つまりは、桐野夏生さんの「IN(イン)」と村上春樹さんの「1Q84」について。ちょっと怖いですね、すごく読まれていますから。
僕は桐野さんにしても村上さんにしてもその著作を断片的にしか読んでいない不良読者に過ぎないし、このブログ自体には土俵が仕切ってある。取り上げる箇所も感想も“いびつ”にならざるを得ない。きっと生粋のファンから叱られてしまうでしょうね。最初に謝っておきましょう、ごめんなさい。
緻密で眩惑的な構造体を為していて、どちらも大変な労作です。代価に見合う(いや、お釣りがたくさん来るような)充足した読後感があります。そして、何だかとても似ていると思いました。断章取義(だんしょうしゅぎ)のそしりを免れないでしょうが、小説家が作品を紡いでいく際の内面世界をどちらも主題にしていますし、容赦なく襲う“すれ違い”に臨んで、彼方に放たれる視線にも何やら符合めいたものを感じます。何より魂の決着を求めて繰り返される“抹殺”や“よその世界に送る”という台詞が、ざわざわとした共振を誘いもします。2009年という「今」をちょっと考えさせられました。
桐野さんの「IN(イン)」は、複数の恋情の記憶を断層的に組み込んでいきます。ご自身をモデルとした小説家タマキに往年の作家緑川が書いた私小説“無垢人(むくびと)”の創作過程を調査させるのですが、架空のこの小説“無垢人”は「死の棘(とげ)」(*1)を土台にしていますから、本好きには堪らない構造になっています。映画(*2)を通じて体験している人もきっと愉しめるはず。引用文やインタビュウが入れ子式に挿入されるのですが、そのたびに文体や言い回しが随分変わる。谷崎潤一郎を彷彿とさせるところもありますね。巧みな手わざを駆使した臨場感はさすが“時代のひと”です。
それより何より僕が唸らされたのは恋愛関係の崩壊する様を物理的な勢いやかたち、小道具に置き換える上手さです。確かに恋慕という名の車は往々にしてブレーキが故障します。穏やかな終息は望むべくもありません。速度が増してハンドル操作が間に合わない。高速道路の下り坂に点在する緊急避難用の砂山に上手く突入出来たとしても、ボンネットは大破してガラスは粉微塵に吹き飛びます。
また、拮抗してようやくバランスが取れていたふたつの恋火が同時に、瞬時に鎮火するのは困難で、空しく火柱を噴き出し続ける者(大概は男)が醜さを露呈し、既に冷えた側(いつもおんな)から嘲笑を浴びるのが世の常です。時には勢いの止まらぬ者(大概は男)が相手(いつもおんな)の腕を無理につかんで偏った勢いに巻き込み、ぐるぐると狂ったように回転してはガードレールや地表なりにもろとも激突する、そんな破滅への秒読みを始めたりします。恋愛とは“動き”であり“圧力”であり“衝突”、そして本当に危険なもの。
最初に書き写した言葉もその一端です。小説家タマキによるインタビュウに呼応し噴出したこの濁流が一体誰の口から、どのような経緯で生じたかはここで説明出来ませんが壮絶この上ない。句読点で区切ってはありますが、息つく暇がまるでありません。延々とこういった感じが続くのです。さらりとこういうのを交ぜ混んでくる、やはり桐野さんは凄いひとです。
家事の諸相が怨みつらみとなって爆発的に噴き出しています。“外で働く者”が同じような立場に陥ったとして、こんな濁流が生じるでしょうか。だって、僕は朝から晩まで通勤と仕事ばかり。夜明けに起きて、痛い思いして髭をあたって、駅まで歩いて、電車に揺られて、朝礼聞いて、得意先にアポイントとって、仕入先に行って商談して、帰って日報書いたら会議。それが延々と続くんだよ。当たり前だ、馬鹿。そんな事は普通口には出ない。
家事が慈愛や加護の眼差しの延長にあって、“生殺与奪”の力を秘めているからですね。守ろうとする気持ちと破壊しようとする気持ちが寄り添うはずがありません。内部で激しい震えが生じ、異常な勢いで膨れ上がる力が行き場を失い、耐え切れずに圧壊していく。
薪、七輪、洗濯板といった道具が加わっているのは昭和20年代の情景を振り返っての言葉だから。だけど、作家タマキは、そして僕を含む読者はそこに時空を超えた普遍的な男女の魂のせめぎ合い、“殺し合い”をありありと読み取り、自らの胸中に反響させてしまうことになる。
さてさて、ここで現れた“味噌汁”は失われた古き記憶の断片として薪や七輪と並べられたのではなさそうです。現代を彩るものとして、僕たちに生々しく作用していく。
“そんなこと”の外にあるのは“女の人”つまりは異性との接触だと言い切っています。内側には恋情を開花させるものがない、外にこそ花は開くのだという境界の意識付けが背景にあります。桐野夏生さんの作品を読むと、境界線をまたぎ、岐路に立ち、そこから一歩踏み出す女性像が浮上しますが、この「IN(イン)」においての“味噌汁”は内側に属しており、歩み始めるにあたって“振り向くに価しないないもの”、として“抹殺”されかかって見えなくもありません。2009年のおんなの心情を代弁するひとつとして桐野作品に採用されたことは名誉なことですが、いささか複雑な気持ちになりますね。
(*1): 「死の棘」島尾敏雄 1960-76
(*2):「死の棘」1990 監督 小栗康平
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